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人の数だけ世界がある

 2023年も終わろうとしていますが皆様いかがお過ごしでしょうか。僕は仕事が忙しくてTwitterもあまり見てません。


 さて、唐突ですが僕は人間の数だけ世界が存在すると思っています。これを説明するにはクオリアという概念の説明が必要になります。

 クオリアとは、我々の感覚と捉えるのがわかりやすいかと思います。


 例えば、赤といった時何を想像するでしょうか。火? いちご? ポスト? なんでもよいです。あなたは今、頭の中に赤い色をイメージしたと思います。その「赤い感覚」がクオリアです。


 科学的に言えば、色というのは光の波長の違いに過ぎません。光は波の幅によって呼び方が変わります。人間の目に見える範囲を可視光線と呼び、波の幅が長い(=エネルギーが弱い)と赤く見えます。さらに波の幅が長くなると、人の目には見えなくなります。赤い色として認識できる光の波長の「外側」に行ってしまったから赤「外」線と呼ぶのです。紫外線も同様です。


 とまあ長々と説明しましたが、今した説明の中には、あなたが頭の中に思い浮かべた「赤い感じ」を説明する要素はありません。


 もう少し詳しく説明します。

 りんごが赤いと人が感じるまでには、たくさんのステップがあります。まず、りんごに光が当たります。この光には、複数の色が含まれています。それらの光の中から、りんごは赤い波長の光だけを反射し、それ以外は吸収してしまいます。すると、りんごにあたって反射した光は赤い色の波長のみになります。これが人間版カメラである眼球に入り、視神経から脳に伝わります。注意点として、我々は眼球がとらえたものをそのまま映像として見るわけではありません。脳内で色々な処理が行われた上で、我々の意識が映像として見ることができます。

 一度脳が処理するからこそ、錯視のような遊びも成り立つわけです。他にも人間の意識は神経を通って脳の処理の後で現実を認識することから、意識は現実よりも遅れます。ですがそれでは生きていけないので、リアルタイムに感じられるような処理も脳がやっているという話もあるのですが、まあそれは置いておいて。


 ここまできてようやくあなたの脳に赤い色が映るわけです。


 このように説明すると明確になりますが、現実に存在しているりんごと、我々が眼球がとらえて脳内で映像として見ているりんごは全くの別物です。

 例えば、ある人がりんごの写真を撮ったスマホを見せてきたとしたらどうでしょう。現実のりんごとりんごの「写真」は別物ですよね。

 それと同じことです。


 我々は、たとえ同じ現実を見ていようとも、どれほど見えているものが似通っていようとも、完全な一致はしません。


 わかりやすい例として、虹の色があります。日本人は虹は7色だと認識しています。

 ですが、国によっては虹は4色だったり5色だったりします。同じ虹を見ていても、です。

 とても不思議ですね。


 ようやく本題、クオリアの話です。

 あなたが頭に浮かべる「赤」と、僕が頭に浮かべる「赤」は、果たして同じものでしょうか?

 結論から言えば、科学的に証明することはできません。頭の中にある感覚を調べられないのです。

 なので、例えばあなたにとっての赤のイメージが、僕にとっては黒いイメージだったとしましょう。こんなに違っていたとしてもわからないんです。

 あなたが火の色だよ、と僕に伝えた時、僕が想像するのはあなたにとっての黒いイメージですが、それでも異なる頭の中のイメージを同じ「火の色」と認識している状態です。僕は、「ああ、あの色ね。情熱の色、ポストの色とか」などと返答するわけですが、実際に頭の中に浮かべているイメージが合致していない。こんなことが起きていたとしても観測も証明もできないのです。


 もちろん常識的に考えれば、みんなが想像する赤のイメージにそう大きな差はないでしょう。ですが、全く同じでもないはずです。

 大体同じ認識を持てるはずの色ですらこうなのですから、この世界に対する我々の認識は、驚くほどに違っていて当然です。


 先ほど光のくだりで説明した通り、「現実」と、我々の現実の「認識」は別物です。

 この区別ができていない人は、世界中全ての人が自分と同じように現実を認識していると無意識のうちに考えてしまいます。自分が世界基準という、はっきり言ってお子ちゃま思考です。


 それはさておき、我々の「認識」こそが我々にとって世界そのものと言ってよいです。なぜなら我々は、目の前に存在する現実を、肉体という情報受信機を通さねば観測できないからです。我々は、現実を直接知ることはできない。自分の心の中に映った現実の「虚像」しか見えないのです。ならばこそ、この虚像こそが我々にとっての世界そのものです。


 僕たちは同じ世界に生きていながら、見えている世界は全く違う。だからこそ、言葉を使って意思を伝え合うのです。

 ですが、この言葉とは何かということもよく知っておく必要があります。次の機会には言葉について書こうかと思います。


 長くなりましたが、何が言いたいのかというと、我々は驚くほどに世界に対して違う認識を持っていて、分かり合えないのが当然だということ。分かり合えているようでいても、それはたまたま運よく一致しているだけ。一致していることのほうがむしろ例外とすら考えてもよいほどだと僕は思っています。


 こんなことを考えているから、僕は人や世界から切り離されていくんだろうな、と思います。が、自分と他人は違うのだと区別し切り離すことが世界や他人を理解する第一歩になるはずです。

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