高嶺の花の棘を融かして
拙作「黒板の文字」の後日というか同日の、先生たちがどうなったかのお話。
アンリさま主催の「クーデレツンジレドンキュン」企画参加作品です。
初々しい中学生カップルが去った後の教室で、高橋聡子は後ろの黒板をぼうっと見渡してから俯いた。彼女は隣のクラスの副担をしている、若き英語教師で倉本の想いびとだ。
閉じられているのに、窓からはもう秋の夜の肌寒さが伝わってくる。下校時刻のアナウンスが聞こえていた。各教室の消灯をし鍵を閉め、居残っている生徒がいないか校舎全体を見て廻らなければならない。
「行って下さい、消しておきますから」
倉本良一は黒板消しを手に、小学校分年下な同僚に声をかけた。何も気付いていない振りをするべきだろうか?
聡子は平素のクールビューティさを取り戻し、顔を上げた。
「あの子たち、キス……してました。少し気をつけておいたほうが……」
「そうですね」返事が棒読みになって慌てて付け加えた。
「志村圭子は英国生まれだそうです。馬場はご存知のようにニュージーランド帰り。日本離れしてるのかもしれません」
残念ながら黒板にでかでかと書かれた4つの漢字は、聡子宛で、その心を抉るものだ。
罰怒常苦、英語でバッド・ジョークと言いたいのだろうから。
これが単なる、中学生にありがちなふざけた落書きならまだいい。が、今回越境してしまったのは高橋聡子のほうだ。26歳の教師が、倉本のクラスの生徒、馬場玲治14歳に懸想し、告白ともとれる英語を漢字表記し黒板に書き付けた。それに対しての返答がこの4文字。
――なぜあんな子どもに……。
倉本の心は晴れなかった。せめてもの気休めを口にした。自分と聡子のために。
「私もあのふたりも噂話に興じるほうではありません……」
聡子の顔は見る見るうちに歪んだ。泣くのかと思ったら怒っていた。
「日本は息苦しい。なぜこれほどまで自分を抑えねばならないのでしょう? 社会科担当としてどう思われます?」
頭の上で纏められている長い黒髪のおだんごが揺れ動く。編まれた房の方向に沿って淡く反射し、不思議なグラデーションを作っている。毛先に行くほど茶色いらしい。
――この髪を自分の前で解いてもらえる日はくるのだろうか。
「ご返答いただけないのですか?」
うっすらと涙を浮かべた黒い瞳が見上げていた。
「先生も帰国子女でしたか?」
見当違いな返事に相手はぷいっと横を向く。
「私は大学在学中に2年ほど留学しただけです」
「そうですか……」
「英国におりましたが、あちらは個人差の許容範囲が広いんです。右へならえでなくていい。年齢が上なだけでは先輩面はできません。若くても力があれば一目置いてもらえる。あなただろうがおまえだろうが、二人称はyouですから」
「どうやって恋人と友人を呼び分けるのですか?」
「恋人ならもちろん、ダーリンとかマイ・ラブとかも使いますが、基本は声の調子です」
倉本は校内一のクールビューティと呼ばれる聡子の説明に含み笑いをしてしまう。
「先生の日本語は抑揚が足らないと思いますがね」
「声を和らげる相手がいないからです、失礼します」
気分を害したのか、ついっと教室の戸口に向かおうとする。引き止めようと思った。
ガッタンと音をたてたのは、黒板下の荷物棚だった。口ではなく、脚が出ていた。
「あっ」
「何ですか、この足は! 教師とも思えない」
出口と聡子の間に自分の左脚が伸びている。無意識の行為に自分でも驚きだと倉本は苦笑した。
「教師とも思えないのはそっちじゃないか? 生徒に暗号ラブレターなど」
「脅迫ですか?」
目尻がキッと上がっている。いつもより睫毛の長さが目立つ。やはり、綺麗だ。
――さて、この脚をどうしよう?
「英国紳士がどの様に愛を囁くのか知らんが、殻に閉じ籠るのもいい加減にしたほうがいい。それでは生徒がついてこない」
「恋愛の話ですの? それとも教育論?」
「社会文化論、俺の専門」
急に俺呼びすると相手はうろたえた。それもそうだろう、脚には行く手を阻まれ、右腕を伸ばせば後ろにも逃げられなくなる。スレンダーな肢体を囲い込んでしまえる。
――抱き寄せてキスできれば。
「馬場は大人びて見えるかもしれない、でも大人の葛藤を預ける相手じゃない」
何とか落ち着いた声が出せた。
「日本語で日本文化を論じるあなたに何がわかるというのです? 外から見る日本がどれほどちっぽけか、外に出たとき頼りになるのは、そのちっぽけな日本国内で育ったゴミのような自分だけです。その厳しさを知る者こそ大人です」
倉本はハアっと肩で息を吐き、脚を下ろした。
「その内だ外だという物言いこそ、日本的だと思わないか? 周りは全て他者、日本だろうが英国だろうが、頼りになるのは自分の人間性だけだ」
聡子は、腰の前にあった障壁は無くなったのに去ろうとはせず、怯えた視線を倉本に向けた。頭1つ分の身長差はそれを魅惑の上目遣いに変えていた。
「馬場も志村も何とか自分の足で立とうとしている。アイツらには住みにくいだろう日本の、出る杭は打たれろ風潮の中で。教師が足を引っ張ってどうするんだ……」
瞳に魔法でもかけられたのだろう、諭そうと思ったのに語尾は非難ではなく猫撫で声に近付いた。
「私はひとりの個性としてあの人を尊敬した。年齢は関係ありません、想っているという事実を、あの人だけにわかる方法で伝えたかった、私だと知らせるつもりもなかった」
「相手は子どもだとバカにしてないか?」
聡子はギクリとしてよろけ、倉本は左手で支えた。
「俺と殆ど同時に、違う方法であの子たちは先生に行きついていた。バレないと思ったのが誤算だろう。そして想いを寄せてくれる人がいたとしても相手が誰だかわからなかったら、嬉しいよりも恐いと思うのが普通だ」
「でもイギリスではバレンタインに……」
「お慕いしていますと無記名でカードを贈るんだろう? そのくらいの知識はある、社会文化比較として」
ふっと聡子の顔に笑みが浮いた。
「私……英国至上主義に陥ってます?」
「ああ、見事に」
想いびとの笑顔は泣き笑いになって顔全体に広がっていった。
「教師だろうが大人だろうが俺たちも、いつだって足元はぐらぐらだ。人間だから、いくつになっても。しかし、くだらない理論武装して他人を遠ざけちゃいけない。生徒とのやりとりなんて切った張ったの真剣勝負、自分を試されることばかりだ。そして生徒に切らせてやることが日常的に必要になってくる。そこだけが、教師の意義じゃないか?」
「教科を教えることは?」
「そんなの二の次三の次」
聡子がもう泣きたくも怒ってもなさそうだと思い、倉本は彼女の腰から左手を退けた。不必要な身体的接触はよくない。つけこんでは紳士とは言い難い。紳士なら言葉で……。
「今日の施錠、俺が30分も早くここへ来たのはどうしてだかわかるか?」
「自分のクラスの生徒を悪い教師から守るため」
倉本は両手で頭を抱えた。腕の間から声を出すと思ったより情けなく響いた。
「本気で言ってるのか? それともからかってる? ごまかしてる?」
ゆっくりと腕を下ろし彼女のほうを窺った。きょとんと見返している。
――疎いのか? 鈍いのか? 天然か? この時代まだこの表現はないぞ?
「先生のことを想っている男もいる。もっと周囲に目を配ってそれを感じてくれ」
「あら、名乗らないのは気持ち悪いというお話を聞いたと思いましたが? きゃっ」
両腕を後ろの棚について聡子を閉じ込めていた。
「煽ると後悔するぞ? 失恋したばかりじゃないのか?」
「失恋……だったのでしょうか……」
「こっちはギリギリで抑えているんだ、大人の男をからかうな」
頬を染めて女が俯いたのを見て取って言葉を繋いだ。
「好きだ。2年前赴任してきた時からずうっと見ていた。応援していたつもりだ。付き合ってほしいし結婚してほしいと思っている。今はふたりきりの部屋で脱がし、恥ずかしげにその長い髪だけで裸を隠そうとする姿を想像している。大人の恋とはそういうことだ」
「先生……」
「俺はこの瞬間先生なんかじゃない……」
想いびとは真っ赤になって立っているのも不安定、普段の鋭さの欠片もない。
「私はほんと人付き合いも恋愛も不器用で、英文学が好きなだけ、他に何の取り柄も……」
「それはじっくり俺に探させてほしい」
「ぃやん……」
聡子は紅潮した顔を両手に埋めた。
「やっと大人の女の顔をした。それがどれほど可愛いく見えるか、わからないんだろうな」
「好き、なのですか? 私なんかを? 先生はいつも飄々として生徒にも公平で上下関係もうまくすり抜けて」
「特別扱いされてるの気付いてないのか? 男教師間じゃ有名だ」
「え、そうなんですか?」
「一応俺に優先権を与えてくれている」
「そんな……」
「独身男はあと2人しかいないが、アイツらのほうがいいか?」
「それは……わかりません」
わからないと言いつつ自分の前から逃げようとしない。ここは押すところだろうと倉本は腹を括った。
「馬場が志村にキスしたなら、俺ももらっていい?」
腕の囲いを狭めると聡子の手がシャツの胸に置かれた。
――熱が、やばい。
「ま、待って」
「嫌だ。押し退けるつもりはなさそうだし」
「都合のいいことばかり……」
「英国紳士はもっとお行儀がいい、とか言うのか?」
「い、言いませんけど、お友達から、とかないんですか?」
「同僚というお友達をもう2年もしたじゃないか」
聡子のボディランゲージを読まなければならない。倉本は暴走をとどめるブレーキを最大限に効かせた。
「イヤ……か?」
「イヤ、では……」
「俺が嫌い、とか?」
「というか、あの、恥ずかしい……」
「大丈夫、絶対、かわいい……」
そっと触れてふっと離れた。
それだけで倉本の鼓動は振り切れそうだ。
これ以上進まないためにも頭を切り替える必要があった。
倉本は自分に言い聞かせる、「今日はここまででいい、聡子をこれから俺の女と呼んでいいなら」と。
――急ぐな、聡子は恐らく、殆どこっちの経験がない。
「わかっていないのか? もし今回バカな展開になっていたら懲戒免職ものだ。言いたくないがもし性別が逆だったら、おまえが男で相手が志村とかだったら、もう問題行動の範疇になる。それを馬場と志村は悪い冗談だと受け流してくれたんだ。感謝するしかないだろう、あの子たちの落ち着きに」
「私、前後の見境が全く無くなってたみたい……」
「思い詰め過ぎだ。思い詰めるならこれからは俺のことにしてくれ」
にやりと笑いかけると、聡子のほうから倉本の胸に頬を寄せてきた。
――やっと抱きしめることができる。
「クラスには英語力を試すクイズだった、それを馬場が解いたと説明するからな。それから志村と馬場には明日にでも付き合い始めたと報告するぞ、いいな?」
「はい……あの……先生に甘えてもいいんですか?」
「先生じゃないって言ってるだろう? 良一と呼べたらいくらでも甘えていい。かなりストレス抱えてるみたいだから、週末にでもじっくり聞いてやる。甘えるのは俺だけにしてくれ」
「週末……?」
「ああ、初デートだな」
そう言った自分の顔がどれだけ蕩けていたかは、倉本本人も想像するまいと思っていた。
「あ、あの、倉、いえ、良一さん、えっと、もう一度、して……」
胸に埋まった口から切れ切れのセンテンスが上がってくる。
――たまらん、カンベンしてくれ。
「キス……か?」
大人ぶってはみたものの、倉本は答えを聞く前に好きな女の甘い口唇に吸いついていた。
― 了 ―
使った要素:足ドン からの~ 両腕囲い! ←(正式名称がありますか?)
ヒロインが「クーツン甘」のつもり
男主人公が「クーカッコつけデレ甘」のつもりです。
32歳と26歳じゃドキドキに限界があるみたいです、キュンとするかどうかは、自信ありません。