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ゆきのまちシリーズ

スノウ・トゥ・ザ・ムーン

作者: 謎村ノン

 サンクスギビングからクリスマス休暇で実家に帰る学生が殆どだったから、寮は閑散としていた。節約するためとはいえ、帰省しないことにしたのは大失敗だったかと少し後悔した。


 アパラチアン山脈の中腹にあるこの市では、冬になると気温はセ氏で零下三〇度にもなる。そんな極寒の夜、私の部屋のスチーム暖房は、沈黙したままだった。

 修理にくるというニイチャンには、明日になると告げられ、レジデンス・ディレクターに抗議しても「アイムソーリー」の一点張りで埒があかない。


 古びた寮の設備は、まるで時代に取り残された化石のようで、故障したのは、これが二度目だった。

 前回は、初雪が降り始めたばかりの季節だったので、まだ寒さが身に染みるという程ではなかった。しかし今は違う。窓の外には、こんもりと雪が積もり、薄いブロック二枚を隔てた外界は、白い極寒の領域と化していた。

 

 日が暮れると、冷気は部屋の隅々まで染み渡り、部屋の中で吐く息が白くなるほどだった。

 私は、部屋着の上に防寒用の厚いコートを重ね、毛布を何枚も積み重ねてベッドに潜り込んだ。しかし、寒さは毛布の隙間から忍び込み、皮膚の表面から熱を奪い続けた。鼻の頭が冷え、頬が張り詰め、指先は鉛のように重くなった。

 眠ろうと努力しても、寒さが思考を侵食し、意識は、不安の底へ沈んでいく。東海岸のこの辺りでは、雪に閉じ込められたまま凍死する者が毎冬何人も出るという話を思い出し、少し恐怖を感じた。


 まったく眠れなかった。

 孤独は寒さとともに膨らんでいく。寮の廊下は静まり返り、他の部屋からの物音も途絶えていた。

 外界は雪に覆われ、世界そのものが沈黙していた。雪が世界の声を吸い込んでしまったかのようだ。


 電気は、まだ通じていたので、部屋を出て、ウォータークーラーの水を電気ポットで取ってきて、湯を沸かした。ことことと沸騰しかける音が、やけに耳に響いた。部屋の静けさが異様だった。人影はなく、寮の他の部屋からの雑音も途絶えていた。耳を澄ますと、ポットの微かな沸騰音だけが、暗闇に浮かぶ生命の息吹のように感じられた。


 地毛が栗色をした小柄な後輩の「センパイ、よかったらウチの部屋に来てくださいよ」という言葉が脳裏をよぎった。しかし、彼はなにかと噂がある奴だし、そもそもこの大雪の中、キャンパスの反対側の寮にある彼の部屋へ行くのは難儀だと諦めた。


 毛布を幾重にも重ねても、寒さは皮膚を突き抜けて骨の奥まで染み込んでくる。私はベッドの上で身体を猫のように丸め、息を殺しながら、どうにか眠りに落ちようとした。しかし、冷気は毛布の隙間から忍び込み、指先を凍らせ、思考を鈍らせる。耳の奥で血の流れが鈍い音を立てていた。まるで、身体そのものが氷の彫刻に変わりつつあるような感覚だった。


 私は、とにかく眼を閉じ、寒さと孤独をやり過ごそうとした。

 しかし、思い浮かぶのは、幼い頃に読んだ童話だった。借金のカタに取られた布団に兄妹の魂が宿り、夜な夜な「寒いよう」と囁く話があったっけ。あるいは、ベッドの上に椅子を乗せて寒さをしのいだヨーロッパの昔話も思いだした。マッチ売りの少女は、こんな夜を過ごしたのだろうか。いや、眠ったらまずいのではないか……。しかし、思考は雪のように静かに降り積もり、やがて眠りの縁へと私を誘った。


 そのとき、ふと、窓の外に誰かがいると直感した。

 ここは五階なのに、なぜだろうと思った。私は眼を開け、暗闇に目を凝らした。ウィンドウシェイドの向こうに、淡い影が揺れている。風ではない。影は、形を持たず、しかし確かに私を見つめていた。


 毛布を押しのけ、裸足で床に立つと、背中に鳥肌がたった。

 時計は、十一時を過ぎていた。門限を越えていたから、外へ出れば、凍える夜に閉じ込められるだろう。それでも、影の存在が私を窓へと引き寄せた。


 私はシェイドをそっと上げた。そこには、微笑む小さな女の子がいた。

 金髪に碧眼、頬は月光に照らされて白く輝いていた。彼女は、唇を動かした。何を言っているかは、分からなかった。それでも、私は、理解した気がした。彼女は、私を、呼んでいた。孤独な夜に、私を誘っているのだ。私は、すっと窓を越えた。冷気が頬を打ち、世界が反転した。

 気がついたら、私は、浮かんでいた。雪片が舞い、ナトリウムランプの光が、暗いオレンジ色を宝石のように反射した。


 私は、夜の雪の中に降り立った。駐車場は、すっかり雪に覆われていた。

 風が吹き、雪片が舞い、視界は、白い霧に閉ざされていた。遠くに影が見えた。小さな影が、雪の中でこちらを見ている。

 私は歩き出した。足音は雪に吸い込まれ、世界は無音のままだった。影は、近づくにつれて形を持ち、やがてそれが先程の小さな女の子であることが分かった。

 女の子は笑っていた。金髪が風に揺れ、眼が月光を映して輝いていた。

「お願い、遊んで。ママが帰ってこなくて寂しいの」

 今度は、はっきりと聞こえた。

 私は、頷いて、彼女の手を取った。指先は冷たく、しかし確かな温もりを宿しているように思えた。

 すると、彼女は、にっこりと笑って、雪片の舞う空へと飛び立った。私は、その背を追った。雪が、空へ舞い上がり、私は、また浮かんでいた。足は地を離れ、身体は風とともにそよいた。

 私たちは、キャンパスの上空を駆け抜けた。建物の屋根が雪に覆われ、街灯が淡い光を投げていた。


 遠くに、メインストリートが見えた。家々の庭には、まだクリスマスの飾りが残されていた。光る人形が雪に埋もれ、サンタクロースが凍りついた笑顔を浮かべていた。

 私は、女の子に語りかけた。

「ほら、サンタクロースもいるよ」

 彼女は嬉しそうに微笑み、声をあげて笑った。

「もっと上に行きたいの」

 彼女の声は、風に乗って私の耳に届いた。

 私は頷き、彼女の手を握り直した。私たちは、雲の中へと上昇した。風が唸り、雪片が舞い、世界は白い渦に変わった。


 雲の中は暗く、しかし微かな光が漂っていた。その光の中で、私は、奇妙なものを見た。風の形をした何かが、空の水を六角形に組み立てている。それは、雪の工場だった。無数の影が、黙々と氷の結晶を組み立て、空へ送り出していた。

 私は、女の子に語りかけた。

「ここが雪の生まれる場所なんだね」

 彼女は、頷き、笑った。

 やがて、雲を上空に通り抜けると、目の前には、雪の庭園が広がっていた。

「ここで遊ぼう」

 彼女の声は、風に乗り、私の耳に柔らかく届いた。

 庭園には、六角形の結晶が幾何学模様を描き、白銀の花が咲き乱れていた。花弁は、氷でできているのに、淡い光を放ち、まるで生きているかのようだった。

 私が、その花に触れると、花は微かに震えた。すると、花弁がほどけ、雪の蝶が舞い上がった。


 無数の蝶が空へと飛び立ち、白い渦を描きながら、私たちの周囲を取り巻いた。

「捕まえてみて」

 女の子は笑い、蝶を追って駆け出した。

 私は、その後を追った。足は地を離れ、身体は風に溶けた。

 蝶は、私たちを誘うように舞い、時折、氷の羽をきらめかせた。その羽には、遠い星々の光が宿っているように見えた。

 私は、一匹の蝶に手を伸ばした。指先が触れた瞬間、蝶は光に変わり、私の掌に雪の結晶を残して消えた。その結晶は、微かな音を立てて震えていた。

 耳を澄ますと、その音は音楽だった。氷の粒が奏でる、静かな旋律だった。私は、その音楽に身を委ねた。


 女の子は、笑いながら、氷の花を摘み、私の髪に飾った。

「はい、どうぞ」

 花は冷たかったが、不思議な温もりを感じた。

 私は、彼女に語りかけた。

「雲の上に、こんな場所があったんだね」

 彼女は首をかしげ、答えた。

「ここは、雪の国よ。ここでは、時間が凍っているの」

「へえ……」

 私は、夢を見ているのだろうと思った。でも、この少女との時間は、悪くないと思った。

 私は、彼女の手を握り、さらに奥へと進んだ。


 庭園の果てには、氷でできた迷路が広がっていた。

 壁は透明で、内部に雪片が舞っていた。私たちは、その迷路に足を踏み入れた。

 壁に触れると、雪片が音を立てて弾け、光る氷粒が宙に舞った。

 光粒は、月の光を受けて、何かの映像を映し出した。幼い頃の冬、炬燵の温もり、母の笑顔、兄妹の声――私は、その映像に、何故か、胸を締め付けられるような感覚を覚えた。

 しかし、女の子は笑い、私を誘った。

「早く、こっちだよ」

 私は、その声に従い、迷路を抜けた。


 そこには、氷でできた湖が広がっていた。湖面は、鏡のように滑らかで、星々の光を映していた。女の子は、湖の上に立ち、私に手を差し伸べた。

 私は、その手を握り、湖の上に足を踏み出した。氷は、まったく冷たくなく、私たちは湖の上で踊るように走った。

 足音は氷に吸い込まれ、世界は無音のままだった。星々が瞬き、光の粒が宙に舞った。

 やがて、遠くに光の門が見えた。

 月が、私たちを呼んでいた。女の子は私の手を握り、囁いた。

「行こう、もっと遠くへ」


 私は、女の子とともに、風と一緒に宙を舞った。

 さらに上へ進むと、月の巨大な黄色い円盤が、空に浮かんでいた。

 月は、門だった。光の門が、私たちを誘っていた。

 そのとき、別の影が現れた。小さな男の子だった。マフラーを巻き、頬を赤く染めている。彼は、女の子に語りかけた。

「ジェイン、僕たちは月へ行かなくてはいけないよ」

「バイ! お兄ちゃん」

 女の子は頷き、私の手を離した。すると、二人は月へ向かって飛んでいき、やがて光の中へと消えていった。


 私は、その背を追おうとした。しかし、身体は重くなり、光は遠ざかり、世界は再び暗闇に沈んでいった。

 私は、落ちていた。風が唸りながら、身体を駆け抜けていった。私は目を閉じ、冷気に身を委ねた。遠くで、子供たちの笑い声が聞こえた。


***


 朝の光が、ウィンドウシェイドの隙間から細く差し込んでいた。

 私は、その光に眼を細めながら、毛布の中で震えていた。手足は、ほとんど感覚を失って痺れ、指先に殆ど感覚がなかった。皮膚も、氷の膜に覆われているかのようだった。

 呼吸は浅く、胸の奥で冷気が膨らんでいた。私は、夜の記憶を辿ろうとした。しかし、思考が霧に包まれ、現実と夢の境界が曖昧になっていた。


 なんとか立ち上がって、シェイドを開けると、窓の外には、びっしりと氷が張り付いていた。樹木と六角形を重ねたようなフラクタル状の結晶が、ガラスのキャンバスに無造作に貼り付けられていた。それは、雪の工場で見た氷の結晶と同じ形だった。

 私は、指先でガラスをなぞった。冷たさが皮膚を刺した。


 私は、ベッドから這い出し、いつの間にか切れていた電気ポットのスイッチを入れた。ことことと水が沸騰しかける音が、やけに耳に響いた。その音は、夜に聞いた囁き声と重なり、胸の奥で不安が膨らんでいった。

 私は、毛布を肩に掛け、部屋の隅に座り込んだ。孤独が寒さとともに膨らみ、世界全体が沈黙しているように思えた。朝なのに、外からは何の音も聞こえず、まだ雪が世界の声を吸い込んでしまっているのだろうか、と思った。


 午後になって、ボイラー修理のアンチャンがやってきた。ひょろっとした体型で、にやついた顔をしている。彼がスチームの配管を取り換えると、部屋に、暖かさが戻った。

 しかし、私は、風邪をひいていた。身体は重く、頭は鈍く、思考は霧に包まれていた。

 くだんの後輩が部屋にやってきて、「センパイ、大丈夫ですか?」と声をかけた。私は、適当に応えて、彼を追い返した。


 三日後、寮のロビーに備え付けのテレビでニュースを見た。

 母親が失踪した家に残された幼い兄妹が、凍死したというローカルニュースだった。画面に映る二人の顔は、夜に見た子供たちと同じだった。私は、旧いテレビの画面を見つめて続けることしかできなかった。やがて、別のニュースが流れても、呆然としていた。


 ……記憶が蘇り、現実と夢の境界が溶けていった。私は、あの夜のことを思い出した。女の子の笑顔、風の形をした影、月の門――すべてが現実のようで、しかし夢のようでもあった。


 夜になると、窓の外に影が揺れた。風ではない。影は形を持たず、しかし確かに私を見つめていた。私は、毛布を肩に掛け、窓の前に立って、飛び立った。

 上空え飛び、雲を抜けると、月が見えた。巨大な月の光の門が、私を誘っていた。今度は、私は、門を越えられた。

 そこには、光の海が広がっていた。無数の星が氷の結晶のように輝き、星が奏でる静かな音楽が流れていた。私はその音楽を聞きながら、永遠に漂っていた。


(了)



こちらも、今はなき、ゆきのまち幻想文学賞に、ちょうど二十年前くらいに投稿したものをAIも使って改稿したものです。実は、ここに投稿したなかで、この話だけは、八割くらい実話です――当時、寮の中で凍えた経験から、オフキャンパスを決意した次第です。何もかも皆、懐かしい……青春の日々……?

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