辞職と住宅探しと、意外な再会。
c「何だ。リン」
「親方の身の上で脅迫されました。それであの煮込みを作れと」
俺はその夜、親方と道を並んで歩きながら、実にさりげない調子を作ってしゃべった。
俺は黙ってしまった親方にさらに言う。
「私がいう事を聞かないと、親方が困った事になるそうです」
「お前はなんて答えたんだ」
「私はそれには屈さないと」
俺はマフラーに顔を埋めてもごもごと答えた。
「物の頼み方を間違えていると、言いました」
俺は何かまずい返答をしただろうか。親方にだけは迷惑をかけられない。
この人に、だけは。
そう思った俺に、親方は言う。
「いいや、お前らしいというべきか。俺はお前をそんなに知らないが、お前らしい返答だと思うぞ。それにな、リン。俺はそれでもどうにもならない」
「どうにもって?」
俺は思わず相手を見つめた。身長はかなりの差がある分、俺は親方を見上げる事になったわけだが。
「相手に脅迫される前に動き出すって言っているんだ」
「へえ」
俺は何となくその返答にほっとしてから、またマフラーに顔をうずめた。
「リン」
「はい」
「明日は引っ越しの準備だ」
「え?」
俺はきょとんとして親方を見上げた。親方は吹っ切れたような顔をして、続いてこう言ってきた。
「俺は今日付けで城の料理長を辞めた」
「えっ?!」
俺の声はひっくり返った。もしかして俺のせいで、親方が仕事を辞めさせられたのだろうか。
顔から血の気が引いてきた時だ。
「安心しろ、お前のせいじゃない。俺が辞めると言って辞めてきた。代わりなんていくらでもいるんだろう?」
親方の声はいたずらっぽかった。
「とりあえず、家が決まるまでは今の家に住むが、それも一週間という期限付きだ。リン、さっそく物件をあさるぞ」
「……私もついていくの確定なんですね」
というか、俺もあなたについていっていいんでしょうか。
あなたの邪魔になるだけじゃ、ないのか。
俺が震えそうになった声で返せば、親方は俺の方をしっかりと見てこう言った。当たり前の声で。
「俺はお前の保護者のつもりだからな。安心しろ、お前を食うに困らせる事にはならないようにするから」
言い切った親方はとても頼もしくて、とても男気のある表情をしていた。
「……それじゃあ、私も親方の近くに、ずっといる事になりますよ」
「おう、いろいろ。一人身ってのが寂しいってお前が教えてしまったからな」
そう言って俺の頭をなでる親方の手は、いつも通りの温かさだった。
「まず親方は次の職を何にしたいのでしょうか」
俺はスープを口に運びながら問いかけた。夜食である。
それを二人で食べながらの問いかけだ。何故って親方の身の振り方で、俺もいろいろ考えなくちゃいけないからだ。
「そうだな、料理屋がいいな。俺が持っている技能は料理しかないしな」
「働くあてはあるのでしょうか」
「前々から声をかけられている店があってな。そっちと連絡をしてみた結果、そこで当面は働ける」
「親方」
俺はある種の不安に駆られて問いかけた。
「親方が、誰かの下で働くんですか? 親方は今まで、人の上に立って働いていたのに」
「リン、いつまでも地位に胡坐をかくような男ではいられないんだぞ」
「……ちなみにそのお店の、看板料理は」
「特にない、飯屋だな。……リン、お前まさか、そこで看板料理でも考えるつもりなのか」
「看板料理のない店は、客足が徐々に減っていくんですよ」
俺は昔を思い出しながら答えた。俺が最初に働いていたあのおばあさまの店の、看板料理はビーフシチューだった。でもあの野郎が帰ってきてから、それはおいしくない料理と化し、客足がぱたっと遠のいた。もともといた常連ですらいなくなっていったから、あれはかなりの痛手だった事を俺は覚えている。
逆を返せば、看板料理がおいしければ、客は値段にもよるけれどやってくる。
「飯屋、なのでしょう?」
「そうだな」
「良い物があるんです、私が親方にどうしても食べさせたかったものの中に、一つとっておきの物が」
俺はその料理を思い浮かべて、親方に笑いかけた。
「そうか、頼りにしているぞ、俺のちびすけ」
俺の表情から、俺の自信を見出したのか、親方が不敵に笑った。
でもやっぱり、やくざ顔は怖かった。
「親方は顔で人生を半分損していますね」
「リン、何が言いたい」
「思ったまでの事です」
「この野郎、言いたい事を自由に言って」
そう言っても怒らない親方は、俺にとってものすごく付き合いやすい人なのだろうな、と心の中で思った。
「そうだ親方」
「なんだ」
「私は砥ぎ師として、定期的にお城に行ってもいいですか。やっぱり皆の事も大好きなので」
「いいだろうよ。その代わり、ちゃんと金をとるんだぞ」
「はーい」
俺はいい子の返事をしてから、親方に問いかけた。
「親方、ちなみに砥ぎの相場はいくつ」
「そうだな、一本で小銀貨三枚くらいだ」
「たかっ!」
俺は衝撃の値段にびびった。だってご飯は大銅貨二枚くらいでそこそこの物が食べられるのに、包丁砥ぐのでそんなにも。
なるほど、あの城の厨房で、いかに刃物を研ぐかが重要視されたのはそこからだったのか。
俺もあそこから出て行ってよかったのだろうか。俺は優しくしてくれた皆を思い浮かべた。
「リン」
「はい」
「城に戻りたいなら戻っていいからな」
俺は真面目に親方を見つめた。そして心の底からこういった。
「親方の後に続きますよ。大恩ある親方が、出て行ってしまうのだから、私が出て行かない方がおかしいのです」
「お前は一途というか単純というか……まあ、俺が行くであろう飯屋も包丁の砥ぎ師がいるといないとでは大違いだからな、お前はどこでも重宝されるだろう。城の時のようにいい子で頑張るんだぞ」
「はい!」
やっぱり親方、俺の年齢を……。
俺はその事実を言わない事を心に決めた。だって態度が変わったら悲しいんだもの。
それ位には、親方になついている俺がいた。
「いい家がないな」
「しょうがないですよ。そういうものです」
俺たちはあくる日、不動産を訪れていた。このセレウコス国にも、普通に不動産があるのだ。
「でもお前が食べさせたあの菓子で、ずいぶんといい場所も格安で紹介してもらえたな」
「あれ美味しかったでしょう」
「たしかに。あの不動産の男が、目を丸く開いていたな」
俺が作ったお菓子、それは……日本で流行した、たっぷりの生クリームを挟んだロールケーキである。
このセレウコス国では酪農はかなり発達していて、生クリームは簡単に手に入るのだ。
しかし生クリームをホイップするという考えは、この国にはない。何故だかわからんが。
しかし、俺が知っているホイップクリームの歴史も、偶然とどうしようもない状態からの産物だったはずなので、こちらでそれがなくてもおかしくはない。
「そうだ親方、それよりも向こうの職場にご挨拶をしに行きましょう」
「お前にそこの飯を食べさせてやる」
「わーい」
言いつつ俺たちは、大通りを少し外れる。途端にさみしくなる道に、俺は不思議な気分になる。こういった感じは日本と変わらないんだな。
「こっちなんですか?」
「そうだ、こっちだ」
親方はそう言って、少し歩く。そこで見えてきたものは、なんというか……ぼろっちかった。
かろうじて建っているような、親方の家を超えた襤褸家だった。
これは一体。
絶句して立ち止まる俺を気にしないで、親方はその店の扉を開ける。
「キャサリン。来たぞ」
「ああ、アルトゥール。ちょうどいいところに! 私ちょっと世界旅行に行ってくるから! 店番と家の色々お願い!」
扉を開けたとたんに聞こえてきたのは、女言葉なのに妙にハスキーな声だった。
「キャシーちょっと待て、お前世界旅行に?」
親方の声が少し慌てるけれども、店の中のキャシーさんは決めてしまっているらしい。
「あなた家がなくなったなら、この家使ってちょうだい! 店も自由にしていていいわ! 新しい恋が私を待っているのよ!」
そう言って飛び出してきたのは……なんというのか、女性なのか男性なのか判断に困る、美貌の人だった。
彼女は旅支度をし終わって、本当に店を飛び出して行こうとして、俺と目が合った。
「まあ、かわいい! アーティも隅に置け……え?」
彼女は長いまつ毛に縁どられた、紺碧の瞳を瞬かせた。きらきらと銀の髪が風に揺れる。
色のちょっと濃い肌は情熱的な気性を示すようで。
俺は目を見開いた。見覚えはありすぎた。俺はこの彼女を知っていた。
「ギギー?」
彼女は震えた声で問いかけてきた。どさりと荷物が落ちる。
彼女はわなわなと震えて次の瞬間、俺に飛びついてきた。
「ギギー! 会いたかったわ! あなたどこにも生まれ変わらなかったから! ああ、あなたなのね、ギギー!」
飛びついた彼女を難なく受け止め、俺はなんとも言い難い声で答えた。
「久しぶり、ウェーニュス」
俺は、美と豊穣をつかさどる女神の名前を呼んだ。




