祖父母の家
父は今も、その家に住み続けている。
「ただいまーー!」
玄関の引き戸を足で開け、両手に荷物を抱えたまま大声で家の中に叫んだ。駐車場からここまで、ほんの数分歩いただけなのに肩にはうっすらと雪が積もり、手はかじかんで段ボールを取り落としそうだ。
わたしの放った声に、パタパタと奥から駆け寄ってくる足音がする。玄関を開けてすぐ、障子。祖父母の家は玄関が二重扉になっていて、それは寒い地域の生活の知恵なのだそうだ。
上がり框と土間を仕切る障子戸をスラリと開けた祖母は、満面の笑みで大きく何度か頷いた。
「あらあらあら……あんた、寒かったでしょう。なんだいその大荷物は。とにかく上がりなさい」
しばらくぶりに会う父方の祖母は、もうずっとお辞儀をするような姿勢で歩いている。高校生の自分からすれば辛そうな格好だが、多くのお年寄りがそうであるように、祖母の背中はもう真っ直ぐには戻らない。
足取りも若干不安ではあったが、祖母は以前と同じようにしっかりと三角巾を着け、割烹着を着込み、わたしたちのために大量の料理を仕込んでいる最中。その正月は、親戚一同がこの家に集まることになっていた。
祖父が認知症になり、一昨年の冬から入院していた。病気の症状からか幼児退行してしまった祖父は、初期こそわがままを言ったり困らせることもあったが、今はそんなこともない。そして、もう祖母以外の人間のことは誰が誰なのか区別がつかない。そんな中、みんなが時間を作って集まろうという話になったのだそうだ。今になって思えば、大人同士で今後のいろいろな相談があったのかもしれない。
軽く雪を払い、段ボールを玄関に投げ出すように置いて、わたしは脱いだ靴をきれいにそろえた。祖母が後ろから早くストーブにあたれと急かしながら台所に戻っていく。
少し遅れてまた玄関が開き、父、母と弟がガヤガヤと家に入ってくる。祖母はまた台所から飛び出て行って、よく来たよく来たと声を弾ませた。
玄関を入って右手に、ストーブと炬燵とテレビの部屋。そして炬燵の特等席の座椅子に祖父が座って舟を漕いでいる。隣まで行って手を握り、起こさないくらいの音量でただいまを言った。
祖父は寝ぼけ眼でにっこりと笑って、急須を手に取る。
「ああいいよ、じいちゃん。わたしがやるから」
慌てて制止し、ふとテレビを見た。画面中央に太い白線が走り、全体的に濃い黄色がかっている。昼間のバラエティ番組が流れているが、画面が明らかに壊れていた。
「なにこれ、壊れてるじゃん」
わたしが呆気に取られていると、後から入ってきた弟が大袈裟な声を上げた。続いて入ってきた父と母も「うわ」とつぶやく。
「ああそれね、もう目が悪くて画面なんて見てないから、壊れたままにしてあんだ。音だけ聴こえればいいんだから」
「いやそういう問題じゃないでしょ……。これ、危なくないの?」
聴こえればいいとは言っても、四隅が黒ずんだ画面がたまに乱れて、それに合わせ雑音も入っている。
「いいわけないだろ……。仕方ない、買いに行くか」
父が脱ぎかけたダウンを着直して、弟に上着を着るように言う。弟は渋い顔をしたものの、このテレビで年末特番を見る気にはならなかったのだろう。今と違ってインターネットなど無かった時代。しんしんと雪の降る田舎の一軒家で、唯一の娯楽がこの有様では年末年始に時間を持て余すどころではない。
ふたつ隣の町まで行けば、家電量販店がある。時間はまだ昼過ぎくらいだったから、今から行けばまだじゅうぶん間に合うはずだ。
二人が出て行ってほどなく、台所を手伝っていた母がエプロンを外して炬燵に座った。わたしが淹れたお茶を一口飲んで、すぐ立ち上がる。
「美代、お母さん今からばあちゃんと買い物行ってくるわ」
「ごめんなさいねぇ優子さん、まだ奥の棚にあったと思ったんだけど、なにせ慣れないから……」
そんなやり取りをして、母たちも慌ただしく出て行ってしまった。
静かな家の中、ストーブの微かなカンカンと鳴る音と、たまに雑音の混じるテレビの音が途切れることなく流れている。
祖父は座椅子に深く沈み込んで、静かに寝息を立て始めていた。
この家で従弟に会うのは、いつ以来だったか。確か小学6年生の時には会った記憶がある。その時も泊まりだったので、子供たちみんなで枕投げをしていた。そして、わたしが投げた蕎麦殻の枕を至近距離で受けた従弟が、あろうことか前歯を折ってしまい大騒ぎになった。
それからなんとなく来づらくなり、お互い学校や部活も忙しくなって、顔を合わせる回数は減っていった。彼は気にしていないと言っていたが、わたしはずっと申し訳ない思いを抱え続けている。
伯父一家はまだだろうか。あまり従弟に会いたくはないけれど、全員集まるなら会うことになる。気まずいが、うまく取り繕えるだろうか。
そわそわした気持ちで居間を出て、台所を右手に見ながら仏間の襖を開けた。
座布団に座り、立派な仏壇を見上げる。この家の仏壇には、いつ来てもきれいな花と祖父母二人では食べきれないほどのお菓子が供えてあった。毎朝手入れされたそこには、上段に3柱の御位牌、中段に小さな白い壷が置いてある。その壷は、わたしが初めてこの家に来た時からずっとそこに置かれていて、中に何が入っているのかは知らない。蓋も含めて10センチに満たない、小さなまるい壷。母方の祖母の家にあった似たような壷には、使用済みのマッチを入れていた。ただ、ゴミ入れの場所としては、あまりに中央に鎮座しすぎている。
一瞬、中を見てみようかと少し腰を浮かせたが、罰当たりなのですぐに座り直す。きっとわたしの知らない仏具なのだろう。ロウソクに火を点け線香をあげ、小さくおりんを鳴らし、手を合わせた。
心の中でお久しぶりですと挨拶をして閉じていた目を開ける。立ち上がろうと片手をついたときに、玄関の方から「カタ」と乾いた物音がした。
伯父一家が着いたのかと振り向いたが、誰かが来た気配はない。もう一度音が鳴った。わたしが運んできた、あの大荷物からだった。
カタ、カタ。
障子戸越しに和らげられた明かりが差し込む玄関。戸はピタリと閉じられており、隙間風もない。そこにぼんやりと影を落とす少し濡れた段ボールの中から、立て続けに音がする。揺れたりはしていない。動くようなものは入っていない。なにか音がするものが入っていたか?と立ち上がって荷物に近付いた。運んできたときは、少しの野菜と、花梨を砂糖で漬け込んだ密閉瓶、手土産の饅頭と途中のコンビニで買ったお菓子、そして母が趣味で作ったピエロの人形が2体入っていた。
箱をのぞいたが、荷物に変化はない。途端に音がピタリと止んだので、わたしは興味を失った。玄関の障子戸に触れてきちんと閉まっていることを確認し、踵を返し仏間を抜けた先のトイレに向かう。開けた縁側の窓から見える景色は一面灰色の空で、まるで空に浮かんでいるような気分になった。
この家は、見晴らしの良い崖の上に建っていた。家の裏手の坂を下った先には立派な中学校があり、夏休みなどは部活動にいそしむ子供たちの元気な声が響いている。
ただ、ここは老人二人で住むにはあまりに広い。玄関入って正面に台所、右手側はテレビの部屋。その奥に応接間として使われていた洋室が一つ。左手側の8畳の仏間を抜けた先にも8畳の部屋が一つ。広い縁側もあるし、庭も畑もある。
祖父母には息子が2人。伯父と、わたしの父だ。家族4人が住むにしてもまだ広いと思う。戦後すぐに建てたにしては、田舎とはいえとても贅沢な間取り。
祖父が入院している間は祖母がひとりでこの家に住んでいる。それを心配してか、ご近所さんが気を利かせて交代でお茶を飲みに来てくれているそうだ。
それもこれも役場で真面目に定年まで勤め上げた祖父の人柄によるものだと、わたしは祖母から何度も聞かされていた。祖父は町の人に顔が利き、とても慕われていたという。
用を足し終えてトイレの扉を閉めると、狭い廊下を挟んだ真向かいに異様な光景があった。たくさんの服が床から天井まで積みあがり、そこに紫の風呂敷が目隠しのようにかけられている。微かな記憶を掘り返してみても、そこは壁ではない。扉があったはずだ。扉の先には幅1メートルほどの通路があって、そこは簡易的な物置として季節の家電などを押し込んであり、幼いわたしたちにとってかくれんぼの定番の隠れ場所だった。その物置兼通路は、床の間と仏壇の裏を抜けるようにして台所まで続いている。
「これじゃまるで、塞いでいるような……」
疑問に思い、台所の側から見てみることにした。さっき祖母が言っていた「奥の棚」は、この通路にある棚のはずだから、向こう側からならどうなっているかわかると思った。
お出汁のいい香りが漂う台所に回り込み、通路があるはずの場所に目を向けるが、ない。大きめの年季の入った食器棚が、通路をきれいに塞いでいた。はじめてこの家に来た人が見たら、まるでその先には何もないように感じるだろう。
昔の家がすべてそうなのか知らないが、この家の天井は低かった。だから、食器棚と天井の間には少しの隙間しかない。そこに使っていない鍋や茶器の箱が嵌め込まれている。
「そうまでして隠そうとする何かがあるの?」
訝しく思ったわたしは、応接間から椅子を運んできて食器棚の前に据える。椅子に乗って少し背伸びして、荷物の隙間から向こう側をのぞき込もうとしたが、できなかった。
夥しい量の荷物が、食器棚の裏に詰め込まれている。通路があった部分の天井板も外されて、その隙間にもタオルだとか古新聞だとか、ぬいぐるみだとか……とにかくぎっしりと詰め込まれている。
昔はこんなことは無かった。かくれんぼで子供が入り込める程度には片付けられていたし、当然通り抜けることも可能だった。
訳が分からないまま椅子から降りると、玄関の方に外から足音が近づいてくるのに気が付く。
がらりと玄関が開いて、障子戸の向こうに大柄な人影がぼんやり浮かんだ。
「おふくろさーん」
伯父の声だった。
わたしは玄関に駆け寄り、障子戸を開けた。
「おいさん!お久しぶりです」
「おぉ美代、久しぶり。みんなは?」
「じいちゃんがいるよ。みんなは買い物に行ってる」
わたしの言葉に、伯父は「そうか、そうだな」と言って笑った。
伯父は子供たちの前での一人称が「おいさん」だったので、わたしと弟も「おいさん」と呼んでいた。物静かな父とは違い、明るくて冗談を言うのが好きで、子供とよく遊んでくれる人だった。
「あれ、ケンちゃんは?」
従弟が続いて現れないので訊くと、伯父は帽子を玄関に放って笑った。
「今日はあっちに泊まるんだ。明日迎えに行ってくるよ」
伯父の家は少し複雑そうだった。詳しく聞いたことはないが、伯父は伯母の実家との折り合いがあまり良くないらしい。伯母の家は隣町にあり、伯父はその家の敷居を跨ぐことはないそうだ。
いつものことなので、そっかーと気のない返事を返しつつも従弟がいないことに少し安堵していた。一緒にいる時間は少ない方が良い。その方が気が楽だ。
伯父は上がってすぐに仏間に向かい、線香をあげて手を合わせている。わたしは台所から椅子を片付け、伯父にお茶を淹れようと炬燵の部屋に戻った。
テレビがいつの間にか消えていた。祖父が一度起きて消したのだろう。
「この家はどこも寒いなあ」
手を擦り合わせながら伯父が部屋に入ってきた。テレビのリモコンを手に取り、座布団を引き寄せる。
「あ」
わたしが止める間もなく、伯父が電源を入れた。ぶぶづづづっ、と不快な音を立ててテレビが点き、相変わらず濃い黄色の画面が映し出される。
「なんかね、ずっと壊れてんだって。だからお父さんたちが新しいの買いに行った」
お茶を差し出しながら言うと、伯父はすぐに電源を切った。伯父はあまり見せたことのない、険しい顔をしている。
「おいさん?」
顔をのぞき込むと、伯父はすぐやわらかい表情に戻った。
「あーいや。うん、全員で?」
「ううん、お父さんとタカで買いに行った。お母さんとばあちゃんはスーパー」
「……そうか。じゃあまぁ、テレビはしばらくお預けだな」
そう言って伯父は少しの間天井を見上げて、よっせと立ち上がった。
「ちょっと行ってくるわ」
「え、どこに」
言いながら玄関まで追いかけていくと、伯父は帽子をかぶり直して靴ベラを手に取った。
「ごめん、お茶ありがとうな。後で飲むから置いといて」
伯父はさっさと靴を履き、靴ベラをバトンのようにくるりと回す。その先端が、段ボールを指して止まった。
「あとこれ、応接間に移動しときな」
流れるような動きでそのまま伯父は玄関を出て行った。吹き込んできた雪の一片が、心なしか先ほどより大きくなっているように感じる。積もるのかなあ、とつぶやいて、わたしは段ボールを応接間に運んだ。
しばらくして、スーパーから母と祖母が、さらに経ってテレビを抱えた父と弟が帰って来た。
新品のテレビを箱から引っ張り出して取説と配線を矯めつ眇めつしていた父が、思い出したようにわたしの方を見た。
「駐車場に車があったけど、兄貴は?」
わたしはその言葉に目を丸くした。出掛けると言っていた。どこに行くかは聞いていない。けれど、この雪の中を車無しでどこに行くというのか。
「わかんない……どっか行くって出てっちゃった……」
「この後まだ降りそうだからなあ、すぐ戻るかな」
父は配線に目を戻す。そんなに複雑そうには見えないのに、新しいテレビは一向に点かなかった。
せっかく買ってきたテレビをいったん諦め、父と弟とわたしの3人は夕食のためのセッティングを黙々と手伝っていた。7人が囲んでもまだ余裕のある大きな座卓には、ほどなくして祖母の得意料理の数々と、魚屋で予約していた大きな刺し盛りが乗って、いつでも食事が始められるように整えられた。
弟が唐揚げの前に陣取って、きちんと正座をしている。時計の針は、そろそろ夕方6時を指すところだった。
「おいさん、どこまでいったんだろう」
わたしが時計を見上げながらつぶやくのと、雪を踏みしめる音が微かに聞こえるのが同時だった。すぐにガラリと玄関が開いて、障子戸に大きな影が遠慮なくぶち当たる。
祖父以外の全員が驚いて駆け寄り、戸を開ける。土間に転がっているのは、ぐでぐでに酔っ払った伯父だった。
「兄貴どうした」
そういって父が裸足で土間に降り、玄関をぴしゃりと閉めて伯父を担ぎ上げる。伯父は、まるで軟体動物のように上がり框に体半分を引っ掛けられて、そこからは何とか父と弟の二人がかりで家の中に引き摺り上げた。
「藤井のが」
仰向けのまま、酒臭い息とともになんとか伯父が絞り出した言葉に、祖母が呆れ声を上げる。
「藤井さんとこで吞んできたんかい!一番忙しい時期になにしてんだか……迷惑かけるんじゃないよ」
祖母は台所に行って水を汲んでくると、伯父の顔の前に差し出した。伯父は先ほどより小さい声で、置いといて、とつぶやいて眉間にしわを寄せている。
こんなふうに酔いつぶれた大人を見るのはそのときが初めてだったので、わたしは少し恐怖に近い感情で伯父を見ていた。親族で集まって酒を飲むことはよくあったが、全員が「お酒は楽しくほどほどに」を守っていたので、この時の伯父を病人のように心配したことを覚えている。
玄関でひっくり返っている伯父をよそに、わたしたちの食事が始まった。料理はどれも美味しく、弟は体のどこにそんなに入るのかと思うぐらいの刺身と唐揚げをたいらげ、わたしはゼンマイの煮物の器を抱えるようにして食べていた。自宅でこの煮物は作ってもらえないので、好物が食べ放題なのは嬉しかった。
その後、お酒を飲んでいる大人たちの横でわたしと弟はラジオを聴いていた。なにせやることがない。テレビが見られないのでなかなか時間が進まない。
夜のニュースでは雪でどこそこの道路が通行止め、立ち往生が発生しているとか、忠臣蔵の撮影舞台裏の話、明日の天気などが流れていたが、画像ありの世界に慣れ切っているわたしたちにはあまりにも物足りなかった。
ふと玄関を見やると、いつの間にか伯父の姿が無い。親戚の集まりのときにいつも寝室として使っている応接間にいるのかもしれない。置きっぱなしの水のグラスを取り上げて、わたしは応接間に向かった。
予想通り、伯父は応接間の布団の上で大の字になっていた。祖母が気を利かせて先に敷いていたのであろう客用の布団は、花柄のカバーがパリッとかけられている田舎ならではの綿布団。
「おいさん、水」
そう言って枕元に水を置いた。伯父は依然として酒臭く、帰って来た時と表情は変わらない。けれど、応接間の空気に普段と少し違う香りが混ざっている気がした。ほのかに、お線香のような香りが。
「ああ、そこ置いといて」
かすれた声で返事しながら、伯父は脱ぎ捨ててあったジャケットから財布を取り出した。目をつぶったまま、千円札の横から抜いた小さなチャック付きのビニール袋を、わたしに差し出す。
中には茶色の粉が入っていた。見た感じはアップルパイを作るときのシナモンパウダーのようだが、先ほどから香っていたお線香の匂いは、ここからだった。
「なにこれ」
受け取って裏表見てみる。内容物の情報は何も書いていない。
「それは……あー……一年の厄を払うみたいな……お守りみたいなもんだ」
「ふうん」
わたしは袋を振ってみた。粉はほんの少ししか入っていない。
「風呂あがったら、それを首の後ろに少しだけはたいて。ちょっとでいい。タカも」
「ええ?お風呂上りに付けたら匂いが布団に付いちゃうじゃん。怒られないの?」
「おいさんに言われたって言え。……タカにもな」
念押しして伯父は大きく息を吐き、ゆっくり起き上がった。「大丈夫?」と声をかけると、短く「便所」とだけ返って来た。壁に手をつきながら歩く伯父の背中を見送って、わたしは小袋に目を戻す。袋の口を開けて、匂いを嗅いでみた。
この家で使っているのとはすこし違うお線香の香り。詳しくないのでそれ以上のことはわからない。けれど、これを首にかぁ……と思いながらうなじを撫でてみた。血液が多く流れる場所に香りのするものをつけると、体温で香りが立ちやすいと聞いたことがある。厄払いとはいえ、お線香の匂いの女子高生ってどうなんだろう……とも思ったが、せっかくもらったものだし言うとおりにしようとポケットにねじ込んだ。お風呂上り、忘れないようにしなければ。
その晩はいつも通り、仏間の奥の部屋に家族4人分の布団を敷いた。風呂上りに粉を付けるのも忘れなかった。袋から人差し指に少しだけとって、うなじにこすりつける。寝る前に弟にも声をかけたが、臭いから嫌だと一蹴された。
「でも、一年の厄を払うらしいよ」
「いらないよ別に。それの臭いで眠れねえ」
わたしにとってはそこまできつい香りではないけれど、弟はそもそも微香のハンドクリームも嫌がるタイプだった。わたしから漂う香りを嫌がる弟に「臭うからちょっと離れて寝て」とまで言われ、わたしは仕方なく粉のパックを枕元の着替えの間につっこんで母親側の布団に寄った。
翌朝わたしが目覚めたときには、弟は先に起きて明るい縁側でラジオを聴いていた。あくびを噛み殺しながら、雪の積もった庭を見るともなく眺めている。
昨晩の吹雪が嘘のように晴れ渡り、降り注ぐ日光がそこら中を覆いつくした雪に反射して、一斉に窓から飛び込んできている。
「おはよう」
眩しさに目を細め、布団の中から弟に声をかけた。両端の布団の父と母はまだ寝息を立てている。
「おはよ。ねえこれ、なんか変なんだけど……?」
言いながら、弟は手の中のラジオをわたしの方に差し出してきた。小さな音で朝のニュースが流れているが、電波が悪いのか終始ザーーという雑音が入り、その合間に雑音とは違う乾いた音が混ざる。屋根にあたる雨音のような、でももっと乾いたような。どこかで聞いたことはある。でもよくわからない。昨晩はこんな音は入らなかった。
「壊した?」
「いや、朝起きたらこうなってた。目盛りいじってもダメだし……昨日はこんな音しなかったよね」
二人でラジオを見つめていると、母が目を覚ました。
「なんか変な音しない?」
開口一番そう言って母が上体を起こし、目で音の出所を探っている。
「あぁこれ、ラジオがさ」
「違う、なんか壁を」
母が部屋を見渡しながらそう言いかけたのと、家の裏手側からドスンと大きな物音がするのがほぼ同時だった。おそらく昨晩積もった雪が落ちたのだろう。
音に驚いて起きた祖母が「ありゃあ寝過ごした」と慌てて布団を片付ける音がする。母も「しまった」という顔をして、慌ただしく食事の準備が始まろうとしていた。
朝食を終えたわたしと弟は、テレビが点くのを、今か今かと待っていた。炬燵から手を伸ばして障子を開けると、キラキラ光る水滴が屋根から落ち続けている。庭木はどれも真っ白でまんまるなシルエットに変わり、普段の生活では滅多に目にすることのないその光景は、ちょっとした異世界の様だった。
「わからん、何が悪いんだ」
コードを置いて、黙々と説明書を読んでいた父が振り返った。部屋の隅にあった小さな段ボールからみかんを掴んで炬燵に入る。期待が外れて、わたしたちは肩を落とした。
「お父さん、ラジオも壊れたから直して」
弟がテーブルの上にあったラジオを父の方に滑らせる。そっちもか、と父は眉をひそめた。
「兄貴」
テレビの部屋と応接間を仕切る、花柄の模様が入った擦りガラスの戸の奥に父が声をかけると、唸り声のような返事が聞こえた。伯父は機械関係に強かったけれど、今日は当てにできそうもない。
「しょうがない。もう一度電気屋に行ってくるしかないか……」
父の独り言に、さっきとは打って変わって強い口調が隣の部屋から返って来る。
「やめとけ。そっちのテレビだって、俺が盆に買い替えたばっかりだ」
炬燵に居た、祖父以外の全員が応接間を見た。ガラス越しに伯父が布団の上に胡坐をかいている様子がうっすら見える。
「ほぼ新品なんだよ、それ」
「なんだよ、じゃあ落としたかぶつけたか……」
そう言って父がテレビの裏を見ようと手をかける。
「いや、買い替える前と一緒なんだ、壊れ方が」
伯父がゆっくりと立ち上がり、戸を開けて入ってくる。しかめっ面で胃のあたりを片手で押さえていた。
ストーブの上に置いてあったやかんからお湯を湯のみに移して、伯父も炬燵に入った。片手に持った携帯をポチポチいじり、父に画面を見せて寄越す。
「盆に撮った写真だよ。電気屋に見せて原因を聞こうと思ったが、結局なにもわからなかった」
首を伸ばして弟越しに覗き込むと、わたしたちが見た黄色の画面とほぼ同じものがそこに写っている。
「うーん、じゃあアンテナか?」
父は携帯を伯父に返し、みかんを揉み始めた。さぁな、と伯父は携帯を折りたたむ。
「設置して帰って、しばらくしたらきれいに映るようになったってんで、なら良かったと思って放っておいたんだ。それが、昨日来てみたらまたおかしくなってやがった」
そこまで言って、伯父は弟の方を見た。
「タカ、ラジオ見せてみろ」
弟は父の前にあったラジオを掴んで、炬燵を出て伯父の横に座る。手渡そうとすると、伯父に首根っこを掴んで引き寄せられた。弟は「うわっ」と小さく声を上げ、体をよじって逃げようとする。
「やめて、放して!」
仏頂面になった弟から手を放し、伯父は少し天井を見上げてため息をつく。
わたしが何か言う前に伯父が「油断しただろ」とふざけた調子で笑って、受け取ったラジオをひっくり返して、電源も入れずに「これは寿命」とテーブルに置く。昨日は普通に聴けていたのに。
「テレビは、年が明けたら俺がまた電気屋に聞きに行ってみるよ。お前らはすぐに帰らなきゃならないんだろ」
わたしの家は喫茶店をしていたので、毎年元日には帰ることになっていた。2日から仕込みをして3日には店を開ける。正月で家に居場所がない近所のおじさんたちが、今か今かと店が開くのを待っているのだ。
「えーっ!?今日もテレビ見れないの!?」
弟が大きな声を上げると、伯父はあっけらかんとして言った。
「お前らは優子さんのとこに行けばいいじゃんか」
その言葉に、一瞬ポカンとした弟の顔がみるみる明るくなる。
母の実家はここから集落を一つ越えた先にある。山裾に寄り添うようにして建つ、大きな木材加工場。わたしたちは毎年、大晦日は父の実家で過ごして、年が明けたら母の実家に挨拶をして帰ることになっていた。伯父は、母の実家に泊まれと言っているのだ。
「あちらさんにも孝行しないと。きっと近津のばあちゃんも喜ぶだろ」
弟はいそいそとバッグにものを詰め始め、母に「おかーさーん!近津に行くってさー!」と高らかに宣言した。なんの事情も知らない母が素っ頓狂な声を上げ、慌てて台所から飛び出してくる。
伯父が手短に事情を説明し、途中から話を聞いていた祖母も「毎年こっちだしね。お母さんによろしくね」と笑顔で承諾してくれた。ただし、父はこちらに残るらしい。
母が電話を借りて実家に連絡すると、受話器越しにテンションの高い祖母の声が聞こえた。どうやら大歓迎らしい。一昨年、最愛の祖父を亡くしてから、祖母は毎年一人で年越しをしていた。今年もそうなると思って特に何の準備もしていなかったので、今から大忙しになると言って一方的に電話を切られたと母が嬉しそうに受話器を置く。母には妹と弟がいたが、叔母さんのところは毎年仕事が休めず帰って来られない、叔父さんのところとは何故かほとんど接点がなかった。
昼前になって、母が父と弟を買い出しに誘っていた。お菓子を買ってもらうと喜んでいる弟を横に、わたしも行こうかと申し出たが、それを制したのは伯父だった。
「美代は、おいさんと藤井のとこに付き合ってくれ」
藤井さんという人をわたしは知らなかった。そもそも、この辺では誰かを呼ぶときに名字ではなく、住んでいる場所か屋号で呼ぶことが多い。藤井という店も地名も聞いたことはなかったし、知らない人の家に行って黙って座っているのは苦痛だった。
「昨日お酒飲んできたところでしょ?なんでわたしが……」
不満を隠さず口にすると、伯父は自分のうなじに手を当ててわたしを笑顔で見返した。約束を守らなかったわたしを責めているのだ。わたしは短く息を吐いて「わかった」というしかなかった。
わたしと伯父だけ早めの昼食を済ませ、たっぷり雪の残る道路を踏みしめながら歩く。伯父が長靴で先行して膝下まで積もった雪を掻き分けながら進んでくれるので、わたしは比較的歩きやすい。大晦日の昼間だが、限界集落一歩手前のこの町で、ろくに雪かきもされない道を歩く酔狂な人間は少なかった。たまに通る車が、しゃばしゃばになった雪と泥を元気に跳ね上げていく。
「おいさん、藤井さん家ってどのへん?」
「美代も行ったことあるだろ」
わたしが忘れているだけだろうか、まったく記憶にない。この町の中で自分と関わったことがある人はそう多くないと思うのだが。
転ばないように慎重に歩いたせいもあって、普段なら15分ぐらいの道のりを1.5倍くらいの時間をかけて進んだ。足元ばかり見ていたわたしに、突然立ち止まった伯父が「あそこ」と前方を顎でしゃくった。見えてきたのは二段構えの大きくて真っ黒な山門。広い駐車場と足の悪い祖母が居るので歩いて来たことはなかったが、何度も来ているお寺がこんな近くにあったなんて。
「え、藤井さんって」
「そう、いつも墓参りに来てるだろ」
お寺になんて何の用事だろう、と考えると同時に、わたしは自分のうなじに手を当てた。昨日の粉は、もしかしてここで貰って来たものなのか?
「昨日、タカに粉を塗らなかったろう」
伯父は前を見て歩きながら独り言のように言った。
「ごめんなさい。臭いを嫌がったから、できなかった」
「それはまあいいよ、仕方ない。でも、お前もタカも、もうあの家にあまり近付かない方が良い」
声のトーンが落ちた気がした。いつもの伯父の歯切れの良さも快活さも無い、静かな、言い聞かせるような話し方だった。
「どういう……」
言いかけた時、山門の前に誰かが立っていることに気が付いた。伯父が軽く手を挙げて挨拶をしたので、わたしも会釈する。ダウンジャケットにジーパンのその男性が「お待ちしておりました」と伯父に頭を下げた。
「寺務所でお待ちです」
年の頃は20代前半、スラッとした高身長の男性が、きれいに雪かきされた境内を先行して歩いていく。伯父がそれに続きながら「忙しいところ何度もすまんね」と声をかけた。
「とんでもない。これはみんなの責任ですから」
男性は少しだけ振り返って、こちらに笑顔を向けた。わたしはその意図がわからず、咄嗟にうつむいてしまう。この人が藤井さんなんだろうか。でもこの人は案内役っぽいから、事務所?にいるのが藤井さんなのか。伯父は何の説明もなくスタスタと歩いていく。
ほどなく見えてきた瓦屋根の平屋の玄関で、わたしたちは靴の雪を軽く落とした。伯父がインターホンを押すと、引き戸の向こうに人影が現れる。男性はそれを確認して「ごゆっくり」と一礼すると来た道を戻っていってしまった。
カラカラと軽い音がして引き戸が開く。恰幅の良い50代程の中年男性が姿を現した。伯父より少し年上だろうか。
「やあ。昨日は親父がすまなかったね」
人懐こい笑みを浮かべながら、わたしたちを寺務所に招き入れる。コンクリートを打ちっぱなしの広い土間には縦長の大きな石油ストーブが赤々と燃え、すっかり冷たくなった耳や頬がジワリと温められていくのを感じた。
「いやいや、忙しい所に押しかけて無理を言ったのはこっちだから」
「それで、あなたが姪っ子さんか」
帽子を取った伯父の横をするりと抜け、その男性が少し前屈みになってわたしと目線を合わせる。
「はじめまして。リンゴジュースとオレンジジュースどっちがいい?」
それがまるで小さい子にするのと同じだったので、無意識に一歩後ずさった。わたしは身長こそ低いものの年齢的には17歳だし、そんな扱いを受けるほど童顔でもなかった。
「はじめ、まして」
咄嗟に言い淀んだ挨拶を取り繕えず、わたしは助けを求めるように伯父を見上げた。
「なんだ、大丈夫そうじゃないか」
目の前の男性はスッと背筋を伸ばすと、わたしに「怖がらせてすまないね」と謝った。
「この子は美代」そう言って伯父はわたしの肩に手を置いた。
「美代、この人が藤井さんだ。それでな藤井、問題は甥っ子の方だ」
目に飛び込んできたのはつやつやに黒光りする応接セット。わたしたちは土間から壁一枚隔てた応接室に通され、そこで少し待つように言われた。わたしは張りのあるソファに所在なく座り、隣に腰かけた伯父は煙草を取り出して机に置いた。習慣で取り出したものの、わたしが横に座っているから吸うのは辞めたのだろう。机の上には大きなガラスの灰皿が乗っている。
大きな窓にはブラインドがかかり、今は全開になっている。射してくる光の帯が室内に舞っている埃をキラキラと浮き上がらせ、いっそ幻想的ですらあった。二重窓の向こうに立派な椿の垣根が見える。深緑で肉厚の葉に、目が覚めるような赤い花。それらに覆いかぶさった真っ白い雪とのコントラストはまるで一枚の絵画の様だ。陽に照らされた雪が時折音もなくこぼれ、垣根の陰に小さな山の連なりを作っている。
程なく引き戸が開き、藤井さんが戻ってきた。お盆にお茶を三つと、わたしのお弁当箱よりも少し小さいぐらいの木の箱を乗せている。「おまたせ、おまたせ」と言ってお茶を配り、テーブルの真ん中にあった灰皿を退けると、木の箱をその位置に据えた。ふわりとお線香の香りがする。わたしが受け取った、あの粉と同じ香りだった。
「ありがとう、手間をかけるね」
そう言って伯父は箱のふたをゆっくりと持ち上げる。ソファから乗り出して覗き込むと、中には小さく砕かれた何種類かの木の欠片が、お茶碗一杯分ほど入っていた。粉ではない。
「ご焼香の……?」
わたしが伯父の方を見ると、伯父は「そう」と言いながら木片を少しつまんで鼻先に近付けた。
「これだけあれば、しばらく大丈夫だろう」
その様を見ながら藤井さんが柔らかく微笑んで、対面の一人掛けのソファに深く腰を下ろした。伯父は箱の中に丁寧に焼香を戻し、満足気にふたを閉める。
「さて、それじゃあ弟さんの話か」
藤井さんがわたしの方に身を乗り出して口を開く。わたしは全く何の話なのかわからず、困惑して伯父を見た。伯父は天井を眺めて何か考えているようだった。
「あの、弟がなにか……良くないんでしょうか」
伯父が助けてくれないので、わたしは仕方なくそう返す。問題とは何のことだろう。病気なら病院だろうし、お寺に来た意味がわからない。当人じゃなく、わたしが連れてこられた意味もわからない。
「なんだ、何も話してないのか」
「今までその必要が無かったからだよ。これからも無ければ、それでよかったんだ」
軽いため息とともに、伯父は「知らなくていいなら、その方がいい」とつぶやいた。
「あの家はなんていうか、よくないんだ」
そう切り出して、伯父と藤井さんの昔話が始まった。
第二次世界大戦末期。ここ白川郡にも、学童疎開で街の方から子供たちが流れ込んできた。街よりは多少攻撃の頻度は少なく、警報が鳴り響く中であっても、人々はなんとか綱渡りの状態で生活を保っていた。
野菜や米作りはしていたものの、全国的な食糧不足のなか政府によって厳しい供出を強いられ、自分たちが明日食う分があるかないかという有様。疎開してきた子供たちを哀れに思っても、他所様を養ってやれるほどの余裕はどの家庭にもない。
役場は食料調達から生活の場所、物資の確保に奔走する。しかしどうやったって全員に手を差し伸べてやるには全く数が足りない。かぼちゃ、トウモロコシ、少しの芋。そのいずれかが1日1食出れば豪勢な方だった。子供たちの多くは寺に寝泊まりし、比較的幼い子たちは役場の一角で生活していた。
もともと栄養状態が良くなかったところを親と引き離され、不安を抱えたまま過ごすことで食事がのどを通らなくなる子も少なくなかった。一人死に、二人死に。餓死で亡くなる子たちの横で、いつしか伝染病が出始め、それはあっという間に寺の子供たちの間に広まった。
そしてついに、町の農家の娘が感染して亡くなってしまう。その娘は疎開してきた子供たちのために、家から食べ物を運び、勉強を教えてやっていた。心優しく、みんなに慕われていた。それなのに。
娘の祖母と母は悲しみに暮れ、家に閉じこもるようになった。
少し経った頃、死んだ娘の母親が寺に現れた。悪鬼のような形相で、母親は寺に火を放った。お前たちが来たから。お前たちが病気を運んだから。そう呪詛の言葉を吐いて、母親も火に巻かれ亡くなった。彼女の家には、娘と同じ病気で亡くなったと思しき祖母の骸が布団に包まれ残されていた。
病気で逃げられず焼け死んだ子、やけどを負って動けない子、難を逃れたが心に深い傷を負った子。半分焼け落ちた寺は、阿鼻叫喚の一夜が明け、不自然なほど静まり返っていた。
消火に駆けつけてくれた町民たちも、何も言わず帰っていった。その日から役場には、子供たちを町から追い出すようにと匿名での投書がいくつも届くようになった。しかし、彼らに帰る場所はない。戦争が終われば帰ることができるかもしれないが、それは今ではない。
十分な薬もなく、やけどをした子が衰弱して死んでいくのをただ待っているしかなかった。爛れた傷口が膿んだり腐ったりしてひどい臭いがしたけれど、伝染病を怖がって誰も面倒を見る者がいなかった。
生き残った、感染していない子供ら数名が役場の方に移った。しかし依然として食事は足りず、やせ細り、陰で食事を奪い合い、弱いものから死んでいく。
寺には小さなご遺体が次々に運び込まれ、火葬が追い付かない。住職と役場で話し合った結果、境内に穴を掘って集団埋葬をすることに決まった。しかし、それを聞きつけた町民たちが寺に怒鳴り込んで来る事態になった。自分たちが入る墓の近くに、疫病神を埋めるなという。信じられない思いで、しかしなんとか町民をなだめ、住職と役場は再度協議を行った。
結果、見晴らしの良い崖の上の空き地に、子供たちを埋めることになった。
わたしは膝の上で固く組んだ両手を見つめながら、出来るだけ深く呼吸をしようと努める。その様子に気付いてか、伯父がわたしの背を軽くさすった。
「お茶でも飲んで」
藤井さんも心配そうに声をかけてくれる。今まで聞いたどんな戦争の話よりも、重く、深く、心をえぐられる。話に出てくるお寺はきっとここだ。だとすれば、役場で奔走したというのは。
「急に色々聞かされて怖かったよね」
「あの……はい……。驚きました」
組んでいた手をほどくと、力を籠め過ぎたのかこわばって震えている。大きくひとつ息を吐いて、わたしは姿勢を正した。
「でも、なんで……そこに家を建てたんですか」
からからに渇いた喉でなんとか絞り出したそれは、自分でも驚くほど感情の死んだ声だった。
藤井さんは「うん……」と言ってうつむいた。そして、問いに答えたのは伯父の方だった。
「あの家は、蓋なんだよ」
学童疎開で亡くなった子供たちについては、町の医師が死亡診断書を書き、役場が死亡届を提出する。そして引率の教師が親宛てに電報を打ち死亡を伝えるのだが、親が死んでいて遺骨を引き取りに来られないケースも珍しくなかった。
しかし今回は一部が放火で死亡している。町長と教師はいずれも責任を問われることを恐れ、町民を集め話し合い、事件ごと隠ぺいすることを決めた。
「子供たちの間で伝染病が流行り始めたので、大きな病院のある町に全員移動させた。その先のことはわからない、そういうことにした」
死亡届は全て燃やされた。子供たちをまとめて埋葬した空き地には、しばらく大きな石が置かれていた。そして事情を知る者だけが時折供養に訪れていたが、万が一の事態を恐れた町長によって、戦後すぐに埋葬地の真上に家が建てられた。事件当時、子供たちの面倒を見ていた役所勤めの若者に永代供養を言いつけ、その家があてがわれた。
「そんな……ひどい」
涙で藤井さんの顔が歪む。わたしの目からぽろぽろと、大粒の涙がこぼれていく。子供たちが哀れだった。戦火から逃れた先でひどい目に逢い、つらい思いをしながら死んでいった子供たち。お腹が空いていただろう。どんなにか親に会いたかったことだろう。わずかな希望を願った地で、己の命がただ潰えることをどれだけ無念に思ったことだろう。
震える指と手の甲の上を、涙が滑り落ちて膝に落ちた。
「ものがよく壊れる家だな、とは思ってた。それと、しょっちゅう知らない人が来てうちの仏壇を拝んでいくのも、他所の家ではあまりないことだと、人づきあいが広がってから知った」
伯父は努めて落ち着いた口調で話を続ける。子供たちのために尽力し、命令に背けなかった祖父に対するやり場のない気持ちが、わたしの中でもマーブル模様を描くように広がっていた。実子である伯父の心境はいかばかりか、想像もつかない。
「親父は何も悪くない。できればまぁ……話せるうちに説明はしてほしかったかな」
続いて藤井さんが口を開く。
「わたしは、父が定期的にお経をあげに行ったり、線香やら焼香やらを取りに来てもらっているのを知っていた。これも、もう少し早く渡さなければいけなかったんだ」
そう言ってテーブルの上の木箱を軽くなでる。
「わたしは亡くなった方を感じる力はないけれど、もしも成仏できずにそこに留まって居らっしゃるなら、気の毒なことだと思う。お香や焼香で謎の現象がおさまるのであれば、きっとそれはお腹が空いているだけなんだと思う」
「おな、かが?」
しゃくりあげながら、わたしはおうむ返しに訊ねた。
「仏教ではね、お線香やご焼香の煙は、仏様が食べるためのものなんだ。こうじき、と言ってね、香りを食べると書く。これは亡くなった方のためのお食事なんだよね」
お線香にそんな意味があるなんて知らなかった。わたしは、ハンカチで鼻を押さえながら、また切ない気持ちになる。死んでもずっとお腹が空いているなんて。そんな悲しいことがあっていいのだろうか。
「親父はおふくろさんに何も話してなかったんだ。せっかく来てくれた嫁さんに話す内容じゃないからな。それでも特に何の問題もなく、我が家は今までやってこれた。でも、線香をあげる人間が減ってしまったせいなのか、彼らも腹を空かしてるんだろう。腹が空いたと伝える手段は……色々あるみたいでな」
伯父はそう言って、わたしの方を見る。
「タカは彼らと波長が合うみたいだ。使ってたラジオが壊れただろ。急に子供っぽくもなった。だから、もううちに近寄らない方が良い。おいさんには何の影響もないが、彼らを感じ取る力には個体差があるらしい。万が一何か見えたりするようになったら、タカが可哀想だ」
その顔はとても寂しそうだったが、同時に有無を言わせぬ圧も感じ取れた。
「波長が合わないなら、例えばわたしなら、お線香をあげに来てもいいの?」
わたしはそう食い下がった。香を焚く人間は多い方が良いはずだ。
「美代ちゃんは、何か不思議な体験とかしなかった?何も感じなかったなら……」
「いや、一人だけ来ても不自然だろ。供養はこっちの家の人間が続けるべきだと思う」
藤井さんの言葉をさえぎって、伯父は「じゃあそろそろ」と腰を上げ、テーブルの上の木箱を大事そうに手に取った。
帰り道、わたしの足は鉛のように重かった。藤井さんが気遣っていろいろ声をかけてくれたが、全て右から左にすり抜けていって、何も頭に残っていない。泣きすぎて頭もうまく働かない。泣き腫らした目を、親にどう説明したらいいのか。すべてがどうでもよかった。ただ、悲しかった。
「なんでわたしに教えたの」
何度目かの信号機で立ち止まった時に、伯父に訊ねた。父方の家で供養するなら、聞かせるべきはわたしの父かケンちゃんではないかと思った。
伯父はまっすぐ前を見たまま、少し間をおいてから、ゆっくりと答える。
「美代なら、子供たちを想ってくれると思ったから、かな」
そして、父には昨晩さわりだけ話したが、家電の不具合と過去との関係性はまったく信じていないとの事。息子の健司には気味悪がられて、家に寄り付きたくないと言われていると困ったような顔で続ける。
「うちに幽霊がいるいないは正直どうでもいい。ただ、過去に戦争があって、そのせいでたくさんの子供が命を落としたっていう事実は、知っておいてほしかった。そしてできれば供養の気持ちを持ってくれたら、おいさんは嬉しいと思ったんだ」
わたしは「うん」と小さく返事して、そのまま黙って家路についた。
家に帰ることを、気味が悪いとは思わなかった。ただただ悲しく、みんなが早くお腹いっぱいになってくれたらそれでいいと思っていた。
玄関には、弟と母とわたしの分の荷物が準備されていた。テレビは相変わらず点いていないが、きっと彼らのお腹が満たされれば不具合もおさまるのだろう。父はわたしの顔を見て何か察したようだったが、特に何も言わなかった。母と祖母には心配されたが、藤井さんのところで忠犬ハチ公のビデオを観たんだと嘘をついた。それを聞いて祖母はまた伯父を怒っていた。
伯父は帰ってすぐに仏壇の前に座って焼香を焚き始めた。わたしも横に座って手を合わせる。
「あの壷って、関係あるの?」
隣の伯父にも聞き取れるかどうかの小さな声で訊いてみる。伯父は手を合わせながら「まあ、な」とだけつぶやいた。
「裏の通路が塞がれてるのも?」
「あっちはよくわからんが、親父がやったらしい。ただ、埋葬されてるのは、あの廊下の真下あたりだそうだ」
通路は仏壇の真後ろにあたる。丁度そうなるように、意図して作られたのだろう。
祖母が忙しなく玄関と台所を行き来しながら、タッパーに詰めた煮物やらお菓子やらを段ボールに詰めていた。
ご焼香を切り上げ、伯父がポケットから小さな丸いお守りを取り出して弟の方に歩いていく。眺めていると、学業のお守りだと言って握らせていた。そう言われれば、受験生には断る理由がない。弟は素直にお礼を言って、カバンのファスナーにそれを括り付けた。しばらくは身に着けているだろう。少なくとも、自宅に帰るまでは。
玄関に荷物をまとめ、靴を履く。祖母がポチ袋を出してきて、わたしと弟にひとつずつ渡してくれた。
「これ、少ないけどお小遣いね」
そう言って少し寂しそうに笑う。丁寧に礼を言って上着のポケットにしまうと、先に入れてあった例のビニール袋が手に触れた。
「おばあちゃーん!またくるねーー!」
見送りで門のところまで出てきている祖父母と伯父に、弟はポチ袋を握ったままの手を大きく振った。
どうかあの家で、みんな平穏な暮らしができますように。全員がちゃんと食べて、安心して眠れますようにと、心の中で手を合わせた。
母方の実家の前の道路で、父はわたしたちを下ろすとすぐに帰ってしまった。思い返せば、父と母方の祖父母が親しく話しているのをあまり見たことが無かった。全くないわけではなかったが、数えるほどだと思う。少し暗い気持ちになる。祖父は祖父なりに、自分にできることを精一杯やったんじゃないかとわたしには思えたからだ。その結果がこの扱いでは、なんだか報われない。
玄関から背の高い高齢の女性が走り出てくる。サザエさんに出てくるフネさんをそのまま実写化したような、日本のお母さんといった風体。はちきれんばかりの笑顔で、いらっしゃいとわたしたちを迎え入れてくれた。突然のことだったから、いま大急ぎで美味しいものを作っているからね、と上機嫌で家の玄関を開ける。
「おせちは無しだけどねえ」
その言葉がわたしの中で引っ掛かった。何か、忘れている。何か、とても大切なことを。
荷物を運び入れながら、記憶を手繰り、欠けたピースを探す。
エアコンのきいたあたたかい室内。地窓のある広いキッチンでは、ふたくちコンロと炊飯器がフル稼働で、石油ストーブの上にもお鍋がひとつ乗っていた。
「おじいちゃんとこ行ってくる」
わたしはそう言って弟にも声をかけ、一緒に小走りで仏間に向かった。祖父だってお腹が空いているはずだ。仏壇の前に並んで座り、弟とわたしで3本ずつ火をつける。お線香の煙が早く祖父に届くように手を合わせ、白い帯のたなびく先を見送りながら、胸のつかえの原因を探る。これじゃない。何を忘れているのか。
キッチンに戻ると、テレビでは今夜の特番の見どころをアナウンサーがまくし立てている。祖母がいそいそとお茶をテーブルに並べ、今夜は何にしようか、蕎麦は良いんだったか、と母に問うた。
「棚倉のお義母さんも、蕎麦は良いって言ってたよ」
「じゃあ駒屋さんとこに頼もうかねえ。今からじゃ無理かしら」
受話器を上げたまま祖母が思案している。わたしはテーブルの上の湯飲みを見つめながら、祖母と母のやり取りをぼんやりと聞いていた。
「でも本当に来て良かったの?棚倉だって秋にお爺ちゃん亡くなったばかりでしょう」
わたしは顔を上げられなかった。
テレビの音声が微かに、乱れる音がした。




