姿も見えない神に祈った
――姿も見えない神に祈って、何になるのだろうかと思っていた。
そう前置きしてから、彼女は桜の木の太い枝に腰掛ける僕を見上げた。「見えない」と言っている割に目線が合っているんだから、実は才能あるのではないだろうか。少なくとも、正式な跡取りである彼女の姉よりは。
村はずれの小さな丘には、たった一本だけ桜の木があった。村人達は、その木をご神木として祀り、僕が生まれた。桜を綺麗に咲かすだけの神、だ。
彼女の薄い唇は、止まったり動いたりを繰り返しながら言を紡いでゆく。以前に聞いた時には子ども特有の甲高さが残っていたのに、随分落ち着いた低めの声になっている。確か、もう十四だっただろうか。人間はすぐに年を取る。
「けど私、なんとなくわかるんです。お姉ちゃ――……姉は、巫女としての力が殆どないでしょう。神様の事、見える、聞こえる、なんて言っているけど、きっと嘘。幼い頃に軽はずみについてしまった嘘が、大事になってしまっただけ」
彼女の姉、文香のことはよく知っている。
桜を咲かす事しか出来ない僕みたいな能無しの神に、来る日も来る日も祈りを奉げる、可哀想な子だ。
「もうご存知かとは思いますが、姉の生活は神様のお姿が見える、神様の声が聞こえる、そう言ってしまった日から一変しました。途切れてしまったのではと考えられていた巫女の血がまた蘇ったのだと、村の人達は大いに喜んで。……気が付いたら、引き返せない所まできてしまったんです」
文香が村中に囃し立てられ、僕に祈るのは「村に緑が溢れるように」だ。
この村は一年の半分が冬みたいな気候で、雪ばかり降る。しかし雨は降らず、山に囲われているせいで日当たりも悪いために作物が育たない。だから村人は、緑を願っている。神に祈らずにはいられないくらいに。
夕焼けに染められて、彼女の肩につくくらいの艶やかな黒髪が朱を帯びている。青白い頬にも陽が差して、どこか表情が読み取りにくい。
黒目がちな瞳をすっと伏せて、彼女は続けた。
僕は一言も話さない。
「神様。私、神様のこと見えません。神様の声も聞こえません。でも、そこにいらっしゃいますよね。それだけは感じるんです。確かにそこにいるって、わかるんです。……どうか、姉の祈りを叶えてください」
彼女は袖口から小さな紙包みを取り出し、手のひらで開いた。中には白い饅頭が一つ。おずおずと、上目遣いに頬を染めて彼女はそれを掲げる。
「あの……これ、よろしければ。神様ってお饅頭召し上がるのかよくわからないのですが……。つまらない物でごめんなさい」
ぺこりと頭を下げると、おそらく今日のおやつだったのであろう饅頭を置いて、彼女は丘を駆け下りていった。僕はその小柄な後姿を見送ってから、桜の根元に置かれた饅頭に視線を移した。
風がさらさらと吹き抜け、青々と茂った桜の葉が揺れた。
彼女の真剣な眼差しは脳裏に焼きついて離れない。
「神様、かあ」
ふよふよと空中で胡坐を掻いている『ネコさん』の体が上下引っくり返っている。
いくら空くらい自在に飛びまわれるからって、僕なんかよりもずっと偉い神様がこんなに威厳のない格好で良いのだろうか。僕が彼なら、もっと偉そうにどっしり構えるのに。
ネコさんは着崩した着物の袖に両手を突っ込み、猫のそれと同じ毛の生えた大きな耳をぴくぴくさせた。
「白いの、元気ないじゃないか」
「……そんなことありませんよ」
ネコさんは僕を「白いの」と呼ぶ。僕の髪や着物が白いから、という安直な理由だ。
「白いの」以外では、「根性なし」、「気弱」、「桜の坊主」、「寂しがり」などなど、どれもそのまんま。僕には名前がないから、仕方ないのかもしれない。
僕は長いひげの生えたネコさんの顔を見つめた。
ネコさんは大きな神社で祀られている神様で、本来僕なんかがこうして話を出来る存在じゃない。なのになぜか、桜の木から離れる事も出来ない僕の所へ度々現れては世間話をしてゆく。
人と猫を混ぜたような見た目から僕は彼を親しみを込めて『ネコさん』と呼ぶようになった。
僕もネコさんも同い年の少年程度の見た目だけど、ネコさんからすれば僕は赤子のようなものだという。
空中で寝転がってから、ネコさんはふうん、と僕を一瞥した。
「悪いようにはしないから話してみろよ」
僕は何度か瞬きをしてから、笑みを浮かべた。
「……昨日、例の巫女の子の妹さんが僕の所に来たんですよ」
青空を見上げると、僕は昨日の出来事をネコさんに語った。
ネコさんは自分で聞いておいて興味が薄そうにぼんやりとしていたが、僕が話を終えると長い尻尾をぱたりと振った。
「饅頭は美味しかったか」
「へ、あ、はい」
「ならよかった。なるようになる」
そう言うと、ネコさんは八重歯を見せてけらけら笑った。
「そういえば、昨日は名乗りもせずに失礼しました。私、瑞花といいます。ずいか、と書いて瑞花です。神様にはお名前とかございますか? あるとしたら、きっと美しい名でしょうね。だって、こんなに綺麗な桜の神様ですもん。……でも、私にとっては神様は神様だけですから、神様って呼びますね」
「私の名前、雪の異称でもあるらしいんですよ。知ってますか? 桜の花びらが舞うのと雪が舞うのとは、同じ速さなんですって。神様と私、似てるところもあるのかもしれませんね」
「晴れた日は好きです。風がとっても気持ちいいですから。神様は晴れと雨、どちらが好きですか?」
「神様って、お幾つなんですか? やっぱりとってもお爺さんだったりするんですか? ……すみません、失礼でした。けどきっと、神様は若い姿な気がします。違いますか?」
「この村には神様の桜だけですが、他の土地には沢山の桜があるのですよね。きっと綺麗なんでしょうね。――あ、もちろん神様が一番ですよ」
「私、生まれつき体が弱いんです。でも、ここに居るとなんだか呼吸が楽で落ち着きます。神様、何かしてくださってますか? それとも、神様の近くに居るだけでご利益があるのでしょうか」
「姉としりとりしたら、すぐに負けました。神様、しりとりって知ってますか? もし神様の声が聞けるならば神様ともしてみたいです。私、絶対勝ちますよ」
「お菓子、召し上がってくれてますよね、嬉しいです。甘いものお好きですか? 正直に申しますと、神様が物を召し上がれるって思っていませんでした。――そもそも、神様って食欲はあるのですか?」
「神様以外にも神様っているんですよね。神様はご友人はいらっしゃいますか? 私は、友達ってほとんどいないんです。一日中部屋に居る事が多いですから。――ですから、こうして神様に会いにくるの、楽しいです。お医者さまは外に出るのよくないって言うんですけど、むしろ良くなってきたように思うんですよ」
それから、彼女――瑞花は、毎日のように僕の元を訪れるようになった。
姉である文香の祈祷は朝と夜に行われるから、その合間の昼か夕暮れ頃になると現れて、お菓子一つを奉げものにつらつらと話をしていく。
いつしか僕は、彼女の一方的な話を聞くのが楽しみになっていた。
「その子も毎日毎日ご苦労なこったなあ。しかし、当初の目的はお前に願い事を叶えて欲しかったんだろ? なんでまたそんな普通の話ばっか」
ネコさんは丸っこいつり目をぱちぱちさせた。
夜の帳が落ちた丘の上は静寂に包まれていた。空には大きな三日月が光りを放ち、その光の強さに星が少なく見えた。
僕は瑞花の言葉を思い返して苦笑する。
「なんでも、僕の事よくしらないのにお願い事だけするのはよくない、って思ったらしいんです。だからまずは友達になってくれませんか、って」
「へえ。変わった女だなあ」
「――そうですね」
ネコさんのはっきりした物言いに笑ってしまう。きっと瑞花は、こんな噂話をされてるなんて夢にも思っていないだろう。
「まあ楽しそうでなによりだ」
ネコさんがわずかに肩をすくめた。
月が雲に隠れて闇が深まる。
僕は彼女の屈託のない笑顔を瞼の裏に浮かべると、俯いた。
どうしたんだよ、とネコさんが顔を覗きこんでくる。
「心苦しいんです、あの子がどんなに願ったって、僕にはあの子の願いを叶えられない。偶然神として生まれただけの、能無しだから」
口にしてしまってから、こんな話をネコさんにするのはよくなかったと気が付いた。ネコさんは僕が自分を卑下するのを嫌う。
案の定、ネコさんは僕の背中を蹴飛ばした。僕は盛大に吹っ飛び、べしゃりと地面に突っ伏す。
「どうでもいいだろそんな事」
そんな事じゃない。僕にとっては。
むっとして、背中を抑えながら体を起こし僕は口を尖らせた。
「嫌なんです! 村の人たちがみんな苦しんでるのに、僕はなんにも出来ない。僕なんかを『神様』って慕ってくれるのに、なんの役にも立たない」
軽く睨むと、ネコさんは鼻で笑って腕を組んだ。
「いいんだよお前は。毎年盛大に花咲かして、へらへらしとけば十分だ」
理解しきれず眉を顰める僕に、ネコさんは満足げな表情を浮かべた。
「神様は、この村以外の世界を見た事がありますか? 私は一度もないんです。いつか、色んなところに行ってみたい。色んなものを見てみたい。――そうだ、一緒に行きましょうよ。旅に出るんです。きっと、楽しいですよ」
いつものようにやって来た瑞花は、桜の木の根元に座っていた僕のすぐ隣に腰を下ろして、遠くを見るみたいに目を細めた。
そのあどけなさの残る横顔を見つめて、僕は思わず呟いた。
「……楽しそうだねえ」
「――え?」
瑞花が目を真ん丸くしてこちらを見た。向こうからは見えてない筈なのに目があった気がして、僕も瞠目する。
「神様、今、喋りました?」
興奮した様子で詰め寄ってくる瑞花に、僕は後退りながら頷いた。
目と鼻の先にある彼女の顔が、ふわっと綻びる。ありもしない心臓が破裂しそうだった。
「不思議ですね、私、神様のこと見えないはずなのに、神様の声、聞こえないはずなのに、神様の事どんどん知っていっているような気がするんです。確かにここにいて、私のことみてくれてるって、思うんです」
照れくさそうに頭を掻いて、瑞花はやっと元の位置に戻った。
僕はほっと息をつく。
「ねえ神様、初めて話をした日に私、『姿も見えない神に祈って何になるんだって思ってた』って言ったでしょう。あれ、本当はただの嫉妬でした。巫女の家系に生まれて、でも体は弱くて特に力もなくて、だから神様の姿を見れるからって村のみんなに慕われる姉が、羨ましかったんです」
「……少し、わかるよ」
彼女は細い首を傾けてから、ふふ、と笑った。
「神様は優しいですね」
「そんなことないよ」
「あ、もしかして照れてます?」
「……そんなことないよ」
「神様の照れた顔、見れなくって残念です」
桜の木の幹に身を預け、瑞花は楽しそうに空をみた。
村の方からは、子どもたちのはしゃぎ声が聞こえる。僕はなんとなく、目を閉じた。
「私も、誰かの役に立ちたかったんです。だからきっと私はあの日、姉のためなんかじゃなくて自分のために神様の所へ行ったんですよ」
僕は彼女の投げ出された手に自分のそれを静かに重ねた。触れられないから、すり抜けてしまわないよう慎重に。
瑞花は一瞬だけびっくりした顔をして、瞼を下ろした。睫毛が頬に影を落としている。
僕は、日の光に融けてしまいそうだなとぼんやり思った。
彼女の姿が見えなくなってから、紙に包まれた羊羹を拾い上げた。
「あれが瑞花ちゃんか、へえ~」
急に背後から声がして、僕は羊羹を落としかけた。
「ね、ねねネコさん!」
「驚きすぎだろ」
けたけた笑い声を上げて、ネコさんは宙に飛び上がった。尻尾がしきりに揺れているから、心底面白がっているにちがいない。
「あの子、お前の事見えてないんだろ?」
「普通見えませんよ」
「俺が通訳やってやろうか」
「……結構です」
なるほど、ネコさんなら瑞花と話も出来るだろう。けれど、どうしてだろうか瑞花とネコさんが話をするところを見たくなかった。
「僕がネコさんだったら、この村を救えたのになあ」
「それはどうだろうなあ。お前は、救うっていう言葉の意味をもう少し考えてみろよ」
首を捻る僕の頭をネコさんが掻き回すように撫でた。
「お前はこのままで、この村にぴったりな神だ、って事だよ」
「――羊羹、食べますか?」
「食えねーよ。供物ってのはな、気持ちが入ってるから美味いんだ」
僕はまじまじと羊羹を見つめて、一口齧った。じっくり咀嚼する。美味しい。
毎日のように僕のもとへ来ていた瑞花が、その翌日からぱたりと姿を見せなくなった。僕は桜から少しでも離れる事が出来ないから、様子を見に村へ行く事すら叶わない。
「あの子が来なくなってもう一月くらいか?」
「……二十四日目です」
「そ、そうか……。俺、見てきてやろうか。どうせあれだろ、あの一番でかい建物のどっかにいるだろ」
あまりに気落ちしている僕をみかねてネコさんがした提案に、膝を抱えた。膝頭に額を押し付ける。
沈みかけた太陽が丘を赤く染めていて、瑞花が初めて僕に話しかけた日を思い出した。
怖い。
――もしも村のどこにも、あの子が居なかったら?
瑞花は自身の体の状態について細かく話した事がなかった。だから僕は勝手に、大した事はないだろうと高をくくっていた。なんて神様だ。
「なにかあったら、どうしよう。どうせ僕には何も出来ないのに」
呟いた僕をネコさんが蹴飛ばす事はなかった。耳と尻尾に髭まで垂らして、珍しく戸惑った様子だ。
「元気出せよ。大丈夫だって」
ネコさんが僕の肩を叩くのとほぼ同時、誰かが高い声でなにか叫ぶのが聞こえ、丘に大勢の人が登って来た。
先頭を歩くのは瑞花の姉の文香だ。祈祷の時間には少し早い。
「なんだなんだ」
ネコさんはきょろきょろと辺りを見回して、僕は胸騒ぎに眉を寄せた。
巫女装束に身を包んだ文香は、よく見ると小刻みに震えている。
文香は口々に糾弾されていた。
「騙してたんでしょ! 本当は巫女の力なんか無いくせに!」
「ち、違う……」
「じゃあなんで今年も不作なのよ。祈祷なんていって、何もしてないんじゃないの。私たちの目の前でやってみせなさいよ」
目元に涙を浮かべ、文香は俯いた。無理だ、出来っこない。でも、もし文香にその様な力があったとして、桜がもっと長く咲く程度の違いだろう。
僕は歯がゆさに唇を噛んだ。
「どうするよ、これ」
ネコさんは声を低くする。どうしたらいい、わからない。
立ち尽くしていると奥の方でざわめきが大きくなった。
「――やめて下さい!」
野次馬を押し退けて飛び出してきたのは、真っ青な顔をした瑞花だった。肩で息を繰り返している。
一瞬おとずれた静寂を真っ先に破ったのは文香だった。
「瑞花! どうして来たの? あんた、死ぬわよ!」
「――どうせ死ぬんだから、いいよ」
彼女は、いつかと同じにまっすぐ前を向いた。
「お姉ちゃんを責めて、何になるの? それで花が咲くの? 実がなるの? ……お姉ちゃんは確かに法力なんて無いけど、立派な巫女だよ。毎日毎日、村のために祈ったんだよ。他の誰が、そんな事したの? ――責めるなら、巫女の娘に生まれたのに何もしてこなかった私を責めて下さい」
言い放ち終えると、瑞花は咳込み地面に倒れこんだ。何人もの人が瑞花に駆け寄る。僕は、進めかけた足を止めた。僕の声は届かない。僕の手は彼女に触れられない。
文香が泣きそうな顔で瑞花に呼びかける。
「もういいよ、早くお医者さまに診てもらおう」
瑞花は、ちょうど可笑しな話をするみたいに破顔した。
「……お姉ちゃんお願い。私を神様と二人っきりにさせて」
口をぱくぱくさせてからきゅっと結び、文香が首を縦に振った。姿勢を正して立ち顎を引くと、集まっていた人達を見渡し凛とした声を出す。
「暫くの間、ここから離れてください。……私の、巫女としての最後のお願いです」
丘の上に残されたのは、僕と瑞花とネコさんだけになった。
僕は、木に凭れて浅い息をする瑞花のそばで膝を付いた。ネコさんは少し離れたところで腕を組んでいる。
「神様」
「……なあに」
「ずっと来れてなくてすみません。折角友達になれるかと思ったのに」
「いいよ」
「もっと早く、こうして会いに来ればよかった。人間、やれば出来るもんですね」
「無理は良くないよ」
「今まで、ごめんなさい。神様は願いを叶える便利屋じゃないのに。この村に緑が溢れるようになんて無理難題、押し付けてごめんなさい」
「……いいよ」
瑞花は蕾が開くようにゆっくりと柔らかな笑みを浮かべた。
「やっぱり、神様は優しいです。――ねえ神様、私を神様の一部にしてくれませんか? 私の命で、村を救えませんか?」
僕は黙り込んでしまった。瑞花の息遣いと、木の葉が擦れあう音だけが聞こえる。
瑞花は乾いた唇を自嘲的に歪めた。
「――すみません、私みたいな死にかけの命じゃ、なんの足しにもなりませんよね」
「……死にかけなんかじゃないよ」
拳を握り締めると、ずっと黙していたネコさんが開口した。
「おい、白いの」
「……ネコさん」
「お前をこの村の土地神にしてやろうか」
「――え?」
土地神は、その名の通り「場所」を守る神様の事だ。孤立した存在であるがために、ネコさんは「つまらない奴らだ」と零していた。
ネコさんはごく淡々と眉一つ動かさずに続ける。
「正し、土地神になったとしたら、それ以降俺はもう面倒をみない。そっから先のことは知らない」
「でも、そんな」
いくらネコさんでもそんな事をして平気なわけが無い。
目を泳がせていると、ネコさんは腰に手を当てた。
「俺の事は気にするな。まあ、暫くは今みたいに好き勝手出来ないだろうがそんなもんだ。お前の好きにしろ」
答えあぐねていると、瑞花がまた激しく咳を繰り返した。地面に血が飛ぶ。苦痛に顔が歪んでいて、とても見ていられない。
思わず伸ばした手は、彼女をすり抜けた。
僕はほとんどしゃくりあげながら、ネコさんに向かって叫ぶ。
「お願いします、この子の願いを叶えたいんです!」
ネコさんの声はただただ静かだ。
「土地神になったら、ろくな事無いぞ」
「構いません」
僕はネコさんをじっと見据えた。 目の前がちかちかして、世界が揺れている。
ふと、ネコさんは空中に胡坐を掻いてけたけたと笑い出した。
「だからお前は気に入ってたんだ。お前くらい泣いたり笑ったり忙しい神はなかなか居ないぞ。――じゃあな、色男」
ぽんぽんと僕の頭を叩くと、ネコさんはそのまま背を向けて飛んでいった。
僕は己の力の及ぶ範囲が広がっている事を確認して、すぐに村中へ注いだ。村全体が淡い光に包まれていく。
瞼を閉ざしかけていた瑞花が、顔を上げて感嘆の声を出した。
「神様、秋なのに桜が咲いてます」
「うん」
「丘に緑が生い茂ってます。見た事無い花がこんなに……」
「もう、大丈夫だよ。何も心配する事無い」
「ありがとうございます」
彼女の頬を涙が次々に流れていく。僕は自分の目元を拭った。
「あれ、もしかして神様、泣いてます?」
「泣いてるのはきみだよ」
風が吹き抜けて、桜の花びらが舞っている。
彼女の声色は、少しずつ弱弱しいものになってゆく。
「神様の事、見てみたかったなあ。きっと、素敵なんでしょうね」
「どうだろうねえ」
「声も、聞いてみたかったなあ。きっと、優しい声でしょうね」
「それも、自分じゃわかんないなあ」
すると瑞花は、ほんの僅かにむくれて見せた。
「私は神様のこと見れないのに、神様は私のこと見れるなんて、不公平ですよね」
「僕、神様だからなあ」
「あ、そうだ神様、覚えてますか? 前に言った話」
僕は首を傾げた。彼女は淡く微笑する。
「――忘れてるでしょ。一緒に旅に出るってお話ですよ。一緒に色んなところへ行きましょう。色んなものを見ましょう。きっと楽しいですよ。約束です」
「うん」
「……ねえ、神様」
掠れて、震えて、瑞花の声が遠ざかっていく。
彼女の右手が伸ばされて、指先が微かに、けれど確かに、僕の頬へ触れた。