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大掃除と提案。

「さてと、契約書はこんな感じでいいかしら」

言いながらキャシーが契約書の定型文を取り出した。俺はこの世界の契約の常識が分からないから、親方がそれを手に取って確認し始める。

「キャシー……お前がそういう女だとはわかっているんだがな」

親方が深々と溜息を吐く。

「何かしら?」

「家賃も払わせないとは何事だ」

親方、真面目なんですね……俺だったら家賃タダとか言われたら迷わず飛びつきそうなんだが。

やっぱりあれか。只より高い物はないっていう有名な話か。

「だって、私ここに住まないし。この店に住んでもらったら掃除もしてもらえるだろうし、管理もしてもらえるだろうし、その手間賃を考えたら無料でもいいじゃない」

「……」

親方はあえて見ようとしなかったらしい、きったない厨房を睨み、天上を眺め、店の汚さを再確認し、それからこう言った。

「まずはキャシー、居住空間に案内しろ」

「もちろん」

言いながらキャシーは立ち上がり、こっちよなんて言いながら建物の中を案内し始めた。

扉の中を開けながら……俺は親方が平然としているから、逆にいろんなもののボルテージが上がりそうになった。怒りとか呆れとか失望とか、そんなもの。

この店はロの字型の建物になっているらしい。縦長ロの字である。中庭は手入れも減ったくれもなく放置されていて、二つある通り道の奥には居住空間がある。

ちなみに二階建てでしかなく、空間はかなり小さい。店のスペースとそのうえの建物が大きい造りだ。

そして何より、その居住空間は物置と化していた。いいや、物置ですらない、埃と様々な物が積みあがった、ばっちい空間だった。

……知ってた。ウェーニュスは掃除なんてやった事のない最高位の神様だから、大概の事は自分の眷属や配下の神様にやってもらっていて、掃除をするとかそういうものに頭が回らないのとか知っていた。

でもこれはない。

「汚い」

俺は再び、店の中と同じ事を言っていた。

「店ばっかりにいたし、私はここが家じゃないからあまり気にした事がなかったわ」

「確かにこれは俺の家よりもすごい気がするな」

親方もあちこちを見回しながら言う。俺は深く溜息を吐いてから言った。

「この家、地震が来たら崩れる心配とかしなくていいんですか」

「大丈夫よ、それは。私が買った時に、ちょっといじったわ」

美の女神のいじった、か。

耐震とかはそれで大丈夫なのかもしれないな。神様の力っていうものは異常だと決まっているんだから。

「しかし、確かにしっかりした造りではあるな。古いが」

親方があちこちを調べながら言う。

「これならきれいにすればかなり長い事暮らせる家になりそうだが……」

「親方はこれでいいんですか」

「お前は嫌か? リン。この家には三つの部屋があるし、お前がやってみたいハーブの栽培ができそうな中庭もある。俺も家から店まで近いから、夜中まで仕込みをやっても、家への帰り道で誰かに喧嘩を売られる事がないから気楽そうだ」

俺は数秒考えた。そして考えてから、キャシーを見た。

「わかった、ここでいいです」

「やったわ! それじゃあ掃除をしなくちゃね」

キャシーが楽しそうな声で言った。それから小さすぎる声でこう言った。

「私、掃除をしてみた事がないの。簡単な事をお願いね」

「うん、まずは埃を落とすところから始めましょう」

そして俺たちは、契約を結んで、大掃除を始める事にした。

埃を落とすのはキャシー。彼女は風とゆかりがある美の女神だから、風を軽くふかせて埃を落とすという、ちょっぴり非常識な事をやって、親方を驚かせた。

しかし埃はきれいに落ちたから、俺は親方と一緒に履き掃除をして、あちこちを拭いた。

キャシーが市場でもらってきた、使い道がないぼろぼろの布を雑巾代わりに、俺と親方はひたすら拭き掃除をして、キャシーも結局それを手伝った。しかし雑巾のしぼり方から教えなくちゃいけなくて、なんというかお嬢様みたいだな、と親方が言った。

掃除は食事や睡眠時間を挟んで三日かかった。

三日もかけて掃除をしたから、建物の中はようやくみられる物になった。

「きれいにするのって大変なのね」

三日目、掃除が終わってからしみじみと、キャシーが言ったんだが、毎日掃除をしていればここまで大変な事にはならなかったと思う。

物を言おうとして、やっぱりやめた俺を見てキャシーが言う。

「ギギー、あなた言いたい事を口に出さないのは変わらないのね」

「言いたい事はいつも言っています」

「でも、誰かを傷つけるための言葉は言わないでしょう? 私はあなたのそういうところが好きよ」

「そうですか」

そんな事を言ってから、俺はふと気になった事を問いかけた。

「ウェーニュ。アレイスターはどうしてます?」

「行方不明よ」

「え?」

「アレイスターったら、あなたが人間になったなら、一緒に人間になるって言って、誰が止める間もなく転生をしてしまったの。それ以来行方不明よ。彼ほどの錬金の力を持つ人間なら、ユーリウスさまが見つけられないわけがないのに」

「……あいつ、馬鹿でしたから」

「そうね」

「おい。昼を買ってきたぞ、食べよう」

少ししんみりした空気を破るように、親方が市場から戻ってきて、俺たちに声をかけた。





「それで、この店はどういう客層を中心にしていたんですか」

俺は、きれいになった店の中を見回しながら問いかけた。

キャシーは首を傾けた。何が言いたいのか伝わっていない顔だった。

「客層ってどういう事かしら。ここはしがない料理屋よ?」

「どういう身分のお客さんがここに来ていましたかって聞いているんです」

俺の言葉に、キャシーは首をかしげたまま思い出し始める。

「そう言っても……考えた事がなかったわ」

俺は見事に椅子から転がり落ちた。なんだそれは。客層を考えなかったら、何を売りにするのかも決められないではないか。

客層をきちんと決めるのは大事な事だ。なんでもかんでもは、入る事をためらわせてしまう。

だからしっかり客層を決めるのは、店の商機を探す事でもあるって、日本でおばあさまに聞いたぞ俺は。

「リン、どうした、椅子から転がり落ちて」

「いや、なんていうか、キャシーさん、駄目ですよそれは」

俺は椅子に戻って、彼女を見た。

「だって、何を出すのかも決められないでしょう?」

「この店はお酒と軽いおつまみ位しか出さないし……」

「……ここはバーだったんですか」

「バー? 何かしらそれは。聞いた事がないわ」

「俺もだ。リン、またお前は故郷の言葉を使っているのか?」

大の大人……片方は神様なのだが、に言われた俺は、微妙な顔になってしまった。

「親方、ここは料理屋なのでしょう」

「そうだな」

「料理屋なのに、軽いおつまみしか出さないんですか」

「酒を扱う店はそんな物だぞ?」

そうか。料理屋というカテゴリが大きすぎるのか、このセレウコス国。

「親方は軽いおつまみ位で満足できるんですか。ちなみにこの店の平均の収入は」

「おつまみだって創意工夫を凝らせばいいだろう。キャシー、この店の平均はどれくらいだ」

「そうねえ、一日大銀貨四枚くらいかしら」

つまり一日の稼ぎが四万か。

市場の食事が高くても大銅貨三枚くらいで、砥ぎ師が包丁一本で小銀貨三枚くらいだと考えると、この店の稼ぎはかなり多いな。一か月で百二十万という事になる。

一人なら楽勝で生きていける値段だな。

「なんでそんなに高いんですか」

「そうね、私が少し変わった特技を持っているからよ」

いいや、あんたの美貌を見に来る人が多いんだ。俺は絶世の美貌を眺めて、心の中で突っ込んだ。

「そうだな、キャシーは昔から体調の悪い人間を見るのがうまいんだ」

親方が賛同する。そうか、神の目を使っているんだな、キャシーは。

神の目とは、一部の神が持っている特殊な目で、いろんなものを見極める目だ。人間の体調なんて簡単に見抜ける。

「そしてキャシーは、それに合う酒を出すのが得意だからな」

「……」

俺は神の力を無駄に使っている、美の最高位に突っ込みたくなりながらも、こう提案した。

「親方、お昼も皆に料理を食べてほしくないですか?」

「何をする気だ、リン?」

俺はあるアイディアを二人に持ち掛けた。

「……ランチっていうものをやりませんか?」


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