顔も知らない許嫁より、ずっと好きだった義弟を選びます
「私、許嫁の人と結婚しようと思うの」
律の手が止まった。
夕食の片付けをしていた台所で、彼は拭きかけの皿を持ったまま私を見ている。いつもなら軽口の一つも返してくるのに、今日はなかなか口を開かなかった。
「……相手の名前も知らないんだろ?」
「うん。だから今度、お父さんたちに聞いてみるつもり」
「会ったこともない人と結婚するの?」
「昔からの約束だもの」
できるだけ明るく答えたつもりだった。
私には、幼い頃から許嫁がいる。
小学生のとき、両親の会話を偶然聞いてしまったのだ。親同士が子供たちの結婚を約束したらしい。ただ、肝心の相手の名前までは聞こえなかった。
それ以来、両親から結婚の話をされたことはない。私も自分から尋ねようとはしなかった。
けれど先週、従姉妹の結婚式に出席して、少し気持ちが変わった。
花嫁姿を見つめる母は何度も目元を拭い、普段は涙など見せない父まで嬉しそうに笑っていた。帰り道でも二人は、いい式だったね、と何度も話していた。
いつか私の結婚式でも、あんな顔を見せてくれるだろうか。
そのとき思い出したのが、昔の約束だった。
両親は私を大切に育ててくれた。十年前には、事故で親を亡くした律を引き取り、実の息子として愛情を注いでくれた。
そんな二人の約束なら、私も大切にしたかった。
それに、いつまでも叶わない恋を抱えているわけにもいかない。
「……姉さんは、その人と結婚したいの?」
律が静かに尋ねた。
「したいとか、したくないとかじゃなくて」
「結婚するのは姉さんだろ」
私は返事に困った。
律は昔から、こういうところがある。私が周囲に合わせようとすると、決まって自分はどうしたいのかと聞いてくる。
二十歳の弟に諭されるのは少し癪だけれど、いつも言い返せなくなるのだ。
「律には分からないよ」
つい、きつい声が出た。
律は一瞬だけ目を伏せ、皿を食器棚に戻した。
「……そうかもね」
謝ろうとして、言葉が出なかった。
律がこの家に来たとき、彼はまだ十歳だった。両親を亡くしたばかりの少年は、何を話しかけても小さく頷くだけで、夜中に一人で泣いていることもあった。
あの頃は、私がお姉ちゃんなんだから守ってあげなきゃと思っていた。
それがいつの間にか背を追い越され、私が悩んでいるときには隣で話を聞いてくれるようになった。弟として大切だった相手を、一人の男性として意識し始めたのがいつなのか、自分でも分からない。
ただ、律に「姉さん」と呼ばれるたび、少し寂しくなるようになった。
「……ねえ、律。好きな人、いるの?」
何げない質問を装った。けれど、律が少し考え込んだだけで、胸が落ち着かなくなった。
「いるよ」
「……そっか。どんな人?」
「秘密」
「お姉ちゃんにも?」
律は困ったように笑った。
「姉さんだから、言えないこともあるんだよ」
私は笑って、そうなんだ、と答えた。
律にはもう、好きな人がいる。
ならば、私が許嫁との結婚を考えるのは、きっと間違っていない。
そう思おうとした。
本当は、律に結婚すると告げれば、自分の恋心を諦められると思っていたのだ。
それなのに、いざ彼の口から好きな人がいると聞かされると、覚悟していたはずの胸が痛んだ。
◇
四日後、律が家を出ると知った。
「前に話してた仕事、受けることにしたんだ」
夕食の席でそう告げられ、私は箸を止めた。
律が以前から遠方で働きたがっていたことは知っている。希望する仕事の誘いがあったものの、家を離れることに迷いがあり、返事を保留していたはずだった。
「来月からだから、今月中には引っ越すよ」
「……そんなに早いの?」
「うん。準備、大変そうだけど」
父も母も、寂しがりながら彼の門出を喜んでいた。どうやら私だけが、今日まで知らなかったらしい。
律がこの家を出る。
いつかはそうなると分かっていた。私だって結婚すれば家を離れるのだから、不思議なことではない。
「……おめでとう、律」
ようやくそう言うと、律はいつものように笑った。
「ありがとう、姉さん」
その笑顔を、私はうまく見返せなかった。
翌日の夕方、律の部屋を訪ねると、床には段ボール箱が並んでいた。
机の上には手続きの書類。クローゼットの扉は開け放たれ、ハンガーが片側に寄せられている。
「手伝おうか?」
「大丈夫。そんなに荷物ないから」
「いいから。私、暇だし」
律は笑いながら空の箱を渡してくれた。
私はクローゼットから冬物の服を取り出し、一枚ずつ畳んでいく。律は引き出しを整理していたが、途中で私の手元を見て笑った。
「姉さん、相変わらず畳むの丁寧だね」
「だって、向こうで出したときにぐちゃぐちゃだったら嫌でしょ?」
「どうせ着たら同じなのに」
「そういう問題じゃないの」
何度も交わしてきたような、他愛もない会話だった。
けれど、これからはこんな時間もなくなる。
律は新しい土地で、新しい生活を始める。好きな人がいると言っていたのだから、いつかその人と恋人になるかもしれない。
そう考えた途端、畳みかけていた服の上で手が止まった。
「姉さん?」
顔を上げると、律がこちらを見ていた。
「疲れた? あとは俺がやるよ」
「ううん、大丈夫」
律は少し迷ったようだったが、無理に聞き出そうとはしなかった。私が作業を続けるのを確かめると、箱を取りやすい位置へ寄せてくれる。
こういう人なのだ。
私が平気なふりをしても、たいてい気づいてしまう。けれど、話したくないことまで無理に聞こうとはしない。
「……私が結婚するって言ったから?」
気づけば、そう尋ねていた。
律は引き出しを閉め、こちらを向いた。
「家を出ること?」
「うん」
「それだけじゃないよ。前から行きたかった仕事だし」
律は少し考えてから、続けた。
「でも、姉さんが結婚するって聞いて、決心がついたのは本当」
「……どうして?」
「姉さんが新しい生活を始めるなら、俺も前に進まなきゃと思ったんだ」
そう言って、律は開いたままの段ボールを見下ろした。
「ここにいたら、いつまでも今のままでいられる気がしてさ。それじゃ駄目だと思った」
最後の言葉だけ、少し声が小さくなった。
私は何も言えなかった。
「姉さんこそ、無理してない?」
顔を覗き込まれ、思わず視線を逸らす。
「……してないよ」
律はそれ以上尋ねなかった。
私は残りの服を畳み、箱に詰めた。律が蓋を閉じ、テープを貼って部屋の隅へ運ぶ。
空になったクローゼットには、まだハンガーが数本残っていた。
その寂しい光景を見つめながら、私は初めて、自分が何を失おうとしているのかを実感した。
◇
その夜、私はなかなか眠れなかった。
従姉妹の結婚式で嬉しそうに笑っていた両親の顔と、荷物を詰めていた律の背中が、交互に浮かんでくる。
両親には喜んでほしい。それは今も変わらない。
けれど、律を好きなまま、顔も知らない人と結婚することが、本当に正しいのだろうか。
許嫁の名前を知ろうとしなかったのは、相手が現実の誰かになれば、律への恋を諦めなければならなくなると思っていたからだ。
ずっと、怖かったのだ。
私は布団の中で寝返りを打ち、天井を見つめた。
もし律が私を好きではなかったとしても、気持ちは変わらない。
許嫁との結婚は断ろう。
自分の恋から逃げるために、誰かと結婚するのはやめよう。
そう決めると、不思議なくらい胸が軽くなった。
翌日の夜、私は律の部屋を訪ねた。
彼は机で書類を整理していたが、私を見ると作業を止めた。
「どうしたの?」
「……ちょっと、話があるんだけど」
律は書類を脇へ寄せ、私に向き直った。
私はベッドの端に腰を下ろす。
十年間、何度も入った部屋だ。小さかった律が眠れなくて私を呼んだことも、学校の宿題を一緒にやったこともある。
その部屋で、姉弟としての関係を変えてしまうかもしれない話をしようとしている。
「私ね、許嫁との結婚は断ることにしたの」
律が驚いたように顔を上げた。
「……いいの?」
「うん。ちゃんとお父さんたちに話す」
律は何も言わず、私の続きを待っていた。
膝の上で握った手が汗ばんでいる。
「それで……もう一つ、聞いてほしいことがあるの」
律の視線を受け止め、私は思い切って口を開いた。
「私、律のことが好き」
声が震えた。
「弟としてじゃなくて、一人の男の人として。ずっと前から好きだった」
律が息を呑んだ。
私は俯きそうになるのを堪えた。
「返事をもらえなくても、結婚は断るつもりだったの。だから、無理に答えなくていい。ただ……何も言わずに律を送り出したら、きっと後悔すると思って」
言葉が途切れた。
律はしばらく動かなかった。
窓の外を車が通り過ぎ、遠ざかっていく。
やがて、彼は両手で顔を覆った。
「……参ったな」
「ご、ごめん。困るよね」
「違うよ」
律が顔を上げた。
耳まで赤くなっていた。
「嬉しいんだ。俺も、ずっと好きだったから」
すぐには意味が理解できなかった。
「……ほんとに?」
「こんなことで嘘つかないよ」
律は小さく笑ったが、すぐに表情を曇らせた。
「でも、言えなかった。俺は父さんたちに家族にしてもらったんだ。その娘を好きになったなんて、どうしても言えなくて」
彼は膝の上で手を組んだ。
「姉さんには許嫁もいるって聞いてたし。だから、家を出れば諦められると思ったんだ」
私は思わず立ち上がり、律の手を取った。
「諦めないで」
自分でも驚くほど強い声だった。
「仕事には行ってほしい。律がずっとやりたかったことだもの。でも、私のことを忘れるために遠くへ行くなら……それは嫌」
律は握られた手を見つめていた。
彼の指先は温かい。それなのに、いつまでたっても握り返してこない。
「……姉さん」
「うん」
「父さんたち、驚くと思うよ」
「分かってる」
「俺たち、ずっと家族だったんだよ」
律の声がかすかに震えた。
私は彼の前に膝をつき、目を合わせた。
「家族じゃなくなりたいわけじゃないの。お父さんもお母さんも大好きだし、律が大切な弟だったことも変わらない」
そこで一度、息を吸う。
「でも、これからは恋人として、律の隣にいたい」
律は黙って私を見つめた。
「……律は、どうしたい?」
すぐには返事がなかった。
やがて、彼の指がゆっくり動き、私の手を握り返した。
「俺も、紗季と付き合いたい」
名前を呼ばれた。
いつもの「姉さん」ではなく、紗季、と。
それだけで胸がいっぱいになり、私は顔を伏せた。律が繋いだ手をそっと引くので、立ち上がって隣に座る。
肩が触れるほど近くにいるのに、どちらも何を話せばいいのか分からなかった。
先に口を開いたのは律だった。
「でも、仕事は向こうで始めるよ」
「うん。分かってる」
「しばらく遠距離になるけど」
「……寂しいとは思う」
律が私を見る。
私はその手を握ったまま、小さく笑った。
「でも、もう諦めなくていいんでしょ?」
「うん」
律も笑った。
「もう諦めない」
翌日、私たちは両親に交際を報告することにした。
◇
夕食を終えたあと、私は律と並んで両親の前に座った。
「二人とも、どうしたの?」
母が不思議そうに尋ねる。父も新聞を畳み、こちらに向き直った。
私は隣の律と目を合わせ、意を決した。
「あのね、お父さん、お母さん。私たち、付き合うことになったの」
母が目を丸くした。
父は言葉の意味を確かめるように、私と律を交互に見た。
「……恋人として、か?」
「うん」
律が背筋を伸ばす。
「驚かせてごめん。でも、俺は紗季のことが好きなんだ。姉としてじゃなくて」
しばらく沈黙が続いた。
父は律を見つめ、それから私へ視線を戻した。
「二人とも、よく考えて決めたんだな?」
私たちが頷くと、父は深く息を吐いた。
「正直、驚いたよ。ずっと姉弟として育ってきた二人だからな」
父の視線が、再び律へ向いた。
「律、お前は私たちに遠慮していないか?」
「……はい?」
「家族として育ったから、という理由で、何かを我慢しているんじゃないかと思ってね」
律は少し驚いたようだった。
それから、はっきりと首を振った。
「違うよ。俺が紗季を好きなんだ。俺が決めた」
父は頷いた。
「そうか。なら、二人の気持ちを大切にしなさい」
母も、ようやく表情を和らげた。
「おめでとう、二人とも」
胸の奥が熱くなった。
母は目を細め、父も嬉しそうに笑っている。
先週の従姉妹の結婚式で見た、あの笑顔だった。
「……ありがとう」
私が頭を下げると、隣で律も礼を言った。
これほどほっとしたのは初めてだった。
けれど、まだ両親に伝えなければならないことが残っている。
「あのね、お父さん。もう一つお願いがあるの」
「何だい?」
私は律の手をそっと握り、顔を上げた。
「私、昔からの許嫁の人とは結婚できません」
父の表情が止まった。
母も、きょとんとしている。
「ごめんなさい。お父さんたちの大切な約束だってことは分かってるの。でも、私には律がいるから」
「……ちょっと待ちなさい」
父が片手を上げた。
「お前、許嫁の話を知っていたのか?」
「え?」
「いつから?」
「小さい頃。お父さんとお母さんが話してたのを、偶然聞いちゃって……」
両親が顔を見合わせた。
予想していた反応と違う。
怒られると思っていたのに、二人とも戸惑っているようだった。
「紗季。その許嫁が誰なのか、知っているのか?」
「……知らないけど」
父はしばらく私を見つめ、それから律へ視線を移した。
「昔、結婚の約束をした相手は、律なんだが」
…………。
「……え?」
思わず聞き返した。
隣で律まで固まっている。
「……俺?」
「ああ。お前だよ」
「俺が、姉さんの許嫁?」
「ずいぶん昔の話だけどな」
父は、ようやく事情を察したらしい。
律の両親とは親しい友人で、私たちが小さかった頃、将来二人が望むなら結婚させようと話したことがあったという。
けれど、事故で律の両親が亡くなり、彼を引き取ることになった。
「そのとき、昔の約束はもう気にしないことにしたんだ。律に、育ててもらった恩があるから結婚しなきゃいけない、なんて思わせたくなかったからね」
母も困ったように笑った。
「まさか紗季が知っていて、今まで気にしていたなんて……」
私は言葉を失った。
ずっと義務だと思っていた約束は、とっくに白紙になっていた。
しかも、顔も知らないと思っていた相手が、十年間一緒に暮らしてきた律だったなんて。
律も呆然としていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……俺たち、ずっと何やってたんだろうな」
その一言で、とうとう笑ってしまった。
「……ほんとにね」
笑いながら、少しだけ涙が出た。
律も笑っていた。父は申し訳なさそうにしていたけれど、私が首を振ると、ほっとしたように息を吐いた。
しばらくして、律が私の方を向いた。
「……ねえ、紗季」
「なに?」
「俺、さっき結婚を断られたことになるのかな」
いたずらっぽい笑顔だった。
「もう! そういう意味じゃないってば!」
「だって、許嫁とは結婚しないって言ってたから」
「知らない人と結婚するのが嫌だっただけで……律と結婚したくないわけじゃないもの!」
言い切ってから、両親の前だったことを思い出した。
頬が熱くなる。慌てて口を閉じると、律の笑顔も少しずつ変わっていった。
「……そっか」
彼は、繋いでいた私の手を両手で包んだ。
「じゃあ、いつかちゃんと、俺から申し込むよ」
律がまっすぐ私を見つめる。
「昔の約束なんて関係ない。俺が紗季と結婚したいから」
冗談を言っていたときとは違う、真剣な声だった。
私はすぐに返事ができなかった。
この人と結婚できたら。
何度も夢見て、そのたびに諦めてきたことを、今、律が自分の言葉で約束してくれている。
「……うん。待ってる」
ようやく答えると、律は照れたように笑った。
私も笑い返す。
先週、従姉妹の結婚式で、いつか自分が花嫁になる日のことを考えた。
あのときは想像できなかった。
私の隣で笑っている、花婿の顔までは。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ずっと好きだった人が、実は昔から決められていた許嫁だった。
そんな少し不器用な二人の恋を、楽しんでいただけたなら嬉しいです。
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また次の物語でお会いしましょう。
澄野 朔




