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それにしても、普通――犬に噛まれて死ぬものなのか。私はなんとなくシャーロック・ホームズの長編である『バスカヴィル家の犬』を思い出していた。言われてみればアレも犬が絡んだ事件だったか。ちなみに、数年前に日本でも実写映画化されたが――残念ながらシャーロキアンを激怒させて黒歴史となっている。
仮に死因が狂犬病じゃないとしたら、他に考えられる死因は毒殺だろうか? 犬の歯型はフェイクで、実際は毒殺したうえで遺体を放置した。現時点はでそう考えるしかなかった。
善太郎が置いていった資料によると、被害者の名前は「高梨乃絵瑠」というらしい。キラキラネームか。職業は看護師で、遺体はメリケンパークの噴水広場に放置されていた。
しかし、どうしてメリケンパークのような目立つ場所に遺体を放置したのだろうか? 私にはそれが分からなかった。何より、メリケンパークなら――目撃者は多数いるはずである。
私はなんとなくSNSで「メリケンパーク 噴水広場」と検索した。ついでに「遺体」という物騒なワードも追加した。
玉石混交ある情報の中で、私はある情報が目に留まった。
曰く「拡散希望 メリケンパークの噴水広場で女性が倒れている」とのことであり、恐らく――例の事件で間違いないだろう。投稿日時は12月11日だった。今日は12月13日だから、事件発生から丸2日経っていることになるのか。
というか、どうして善太郎は私にこの事件を託したのだろうか? 何か、思う部分でもあったのか。そんなこと考えても仕方がないのだけれど、やはり考えざるを得ない。
私は善太郎のスマホに連絡を取ってみたが、既読は付かない。当たり前だろう、善太郎の会社――松島電器は勤務時間である。小説家はある意味フリーランスなので、時間に縛られることがない。けれども、普通の社会人は「勤務時間」という縛りがある。それは会社がリモートワークを採用していたとしても当たり前の話である。
スマホを見ると、時間は午後2時になろうとしていた。今の私にできることといえば、やはり小説を書くことだろうか。
相変わらず真っ白な原稿画面を見ながら、ダイナブックの前で頬杖をつく。――ネタが浮かばない。ここは、例の「犬に噛まれた事件」をベースに小説を書くべきか。いや、それは不謹慎だな。
ヤレヤレと思った私は、なんとなくバイクに跨ってメリケンパークの方へと向かうことにした。それで何かが分かるかもしれないと思ったからだ。
メリケンパークの噴水広場には、規制線が張られていた。――実況見分中だろうか。
私は規制線を遠目にして、実況見分の様子を見る。
やがて、刑事の1人と思しき人物が声をかけてきた。
「えーっと、あなたは……卯月先生ですか?」
どうして私のペンネームを知っているんだ? そんな疑問は置いておいて、私は刑事の質問に答えた。
「そうですけど……あなた、誰でしょうか?」
刑事は頭を掻きながら質問に答えた。
「僕の名前は浅井夏樹です。兵庫県警捜査一課の刑事で、早い話が殺人事件の捜査を担当しています」
「なるほど。――私は広江彩香といいます。仰せの通り、『卯月絢華』というペンネームで執筆活動を行っています。もっとも、自分の小説が売れた試しはありませんが……」
「そんなことないですよ! 僕は卯月先生のファンですから! ノベルスから文庫、愛蔵版まで持っていますからね」
「そうですか。――勝手にしてください」
それから、浅井刑事とは色々と無駄な話をしたが、あまりにも無駄が多いので――話の本題へと入っていった。
「それで、噴水広場の前で女性の遺体が発見されたというのは本当でしょうか?」
私の質問に対して、浅井刑事は真面目な顔つきで答えていった。
「本当です。被害者の名前は高梨乃絵瑠という女性で、職業は看護師、年齢は30歳でした。でも、彼女の遺体――妙なんですよ」
「妙? どういうことでしょうか?」
「遺体の首元に、犬の歯型がくっきりと付いていました。僕はこの遺体を見てシャーロック・ホームズの『バスカヴィル家の犬』を思い出しましたが……」
「確かに、アレも『犬の仕業』だと思われていましたからね。結局のところ人の手による事件でしたけど」
結局、そういう風に見るしかないのか。
それから、浅井刑事は私にあることを伝えてきた。
「そうだ。卯月先生なら分かってくれると思いますけど――これ、かなり厄介な事件になると思います。一応、容疑者としてリストアップした人物はこんな感じですが……いずれも決め手に欠けるんです。でも、1人だけ明らかに怪しい人物がいて……」
「それ、詳しく見せてほしいです」
「分かりました。――容疑者の1人である村瀬隆宏さんは、高梨さんと同じ病院に勤務していました。病院はポートアイランドの中にある市民病院です」
「なるほど。――つまり、『痴情のもつれによる犯行である』と見ているんでしょうか?」
「そうですね。もしかしたら、村瀬さん――高梨さんと恋人関係だったのではないかと思いまして」
「ああ、それなら犯行に及ぶ理由も分かるかもしれないですね。でも、犬の歯型はどうやって説明するのでしょうか?」
「そこなんですよ、そこ。実際、現在の日本国内における狂犬病患者はいないに等しいですからね。いたとしたら大パニックですよ」
「それはそうでしょう。――もしかして、私のことを疑ってます?」
「いやいや、そんな訳ないじゃないですか。卯月先生は『事件解決』のために事件現場へ赴いたと思っていますから」
「違います。私はただ単に友人からの言伝で事件現場に来ただけです」
「友人?」
「はい。安仁屋善太郎という昔からの友人です」
私がそう言うと、浅井刑事は――目を見開いた。
「マジですか。名前は聞いたことがあります。確か、先日も大阪で発生した連続殺人事件を解決したとかなんとか……」
「その通りです」
浅井刑事が話す通り、確かに善太郎は大阪で発生した連続殺人事件を解決に導いている。事件は大阪城――というか、大阪ビジネスパークで発生したものであり、ホームレスの首なし遺体が3つ見つかっていた。事件の犯人は大阪ビジネスパークで働いている商社マンであり、本人はあっさり犯行を認めていた。善太郎曰く「犯人の動機は『身分のない人間はこの世に必要ないと思った』とのことだったぜ」と言っていた。私は、その動機を聞いて――「殺すほうがクズだ」と思っていた。
しかし、今回は首なし遺体ではなく犬に噛まれて死んだ遺体である。これじゃあ、事件としてあまりにも不可解な点が多すぎる。浅井刑事がリストアップした村瀬隆宏も怪しいと思いつつ、私は浅井刑事から善太郎に関する話を聞いていた。
「でも、本人は探偵じゃなくて松島電器で働くシステムエンジニアなんですよね。プログラミングをしつつ事件にも首を突っ込むって中々ないと思いますよ」
「それはそうでしょう。彼、どっちが本業か分かっていないですから」
「まあ、卯月先生と安仁屋さんが友人関係にあるということは――鬼に金棒ですからね」
――鬼に金棒って、そんな大袈裟な言い方をしなくてもいいのに。私はそう思った。
これ以上事件現場にいても迷惑になるだけなので、私は芦屋へ帰ることにした。
「卯月先生、何か分かりましたら――よろしくお願いします」
「浅井刑事、分かっています。――どうせ、分からないと思いますけど」
私は、バイクを走らせつつ色々なことを考えていた。
犬の仕業と思しき殺人事件のことはもちろんだけど、善太郎とのこととか、自分の将来のこととか、とにかくネガティブなことを考えていたような気がする。
やがて、バイクは神戸の街を抜けて芦屋へと入っていった。2号線といえども、神戸と芦屋は風景が天と地ほどの差がある。――静かなのだ。
芦屋という街はとても静かであり、常に西宮と「兵庫県住みたい街ランキング」の1位を争っている。でも、正直言って周辺施設が充実しているのは西宮の方だと思う。映画館もあるし、デパートもあるし、何より――野球場がある。芦屋は神戸に依存している部分があるので、正直言って「何もない」。せいぜいメリットがあるとすれば、新快速の停車駅だということぐらいである。
そんなJRの芦屋駅から少し入ったところ――芦屋川の近くに、私の住むアパートがある。築年数は35年と古いが、とりあえず阪神大震災は生き抜いている計算になる。要するに、耐震性能はお墨付きだ。
アパートの駐輪場にバイクを止めて、202号室へと入っていく。そこが私の住居であり、仕事部屋でもあるのだ。
部屋の中へと入り、頬杖をつく。――はぁ。
ダイナブックの画面を見たところで、事件は解決しないし、小説は書き上がらない。
それは分かっているのだけれど、やっぱり自分の中で思う部分が色々とあった。
今の私にできることって、なんだろうか? そう思いながら――私はベッドの上に寝転がった。
天井には丸いLED照明が取り付けられていて、木目が見える。
スマホでhitomiの曲を再生しつつ、なんとなく周りを見渡す。ミステリを書いているということは、当然物騒な資料が目に付く。理系卒ということで、理系のテキストもそれなりにある。私は理工学部の中でも化学を専攻していたので、やはり化学に関するテキストが一番多いだろうか。
思えば、私は小学生の頃からそういう科学的なモノに興味を示していた。常に理科の成績は良かったし、高校に入っても化学の成績は良かった。さすがに生物学と物理学は化学と比べると劣っていたが、それでも悪くはなかった。
しかし、悲しいかな――理系の女性というものは虐げられる運命にある。世界初のコンピュータを創り上げたエイダ・ラブレスは女性だし、ポロニウムとラジウムを発見したキュリー夫人も当たり前だけど女性である。でも、日本において理系の女性は不遇である。私は就活でそういう理系の仕事に就こうと思ったが、やはり蹴落とされるだけだった。
だから、私は嫌になった就活を投げ出して溝淡社に小説の原稿を送った。――結局、原稿を送ったところで溝淡社から見向きはされなかったのだけれど。
スマホが鳴っている。――善太郎からか。
私は、スマホのメッセージアプリで善太郎から送られてきたメッセージを読んだ。
――例の事件に関して、お前の考えを聞きたい。
――ホトケ様は看護師だが、どうもそれだけじゃないらしいぜ?
――お前、「トー横キッズ」という言葉は知っているか?
――「トー横キッズ」は新宿駅でたむろしている浮浪児のことを指すが、その実態は男性を引っ掛けて肉体関係を持つことだ。
――そして、これが神戸になると「阪急三宮駅横のパイ山広場」に変わる。
――オレが調べ上げた結果、どうも高梨乃絵瑠はそういうモノに手出しをしていたらしいぜ?
――ここまで伝えてお前がどう思うかはさておき、オレは高梨乃絵瑠が「パイ山広場」でトラブルに巻き込まれたと思っている。
――以上だ。
なるほど。確かに、阪急三宮駅のパイ山広場は――治安が悪い。昔は待ち合わせ場所として神戸市民から愛されていたが、最近ではそういう身寄りをなくした子どもたちの居場所になっていると聞いた。これが大阪なら「グリ下」だし、京都なら「鴨川」になる。善太郎の意見が正しければ、高梨乃絵瑠は――そういう人物なのだろうか。
メッセージを読んだ上で、私は善太郎のスマホに返信した。
――確かに、安仁屋くんの言う通りだと思うけど……私、兵庫県警の刑事さんに会ったの。名前は浅井夏樹って名乗ってたわ。
――それで、浅井刑事の話によると「仕事の同僚である村瀬隆宏が怪しい」って言ってたの。
――安仁屋くん、何か村瀬隆宏に関する手がかりは掴んでない?
これでいいか。多分、返事はそのうち来るだろう。
*
しばらくして、スマホが短く鳴った。――善太郎から返信が来たらしい。
――村瀬隆宏か。残念だが、オレはソイツのことを知らねえ。
――でも、仕事仲間と考えると……怪しいな。
――そうだ、件の刑事は他に容疑者と思しき人物をリストアップしていないか?
――もしも、リストアップしていたら何か証拠を寄越してくれ。
――オレの方で調べ上げるぜ?
えーっと、浅井刑事は――5人ほど容疑者をリストアップしていたか。いずれも怪しい人物であることに変わりはないが、どれも決め手に欠けると言っていたか。
私は、浅井刑事がリストアップしていた容疑者リストを思い浮かべた。
・容疑者1人目 村瀬隆宏
ポートアイランドの中にある市民病院でレントゲン技師として働いていた。
・容疑者2人目 菊池沙奈恵
プロブレイキン選手。高梨乃絵瑠が殺害された時に公園でブレイクダンスをしていた。
・容疑者3人目 坂口康史
職業不詳。ちなみに本人は「教祖」と名乗っていた。
・容疑者4人目 諸星すみれ
高校生。事件発生時に噴水広場の前にいた。
・容疑者5人目 桐山悟
お笑い芸人。お笑いコンビ「デニージョップ」のボケ担当。
――こんなもんか。浅井刑事が言っていた通り、確かにどれも決め手に欠けるな。一番怪しいのは村瀬隆宏だが、彼が殺人を犯した証拠はどこにもない。
私は、そういう旨の話を善太郎のスマホに送信した。
――というわけで、刑事さんが言ってた怪しい5人はこんなものよ。
――一応、資料も添付しておくから……何か分かったら教えて。
多分、ここまでやったら善太郎は分かってくれるだろう。そう思いながら、私は再びベッドの上で寝転がった。
それにしても、遺体に付いていた犬の歯型が気になって仕方ない。というか、本当に犬が凶器なのか? 他に、もっと――別の何かがあるのではないか。
そんなことを思いながら、私は照明の消えた天井を見上げていた。
――窓には、夕日の光が覗き込んでいた。