大昔と新たなる仲間。
はた、はた。
ぽた。ぽた。
ぴちゃ、ぴちゃ。
赤い色の滴がしたたっている。息が真っ白に変わる。手足が凍えてそのまま、凍り付いてしまうんじゃないかと思うほど、冷たい気がした。
体にまとわりつく、ぬるつく赤色がやけになまあたたかくて、湯気が立っていた。
それは極寒の世界の光景だった。
その空の色さえ真っ白な世界で、やけに鮮烈な赤色が、その情景の中でひときわ目を引いた。
俺は息をしていた。するたびにふわふわと霞のような物が口からこぼれた。
音のない世界は、音を皆吸収してしまう物が降り続いているからだ。
六花だ。六花がはらはらと降っている。白くて、どこまでも白くて、この極寒の世界の支配者といってもいい物が、音も立てずに降っている。
ただ、無音。その中で、いやになるほど滴っていく音が耳に付く。
あたりに散らばっていたはずの躯だろう物は、六花に覆われてもうほとんど見えない。
ただ、たっぷりとした水分である赤色が、降りしきる六花をすってなお、赤い。
悪夢のような、物だと思う。残酷で寒くて、そして今なら背筋が寒くなるほどの美しささえ宿した光景。その強烈な色のコントラスト。純粋すぎる色の共演。
ああ、思い出した。これは俺の始まりだ。
これは、俺の生まれた瞬間だ。
そこで目が覚めた。隣ではキャシーがすうすうと眠っている。天井は年季の入った茶色に、若干の煤色。なんだか心が落ち着く色味だ。
「……」
今は何時だ。時間の感覚が分からないまま、時計を見れば明け方の色をしている。透き通るような薄くれないと、淡すぎる紫の混じり合う色だ。
それ自体はとても美しく、やっぱりキャシーのもっている物は何でもかんでも上等な品物だ。建物はともかく。
時計を囲むように作られた流線美の針金は、時計の光を反射して周りに散らしている。
明け方と言っても、相当早いのだろう。俺も変な時間に目が覚めたものだ。
でも朝市に行くのだから、これくらいでちょうどいいか。俺と親方は朝市で香辛料の店におじゃまする事にしている。準備は万全にしたい。
俺は頭をかきながら、その辺に置かれていた手鏡をつかんだ。
鏡を見れば、短髪のちびが寝ぼけ眼で写っている。いつもの俺だ。前世の、息をのみそうな迫力のある顔はしていない。
「なんだってあんなゆめ」
言葉も眠りから完全に覚めていないのか、じゃっかん間延びしていた。
あの真っ白と赤の記憶は、俺が生まれた瞬間……俺が自分を認識した瞬間の夢だ。
俺は変わった神で、地母神と天父神から生まれた神じゃなかった。自然発生した神だった。
あの世界で俺は数百年、単身生きてきた。俺を雪の神だと思って生まれた信仰もあったと思う。俺は真っ白な神だった。引きずるような長い髪、傷跡さえ白い肌、世界を眺める両の目、全部全部真っ白けっけだったのだ。
雪の神と勘違いされてもおかしくない見た目をしていた。
そんな俺は、ある日突然ユーリウスに見いだされて、天上世界にあがる事になった神だった。当時かなりイレギュラーだった気がする。
そこで俺はもって生まれた、司っていた武勇や戦いの神格を開花させて、ギギウス・ブロッケンになったのだ。
「いまのおれにはなんにも、いみがないのに」
地球人で女で、寿命がある、魔法なんて一つも使えないであろう俺が、何で今更あんな夢を見たかね。
謎だが、人間の脳味噌は変な物を思い出すように出来ているし、この世界に来た事もあって、魂が覚えている物を思い出してしまったのだろう。
「出かける支度しなくちゃ」
俺はそう一人つぶやき立ち上がり、まだ寝息をたてているキャシーを眺めて、そのなめし革のようななめらかな肌に、ちょっと感心した。
って、感心している場合じゃないし、時は金成、いつの間にか朝市が混み始めてしまうかもしれない。
俺は大急ぎで頭から上着をかぶり、若干髪の毛を整えて、親方を待たせているだろう店の方まで走った。
親方は普段着のまま、俺を待っていた。
「おはよう、俺は後一時間は待つかと思ったぞ」
「そんなに待たせません」
「そうだな。昨日は早かったものな」
親方は俺を見て、やっぱり俺に親方のマフラーを巻いた。
「冬の朝は寒いからな、早くでるぞ戸締まりは俺がしておく」
「はい」
「キャシーはどうせ昼くらいまで起きやしないから、寝かせておく」
「はい」
夜中働くあの女神を、親方は気遣いながらそう言った。声も当然小声だった。
そして俺たちは、彼女の眠りを妨げないように気をつけながら、そっと店を出た。
何でかっていったら、この店防音今一つだからである。
「見習いさんかい、偉いね」
俺は何度目になるか分からない、夏の大陸から来たという香辛料を扱うおばあさまに微笑まれた。
俺は味見のための微量な香辛料を、いちいちなめて確認している真っ最中だ。
結論から言えば、この世界でカレーを再現するのに必要そうなスパイスは三つで足りそうだった。
インドカレーは元々香辛料を多種使う物ではないから、そんなに種類を買う予定ではなかったんだが、この世界のスパイスを三種類混ぜてなめてみたら、かなり高級なインドカレーの匂いや風味になった。
ぶっちゃけこれでいける気がする。
親方はさっきから別のおばさんに捕まっていて、延々苦労を聞かされている。親方はやくざ顔でも、おばさんに好かれるスキルを持っているらしい。
いい人だしな。話聞いてくれそうな空気漂ってるしな。
ちょっと自慢したくなる気分になりながら。俺は親方を振り返った。
「親方」
「なんだ」
「これとそれとあれの三つがいけそうです」
「……お前一番やすい奴選んでいるわけじゃないだろうな」
「勝手にそうなっただけです」
親方は値札を見てそう言い、おばあさまにどれも一合升くらい売ってもらっていた。
「まずは試しだ」
はい、これからこれの黄金比を調べるんですよね。
って、調合するメインは俺か。責任はやっぱり重大だな。
「おやまあ、何か珍しいものでも作るのかい」
「まあそうですね」
俺は当たり障りなく答えた。そうするとおばあさまがにこにこしながらこう言った。
「おいしい物が出来たら、味見にちょうだいな。この辺の料理人は大量に使えばいいとばっかり思っていて、はっきり言ってわたしの香辛料の無駄遣いだからね」
おばあさまは辛口な人だった。まだまだ言葉は続いた。
「こっちは夏の大陸と春の大陸の間の、紺海を必死にわたってきた商人からおろしてもらっているのにさ! この辺の奴らはその苦労が分かってない!」
そこから十五分は文句が続き、親方は料理人として肩身が狭そうな複雑な表情をしてしまっていた。
身に覚えがあるようだった。まあ、親方も俺と出会うまではそこまで、新しいレシピに熱心だった訳じゃないみたいだからな。
俺たちはおばあさまの心証をかなりよくして、おまけになんかの木の皮を干したものをもらい、朝市を抜けようとした時だ。
「こんな変な生き物、売り物にもならないし、第一魔素がないじゃないか」
そんな声が聞こえてきた。俺はそっちを見やって、軽く目を開いた。
そこには、俺が探し求めていた生き物がいた。
それすなわち。
「豚?」
<い、命ばかりはお助けをぉぉぉぉぉ!!>
薄ピンクの肌をした、しかし立派な牙を持つ、体高一メートルほどの、それはもうやせほそった豚が、首に縄をつけられてパニックを起こしていた。
いやもう、やせた豚とか哀れを誘う以外の何者でもなく。
そして。
<お助けくださいぃぃぃぃぃ!>
あんまりにも悲痛な声でなくそいつに、俺は足を止めてしまった。
「リン?」
親方が不思議そうな顔をする。俺は足が止まって、その豚と目を合わせてしまった。
とたんだ。
<助けてぇぇぇぇぇぇ!!!>
豚が暴れて、縄がゆわえられていた杭を引っこ抜き、俺に向かって突進し。そしてものすごい速度で俺の後ろに回り込んだ。
かたかたとふるえている豚である。
そして俺を、なんかものすごく庇護欲をそそる真っ黒い目で見つめてくる豚である。
「おい、逃げるな!!」
「いいだろ、どうせ売り物にもならない変な生き物だ」
この豚を持っていたらしい一人がいい、もう一人がやっかい払いが出来てせいせいしたと言いたげに言う。
「ブーブーうるさいし、暴れてるし。魔獣でもないんだ、二束三文にもならないんだから、逃げたってどうこうならないだろ。商品が逃げるのは珍しくないし」
そう。
俺のいたところから、豚がつながれていた所までは、かなりいろんな品物が置かれていて、いったん逃げられたら捕まえる方が面倒くさい場所だったのだ。
それもあって豚を追いかけてこないそいつら。
俺は豚を見た。
目があった。
「……」
俺は見て見ぬ振りを決めようとした。だが。
「リン、あの禿イノシシ、いつまでもついてくるぞ」
俺たちが歩く後を、豚はぴたっと離れずに歩いてついてくるのだった。
俺はため息をはいた。
「親方」
「なんだ」
「……あれ、便利そうですね」
「何にだ」
「荷物はこぶのに」
これは所詮言い訳だ。俺はあの豚を面倒見たくて仕方がなくなってしまった。
だってこっちに来て初めての、地球でも見知った生物なのである。
でも、俺たちだって生き物を面倒見る余裕があるかは分からない。
俺は無視を決め込もうとして……
「ぶー」
……出来なかった。




