プロローグ1
返り血に塗れた私は、やっとこさ寮に戻って来た。指名依頼だったから断れなかったのだ。今日はパーティーだったのにさ。進級パーティーということで、晴れて2年生になったお祝いをドンチャンやるわけですよ。ドンチャン。貴族だらけだからお淑やかってわけじゃない。羽目を外す時は、平民の私なんかよりも外し方がエグい。ブラックすぎるジョークが飛び出る。ブラックよりもなんか濃い色だと思う。
部屋の時計を見ると、意外とまだパーティーの終盤くらいには飛び入り参加できそうだった。あのドラゴン野郎、最後にずっとバリアと再生魔法で私の魔力切れ狙いやがって! あれのせいでこんな時間になっちゃったじゃん。
シャワーを浴びて、固まっている血を溶かす。服についた血は捨てちゃえばいいけど、髪はね、切りたくない。モテなくなっちゃう。髪を纏めるようにしている血がもうね、本当に落ちないし、イライラしてベリってやると、一緒に髪が抜けて痛いから、お淑やかに。間に合わなそう……。だめかな、「血でできたワックスなの〜」とかで誤魔化せないかな。無理か……。
続いて匂い、生臭いのがとれない。付いたばかりなら直ぐに取れるのだが、時間が経って熟成されると匂いが強くなる上に取れなくなる。ファイヤブレスを止めるために、お腹を思いっきり殴って内臓を破裂させた。そしたら血を吐くわけですよ、全部かかりました。吐いた血が。なんかさ、口から出た血と、普通に切って出た血だとさ、前者の方が汚いように思うんだよね。萎えてますよ。檸檬とか、牛乳とかでお風呂を作って、しばらく浸かると匂いが取れる。ジャックに教えてもらったライフハックだ。まだちょっと匂うけど、香水でなんとかしよう。
メイクはね。ムリかな。
ドレスもムリだし制服でいいや、少し浮くだろうけど。みんな可愛いドレス着てんだろうな〜。でも、事情を話せば許してくれるくらいの礼儀はある格好だし。喪服とかもね、制服で許されるわけだから。
パーティー会場は学校だ。卒業式とか、入学式とか、そういう時に使う場所で今日は集まる。あんまり好きな場所ではない。だってさ、めちゃくちゃ豪華なんだもん。見渡す限りの金、ガラス、彫刻。私がちょっとはしゃいだら全部ぶっ壊れちゃいそうで、気を使う。そもそも税金で作ってるのに、訳のわからん芸術家の作品とかを置く必要ある? いやまぁそのさ、わかるよ? 外交とかさ、そういうので舐められちゃうとかね。なんかあるんでしょう。でも、じゃあ図書館をもっとでかくしてくれ! 外も大事だけど中! 中だよ。寄付してもいいんだけど、どうもねぇ、愛校心が湧かない。
「すみません、遅れました」
会場の空気は張り詰めていたんだろう。私が入って来た瞬間、会場の目線が一気に私に集まった。そして、張り詰めていた空気は私が入って来た扉から抜けていく。みんなの驚きや不安が声に出て、我先にと隣の人間に話しかけ、これから起こることを話していた。
私は今まで全員が見ていた方向を向く。入り口から見て奥の方、観覧席と繋がる階段の隣に台がある。その上に立っているのは、我らがアルフ王国の未来の国王、レイギス・アルフ王子だった。で、問題は、その隣にいる女の子、クララだ。
「ルーラ、いや、シルベリック公爵令嬢」
これから行われるのは、何かとても厳かで、正しいもので、その執行者たる自分はこの世で最上の存在であると主張するような声。気に入らない声だ。
「はい」
王子の婚約者である、ルーラ・シルベリック公爵令嬢は、扇子で表情を隠している。その扇子で声が籠っているから、震えて聞こえるのかどうか私にはわからなかった。
「お前との婚約を破棄する」
「承知しました。偉大なる王国がより太陽に近づけるよう、これからは貴方の隣ではなく、下から支えられるように精進致します」
私なんかにはできない本物のカーテシーは、彼女が王子のために国のために磨いて来たものだ。品位、知性、容姿、すべてを備えた完璧な令嬢。それが、私が聞いていた彼女の評価だった。魔王軍との南方戦線での戦いのため、学校に半年ほど行っていない私の耳にも届いた。プロパガンダの一つだとも思っていたが、彼女を初めて見た時、それは真実だと理解した。
そんな彼女はこんな時でも乱れず、完璧だった。何度か話したことはある。少しでも近くに行ってみたかった。平民だから、話しかけられたいオーラをめちゃくちゃ出した。私なんかにもにこやかに、「国を守っていただきありがとうございます。ご活躍の報告は私にも届いております」と丁寧に挨拶をしてくれた。
「王子を愛しているのです」
私に向けてくれた笑顔とはまた違う、幸せそうな笑顔で、それが彼女の全てみたいに、誇らしそうだった。
会場の中に、何かが崩れる音がした。実際に壊れたわけじゃない。ただ、それまで完璧に保たれていた空気が、どこかで音を立ててひび割れたような、そんな気配。
ルーラ・シルベリック――あの令嬢は、ほんの一瞬だけ、目を伏せた。深呼吸をするように胸を持ち上げ、下ろす。そして、また顔を上げた時には、もう涙ひとつ見せていなかった。
「では、これにて」
それだけ言って、彼女は扇子を静かに閉じた。背筋を伸ばし、会場中の視線を一身に受けながら、静かに壇上を降りる。ヒールの音が、沈黙に刺さる。誰もが言葉を失い、誰もが止められなかった。いや、止めようとも思わなかったのかもしれない。
それほどに、完璧だった。
それほどに、哀しかった。
こんな場面で、声をかけられるはずがなかった。手を伸ばそうとすれば、その瞬間に粉々に砕け散ってしまいそうな、張り詰めた硝子のような彼女の背中に、誰も触れられない。
その中で、私は自分の指先が勝手に動きそうになるのを、力いっぱい抑え込んだ。
――泣いていいって言ってやりたいのに。
――そんな顔、誰も望んでなんかいないって、言ってやりたいのに。
私はただの冒険者で、魔物退治の帰りに血の匂いをごまかすのがやっとの女で、社交界のマナーも貴族のルールも知らなくて、ただ彼女が綺麗だと思ったことしかない、無力な一生徒に過ぎない。
そんな私には、彼女に声をかける資格なんて――
「……!」
ルーラの足元が、一瞬だけふらついた。
誰も気づかないと思った。でも、私は見逃さなかった。彼女の腰がかすかに沈み、わずかに重心がずれた。扇子で隠された表情が、ほんの少しだけ俯いた。ヒールのつま先が、わずかに床を滑らせた。
それでも彼女は、何事もなかったように歩き続けた。
その姿が、なんだか、無性に――
――無性に、腹が立った。
なんでそんなに頑張ってるんだよ。なんで誰も止めないんだよ。なんであんな言い方しかできないんだよ、あの王子。あんなもののどこが「太陽」だ。あれなら、まだ今日倒した火を吐くドラゴンの方が温かみがあったぞ。
そして何より、自分に腹が立った。彼女を前にして、一歩も動けなかった自分が、悔しかった。
私は拳を握りしめて、ぎり、と奥歯を噛み締める。
ルーラが会場の扉をくぐった時、ようやく空気が解けたように、ざわり、と誰かが息をついた。
「……さて」
王子の声が、白けた空気を無理やり締め直すように響いた。その隣にいたクララ――平民のあの子が、緊張しきった表情で、ぎこちなくお辞儀をした。
え? ちょっと待って、それってまさか――
やばい。これ、そういうこと?
頭の中で警鐘が鳴る。でも、冷静になれない。
気づけば、私は走り出していた。
会場の空気を振り切るように。誰の視線も気にせず、ただ――あの背中を追って。
「セレン!? どこ行くの?」
誰かが呼ぶ声が聞こえた気がする。でも無視した。いまは、どうでもいい。
廊下に出る。もうルーラの姿は見えなかった。だけど、どっちへ行ったかくらいはわかる。彼女は人に見られるのを好まない。だから、校舎の裏手――噴水のある中庭か、図書館の裏のベンチあたり。あそこなら人も少ない。
走る。革靴が床を打つ音がうるさい。でも構わない。胸の奥が焦げるみたいに熱くて、何かを言わずにはいられなかった。
階段を下りる途中で、ふと鏡に映った自分の姿が目に入る。制服。乱れた髪。落としきれなかった血の痕。香水とレモンと、それから鉄の匂いが混ざった自分。
――こんなんで、会っていいのか?
でも、止まれなかった。
そして、中庭に着いた時。
いた。やっぱりいた。噴水の縁に、腰掛けていた。ルーラ・シルベリック。公爵令嬢。あの完璧な人が、いまは膝の上で顔を隠して、小さく小さくなっている。
「……見ないでください」
静かに、それでもはっきりとした声だった。私が近づいた気配に気づいていたらしい。
「……無理」
思わず、そう返していた。
ルーラが顔を上げる。あの扇子はもうない。代わりに、目元が赤くなっていた。泣いていた。声は殺していたのに、頬に残る涙の筋が、それを裏切っている。
「どうして来たんですか」
「なんで泣いてるの?」
「泣いてなど……」
「嘘つけ。今にも崩れそうじゃん。私が見てた。あなた、壇上から降りる時、少し足元ふらついたでしょ」
ルーラの瞳が揺れる。正解だった。ずっと張ってた糸が、ぷつんと切れる音がした。
「……見ないでください」
今度の声は、震えていた。
私は彼女の隣に腰を下ろす。制服の裾が濡れるのも気にせずに。返り血のついた袖が彼女に触れないように、でも、すぐそばに。
「わたし、あなたのこと、ずっと……すごいって思ってた。あの時、話しかけてくれて嬉しかった。ほんとに、嬉しかった」
「……私は、王子を愛していました」
「知ってる。さっきの、あの笑顔がそうだった。でも、あんな捨てられ方、納得できるわけないじゃん。あなた、なにも悪くない。むしろ……」
気づいた。いま、自分の喉が詰まりそうなくらい苦しくなっていることに。
なぜか、悲しかった。まるで、自分が捨てられたみたいに。
「なんでそんな顔できるの。強がってるだけなの、バレバレだよ」
私は、無意識にルーラの手を取っていた。彼女は抵抗しなかった。冷たかった。指先が、細くて、震えていた。
「大丈夫。泣いていいよ」
「……泣いても、どうにもなりません」
「それでもいい。泣かないでいるより、ずっとマシ」
そう言った瞬間、ルーラの目から、ひとすじ、涙が零れた。
「……なんで、あなたなんですか……」
「私はね、泣いてる女の子が世界で一番嫌いだから」
「じゃあ、こないでくださいよ」
「でもね、女の子の笑顔は世界で一番好きなの」
彼女の肩が小さく震える。私はそっと、その背中に腕を回した。拒まれたらやめようと思った。でも、彼女はそのまま、私の胸元に顔を埋めた。
香水とレモンと血の匂いが混ざった私に、彼女は何も言わずにすがった。
夜の空気が、すこしだけ優しくなった気がした。
ブクマ、評価をしていただいた方、大変申し訳ありません。 今考えると、あんまりにも引きがないので、最初の方にエピソードを追加しました。