え?王太子妃になりたい?どうぞどうぞ。
困ったわね……。
でもこれ以上一刻の猶予もないのだから、腹を括る時が来たのかもしれないわ。
思えばこの膠着状態をもう三年も続けているのだ。
公爵令嬢のアイリーンは、すっかり冷めてしまった紅茶を口に運びつつ、周囲の様子をさりげなく窺う。
彼女の視線の先には、同じく薄々とタイムリミットに気付いているであろう、一様に泣きそうな表情で俯く令嬢――その数九名。
いずれもこの国有数のやんごとなき家柄の娘たちである。
アイリーンはその中でも一番家格が高いことから、自然とこのメンバーのリーダー的立ち位置に担ぎあげられていた。
今日もお茶会と称して、ここ公爵家のタウンハウスに彼女らを呼び集めたのもアイリーンである。
というか、こんな国家にとって重要な事案を私みたいな小娘に丸投げするってどうなのよ?
私自身も候補の一人だっていうのに……。
まあ、うちの国は特殊だから仕方ないのかしらね。
諦めたように遠い目をしたアイリーンはふぅっと溜息をこぼすと、最初の挨拶以降は誰も口を開こうとしない、この異様なお茶会の口火を切ることにした。
「皆様、悲しいお知らせですが、いよいよ時間切れのようです。陛下からも『早急な決定を』と結論を促すお言葉がありました。今まで何度もお集まりいただき、ありがとうございました。でもそれも今日で最後です。私たちはこの場にて一人を選出せねばなりません」
アイリーンが沈痛な面持ちながら、凛とした口調で切り出せば、一斉に顔を上げた令嬢からは悲痛な声が上がった。
「そんな……なんとかなりませんの? まだ心の準備が……」
「そうですわ。遺恨を残さない為にも、もう少し話し合いの時間が必要だと考えます」
「ええ、私どもの人生がかかっておりますものね」
口々に発言される内容は確かに尤もな言い分ではあるが、かれこれ三年も同じことを繰り返しているとさすがに耳にタコ状態だった。
のらりくらりとはぐらかし、結論をずるずると先延ばしにした結果、今日まで来てしまった。
それはもちろん、アイリーンにもその一因はあるわけで。
彼女たちの切実な思いは痛いほど理解できたが、心を鬼にする時が来たようだ。
「そうは言っても、年貢の納め時と言いますか……さすがにもう潮時のようなのです。皆様、ご理解くださいますよう」
もう一度念を押すように、アイリーンはあえて突き放す言い方をした。
非情な言葉だが仕方がない。
「あと少し……あともう少しだけでも」
「なんだかんだでこの三年間、わたくしたちはこうやって顔を合わせておりましたでしょう? すっかり仲間意識のようなものが生まれてしまって……」
「わかります! 仲間を売るような真似はできませんわ!」
それはアイリーンも同じ気持ちだった。
年齢も近く、似たような環境で育ってきた候補者仲間――このメンバーには並々ならぬ親近感と連帯感を感じずにはいられない。
三年前の顔合わせの時には、あわよくば誰かに押し付けてしまいたいなどと思っていたのに、今となっては胸が痛くてとてもそんなことは出来そうにもなかった。
さあ、終わりにしましょうか。
仲間を守れると思えば悪くもないわね。
元々、いざとなったら公爵家の自分が名乗り出るべきだと思っていたもの。
貴族に生まれた時から、この身は国に捧げるものだと覚悟はしていたわ。
この決断が、ひいてはあの方を守ることにも繋がるのならば……。
すっと立ち上がると、アイリーンはテーブルを見回し、毅然とした態度で宣言した。
「わたくしが王太子妃になります」
高位の令嬢たちが三年もの間、候補でありながらこぞって嫌がっていた立場ーー王太子妃の座に就くことを、アイリーンは胸を張って自ら受け入れた。
胸にまだ残る淡い初恋の面影を振り切るようにーー。
◆◆◆
『大きくなったら王子様と結婚するの』
そう夢見るまだ幼い貴族令嬢が、世界各国には数多存在しているに違いない。
甘く微笑む王子にキラキラと美しいドレス、広大な城には豪奢な家具と優秀な使用人……。
誰もが着飾り、華麗な舞踏会でダンスを踊る未来の自分を想像し、胸を躍らせるものだ。
貴族の娘に生まれたならば、誰もが憧れるであろう王子妃――その座を狙う多くの令嬢たちによる熾烈な争いは、果ては国を揺るがす大事件に発展する場合だってあるほどだ。
……それが普通の国ならば。
普通の国に当てはまらない、ここバラン王国において、王子妃――ましてや王太子妃になりたいなどと願う娘は皆無だった。
それは王太子が醜いからでも、性格に難があるからでもなく――。
理由はただ一つ。
バラン王国がラキュール帝国の属国だからである。
ラキュール帝国は、大陸でダントツの力を誇っている巨大な国だ。
圧倒的な軍事力で近隣諸国を支配下に置き、富と権力を握っている。
それを可能にしたのが百年ほど前からラキュール帝国のみで発掘されるようになった高性能の魔石で、この魔石に魔力を封じ込めたものを他国に売ることで、ラキュール帝国は瞬く間に発展してきたのだった。
魔石がなければ明かりを灯すことも、水を浄化して使うことも一苦労のこの世界では、ラキュール産の魔石がなければ日常生活すらままならなくなってしまう。
よって、高額だろうと輸入しなければ死活問題であり、万が一皇帝の機嫌を損ねて魔石の販路を失おうものなら、この国は衰退するしかない。
魔石というライフラインを握られている近隣諸国は、必然的にラキュールの属国となるしか道が無かったのである。
バラン王国が属国であることは今更仕方のないことだが、問題はラキュール帝国の皇族の態度にあった。
先々代の皇帝の頃からか、やたら高圧的で攻撃的になり、他国に対して横柄な態度をとるようになったのである。
一年に一度は他国を視察してまわる皇帝は、立場を思い知らせるように他国の王族に対して罵声を浴びせ、跪かせたりするのだ。
自国の貴族の前で恥をかかされ、理不尽な扱いを受けても、魔石を融通してもらう為に甘んじて受け入れるしかない王族たち……。
そんな姿はとても痛々しく、バラン王国の貴族ももちろん目を逸らしたいほど辛かった。
国民の代表として皆の前で従順な態度をとる国王や王太子に対し、現在の皇帝は特に態度が悪く、機嫌が悪いと暴力をふるい、平伏させることまであるのだ。
そんな王太子の元へ嫁ぎ、共に皇帝へひれ伏したいと望む有力な貴族令嬢がいるはずもなく。
こうして「王太子妃候補の会」は進展のないまま三年も続いてしまったのである。
貴族としての義務だとわかっていても、まだ若く美しい令嬢らには耐え難きことに思われたのだ。
◆◆◆
「わたくしが王太子妃になります」
アイリーンが宣言したことで、ざわついていたお茶会の場には静寂が広がっていた。
他の令嬢は目を丸くして口を押えている。
そんな中、最初に我に返ったのは侯爵令嬢のエリスだった。
彼女はアイリーンの幼馴染みで、候補者仲間の中でもとりわけ仲が良かった。
「何をおっしゃっているの!? そんなことさせられませんわ!」
「エリス様、以前から考えていたことなのです。父を公爵に持つわたくしが王太子妃になるべきなのですわ。わたくしの優柔不断のせいで皆さまには長らく不安な思いをさせてしまって……」
「馬鹿なことをおっしゃらないで! あなた一人を犠牲にするような真似、絶対に許しませんわ!」
エリスの言葉を受け、他の令嬢たちも会話に加わってきた。
「アイリーン様のお気持ちは嬉しいですが、それでわたくしたちが喜ぶとでも?」
「候補者なのはみな同じなのですから、今更爵位は関係ありませんわ」
考え直すように迫る令嬢らの気持ちは嬉しいが、アイリーンも覚悟を決めた上での発言である。
「あ、そう?」などと簡単に覆すわけにはいかない。
「皆様のお心遣いには感謝いたします。でも他に道がないのです。わたくしの決意は変わらないので止めても無駄ですわ」
「アイリーン様!」
「そんなの嫌です!」
十名それぞれが声を上げて主張を始め、もはや淑女の集まりとも思えぬ騒がしさの中、ふいにサロンの扉が控えめにノックされた。
――が、彼女たちは誰もその音に気付かない。
それどころではないのだ。
「……あのぉー、お茶会ってここで合ってますか?」
突然、シリアスな場面にそぐわない間延びした声が響いた。
緊張感のない声が聞こえ、あまりの違和感に思わず動きを止めたアイリーン。
扉からピョコっと顔を出しているのは、ふわふわしたピンク色の髪が可愛らしい女の子だった。
まだ十五、六歳くらいだろうか、集まっていた他の令嬢よりもやや若く見える。
『この娘、誰!?』
同じく驚き、口を噤んだ皆の共通の思いを代表して、本日の主催者であるアイリーンがまず彼女に問いかけてみる。
さきほどまでの淑女にあるまじき姿を打ち消すように、ことさら優しく、しとやかに……。
「ええ、間違いございません。わたくしはこの屋敷の娘、アイリーン・オルケットですわ。失礼ですが、あなたは?」
「あ、私はユリアですっ。レイヤード男爵家に引き取られたばかりなんですけど」
どうやら平民から男爵令嬢として迎え入れられたばかりらしく、令嬢になりたてのほやほやなのだという。
どうりで見覚えのない顔のはずだ。
子供らしい動作は彼女に似合っていて微笑ましいが、確かに貴族の娘っぽくはなかった。
「ああ、そういえばそんな噂を聞いたような……」とエリスが頷いているが、問題はそこではない。
何故今日のお茶会の予定を知っていて、ここに現れたのかである。
王太子妃を決めるという国にとっては重要機密にあたる為、今日のお茶会は非公式にこっそりと行われていたはず。
「ユリア様はどうしてこの場所に? お茶会のことをご存じだったのですか?」
「ああ、それは――」
ごそごそと手紙を取り出したユリアは、アイリーンに手渡した。
何事かと他の令嬢もアイリーンの側まで集まってくる。
「王家の封蝋? わたくしが拝見してもよろしいのですか?」
「はい、アイリーン様にお見せしろってお父様が」
「そうですか……。では失礼しますね」
もちろん開けられた形跡はあるが、男爵宛の手紙を読むのは気が引ける。
しかしそうも言ってはいられないので、アイリーンは意を決して中の手紙を取り出した。
ちなみに、封蝋はアイリーンに国王から届く手紙と同じものである。
「ええと……ユリアも候補者に加える……オルケット家の茶会に参加するように……!?」
「ええっ?」
「どうしていまさら……」
内容を掻い摘んで読み上げると、周囲から困惑したような声が漏れたが、一番動揺しているのはアイリーンだ。
はあっ!?
陛下ってば、ここにきてどうして新たな候補者を増やすのよ?
あ、なかなか王太子妃が決まらないから、よく状況を知らないこの娘に押し付けてしまおうって魂胆ね?
ようやく私が腹を括ったところなのに!
苛立ちを抑えてアイリーンは優雅にユリアに微笑む。
「ユリア様、せっかくいらしていただいたのですが、もう決まったところですの。せめてお茶を楽しんでいかれるとよろしいわ。お菓子も色々ありますのよ」
「えっ? もう決まったのですか?」
「ええ、わたくしに」
手紙をユリアに返しながらアイリーンがはっきりと言い切ると、エリスを始めとする令嬢たちがまた騒ぎ出した。
「まだ決まっていないと言ったでしょう?」
「そうですわ、話は終わっていませんわ」
埒が明かないと思ったアイリーンは、パンッと手を大きく叩くと、有無を言わさない口調で再び高らかに宣言した。
「わたくし、アイリーン・オルケットが王太子妃になります! 皆様はもうお黙りになって!」
すると、頑ななアイリーンの態度に腹を立てたのか、エリスがなかば投げやりな口調で言い捨てた。
「だったら私がなってやるわよ、王太子妃に!」
それを聞いた令嬢が、感化されたように口々に乗っかる。
「だったらわたくしが!」
「いえ、私よ!」
「私がなります!」
「あら、わたくしよ!」
「私でもいいはずですわ」
「あたくしが皆を守ります!」
「私にお任せを!」
「わたくしが代表して――」
何やらおかしなことになってしまった。
なんとアイリーン以外の九名も、全員自分が王太子妃になると言い出したのだ。
これではもはや取り合い状態である。
意味がわからない。
「あ、あの、皆様落ち着いて? 冷静に――」
「あのぉ、じゃあ私がなりますっ!」
落ち着かせようとしたアイリーンの耳に、ユリアの楽しそうな声が聞こえた。
気付けば、本日初対面の男爵令嬢ユリアまでもが参戦している。
ますます意味がわからない。
ピシッと元気良く手まで上げているが、そもそも彼女はこれが何の集まりかわかっているのだろうか。
不安に思ったアイリーンが、「ユリア様はご自身が何の候補かわかっていらっしゃるのですか?」と、基本的な問いかけをしようとした時だった。
「あら、ではユリア様におまかせしましょうよ」
エリスが、アイリーンが言葉を発する前にとんでもない台詞をぶちかました。
は?
なんだかエリス様がいい笑顔ですごいことを言い出したわ。
さすがにそれは……と思っていたアイリーンだったが。
「そうですわね!」
「どうぞどうぞ」
「喜んでお譲りしますわ、ユリア様」
「ええ、どうぞ」
「どうぞどうぞ!」
あれほど「自分が!」と言っていたはずの彼女たちが、あっさりとユリアに王太子妃の座を譲りだしたではないか。
ユリアも「え、いいんですか? やったぁ」などと喜んでいる。
いやいやいや、いくら渡りに船と言ってもそれはないでしょう。
何が「どうぞどうぞ」なのよ。
あなた方、変わり身が早すぎるわ。
ユリア様も喜ばないで!
さすがに引き取られたばかりの男爵令嬢に、一国の王太子妃が務まるはずがない。
いずれは国王を支える王妃になるのだから。
きっとユリアは何も知らずにノリで会話に参加しただけで、王太子妃になったらどういう目に遭うのか知らないに違いない。
これでは騙し討ちのようで寝覚めが悪いではないか。
「ユリア様、わたくしたちが何の候補なのかは理解されていますか?」
「うーん、実はよくわからないままここまで来たんですけど、王太子妃って言っているのが聞こえたので、王子様の結婚相手かなぁって」
「ええ、そうです。わたくしたちは王太子妃候補なのです」
「やっぱり! それでみんな王子様のお嫁さんになりたいって立候補していたわけですね。納得ですっ! あ、だったら急に私が横取りするのはまずいですよねぇ……」
思いっきり誤解しているユリア。
確かに部屋に入ってきたタイミング的に、王太子妃の座を皆でとりあっているように見えたかもしれないが、実際は嫌がり過ぎて一周回ってヤケを起こした令嬢の成れの果て――ただの暴走劇である。
しかしそうとは知らないユリアはしゅんと落ち込んだ様子で、やっぱり王太子妃の座は辞退すると言い出した。
それを黙って聞いているはずのない他の令嬢たち。
「横取りだなんてとんでもない!」
「陛下御自らユリア様を推薦なさったのですから、もっと自信をお持ちになって!」
「そうですわ、王太子妃はユリア様こそふさわしいと思います」
「私どもは喜んで身を引きますわ」
ちょっとちょっと、そうやってすぐにユリア様に押し付けるのはよくないわよ?
彼女が何も知らないからって。
……気持ちはわかるけれども。
溜め息を吐いたアイリーンは、ユリアに正直に打ち明けることにした。
「ユリア様はご存じないかもしれませんが、我がバラン王国の王族へ嫁ぐには色々と覚悟が必要なのです。わたくしたちはその決心がつかず、三年も候補者のまま話し合いを続けてきました」
「覚悟? じゃあ皆さんは覚悟とやらができたから争っていたのですね。じゃあやっぱり私にはまだ早いかぁ」
んん~?
そうなんだけれどそうじゃないというか、なんだか微妙に通じていない気が。
どうしても王太子妃の座を取り合っていると思われてしまうのね。
アイリーンはなんだか唐突に全てが面倒になり、言葉を選ぶのを諦めた。
こうなったら不敬でも構わないから、さっさと状況を正確に伝えてしまいたい。
「この際、ざっくばらんにお話しします。わたくしたち、王太子妃になりたくなくて三年も揉めていました。全員、本気で嫌がっているのです」
同意を示すように頷く令嬢たち。
「えっ? 嫌なんですか? でもなんで? あ、もしかして王子様って格好良くないとか?」
率直な物言いを始めたのはこちらだが、ユリアもなかなかに失礼である。
「いえ、そのようなことはありません。殿下は内面の優しさが現れている素敵なお顔です」
決して顔が整っているとは言わない正直者のアイリーン。
王太子はキリリと厳しい国王の顔と、ニコニコ可愛らしい王妃の顔を足して割ったからか、とても……普通の顔だった。
またまた頷く令嬢たち。
「そうなんですかぁ。じゃあ性格に問題があるとか?」
「いえ、そのようなこともありません。とてもお優しい方です」
「うーん、だったらなんでそんなに嫌なのかなぁ。あ、これは義母が怖いパターン? 姑に虐められるのは確かに嫌かも」
とうとう王妃が悪者になってしまった。
これは早々に真実を教えなければと、アイリーンはバラン王国の立場とラキュール帝国との特異な関係性について簡潔に説明を始めた。
◆◆◆
「つまりー、王子様と結婚すると怖いおじさんにビシバシ折檻される……と」
「……わたくし、そんなこと言いましたか?」
しかしかなり脚色されてはいるものの、あながち間違ってはいない――気もする。
姑の話といい、ユリアが変な小説に感化されているのだけは確かなようだ。
「なるほどなるほど、了解ですっ。そのバキューム帝国のおじさんが怖いから、みなさん王太子妃になりたくないってことですね?」
「ラキュール帝国ですわ……。でもまあ、そういうことです」
なんとか理解してくれたようだ。
これで王太子と結婚したいなどと言わなくなるはず――
「私、やっぱり王太子妃になりたいですっ!」
「はあっ!?」
全然わかっていなかった。
「あなた、わたくしの話をちゃんと聞いていました? 辛い思いをするのですよ?」
「でも一年に一度の視察の時だけですよね? 他は悠々自適ってやつですよね?」
「ま、まあ、確かに大変なのは皇帝が滞在されている間ですけれど、その他も決して遊んで暮らせるわけでは……」
「でも衣食住には困らないんですよね?」
「それはそうですね。でも土下座とかさせられるかもしれませんよ?」
「土下座!?」
わざと脅かすつもりでアイリーンは言ってみる。
意地悪かもしれないが、現実を知らないとあとで困るのはユリア自身なのだ。
ふうっ、さすがに土下座はショックだったようね。
当たり前だわ。
黙り込んだユリアを気の毒に思ったアイリーンが、慈悲深い面持ちで顔を覗き込んでみると……何故か目を輝かせている。
周囲も思いもよらないユリアの表情に、呆気に取られているようだった。
「ユ、ユリア様?」
「私、土下座得意なんです!」
いやいや、そんな堂々と自慢されても!
得意ってどういうことよ?
え、もう経験済み!?
言葉を失くす令嬢らの前で自信満々に語るユリア。
「まさか貴族になっても土下座が役に立つ時が来るなんて。あっ、私、土下寝もいけますから!」
「ど、土下寝とは何ですの?」
誇らしげに胸を反らすユリアに、エリスが興味深そうに尋ねている。
だから問題はそこではないと思う。
「ユリア様、本当に王太子妃になりたいのですか? 後悔なさいませんか? 大勢の前で罵倒されたり、女といえど殴られる可能性だってあるのです」
「わかってます。でも一年の大半は何もされないんですよね? それに、私が一番そういうのに抵抗無さそうだし」
確かにそれは否定できない。
大切に育てられてきたこの「王太子妃候補の会」メンバーに、そんな耐性など無いに等しい。
それにしても、ユリアが今までどんな人生を歩んできたのか不安になってしまう。
「アイリーン様、ユリア様がここまでおっしゃるのですから、お願いしてしまいましょうよ。マナーなどはこれからいくらでも身につくだろうし。それに、あなたには他にずっと想っている方がいるでしょう?」
「えっ、どうしてそれを」
動揺するアイリーンに、ニマニマと笑うエリス。
見回せば、他の令嬢も意味深に微笑んでいた。
「アイリーン様には好きな人がいるのですね! じゃあ王太子様のことは大船に乗ったつもりで私にドドーンとお任せくださいっ!」
実際にドーンと胸を叩く姿には一抹の不安を感じるが、ユリアなら案外うまくやるかもしれないとアイリーンは思い始めていた。
こうして、ユリアが王太子妃になることが決まり、「王太子妃候補の会」は解散となった。
お役御免となった令嬢らは、すでに結婚適齢期に差し掛かっていることもあり、すぐに他の令息との婚約に奔走し始めたらしい。
エリスもちゃっかり幼馴染みの令息と婚約を結び、次はアイリーンの番だとせっついてくる。
正直、すでに王太子妃への覚悟を決めていたアイリーンには、まだ自由になった実感など無い。
しかし、そのぽっかりと空いてしまった心に浮かぶのは、忘れようとしていた初恋の青年の姿だった。
お元気かしら?
結婚したという話は聞いていないし、元々一生独身で通すと仰っていたものね。
あの方にとって、今の私の状況なんてもう興味もないことだろうけれど。
アイリーンの胸に、かつての温かさと切なさの記憶が蘇ってくる。
ユリアの王太子妃お披露目の場で再会するであろう初恋の人を想うと、胸が高鳴るのを抑えられなかった。
初恋が再び動き出そうとしていた。
◆◆◆
アイリーンの初恋は今から五年前、まだ十三歳の頃。
王宮勤めの父の忘れ物を、母と共に届けたことがあった。
数えるほどしか足を踏み入れたことのない王宮に心を弾ませていたアイリーンが、一番興味を持っていたのが図書室だった。
父におねだりしてどうにか入室許可を手に入れ、こっそりスキップをしながら図書室へ向かっていた時のこと。
「楽しそうだね。君も図書室へ行くの?」
声がしたほうへ顔を向けると、分厚い本を脇に抱えた青年が立っていた。
アイリーンよりは二、三歳年上だろうか、線が細く、まだまだ成長途中に見える。
「はい。ここには貴重な蔵書がたくさんあるとお父様が……」
「へえ。女の子は庭園のほうが好きかと思っていたけど、君みたいな子もいるんだね。良かったら図書室を案内するよ」
「あ、ではお願いいたします」
なんだか成り行きでついていくことになったアイリーンだったが、頭の中では少ない記憶の中から一生懸命彼の正体を引っ張り出そうとしていた。
どこかで見たことのある顔なのだけれど、どなたかしら?
あまり外出する機会もないし、貴族の知り合いも少ないはずなのに。
斜め前を歩く青年の横顔をこっそり観察していたアイリーンだったが、唐突に気付いてしまった。
彼に国王の面影があることを……。
も、もしかして、王弟殿下!?
お会いしたことはないけれど、陛下には年の離れた弟がいらっしゃるって聞いたような。
え、私、殿下に案内させているの?
焦ったアイリーンがなんて声をかけようか悩んでいると、図書室に到着した王弟殿下が扉を開けて待ってくれていた。
さすが王族、若くても女性の扱いに長けている。
「ありがとうございます。あの、王弟殿下のジェラルド様ですよね? そうとも気付かずに大変失礼いたしました。わたくしはアイリーン・オルケットと申します」
押さえてくれている扉から身を滑らせ、入室したアイリーンはまず謝罪をした。
いくら社交界デビュー前の娘であっても、王弟に気付かなかったのは非常にまずい。
「いや、構わないよ。僕は公の場にあまり出ないからね」
「でも……」
「王弟と言っても兄とは年も離れているし、ほら、僕はあんなに怖い顔ではないだろう?」
「それは確かに……いえ、決して陛下の顔が怖いと言うのではなく!」
気軽な口調と優しい雰囲気に油断したアイリーンは、ぽろっと余計なことを言ってしまった。
手をブンブン振りながら否定していると、必死な様子がおかしかったのか、ジェラルドが笑い出した。
「あははっ、そんなに困らなくていいよ。兄上の顔が怖いのは事実なんだから。ああ見えて中身は優しいんだよ?」
「そうなのですね。でもジェラルド様のお兄様なのですから、優しいというのはわかる気がします」
会ったばかりだが、ジェラルドが王族でありながら優しい人間だということは理解できた。
まだ若いからか、国王と面立ちが似ていても厳しい印象を受けることもない。
「それで、アイリーン嬢はお目当ての本でも? 公爵家にもそれなりに書物はありそうだけど」
父のことも知っているらしいジェラルドは、不思議そうに尋ねてくる。
アイリーンは図書室を訪れた目的を話すことにした。
「父がよく言うんです。この国でも高性能な魔石が採れれば、陛下たちが苦しまずに済むのにって」
「そうか、公爵が……。じゃあ君も魔石関係の本を?」
「はい。とっくに調べ尽くしているに決まっていますが」
「……ありがとう。僕たちの為に。その気持ちが嬉しいよ」
淡く微笑んだジェラルドが、持っていた本をアイリーンに見せた。
それは鉱石に関するもので、彼も魔石について調べていたことが窺える。
「ジェラルド様も調べていらっしゃったのですね。何かわかりましたか?」
「いや、新しいことは何も」
「そうですか……。でも諦めてはいけませんよね! こんなに本があるのですから、まだ埋もれているものや、見落とされている箇所があるかもしれません!」
希望を失わないアイリーンの姿に、ジェラルドも笑顔で頷く。
「そうだな。諦めたらそこで終わりだ。アイリーン嬢、僕と一緒に魔石に関する書物を調べてくれるかい?」
「喜んで!」
こうして、アイリーンは時々王宮の図書室を訪れては、ジェラルドと時間を過ごすようになった。
回数を重ねるごとに、自分のことも話してくれるようになったジェラルド。
「では、ジェラルド様には婚約者がいらっしゃらないのですか?」
「ああ。結婚する気がないからね。僕と結婚したら、妻にも辛い思いをさせてしまうから。でももしラキュール産の魔石に代わるものが見つかれば、家族は救われる。年近い甥も、そのうち決まる彼の結婚相手も」
考えてみれば、王族の一員であるジェラルドはラキュール帝国の皇帝をもてなす側の人間であり、非情な仕打ちの犠牲者でもあるのだ。
優しい彼が、自分のような思いを妻にさせたくないと考えるのは当然だった。
ジェラルド様なら、絶対いい旦那様になるのに。
でも甥にあたる王太子様のことまで考えていて、本当に立派な方だわ。
家族を救う為に魔石を探すジェラルドに胸を打たれたアイリーンは、一層身を入れて書物を読み漁るようになった。
そうして二年が経過しーー
十五歳になったアイリーンは、ある日父から告げられた。
「王太子妃候補に選ばれた」と。
「ジェラルド様、わたくしがこの図書室を訪れるのも今日が最後になります。今までありがとうございました。もうご一緒はできませんが、新しい魔石が見つかることを祈っております」
「アイリーン嬢……」
辛そうな表情のジェラルドを見ていられなかったアイリーンは、それだけを告げると踵を返した。
王太子妃候補に選ばれてしまったことより、もうジェラルドと二人で笑いあえないことの方が悲しかった。
足早に立ち去ろうとするアイリーンをジェラルドが呼び止める。
「アイリーン嬢、僕が絶対新しい魔石を発見してみせる。たとえ君が王太子妃に選ばれたとしても、辛い思いなどさせない。約束する。絶対守るから。だから……」
一生懸命言葉を紡ぐ姿を瞳に焼き付けると、アイリーンは精一杯の笑顔でジェラルドを見つめた。
きっと新しい魔石なんてもうこの世界にはないのだわ。
でもジェラルド様の言葉が嬉しい。
ああ、私、ジェラルド様が大好きだったわ。
結婚できなくても、もっとそばに居たかった。
でも私は王太子妃候補だから、この思いは忘れないと。
こうして、アイリーンの初恋は胸の奥へとしまわれたのだった。
◆◆◆
ユリアのお披露目の日がやってきた。
十八になったアイリーンは、久々の王宮に懐かしさを感じていた。
ここにくると、忘れようとしていたジェラルドとの記憶が否が応でも蘇ってくる。
思い出に浸っていると、国王夫妻に続いてユリアが現れた。
エスコートをする王太子とはうまくいっているようで、時折二人で微笑みあう姿が初々しい。
仲がよさそうで安心したわ。
皇帝との面会はまだ先だけれど、ユリア様にお任せして正解だったみたいね。
なんだか勝手に姉のような気分で見守っていると、急に辺りが騒がしくなった。
「ジェラルド殿下のお帰りだ!」
「とうとう殿下が発見されたそうだ!」
ジェラルド様、どこかへ行ってらしたのかしら?
それに発見したって何を?
王太子妃候補となってから、ジェラルドの情報を断っていたアイリーンには、何が起きているのかわからなかった。
騒々しい人々の中、大人しく佇んでいると、長身の男性が国王の元へと向かっているのに気付いた。
後ろ姿だけでも逞しい体付きだとわかるその人は、しっかりとした足取りで国王の前まで進むと、何かを見せながら話している。
皆でしばらく様子を見守っていると、徐に振り返った男性が広場を見回し、アイリーンの位置でその視線を止めた。
え?
あれは……ジェラルド様?
体型が変わっていてわからなかったわ!
会わない三年の間に、ジェラルドはすっかり逞しい成人男性になっていた。
精悍さを増した顔は、凛々しくも格好良い。
「アイリーン嬢!」
何故かこちらに駆け寄ってくるジェラルド。
意味がわからず動けないアイリーンの周囲は、気を利かせたのか道を空けるように人が離れていく。
「アイリーン嬢、待たせてしまったけど、やっと見つけたよ」
「ジェラルド様。……ええと、何をですか?」
「ははっ、約束しただろう? ラキュール産を凌駕する新しい魔石さ! これで君が苦しまずに済む」
なんと、ジェラルドはずっと一人で魔石を調べ続け、発掘調査までしていたらしい。
アイリーンとの約束を守る為に……。
逞しい風貌に変化しているのも、過酷な発掘作業のせいだった。
「ジェラルド様、三年も前の約束を覚えてくださっていたのですか?」
「当たり前だろう」
「ありがとうございます。ユリア様が傷つかずに済むのは嬉しいです。もちろん王族の皆さまも」
本当に良かった!
新しい魔石があれば、もう皇帝に頭を下げる必要もないし、属国に甘んじることもないものね。
ジェラルド様が土下座させられることもないんだわ。
安堵の思いでニコニコと微笑むアイリーンに、ジェラルドが拗ねたように言う。
「君の為に探し当てたんだけど?」
「え? あ、せっかく見つけていただいたのに、王太子妃に選ばれず申し訳ございません」
「いや、違う。確かに新しい魔石さえ見つかれば、君が王太子妃になっても守れると思った。でも、本当は僕が君と結婚したくて探していたんだ」
え?
わたくしがジェラルド様と結婚?
「でも、結婚する気はないと以前仰っていましたよね?」
「ああ、昔はね。でも君を愛してしまったから、絶対に魔石を見つけたくなったんだ。アイリーン、もう皇帝に横暴な真似などさせないから、僕と結婚してくれないか?」
掌を上にして差し出すジェラルド。
どこか自信なさそうな顔に、思わずアイリーンは泣き笑いになってしまう。
返事なんて決まっているのに。
わたくしの心にはずっとあなたしかいなかったのだから。
アイリーンは足を踏み出すと、勢いよくジェラルドに抱き着いた。
驚きながらも力強い腕がしっかりと抱きとめてくれる。
「あなたを愛しています! 王太子妃への覚悟を決めたのだって、近くであなたを守りたいと思ったからなのよ?」
「アイリーン、君のそのタフで前向きなところに惹かれたんだ。もう離さない」
「喜んで!」
息子の婚約に新魔石の発見、弟の恋愛成就ーー
王妃の肩を抱きながらいつになく優しい顔を浮かべる国王の掌で、輝く未来を暗示するように魔石がキラリと輝いていた。
次回は押すなよ!を元にしたお話を……嘘です。
お読みいただきありがとうございました!