第7章 恵の回想①
ああ、でもあの時はまだ彼女の名前は知らなかった。
どこからか学生服の青年を連れてきて、一緒にお店の前まで案内してくれたけど…用が済んだら名乗りもせずにそそくさと去って行ったのだった。
きっとあれがアナタの役目だったのね?
青年は「真田英二です。」と自己紹介した。
170cmくらいかな?アタシよりちょっと背が高くて、誠実そうな人柄に見えた。
名前は忘れちゃったけど、当時有名だった映画俳優に似ている気がした。ひょっとして一目惚れだったかも。
アタシたちは一緒にお店で働きだした。彼はウェイター兼バーテンダー、アタシはウェイトレス兼ダンサーだった。
そのカフェバーにはカウンターとテーブルがいくつか。それに小さなステージとダンスホールがあった。
いつもマスターがジャズのレコードをかけていた。たまにステージに4人編成のバンドがやって来ると、アタシはお客さんのお相手をして、ワルツやタンゴを踊ったりした。
学生時代に受けていたバレエのレッスンが役に立った。
他にも4,5名一緒に働いていたけれど、同期ということもあり、アタシと英二さんは急速に仲良くなっていった。
「大丈夫?疲れてない?」「何か手伝おうか?」折に触れてはそんな感じに優しく声をかけてきて、田舎から出てきて不安だったアタシの心を、安心させてくれたからかな?
英二さんの仕事ぶりは段取りが良く、無駄がない。うまくいかないときはすぐ反省し、即次回に生かす。この人はきっととても頭がイイのだ。いつの間にかアタシは尊敬の念さえ抱いていた。
だからそんな英二さんからプロポーズされたときは、とっても嬉しかった。
英二さんはいつも皆に好かれていて、女性客たちからも、入れ替わり立ち代わり言い寄られていて心配だったけれど、その誠実さを信じることにした。
ああ余談だけど、婚姻届を出すときに、アタシが英二さんより二つ年上ってバレちゃって、英二さん驚いてたなあ。
初めて二人で暮らし始めたのは、千種区大久手通に面した借家だった。
借家といってもアパートや一軒家とはちょっと違う。若鶏の精肉店の二階を間借りしたのだ。まだまだ貧乏な二人にはちょうど良い住まいだった。
そのころにはアタシはもう妊娠していた。今でいう「デキちゃった婚」というわけだ。
出産予定日は翌年の2月。少し先だ。黙っているわけにもいかないので、実家に手紙を書き、もちろん絵美夏姉さんにも報告した。
すると、すぐに実家から電話がかかってきた。
「常識として順序がおかしい!まず挨拶。そして婚約。それから結婚して、最後に子作りだろう!」
末娘の勝手な行いに、お父さんはたいそうご立腹だった。元海軍将校で規律に厳しい人だ。その上職人気質の自転車屋ときている。
もし目の前で報告したら、隠し持った軍刀で首をはねられていたかもしれないな。
電話口では英二さんが平身低頭になって対応していた。
英二さん、なんかゴメンね。