止まった時間は波が進める。
一
今日も海は唸っていた。低く遠く叫び声のようだけど控えめに重い波音が耳の鼓膜と私の脳みそをぶるぶると刺激した。朝日が東の地平線から顔を覗かせ潮風がさあっと髪の間を通り抜けていった。
最近始めた毎日の日課は、海岸まで行って波の音を録音することだ。毎回あまり変化はないけれどそれが私のコレクションなのだ。去年のちょうど今ぐらいの頃に始めているので、そろそろ音を集めだして一年になる。別に集めて何をするわけでもない。ただ録音するだけだ。
私はどうも飽きっぽく、続けてこれた記憶がほとんどない。ウォーキングも読書も一週間ほどすると飽きてしまうのだ。でも、さすがに何か続けたいと自分でも思っているので、だらけそうになる自分を奮い立たせ、一年間やっと続いたのでしみじみと波の音を録音するというのはとても自分にあっていることだと思うようになった。ボイスレコーダーがだんだんお菓子の空缶にたまっていくから目に見えて「自分、頑張っているな」と実感できる。
「理智、学校は?」
あたりまえだ、あるよ。休日じゃない。
「行くよ」
学生かばんを引っ掴んで、毎日履いているスニーカーで走り出す。このスニーカーを買うとき母に、怪訝な顔をされたがそんな母を説得して買ってもらった。靴紐が両足で違うという、なんとも奇抜なハイテクスニーカーだとぶつくさ言われるのを横目に入学祝に頼んだ。
「いってきます」
私はいつものように走った。スカートの下にはジャージの短パンはいているので、本気で走っても安心だ。くだらない男子の「女子のパンツの色当てっこ」などと言う遊びには付き合ってられない。
ちっさい商店の前の交差点で私は二人を待つのは入学式から続いている。今日は一番乗りだけども乱れたショートヘアを手ぐしで直して、ついでに呼吸も整えた。
「おっはよ、理智」
叫びながら、私の背中にジャンプしながら追突してきたアヤ。いつもはアヤが一番にここへ来ていることが多いけれど、今日は私が勝った。
「待った?」
「待ってないよ。それよりも、アヤがぶつかってきたから、首が痛い」
「ごめん、ごめん」
彼女は手を合わせて謝った。アヤは可愛いなといつも思う。まるで漫画に出てくるヒロインのようで表情が豊か、オーバーリアクション。しかもポジティブだ。そんなアヤに憧れる。
そして、いつも私よりも遅く来る奴は蒼天だ。
「お待たせ」
と言って、頬を伝う汗をぬぐう蒼天。
彼はかっこいい、らしい。私にはよく分からないけど、イケメンだとみんなが言う。確かにスポーツはよくできると思っている。運動ができるだけでイケメンと言う周囲の人の価値観を疑う。
「遅刻だよ」
アヤと私は声をそろえた。私は腕時計を確認する。長針は「三」のところをさしていた。いつもよりも遅い。横から覗き込んだアヤが叫んだ。
「遅刻するよ」
「アオのせいだよ、遅刻したら」
「なんで俺のせいなんだよ」
誰が見たってアオが悪いと思った。
私たち三人は学校の正門まで一度も立ち止まることなく走ることにした。
私は陸上部で、アオはソフトテニス部、そしてアヤは美術部。だから三人の中で日焼けしてないのはアヤだけ。一番早く校門に到着したのは、私。続いてアオで最後はアヤ。でもアヤは決して遅いわけじゃない。この三人の中だから遅く見えるけど、女子のなかでは「上の下」くらい。
アヤは肩くらいまである黒髪をかき上げながら、右手で風を扇いだ。さすがに六月中旬の朝でも、朝っぱらから走るのは暑い。私はブラウスの第一ボタンを開けて、服の中にたまった熱い空気を外へ逃がした。空を見上げると、青い空には生物の敵が一つ、ぎらぎらと照りつけているだけだった。
「あちいー」
アオは汗をタオルで拭いて、道路に寝転がっている。
アスファルトの上に寝転がるなんて理解ができないけれど、アヤも私も注意せずにほっておいた。もう三人の中ではよくあることになった。校門に立っていた生徒指導の先生が、
「ほら、チャイム鳴るぞお」
と声をかけてくれたおかげで、私たちは遅刻にならなかった。
私と蒼天とアヤは同じクラスだ。小学生のときからの幼馴染が一緒のクラスになるなんて、夢にも思っていなかった。同じクラスになって私らの仲はよりいっそう強まった、なんていうのは私だけの思い込みかもしれない。こんな事を言ったら蒼天に「なにそれ、理智気持ち悪い」と笑われてしまいそうだ。
二
「きりーつ」
学級委員の号令の声までこの暑さにだらけている。進級したてのあの緊張感はどこへ行ってしまったのだろうか。クラスメート全員が呼吸をするのも気を遣うようなあの空気。あの雰囲気はあの雰囲気で教室に居たくないけど、今のだらけさも嫌いで、教室の気温がもっと上がっているような気さえする。
「れい」
こんな声じゃあ、一日を始めにくい。スタートは思いっきらないと、エンジンがかからない質な私は心の中で愚痴をこぼしていた。
「ええ、おはようございます」
先生の声もこの夏の日差しに負けている。担任の古梨は、もう五十歳前半のおじいさん。言っていることも行動も理解不能だ。今年も暑いとお天気お姉さんが注意を促していた。古梨は無事に今年の夏も過ごせるだろうか、私は心の隅で心配した。
朝の会が終わると、私たちは下敷きや教科書を扇風機代わりにして扇ぐ。生温い風を2-Dの人々で、ゆっくりゆっくり動かすようで逆に気持ちが悪かった。額に嫌な汗がたらりと垂れた。手のひらで触るとしっとりと濡れた。窓から見える青色に染まった広大なキャンパスが爽やかだ。
「アヤ、一時間目って何だっけ」
前の席に座っている背中をつんつんと突くと、髪を涼しげに漂わせて振り向いた。女の自分でもどきっとしたのはその動きが一瞬スローモーションに見えたから。私の心臓をよそに、アヤは言う。
「数学だよ」
彼女のぱっちり二重の両目が、きゅっと細くなる。並びの良い白い歯が桃色の唇からきらりと覗くところも愛らしく思える。
「数学か。宿題やってない」
両手をぱーっと上に上げて、『破産した』的なポーズをとった。
また? と呆れるそぶりを見せても、何も言わず机から数学のノートを出してくれる。なんて良い友を持ったんだ、と嬉しくなってこんなアヤが大好きだと、何回目だろう、そう思った。
■ □
今、理智の机の上には私の数学のノートと、理智のノートしか無いはず。じゃあ何故もう一冊ノートが広げられている?
「アオ!」
「ん?」
蒼天がちゃっかり、私の宿題を見ている。
「あんたは、自分でやりなさいよ」
理智から待ったの声がかかる。
「理智だってみせてもらってるじゃん、いいジャン」
そうこういっているうちにも蒼天はどんどん私の字を写していく。彼のノートに私の解答が書き込まれていくのを目にして胸が高鳴って、意識していないと にやつきそうだ。私はその微笑ましいような厭きれるような光景を腐るほど見てきた。二人が写してゆくところを見つめていると、自分の子供のように思えてきてしまって思わず笑った。
ほら、アヤも笑ってるじゃんと理智がまた蒼天に怒る。蒼天は蒼天で、いつものことだろっと言ってスルー。二人の膨れっ面がシンクロしてて笑えた。
理智の方が先に写し始めたはずなのに結局は、蒼天の方が先に写し終わった。理智は口ばっかり動かしてたからね。
「サンキュー、亜耶花」
ごめんな、と片手でごめんポーズ。
「いいよ、いつもの事だし」
すると蒼天が苦笑いして、
「そっか」
と言って、自分の席に帰っていった。ノートを持って帰っていってしまう。後姿を見て口の中がすっぱくなる。
そんな時になって、やっと理智が写し終えた。
「ありがと」
日焼けした肌とやや大きな前歯。また日焼けしたんじゃない? そんな日焼けも、文化部の私にとっては蒼天と理智のおそろいのように見えて、少し嫉妬する。
数学の時間、運良く(?)理智と蒼天が指名された。二人の顔が「やべぇ」って、同じ顔をしていたから又思わず笑ってしまった。
三
美術室に繋がる廊下を歩いていると、後ろからすっと風が背を押した。まるで、「早く行け」と急かしているかのようだった。
今日は授業中、蒼天が三時間目の社会から寝ていた。伏せるようにして、寝顔をこっちへ向ける。私はその寝顔に見とれてしまって私まで先生の話の大半を聞いてなかった。
思わずスキップをしてしまう。
「ばーか。ホントにばーか」
くすくす笑いながら、こう言って廊下をスキップする人は痛々しいだろうか。でも、そんな気分なんだ。許してほしいとそっと呟いた。
美術室に一歩、また一歩と近づくたび周りの空気の温度がどんどん下がる。高低差一〇〇メートルで〇・六度の差がでるらしいよと確か教えてくれたのは――
「亜耶花ちゃん、おつー」
「部長さん、おつです」
大好きな人の声が聞こえた。
部長さんは『アーティスト』だ。好きなときにふらりと部活にやって来て、気分で絵を描く。気が向かない日はお菓子を食べて帰るか、ライトノベルを読んで帰る。こんな部長さんを嫌いな人もいるけれど私は好きだ。『アーティスト』っぽくて、羨ましい。いつか大物になるんじゃないかっていうのが、私の予想。今のうちにサイン貰っとこうかしら、なーんて思ったりする。
彼女はまだ絵を描いていなかった。今日は描くつもりじゃないのかもしれない。
「いつも思ってること言ってもいい? 亜耶花ちゃんってさ、可愛いよね」
「部長さん、突然何言ってるんですかっ」
「いやあ、亜耶花ちゃんってオーラが可愛いよね、と思って」
あ、もちろん顔もだよと言う。
今まで理智たちに言われた経験はあるけど、部長さんに言われると素直に嬉しい。彼女に私という存在を認めてもらえたようで、心が躍り狂っていた。前々から理智に言われるとお世辞っぽくて嫌だと思っていた。
「モデルになってくれない?」
ちょっと、想像していたような言葉じゃなかった。この部長さんに頼まれた。モデルを――嬉しくて堪らなくて口元が緩んだ。
「私なんかでいいんですか?」
部長さんはニッと笑った。
「亜耶花ちゃんがいいんだよね」
美術室の奥から大きめのキャンパスをずりずりと引きずり出した。私を描くだけなのに本格的だ。
「亜耶花ちゃんは普通にしていいよ。絵、描いててもいいし」
そう言われたので、私は描きかけの絵を窓辺に持ってきた。今、空を描いているのだ。何もかも吸い込んでいくような、その青さを――
時計を横目で見てみると、現在四時五十六分なのでまだ時間はたっぷりある。今日で描きあげてしまいたい。明日から雨が続くようだから。
「蒼天君だっけ、付き合ってるの?」部長さんが言う。彼女はにこっと笑った。
「突然どうしたんですか?」青を塗っていた筆を休める。
「よく一緒にいるなと思って。ソフトテニス部の子でしょ。かっこいいし亜耶花ちゃんとお似合いだなと思ってて。それでどうなの?」
部長さんからこんな話をしてくるのは珍しい。
「どうですかね……私は嫌いじゃないんですけどね」
軽く笑いながら答えた。
私の答えに私を描く彼女は何も言わなかった。
心が何か冷たいものに支配され、筆を握りなおした。外は暗くなりかけていた。
■ □
雨は大嫌い。どうやっても濡れるし、髪はぼさぼさになるし良いことなんて一つもない。深い溜息しか出ないのが雨の日だ。
「はぁ……」
後ろから、バシャバシャと水が跳ねる音がした。
「おっはー!」
背中を勢い良く押され、つんのめり思い切って右足で雨が溜まる水溜りを踏みつけ、見事にびっしょり濡れたので張り付く靴下とローファーの中で踊り狂う水が厭わしい。
声で分かった。
「アオ」
「おはよ。あれ? 亜耶花は?」
「アヤは朝練だってさ。美術部にもあるんだね、そんなの」
「ふぅん」
アオは興味が無さそうだ。彼の方から振って来た話題なのにと心の中で呟く。
アオはビニール傘を右肩に乗せて、隣を歩いている。二人の傘に「ぽつぽつ」と落ちる音が沈黙の間を漂う。
「理智ってさ、好きな人いないの?」
初めに口を開いたのはアオだった。
「今はいないかな」
「ふぅん」
また興味無さ気に返事をする。
「アオは、アヤのこと好きでしょ」
普段から気になっていることをちょっと軽い気持ちでぶつけてみた。隣を歩くアオの顔を覗き込む。
「そんなんじゃねぇし。馬鹿」
「何、馬鹿って。アオに馬鹿って言われたくないよ」
彼は傘で顔を隠しているつもりなのだろうけど、ビニール傘なので表情が見える。その顔は頬がピンク色に染まっている。今が蒸し暑いからだけではないと思う。
アオはアヤの事が好きなんだと思ってたけど違うのかな。
彼とゆっくりと歩幅を合わせて歩く。しかし、いつのまにか大きくなっていた歩幅と肩の高さ。隣を歩く大きな足を見つめていると、話すことなく学校に着いた。
生徒玄関で傘に付いた水滴を振り落とした。ぼーっとしていたみたいで、勢い余ってアオの顔に泥水が付着。
「ごめんね!」
そう言って、ハンカチをスカートのポケットから出す。プリーツスカートのポケットって、小さくて物を取り出すのが難しいのだ。ハンカチを出そうと思っても、手鏡とかポケットティッシュが出てきてしまう。やっとの思いで、取り出したハンカチでアオの顔に触れようとした瞬間。
「触んな!」
私の手をばっと振り払った。
彼のその大声を聞いた周りの子たちがこっちを見ている。ひそひそと小さな声で噂をしているような人もいた。
「ごめん」
「う、うん」
手がジンジンと疼く。『痛い』という感情よりか、突然のことで予想外だったので驚くしかなかった。頭の中が麻痺して、胸の奥にレモン水を掛けられたような。
アオは「はぁ」と謎の溜息をし、
「お前さ、そろそろ気づけよ」
と言って去ろうとする蒼天を
「ちょっと――」
と慌てて呼び止めてみたけど、彼は上靴を履いて足早に歩いていく。
何? 意味が分からない。
生徒玄関のトタン屋根を打ち付けている雨音がばらばらとますます強くなったように思えた。
絞ったら水が滴りそうな靴下だけど後で履き替えよう、とりあえず上履きを履く。
「ねえ、アオってば何のこと? 何に気づけばいいの?」
暗い廊下の先にアオではなく片手には大きなスケッチブックを持ち、もう片方の手には青色の絵の具が付いているアヤが立っていた。
「あ、おはよう。どう、絵は進んだ?」
彼女に駆け寄りながら声をかける。
「おはようどうしたの? 蒼天?」
アヤはいつものエネルギーが失われたように、げっそりしていた。顔色も良くない上に気のせいか声が震えている。
「どうしたの、アヤ」
「え? どうもしないよ。それより、蒼天と何かあった?」
目を細めて首を傾げて笑うその表情が、今にも音を立てて割れてしまいそうだ。目尻を必死に下げているようにしか見えない。
私は今朝あったことを掻い摘んで彼女に話す。アヤは長いまつげを伏せ、唾を一回の見込み言った。
「それさ、理智告白されてるんじゃないの?」
「え?」
アヤに言われて嬉しい反面、今まで縁遠かった体験に戸惑うことしかできない。
「ああ……?」
今日は湿度が高いはずなのに、喉の奥が乾いてはっきりとした声が出ない。もっと別のことを言うべきなのかもしれない。
「じゃあ、私。アオに酷いことした。謝らなきゃ――」
「待って!」
アヤが私の肩をぎゅっと掴んで叫んだ。細く白い腕から、この力が生み出されていると思うとびっくりだ。ぎりぎりと握って下を向いたアヤ。
「そのまま理智、蒼天と付き合いなよ」
弱弱しい声が廊下に漂った。美術室から繋がる廊下は静まり返って、人の気配、『音』という存在を忘れさせてくれるようで。
「アヤって、アオが好きだったの?」
心のどこかで気づいていたことだった。もしかして、と結構前から思っていた。
緊張で分泌される唾液で喉を少しだけ潤す。
「私、アオのことそういう目で見たことないから付き合わないよ。アヤが好きなら尚更、付き合わないよ」
「理智っていつも優しいよね。でもさ、こういう時は優しくしないでよ。分かんないよ。理智は私に優しすぎる。ねえ、分かってるでしょ? 私は『理智に甘え続ける私』が嫌いなの。 そうやって、ずっと私を許し続けるの? 駄目だよ。そんなの『親友』じゃ無いと思う。理智は自分のこと理解してる?」
アヤは唇を震わせる。
「何言ってるの? 大丈夫?」
「もう、手遅れだよ。これから理智と一緒に帰れない。『親友』も終わり。自分の気持ちに嘘つかないでよ! 嘘つかないのが『親友』だよ!」
彼女は行ってしまった。パタパタと上靴の音がする。
私は何もできない。声も出ない。歩けない。視界が真っ暗になる。
その場に座り込んだ。廊下にある窓に背を預け、天井を仰いだ。
アヤはどうしたの? 何がいけなかったのかな。まず、私が駄目だったの? 私のせいなの? それすら分からない。
誰のせい。アオのせい。アヤのせい。私のせい。何だか誰のせいでもないような気がする。
大人になっても分からない。このままずるずる引きずって、答えは拾えない。
四
夜の街は、太陽が昇っている時とは人の高揚度が違うと思った。空気も変わる。それを知ったのは大人になってからだった。
同僚達と、とある居酒屋に入って飲みながら駄弁っていたら深夜も良いとこだった。
最終電車はまだ残っているはず。
K駅に向かっている途中も、アルコールの酔いが私を襲う。足元がふら付いた時明日は会社は休みだと思った。これくらい酔っていても、大丈夫だろう。事故や事件に巻き込まれずに無事に家に帰りたいものだ。
小さな改札を抜け、薄暗く羽虫が飛び交うホームにはサラリーマンと柄の悪そうなお兄さん。
私は酔いが醒めるまでホームの柱にぴとっともたれた。金属の冷たさが心地よかった。ワイシャツから伝わるものは、私をゆっくりと解いていく様だった。ふと思い出した。中学生のことを。きっかけは無いと思う。
そういえば、三人で一回来たことがあるなあ。あの時は青かったな。中学生と言ったってまだ小学生と変わらなかった。心もそんなに変わってなかった。でも、中学生の心だったなあ。恋愛して、喧嘩して。
喧嘩――
あれ以来アヤとは学校以外で殆ど会うことは無かった。アオともだんだん話さなくなっていって、卒業の頃なんて目も合わなくなった。高校も結局、三人とも違う。
今まで積み上げてきたものが、あの雨の日あの朝突然割れたのだ。ひびと思える小さなものも無かったと思う。あくまで私は、無かったと思う。
何年だろうか。
「十年か……」
十年の月日は何だか、五十メートル走の様に一瞬の間。中学校を卒業して、高等学校に入学、大学に入学。新幹線のように猛スピードで一直線に駆け抜けた十年間だった。しかし早すぎたせいなのか、疲労感も大変あった。
電車が来るまで十分ある。背凭れに使っていた鉄骨に今度は頬を当てて、考え事をしていた。
コンクリートが響く音がする。無意識にそちらに目をやるとそこには同い年くらいであろう背の高い男性。
目がばちっと合ったのだが、私は自覚しているよりも酔いが回っていたようで視線を逸らすことさえのろまだった。彼は私を見ると、何か察した、と顔に書いた。
私も何か、気が付いたような気がした。どこかで会ったような気がした。見たことのある顔だった。でもそれが、思い出せないまま彼と視線が行き違う。
誰だったか。懐かしいような、失礼だが笑えてしまうような顔だ。でも分からない。心の奥がきゅっとなって、ちょっと泣きたくなったのは気のせいだろうか。
「山名理智さんですか――」
私の背中側からかけられた言葉に魂消る。
「そうですけど」
だらしない姿勢をしゃんとして、でもまだ背中には鉄柱があった。
「俺だよ、蒼天。覚えてない?」
男は見覚えのある緊張した顔をするのを見て、思い出した。
「アオなの?」
「そうだよ。久しぶりだな」
アオはどこも変わっていないようだ。外見はもちろん変わったけど、内側はほとんど変わっていないように思う。優しい言葉、柔らかな口調。とても懐かしい気持ちになった。
「理智変わったな。外見も、内面も。声かけようか迷ったよ」
笑い方も同じだ。中学の時の友達に会うのなんて、久しぶりで心が弾んだ私は確かにいた。
「そんなに私変わった? 自分じゃ全然分かんないよ」
「変わったよ。綺麗になったし」
「あ、ありがと」
思いもよらなかった言葉が聞こえて、もう一度びっくりする。アオってこんな奴だったっけ。
「アオもカッコいいよ」
私は咄嗟に言う。
彼は少し首の後ろに片手を添えて、
「理智、覚えてる? 俺が告白したこと」
「うん。覚えてるけどさ」
突然言うもんだから、言い訳みたいになってしまう。耳の奥で血管の中でどくどく流れる血液。それが分かるほど私は動揺していた。
「覚えてるけど、その時全然気づいてなかったんだよね。アヤに言われて、やっと気づきました、みたいな」
あはは、と動揺しまくりの私。駄目だ。突然、泣きそうだと思った。良い大人が泣くなんて、アオが困るだろうと必死に自分に言い聞かせる。
良いタイミングで電車が来る。耳を切り裂く金属音と共に、気持ちを加速させる。笑え。どうか笑ってくれ私。
「アヤとはどうなの?」
長めの沈黙。でもたったの二秒くらいだったかもしれない。
「亜耶花とは今、付き合ってんだけどさ――」
ああ駄目だ。自分で少しは想像していたのだけど。
「そっか、そうだよね。アヤ、アオの事好きだったもんね。いいなあ。今、私フリーなんだけどな」
言いたい言葉を閉じ込めて鍵を閉める。
「私、この電車に乗るから。またね。アヤによろしく」
閉まりそうになる電車に飛び乗る。
アオに悪いという気持ちよりも、私の気持ちを優先させてしまって申し訳ない。自分の気持ちなんて、どうでもいいのに。ごめんなさい。
そのまま、酔いのせいで記憶がジャンプした。
■ □
目覚めた私は、時計を見た。八時二十七分だ。
「寝過ごした!」
掛け布団を豪快に跳ね除けたけど、よくよく考えてみたら今日は会社は休みだった。何だか、一人馬鹿馬鹿しい。恋人でもいたらツッコミを入れてくれるのかもしれない。でもいないから分からない。自分でツッコミを入れるのは馬鹿馬鹿しい上に寂しいことこの上ないのでそんなことはしない。
ふと、昨日のことを思い出し憂鬱な気分だ。
彼に悪い事をした。でもわざわざ謝りたい気持ちでもない。
ベッドからずるずると落っこち少し痛い頭と右肘が床に付いた時、私の携帯がけたたましく鳴る。その音にびくっとなって、思わず布団の上からずどんと落下。
小汚い部屋で鳴り止まない携帯電話を探す。電子音を頼りに探し出したときには、鳴り始めて十秒前後経っていた。それでもコール音は鳴り止まない。
「もしもし?」
「もしもし、理智? おはよう。今いい?」
「アオ?」
どうして番号を知っているというのだろう。
「電話番号教えたっけ」
「アヤに教えてもらったんだよ。駄目だった?」
「い、いや。びっくりしただけ」
電話の相手はアオだった。知らない番号だな、とは思ったけどまさか彼だとは思わなかった。また、胸の奥が痛くなる。携帯電話を持っていない片手で、パジャマをぎゅっと握る。
「俺、まだ理智のこと好きかも」
「は?」
何言っているの。耳を疑う。
「アオには、アヤがいるでしょ」
「それなんだけど、嘘。嘘だから。冗談」
嘘つく必要あったんだろうか。
「だからと言うんじゃないけど、今日、家に行ってもいい?」
「今日? 暇だけど。本気なの?」
「本気だよ。今更引き返せないんだけどな、電車乗ってるし」
住所も教えたかな。きっとそれもアヤに教えてもらったんだろう。
「じゃあ、すぐに準備する」電話を切った。
そうは言ったもののこの散らかり様、どこから手をつけようか。毎日ちょっとずつ散らかして、今ではこんな有様なのである。会社の同僚や後輩を家に上げるのを拒んでいた私があっさりと蒼天にいいよと言ってしまっている。
まずはミニテーブルの上を綺麗にしようと決心し、市指定のゴミ袋を片手にビール缶と紙屑に挑む。しかし思ったよりもこれが強敵で片付けるのに苦労していた。
そんなこんなでアオが来てしまった。一人でごぞごそしている私に、インターホンの音が届いた。
「もうちょっと待ってよ。片付け終わってないから」
そう言ったけれど、アオは自宅のようにづかづかと入って来る。
「いいよ、そんなに綺麗にしなくても。俺は汚いのに慣れてるしね」
まだ片付いてないものがあったので私は彼を家に迎え入れたくなかった。それは中学生の時に集めていたボイスレコーダー、波の音が録音されているやつだ。箱に入れて棚の奥にしまい込んでいただが落ちてきた。二日前くらいの話なのだが、まだしまっていなかった。
「何それ」
彼が大量のボイスレコーダーに注目を注ぐ。
「え、これって。仕事とかで使ってるやつ? 量、多いな。凄いな。大人だなあ」
そう言いながら、落ちているボイスレコーダーをそっと拾う。
「それ、中学生の頃の」
アオの手がぴくっと止まる。しゃがみこんだ彼を私が見下ろす形になった。
「なんかね、続けれることしたいなあと思って、海の音を録音してた。なんか、今聞けばどうでもいい音だけどね」
私もかがんで、床に両膝を付けた。散乱する『波の音』。
「聴いてもいい?」
いいよ、とも、駄目、とも言えない私をよそに再生ボタンを押すアオ。
狭く汚い部屋に小さくささやかに流れる、海の音。変哲の無い、水が行き来する音。突然恥ずかしくなった。
「もう、いいでしょ。片付ける」
「理智はさっき、どうでもいいって言ったけど、本当にどうでもよかったんなら、こんなにも録音したやつがないんじゃない」
私は停止ボタンを押す。
「これ、卒業するまであるじゃん。いつ録音してたの?」
「朝。学校に行く前に、海に行ってた」
「しかも、こんな付箋が付いてる」
付箋なんか付けた覚えが無い。
彼が差し出すボイスレコーダーには黄色く、少し変色した付箋が付いていた。
『珍しい波の音。アヤに渡す!』
「これ、俺らの関係が崩れた時より後に書いたやつだよね。日付がそうじゃん」
「そうだと思うよ。よく覚えてないんだけど、きっとそう。忘れちゃうもんだね。この付箋を書いたときは、とっても重要なことだったと思うのに」
「俺は二人のことずっと覚えていたよ。亜耶花と理智はどうしてるかな、ってあの後も思ってた」
「そういえば、アヤと付き合ってたのは本当でしょう?」
「もしかして、携帯のストラップ?」
私は頷く。
彼ら二人は中学校三年間お揃いの携帯ストラップをつけていて影で噂になっていた。
「だよなあ。こんなの、くれるのあいつぐらいだもんな。でも、今も昔も付き合ってないよ」
「そんなに力をこめて言われても、今の私でも昔の私でも関係ないことだよ」
いつの間にか胡坐を掻いている彼の横にしゃがんでいた。すると、アオは私の左手の上に手を置く。
「俺の気持ち、まだ分からない?」
「分かる。でも」
「でも?」
「アオはそんな風に見たことが無いから、ごめんなさい」
「そっか。いいんだよ。俺が一方的な片思いだったんだろ」
少しぶっきらぼうに鼻で笑いながら言う。
「恋愛とか友情とか、勘違いだったりするんだよね。勘違いの塊。そうだと思わない?」
一息ついて、
「それはそうかもな。荷物の中身を見る機械よりも、人の心を見る機械をつくった方がいいと思う」と言った。
「でも、私は人の心の中は見たくないかな。もし、私のことが嫌いって分かっても、どうしようもないと思うの。何だか、心って見えないからいいものなんだよ」
「理智は大人だ」
「え? 何で? アオも十分大人じゃない」
「俺はそんなに、変わってないよ。他人に『前と違うね』って言われたんだったら、どこかしら大人になってんだと思うぜ。理智は変わってる。見た目も、中身も」
顔を赤らめて言うアオも、少し変わって見えた。顔も確かに変わった。背も伸びている。それもあるんだけど、どこかが違う。ここ、とはっきり言えないけど変わって見えたのは事実だ。変わってないなんて言った私に、馬鹿かって言いたい。こんなにも変わってるじゃんか。「ここが変わった」と言えないのが悔しくてしょうがない。
「自分が年を重ねていく度に、自分が変わってるのか不安になるんだ。昔の友達に会ったりすると尚更。友達は大抵、というか全員輝いて社会に出てるだろ」
不安そうに喋る彼の両目が少し揺れたような気がした。
「アオも変わってるよ」
これは、精一杯の彼へのエールだ。心の奥から笑った。
「アオに会えたんならアヤにも会えるかなあ。わざわざ会おうとしなくても近いうちに会えるかもしれない」
かっこよく笑って、
「そうだな」と蒼天。
私たちの後方の大きな窓から、ささやかに風が入り込む。
もちろん聞こえてくるのは海の音じゃない。あの頃にはもう戻れないのだから。