第20章 雪村の卒業
1980年。昭和で言うと55年3月31日。
ボクは自宅マンションの屋上で、ボンヤリと遠くの風景を眺めていた。
時刻は午前10時。空は穏やかに晴れて、僅かにそよ風が吹いていた。
中学校の卒業式も、高校入試も終えて、この一年を、いや、中学校の三年間のすべてを、なんとなく振り返っていた。
中学校の授業を受けるにあたって、まず真っ先に不安だったのは、英語の勉強法だった。
まわりの級友たちは皆、小学校時代から英語塾に通っていた。
でもボクは、小学校の勉強で精いっぱいだったので、すべて中学校からのスタートだったのだ。
だから、とりあえず英和辞典、和英辞典を買って、入学早々に英語の担当の先生のところに相談に行った。
先生からもらったアドバイスはこうだった。
まず、テキストを毎回買って、NHKラジオの英語講座を聴きなさい。
次に、授業で学んだ単語や文章表現を使って、自由に英作文を作りなさい。
そして、できれば、毎日英語で日記を書きなさい。
以上のすべてを、必ず大きな声を出して発音しながらやること。
もちろん、ボクはその通りにした。
いや正直に言うと、日記だけは1年で飽きちゃったんだけど…。
あとは定番の単語帳づくりと練習問題にアタックだ。
この先生の素敵なところは、ボクが持って行く自作の英作文のノートを、ちゃんと毎日添削してくれたことだ。
おかげでボクの英語の実力はどんどん上がっていった。
他の教科は、時間をかけてコツコツ予習、練習問題、復習を繰り返すことで、できるようになっていった。
卒業時、9教科の5段階通知表の最終合計は、43だった。
体育と音楽だけは、どうしても5にならなかった。
かつての川で溺れた経験と、音符嫌いがアダになったんだよね。
また、勉強を通じて、新しいタイプの友だちができた。
いわゆる、ライバルというやつである。
テストの結果が出るたびに、点数や順位を見せあっこしたがる者たちが一定数いるのだ。
ボクは自分の成績を見せびらかすのが好きではないので、訊かれれば教えるというスタンスだっだけど。
それで相手が一喜一憂するのを見て、ちょっと愉快に思っていたのも事実だ。
そしてそうした仲間の中で、一人、絶対王者とも言うべき人物が居た。
その名を杉浦鷹志君という。
彼は野球部に3年間所属し、精力的に活動していた。
また、クラスの委員長としても立派に仕事をこなし、自他ともに認める完璧なリーダーだった。
ずっと帰宅部で勉強時間が潤沢にあったボクに比べて、あきらかに忙しかったはずなのである。
しかし、彼の学年順位1位は、3年間、誰にも明け渡されなかったのだ。
いや、実を言うと、彼は小学生時代から「神童」と呼ばれていたのだが…。
正直、悔しかった。有名な天才少年に一矢報いてみたかった。
で、まあ、受験の方なんだけど。
ボクの5教科合計点をもとにした学年順位は、常に不安定だった。
3年生の全生徒580名の中で、2番だった次のテストで100番だったりしたのだ。だから一緒に進路を考えてくれた担任の先生も、かなり頭を悩ませていたのだった。
結局、公立入試は安全策で行くことになり、名護屋市で学力的に上から5番目くらいの「名護屋市立光陽高校」に入学することになったんだ。
正直に言うと、当時、男子校だった私立愛智高校には行きたくなかったしね。
この3年間に学んだことを総括するとすれば…。
「勝負は最後まで気を抜くな。」
「努力は裏切らない。」
「しかし天才には勝てない。」
…かな。




