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箱の中 ―ある4人の場合―  作者: 河野章
3/10

ep3

「なんであんなこと言っちゃったかな」

 中野由衣子は封筒に社印を延々と押しながら、ひとりごちた。

 茶封筒の下部に、会社の住所連絡先社名が刻まれている印鑑を、押す。力いっぱい。ポイントはためらわないことだ。真っ直ぐに力を均等に込めて、押す。実際にやってみると傍目からより疲れる作業だった。これがあと500枚もあった。

 印刷費の削減なのだと会社は言う。これを延々と押す私の人件費は考えてないんだよなぁと由衣子は毎回思う。若い頃はそんな物分りの悪い上層部に噛み付いたり、業務の手際の悪さを指摘したりもしていたが、今はもうしない。無駄だとわかっているからだ。

 午前中にすでに500部は印を押し終わっていた。午後に入るまでにあと500部の、そのうち少しでも終わらせておきたい。こんな仕事で一日を終わらせてなるものか。

「……」

 ため息をついて、手を止めた。本当は印鑑押しで仕事を終わらせても良かった。本当はやる気なんてない。仕事を早く終わらせれば次の仕事が、くだらない仕事が降ってくるだけで、由衣子の手元には何も残らない。それにしても……。

(……どうしようかな、猫)

 朝、猫を拾った。

 正しくは知り合いの子供が拾ったのだが。どうにかするから任せてね、と言ってしまった手前、由衣子が拾ったも同然だった。猫は別に嫌いでもなければ好きでもない。というか動物を飼おうと思ったことがないから興味がなかった。ただ、あの場にいた唯一の大人の女性として……分別のある、女性らしい振る舞いをしなければいけないと思って、思わず言ってしまったのだ。任せてね、と。

 ぐっと封筒の箱を押し、目の前に小さく弁当を食べれるだけのスペースを作った。手作りの(といっても冷凍食品を詰めて、レンチンのご飯を詰めただけだが)弁当を広げて、ふとスマートホンを手に取る。社員のほとんどはランチだとかで外に出ている。会社に残っているのは残業続きの手際の悪い部下と、昼寝をしている部長だけ……

「あれ?猫ちゃん飼ってるんですか、中野さん」

 甘ったるい、綿菓子のような声が背後から聞こえた。

 ふわりと漂ってくるバニラの香りはわざとらしくなく、彼女を包んでいる。そう彼女。篠宮三葉。今年の春入社してきた彼女は何かと由衣子に声をかけてくる。若く可愛い彼女と比べられることも多くなり、由衣子は自然と距離を置くようにしていた。

 スマホで何気なく、「猫の飼い方」を検索したところだった。一番上のサイトを開くと、茶と白の縞模様の子猫が出てくる。

(……可愛いかもしれない)

 ついそう思ってしまった。下へスクロールすると、まずは病院へと書いてある。それから、猫砂、トイレ、猫用ミルク、など等。必要な用具と環境について書かれている。そのどれもに可愛らしい子猫の写真とイラストが添えられている。

 子猫だけではない。大人になった猫の問題行動やサイズ、鳴き声の大きさなど、少々困るようなこともきちんと書いてあった。由衣子は真面目だ。真剣に読み込んでいくうちにどんどんあの黒い子猫のことが気になってきた。

 今朝、あの子猫はそばにいた若い男性につい預けてしまった。猫好きだと言っていた彼で本当に大丈夫だっただろうか。

「あの……」

 三葉の戸惑った声で我に返った。

「あ、ううん。ちょっとね、調べもの」

「へぇ……でも、今から飼うつもり……なんですよね?」

 三葉は首を傾げて、まだそばを離れない。まとわりつく子猫のようで由衣子は少し苛々とする。

 二人でいるとかならず男性社員からからかわれた。そっけない由衣子の態度が三葉を虐めているように見えるらしい。そんなつもりはないのに。いつも怖い女と勘違いされる。ほんの少し、笑顔が少ないだけで。言葉が少ないだけで。ランチをみんなと取らないだけで。

「飼うかどうかは……、ごめんね。もうお昼食べるから」

 覗き込もうとする三葉からさり気なくスマホを遠ざけて、由衣子は彼女に背を向けた。

 由衣子にとって会社は仕事をするだけで精一杯の場所だった。もう生活も手一杯なのに、厄介事を増やすなんてとんでもないと由衣子は思い直す。

 猫のことだって、任せてね、なんてその場しのぎの言葉だったはずだ。

 何もかも面倒だった……筈だ。業務のスリム化も、男女平等も、昇給もやりがいもない仕事も。おまけに頭が空っぽの、若い女と比べられる毎日。嫌にならないはずがない。

 子猫のことなんて考えている場合じゃない。

「あ、はい。じゃ……失礼します」

 残念そうに背を向ける三葉にちくりと心が痛む。……彼女が頭空っぽの女性ではないのは、実は知っている。仕事に熱心で、勉強家。親しみを持たれていることも感じている。

 けれど余裕がないのだ。由衣子はラインの着信にちらりと目を落とした。美紗希からの返信だった。小学生らしい可愛らしいスタンプにも心がトゲトゲして、

(ごめんね……)

 誰にともなく心でつぶやいて、返信することなく弁当へと向き直った。


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