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第二話:守るべきもの

咲さんに教わりながら作る――とは言っても、俺は包丁もまともに使えやしない。

「まず米を研いで、水を適量……って、適量ってどのくらいだよ!」

「笑わせないで。手のひら一つ分の隙間が目安よ」


台所なんて洒落たものはない。風除けの板を寄せ集めた即席の火鉢に、古びた鍋をかける。火力は不安定で、吹けばすぐに消えるから、咲さんは手慣れた動きで風を防ぎ、鍋の具合を見ながら俺に指示を出す。


「塩はね、少しずつ。多いと味壊れるから」

「へぇ、塩で味が壊れるんだな……って、誰が壊すもんかよ」


咲さんは笑いながらも、手元は正確だ。澪は黙ってテーブルを拭いている。俺はというと、指示通りにやってるつもりが鍋の縁を焦がし、味噌を入れるタイミングを間違え、見よう見まねで作った雑穀おにぎりを、妙に団子っぽく仕上げてしまった。


「……不恰好だけど、心はこもってるよね?」

「心って、形に見えねぇだろ。味で勝負だ」


出来上がったのは、お世辞にも美しいとは言えない晩飯。焦げの匂いが混じった味噌汁、形のいびつなおにぎり。だが、蝋燭の揺らめく明かりの下でそれを前にすると、不思議と暖かかった。


「澪、来ないの?」

「うん……今日はちょっと、部屋で宿題を……」


澪は恥ずかしそうに首を振った。初日はそのまま、三人で食卓を囲むことはできなかった。俺は少し肩を落としながらも、咲さんが割って入ってきてくれた。


「じゃあ、お皿を持ってお部屋まで運んであげるね。タクくんはここで待ってて」

「はぁ……お、おう」


皿を抱えた澪はぎこちなく笑って、部屋の奥へ入っていく。閉まる戸の向こうで、箸の音がする。小さい音だが、それだけで俺の心の中に芽生えた何かが少し緩むのを感じた。


——それからの日々は、全部順風満帆だったわけじゃない。

不恰好な料理は何度も出したし、俺の不器用さに咲さんが苦笑することも多かった。だけど、昼はパートに出る咲さんを見送って、帰ってきたら三人でご飯を食べる。庭代わりの路地で洗濯物を干す。澪が学校から持ち帰ったプリントに一緒に目を通す。


俺は少しずつ心を開いていった。あの抱擁から始まったぬくもりが、日常の細かい瞬間に広がっていくのを感じた。咲さんは時折、古いアルバムを取り出しては昔話をしてくれた。笑い声が家の中に増え、夜の闇が少しだけ薄くなった気がした。


だが、澪だけは違った。

笑顔は見せるものの、目の奥にはいつも影がある。問いかけても素っ気なく、距離を置く。触れられるのを恐がっているのか、誰かを信じることの痛みを知っているのか、俺には分からなかった。だからこそ、俺は澪のために、守るためにもっと強くなろうと、甘ったれた夢を胸に抱いた。


——あの日までは。


夕方、咲さんはいつも通りパートに出た。戻るのは夜の七時過ぎ。俺と澪は、その時間に合わせてテーブルを整えるのが習慣になっていた。だがその日は違った。八時になっても戻らない。九時になり、俺は変な胸騒ぎを押し殺しながら外へ出た。


路地の向こうで、赤い点滅が見えた。最初は広告の看板かと思ったが、それは車のライトの軌跡だった。スピードを上げるエンジン音、そして金属と金属がぶつかる嫌な音。人々の悲鳴。俺は走った。澪も冷たい脚で俺の後を追った。


現場はカーブの先の交差点。咲さんが、そこに俯せで倒れていた。車は路肩に停まり、運転手が慌てて車外へ出てくる。人だかりができていた。俺は咲さんに駆け寄る。血と埃の匂い。咲さんのコートは泥に濡れ、顔には深い痛みが刻まれていた。


「お母さん! お母さん! 起きて!」

「誰か、救急車を呼んでくれ! 頼む!」


俺は近くにいた通行人たちに声を荒げた。だが、その返事は耳を切り裂くような冷たさだった。


「うわ、人が轢かれてる…救急車!」

「……そいつ、ブラックラベルだぞ」

「え、マジで?」

「だったら、関わるなよ。どうせ助からねぇだろ」


言葉が空気の中で崩れ、人々はその場を離れ始めた。誰もが、咲さんの首元の黒い光を見て、距離を取る。俺の叫びは、無情にも届かない。


「くそ……!」

「お母さん! お願い、息して!」


咲さんの目がわずかに開き、俺を見た。唇は震え、首の動きは弱々しい。彼女はかすれた声で言った。


「ごめんね…拓也、澪……ごめんね……」


澪はその場で膝から崩れ落ち、声にならない叫びをあげた。手が震え、言葉を失っている。俺はどうにかして救おうと、咲さんを抱きかかえる。体は冷たく、呼吸は浅い。俺には医療の知識も、金もない。咲さんを救う手段が一つも思い浮かばない。


「誰か! お願い! 救急車を呼んで!」

「おい、早くしろ!」


だがそのとき、通行人の一人が吐き捨てるように言った。


「やっぱり……ブラックラベルだ。どうせ助けても金にならねぇ」


その声を聞いた瞬間、周囲の動きは止まった。誰もが顔を背け、スマホの画面に目を落とす。数人だけが無関心に去っていく。残されたのは、俺と澪と、そして薄闇の中で震える咲さんだけだった。


咲さんは何とか口を動かして、俺に最後の言葉を託した。


「拓也……澪のこと、お願い……」


俺の胸の奥が大きく裂けた。目から自然と涙が溢れる。人生で初めて、人前で泣いた気がした。怒りも悲しみも憎しみも混ざり合い、目の前の世界がすべて灰色に見えた。


「任せろ、母さん! 澪は絶対に守るから……!」


だが救いは来ない。咲さんの手はどんどん冷たくなり、最後は軽く俺の指先を握って、ふっと力が抜けた。顔には微かな安らぎが残っていた。きっと――安心したのだろう。俺が守ると約束したから。


澪は嗚咽を漏らしながら、咲さんの顔に触れた。目は虚ろで、か細く震えている。


「お母さん! ねぇ……お母さんってば!」


だが、現実は無情だった。誰も戻ってこない。救急車のサイレンは遠くで鳴ったまま、近づくことはなかった。俺は咲さんを抱き上げ、足を震わせながら家へ向かった。澪は俺の後ろをよろよろと付いてきた。


家に戻る道中、通り過ぎる人々の視線が針のように突き刺さる。誰も声をかけない。世間は、黒い光を放つ首に書かれた烙印だけを見ている。人の命ではなく、ラベルだけが判断基準だった。


家の戸を開けると、狭い部屋の中は夕暮れの静寂に包まれていた。咲さんの身体を床に横たえ、俺は何をすればいいのか分からなかった。澪は布団の隅で震えながら座り込み、顔を手で覆っている。


「母さん……」

「もう、いいよ。母さん、もう痛くないよね?」


澪の言葉を聞き、俺は声を殺して泣いた。泣くことが恥ずかしいと思ったことはなかったが、誰かに見られるのが怖かった。だがこの部屋には、守るべき家族がいる。泣いていても、涙を拭いても、俺の約束は変わらない。


夜が更け、外の街灯が冷たい光を投げかける。俺は咲さんの遺体を抱え、簡素な布に包んだ。葬儀も告別式もない。金がなければ、世間は表立って弔ってくれない。俺は自分の手で、精一杯の別れを用意するしかなかった。


澪はまだ声を失っている。俺はぎこちなく、しかし確かな声音で言った。


「澪……これからは、俺が守る。お前を一人にはしない」


澪は顔を上げ、血走った目で俺を見た。そこには、先ほどまでの虚ろさの代わりに、わずかな光が宿っていた。


「……うん」


二人だけの、小さな誓い。外は変わらず冷たいが、俺の胸には熱いものが残っていた。これは、咲さんが託した重さであり、俺が背負うべき責任だった。


その夜、俺たちは遺体を家の隅に置き、ろくに眠れぬまま明日を迎える準備を始めた。スラムの空は容赦なく灰色で、街は無関心に忙しなく回っている。だが俺の中では、何かが変わった。守るべきものができた今、俺はもう躊躇わない――どんなに世界が理不尽でも。

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