プロローグ2
「ねぇ、これからどうなるの?」
「私にも、わかりません。婚約破棄自体が無かったことになるかもしれませんし、まだ利用価値があるとして、隣国や他の貴族たちと新しく婚約を結ぶことになるかもしれません。修道院に送られるかもしれません」
彼女の声は、感情を押し殺していた。自分の将来を他人の手に委ねることに、恐怖も怒りも、何もない――ように見えた。けれど、その目は虚ろで、まるで他人事を語るようだった。
「ルーラ」
私は彼女の手をぎゅっと握った。体温があるのに、あまりに冷たい。
「あなたは、なにも悪くない」
「……それは、あなたの価値観でしょう? 私は……役目を果たせなかった。王子の望む未来を築けなかった。国に必要とされる器ではなかった。それは、事実です」
「違う。絶対に、違う」
私の声が少しだけ、強くなった。
「ねえ、ルーラ。あんたにひとつ、言わなきゃいけないことがある」
私はスカートのポケットから、一枚の札を取り出す。くしゃくしゃに曲がって、端が血で少し滲んでいる。
「これ。南方戦線の指揮官からもらった推薦状っていうか、“ご褒美”みたいなやつ。ひとつだけ、王家に願いを聞いてもらえるっていう証文。私はあの戦いで、国にそれくらいの貸しを作ったらしい」
ルーラが、初めて驚いた顔をした。目を大きく開いて、言葉を失っている。
「これ、使うよ」
「……そんな、もったいない」
「もったいなくなんかない」
「どうして、そこまで……」
ルーラの声がかすれる。私は、真っ直ぐに彼女を見る。
「今まではさ、ルーラが幸せそうだったから、その役割は自分じゃなくていいと思ってたんだけどね。女の子を幸せにすることが、私のモットーだから」
ルーラ
レイギスの態度が変わっていったのは分かった。私と彼はお似合いだと言われていた。私もそう思っていたのだ。でも、それは表面上だったのかもしれない。香りがたっていない紅茶みたいに。
だからあの時、本当に驚いたのだ。クララさんとレイギスは確かに友好を深め合っていた。だからと言って、私は彼女に何かをしようとは思わない。肖像画を書けと言われても、髪の色や形くらいしか思い出せない。そんな相手のことを憎むことはできない。
私がクララに危害を加えていたという証拠は出揃っていた。身に覚えはないし、アリバイもあるのだけど、確かに私がやった証拠だった。魔導鏡に映る私の姿、声、振る舞い、どれをとっても私だった。言い訳のしようもない。
「大丈夫?」
セレン三席は、身分などそこにはないように振る舞っているが、立場は私よりも上だ。この学校に通っているもので彼女のことを知らない人間はいない。南方戦線は悪化の一途を辿っていた。モンスターを従わせることができる能力を持つ人々のことを魔族と呼ぶ。圧倒的な物量差に押し負け続けていた中、反撃の一報が入ってきた。その反撃の立役者となったのがセレン三席だった。「一人でなんとかなります」と言っての単騎突撃、まだ知る人ぞ知る程度の知名度だった彼女を周りは止めたが、一気に戦線を押し上げたのだと父が言っていた。
そこからは彼女の強さは全ての作戦の要になった。連勝に次ぐ連勝、最後には魔獣の力を体内にいれ、無類の強さを誇る魔王相手に勝利し長らく続いた戦争は終わった。
この活躍に、貴族階級を与えるという意見が出たのだが猛反発が起こる。武力と権力が合わさってしまえば、誰も彼女を止めることができない。彼女単騎でも止めることができるのかわからないのに、領民や部隊をもてばクーデターを正面から実行したところで成功するだろう。その結果与えられることになったのは、国防大隊三席という地位だった。今までにはなかった三席という地位を作り出した。要するに権限はない閑職だ。だが、ただの令嬢である私よりも数段偉い。勿論、学生だからという理由は表向きには存在するのだろうが、裏では我が身可愛さに金がさぞ飛び交ったことだろう。
おそらく、学生生活が終われば、流石に貴族階級か新たな役割が与えられる。辺境に送れば海外の逃亡が考えられ、さらには王都の防衛能力も下がる。かと言って王都で何か権力を持たせれば、クーデターの成功率はグッと上がってしまう。八方塞がりの中、どんな結論を出すのかは二年後が楽しみだ。
そんな前評判を聞いていたから、私はどんなに凛々しい人が来るのかと身構えていた。死の香りを纏い、人を生き物として見ていないかのような冷酷な女が来ると思っていた。
彼女を初めて見た時、怖くなるような美しさを感じた。神様の理想を詰め込んだような見た目は、丁寧に作られたステンドグラスを思い出す。
同じ平民の女の子とよく話していた。貴族には良い思い出がないのだろう。彼女の見た目と能力に惹かれて擦り寄ってきた男は軽くいなされていた。
「ありがとうございます。セレン三席」
「その呼び方やめてよ、恥ずかしい。セレンって呼んでよ」
「セ、セレン、さん」
「まぁ良しとするか」
そう言ってニッと顔を綻ばせるセレンさんのことを、私は美しいと思った。
「ルーラさぁ、私の家おいでよ」
「えっ、その、でも」
「ルーラが帰りたいならいいんだけど……」
帰りたいとは思わなかった。こんな状態だからではない。一度も家に帰りたいなんて思ったことはない。私は母の心から笑顔を見たことがない。貼り付けたような笑みで、いつも「未来の王妃」と私のことを呼んだ。そしてその笑顔のまま、私に彼女が持っている全てを注ぎ込んだ。金も人脈も心も全て。愛されていると誰もが言うが、それは違う。私ではなく、王妃の母という立場を愛していたのだ。絶え間なく出される課題をこなしていけば、いつしか私は「完璧な令嬢」と呼ばれるようになった。不完全な心だけ残して。
母が愛していた「未来の王妃」という立場を失った私に、母がどんな態度をとるか考えたくない。
「セレンさんが良ければ」
だから私は彼女の手をとった。