二話◆知恵の樹
そこに足を踏み入れた途端、周囲の気温が急に下がったような気がした。
男は手を前にやり、奥へ進めというジェスチャーをする。
深呼吸ひとつして覚悟を決めると、目の前にそびえ立つ大樹のもとへと歩いていった。言葉を持たないはずのそれが、おいでと囁いているように感じたのは果たして錯覚なのだろうかそれとも―――――。
そろそろと樹に近づくイリヤの後ろで、男がなにか、祈りの言葉をささやいた。それはイリヤの聞いたことのあるどの祈りとも違う、まるで異国語のような言葉だった。
その祝詞が合図だったかのように、それは始まった。
まるで養分を樹全体に行き渡らせるかのように、幹の中心から淡い光が芽生えていく。
根の一筋一筋に。
枝の一本一本に。
葉の一枚一枚に。
やがてその樹が丸ごと光に満たされたとき。
目もくらむような閃光があふれ出し、部屋中を包み込んだ――――――。
―――数刻前―――
「あの渡り廊下を左に曲がると兵士棟だ」
(ほら、あれが例の……)
「兵士棟」
(いやだわ、ただの平民じゃない?……)
「修練場と兵士たちの居住区がある。たまには顔を出してもらえるとありがたいが」
(姫王さまは何を考えて……)
「……ええ、そうします」
イリヤはそろそろ本気で帰りたくなっていた。
《賢者の子孫さま》は、どこへ行っても注目の的となっていた。―――おおむね、悪い意味で。
突き刺さるような視線と、いやでも耳に入ってくる人々の囁き。そのどちらも決して好意的ではないことは、世間知らずの田舎者であるイリヤでもわかる。
そりゃあ爵位もなければ宮仕えでもない自分がここに居るのは場違いというものだが……。呼び出されて来てみれば、まるで針のむしろに放り込まれたようなこの仕打ち。いくら善良でまっとうな愛国精神を持った人でも、これでは姫王さまに恨みごとの一つでも言いたくなるというものだ。
そんなイリヤの気持ちも露知らず、愛想よく城内を案内してくれているのはライラックの瞳を持つ男、宮廷騎士団を統べるパーシヴァル・ドラジェッド。
(気軽にパーシーと呼んでくれと言われたが、丁重に断っておいたのは正解だっただろう。もしもこの空気の中で気易く愛称など使ったら、今よりずっと居心地の悪い思いをしたに違いない……)
「―――イリヤ殿」
「は」
「気分が悪いのならばすぐにでも部屋を見繕うが」
「ああ……いえ、少し考え事をしていただけです」
「そうか。……あなたは姫王さまの右腕となるお方だ。どうか無理はなさらぬよう」
《姫王さまの右腕》。
イリヤはまた一段と胃が落ち込む気がした。
駅から王宮までの道すがら、馬車の中でパーシヴァルが話してくれたことはかなり少なかった。
(自分は農民の子であり賢者の血筋などではないと主張してみたものの、眉目秀麗な青年には苦笑一つで片づけられてしまった……。)
結局、今のところイリヤが知っているのはたったの二つ。
一つ、イリヤがレーヴェンシュタインの子孫であることを姫王さまは《確信》しておられること。
二つ、イリヤにはこの先、賢者として姫王さまを支える使命を与えられていること。
一体、何の冗談なのだろう。いっそ冗談であってほしいとさえ思った。
魔法だなんて大それた能力も賢者と呼ばれるべき知恵も備わってないことは自分が良く知っている。
それなのに、我らが姫王さまはこの農民風情をご自分の右腕として迎えるおつもりだという……。
投げつけられる悪意よりも、吐き捨てられる侮辱よりも、何より心苦しかった。
「―――イリヤ殿、やはり少し休まれた方が……」
「パーシヴァル騎士団長殿」
「は」
「姫王さまは、なぜ私を呼んだのでしょう」
パーシヴァルの体がこわばるのを感じながら、イリヤはそっと彼に背を向けた。
これから言うことは不敬罪に当たるのだろうか。罰を受けるのだろうか。
それでもいいと思った。
裏切ると分かっている期待を押しつけてしまうよりは。
「……それは、あなたが……」
「―――賢者の子孫だから。……しかし、私はそれを否定しています」
「…………。」
「……私自身ですら信じていないことを、なぜ姫王さまは信じておられるのですか」
はっきりと不信の念を口に出してしまったその瞬間、耳をそばだてて聞いていたのだろう《通りすがり》の兵士や貴族がかすかにたじろいだ。
背後に立つ青年は何も言わない。
イリヤも口を閉ざしたまま、両手を硬く握り合わせていた。
気まずい沈黙が破られたのは、心臓の鼓動数十回分の後だった。
「………イリヤ殿」
「はい」
振り向くと、パーシヴァルは(予想とは裏腹に)怒っているわけでも、顔をしかめているわけでもないようだった。むしろその表情は、後ろめたそう、という表現が似合う。
一瞬、ためらうように視線を宙に泳がせたが、すぐにイリヤの顔へと戻すとつかつかと歩み寄り、言った。
「こちらへ」
そのまま、返事も待たずに彼らしくもない性急さで通路を突き進んでいく。事情を聞く余裕すら与えられず、慌ててイリヤはその後を追いかけた。
歩きながらパーシヴァルはごにょごにょと呟いていたが、その声は独り言とも話しかけているともつかない。切れ切れに「説明が足りなくて」とか「決して疑念を抱かせるつもりは」など、すまなそうな声色が聞こえてきたが、はぐれないようにするのが精いっぱいのイリヤはそれに返事をしている場合ではなかった。
やっと彼の足が止まった時、二人は城の地下へと来ていた。
堅牢な扉を目の前にしてきょとんとしていると、パーシヴァルは鍵を取り出して言った。
「あなたが賢者であるというまぎれもない証拠が、ここにある」
そこはぽっかりと天井が空いていて、地下でありながら中庭のように燦々と陽のあたる部屋だった。
緑が生い茂り、花が咲き誇るちょうどま真ん中には、見上げるほど大きい樹が一本植えられていた。
「さあ、中へ」
そこに足を踏み入れた途端、周囲の気温が急に下がったような気がした。
男は手を前にやり、奥へ進めというジェスチャーをする。
深呼吸ひとつして覚悟を決めると、目の前にそびえ立つ大樹のもとへと歩いていった。言葉を持たないはずのそれが、おいでと囁いているように感じたのは果たして錯覚なのだろうかそれとも―――――。
そろそろと樹に近づくイリヤの後ろで、男がなにか、祈りの言葉をささやいた。それはイリヤの聞いたことのあるどの祈りとも違う、まるで異国語のような言葉だった。
その祈りが合図だったかのように、それは始まった。
まるで養分を樹全体に行き渡らせるかのように、幹の中心から淡い光が芽生えていく。
根の一筋一筋に。
枝の一本一本に。
葉の一枚一枚に。
やがてその樹が丸ごと光に満たされたとき。
目もくらむような閃光があふれ出し、部屋中を包み込んだ――――――。
再び目を開けたとき、樹はもう光ってはいなかった。
その代わり、見過ごすことなど到底できないものが、イリヤの視界に飛び込んできた。
血潮を思わせる赤々とした果実が一つ、目の前にぶら下がっている。
つい条件反射で手を伸ばすと、まるで見えない誰かがハサミを入れたかのようにぷっつりと音を立て、それは手の中に飛び込んできた。
これは、なんだろう。
苺にしては大きすぎるし、他の果実にしては赤い。イリヤがこれまで育てたどの果物とも違うそれをしげしげと眺めていると、背後から声が降ってきた。
「知恵の樹があなたを認めた」
その声は儀式のように厳かで、それでいて興奮を押し殺しているように聞こえた。
思慮深そうなライラックはらんらんと輝き、イリヤと、その手の中にある赤い果実とを交互に見ている。
「それは知恵の実」
パーシヴァルは歌うように囁く。
(この声なら、きっと吟遊詩人としてだって成功できるだろう)
「神々が与えた知恵の結晶にして賢者の遺した知識の証」
そして、イリヤの足元にそっと跪き、果実を持ったままの手を掬いあげ、言った。
「賢者よ、私たちはあなたの帰りを待っていた」