第9夜 死神との攻防
残酷な表現があります。
高く、高く。
藍色の濃淡を見せる天空を目指して、見習い天使は精一杯羽ばたいて飛んでいく。
夜明けが近づいた空には、雲が増えてきていた。
やわらかな白い雲の塊を突き破って見習い天使は飛んでいく。
高く、そしてはやく。
何としても、腕の中にいる小さな天使を失うわけにはいかない。
「…!」
するどい殺気を感じて、見習い天使は下へと目線を向けた。
黒々と広がる地上には、道路に沿ってあかりが点在している。
それとは違う光が近づいてくる。
傾いて淡くなりつつある月の光を受けて、ゆるく曲線を描く刃が青白く光った。
死神が追ってきているのだ。
それを目にして、見習い天使は恐怖を覚えた。
確実に距離が縮まってきている。
「うああ…!もっと速く、速く…!」
唇に力を入れて、意識を羽に集中させる。
無くなった力は戻ったものの、見習い天使はもともと素早い動きが出来るわけではない。
いきんでは疲れがたまるばかりで、どんどん死神の姿が距離を詰めて背後に迫ってきていた。
あせりに歯噛みしている最中、心のコンパスは、天使の国への入り口が近いことを知らせてきた。
「…!あの雲の向こう!」
分厚く広がっている雲の向こうに、館へと通じる入り口があると心が告げてくる。
その知らせに、見習い天使の口元に笑みが浮かんだ。
もうすぐだ。
もうすぐ館に戻れる。
死神が追ってきているが、このまま逃げ切れるかもしれない。
ほっと安堵した心に、上官の天使の顔が浮かんだ。
きっと会うなり怒られる。
話したいことがたくさん脳裏をよぎっていった。
でも何と話そう。
辛いこと、悲しいこと、あまりにもたくさんのことが一晩のうちにありすぎて。
星の子を失ったこと。
記憶を巡って出会った母のこと。
それらをどう話したらいいのだろう…。
胸がいっぱいになって、見習い天使は鼻をすすった。
今日はもう泣いてばかりだ。
でも、上官の天使を前に話す時、きっと自分が流す涙は喜びに満ちているはず。
星の子に託された約束を、もうすぐ果たせる。
「チビちゃん、あの大きな雲を突き抜けるよ。そしたらもうすぐ…ぬうあっ」
ズン。
思わぬ重みの到来に、見習い天使は50cmは体が下がった。
ここに来て、さらに抱えている小さな天使が重くなったのだ。
どんどん腕の中で育っていく。
ふっくらして可愛さは増すけれど、今の現状では泣きたくなる。
「ぬ~ん…、チビちゃん、おーもーい~~」
「あう!はぁう!」
大きな水色の瞳をキラキラさせて微笑んでくる。
大きくなって、一段と表情が豊かになった。
胸の奥がキュンとうずくほどの愛らしさだ。
けれど今は、かまっている気力も時間もない。
「もう少しの我慢だからね」
引き攣った笑顔で告げて、重さによろけながら、何とか分厚い雲へと突入した。
中は雨水を蓄えてるようで、ひんやりと冷たい空気に満ちていた。
この寒さは、死人形を思い出させる。
風に消えていった天使たちを思い馳せてしまう。
彼らがこれ以上苦しくないように。
穏やかで温かい日差しが彼らに注ぐように…。
そう見習い天使は心から祈った。
バッ。
雲を突き破って一際高い空へと昇った。
そこには見覚えのある景色が広がっていた。
普段過ごす雲上の高さにようやくたどり着いたのだ。
目をこらさないといけないくらい地上が遠くて、はるか遠くの空と大地が溶け合う地平線は薄ぼんやりとした明るさがあった。
そして目を上げると、更に高いところに青い光が瞬いていた。
青いランタンの光。
その清々しい光の向こうに、天使の国への入り口がある。
「見て!入り口だよっ!あとひと頑張り、うあっ!」
顔を輝かし飛び立とうとしたその時、突如足首を掴まれて、強い力で一気に雲の中へと引き込まれていった。
やっと抜けた雲の中を、荒々しく引き降ろされていく。
その激しさに、流れる雲の中、見習い天使は腕の中の小さな天使を、両手で抱きしめることで精一杯であった。
「逃がしはしない…!」
質量のある雲から出るなり、乱暴に襟元を掴まれ揺すられた。
目の前にいるのはやはり死神であった。
フードを覆って月を真後ろに暗く見えない顔の中、薄い水色の瞳だけが狩人のごとくギラついていた。
背筋までゾクゾクするような、冷たい吐息が頬にかかる。
「よくもやってくれたな…!」
顔がさらに寄せられる。
見習い天使は、死神の迫力ある恐ろしさに、必死に顔を離すべく、後ろに引こうと首に力を入れた。
逃げようともがくのが気に入らないとばかりに、グイと襟元を手繰り寄せられ、かえって互いの顔の距離が縮まった。
「…見ろ。お前のせいで…」
死神は頭を振り、深くかぶっていたフードを外した。
恐ろしさにあらぬ方向へと背けていた目を、見習い天使は恐々としながらも向けた。
淡い月の光に、死神の髪の毛が銀色に輝いていた。
冷たい輝きをとどめる細い髪に縁取られた顔には、もう覆っていた仮面はなかった。
ただれた肌はひきつり、ところどころ皮膚が破れて、生々しい血色の傷跡となっていた。
目を見張って見つめている間にも、鮮やかな血がつつと流れていく。
傷がなければかなりのハンサムなのだろう。
意外なことに、死神は、先ほど見た自分の父親ほどの年代のような若い青年の顔をしていた。
灰色で長くうねりもない髪が覆う整った顔には、常に死を生業にしている冷酷さが同居していて、不思議な雰囲気をかもしている。
「…い…、痛そう…」
思わずつぶやいたひと言に、死神の細く短めの眉が吊りあがる。
端正な顔が一気に神経質なものに変わった。
「痛いに決まってる…!」
「はわわ、ご、ごめんなさい。でも、あなただって星の子に酷いことをしたじゃない!」
「お前が傷を破ったんだぞ!この石頭め…!ここか!このやけに広い額で打ったのか!」
手にしている鎌の柄で、額をゴツゴツとぶってくる。
手加減しているようなのだが、結構痛い。
綺麗な顔立ちをしているのに、することが惨い。
顔と行動とのギャップも相まって、何をされるのか恐ろしくて、見習い天使は肩をすくめて震え上がった。
「あ、わ、痛い!やめて!やめて!」
「私はもっと痛かったんだぞ…!同じ痛みを感じるがいい…!」
見習い天使の嫌がる様子に、死神の仕打ちがさらに強さを増す。
「いや~ん、広いだけでも困ってるのに、凹んじゃう~」
「そんなの知るか!」
痛みに涙が滲み出した見習い天使の顔に気づくと、死神は唇をにやりと歪めた。
「…さあ!お前にできる償いを、この私にするんだ!」
「つ、償い?どうして?何で?」
見習い天使のとぼけた言い様に、死神の眉間に深い皺が寄って一層険しさを増した。
「お前は、おつむが足りないのか!お前の仕業でこうなってる!」
怒鳴られ、見習い天使は硬く目を瞑った。
傷だらけの顔で迫られ、表情がハッキリとわかって怖すぎるのだ。
ただでさえテンパリやすい性分なのに、たたみかけるように次々言われても困るのだ。
「虹色の雫だ。あの『癒しの涙』を出せ!」
「あっ、出せって言われても…こ、困るのっ!」
「何んで困るんだ!」
ガクガクと激しく揺すられる。
今にも舌を咬みそうな揺れに、見習い天使は必死に唇を噛みしめて耐えた。
その乱暴な揺すりに、抱えている小さな天使が泣き声を上げて泣き始めた。
「オギャーーーーーーッ」
「はっ、何だ、この騒々しさは…!」
体が大きくなった分、ボリュームが増し耳に突き刺さる不快な泣き声となったのだ。
水を打ったような静けさを好む冥界の住人には、耐え切れないほどの煩さであった。
「おい…!はやく静かにさせろ」
「あなたが泣かせたんじゃない!ほらほらチビちゃん、泣くのやめてね~」
よしよしと大粒の涙を頬に散らし、今やすっかりふくよかに成長した小さな天使をあやした。
本当に大きくなった。
ほんの数時間前には、生まれたての小さな体だったのだと、あらためて感心するほどに。
よしよしと揺するうち、不機嫌ながらも涙を透き通った瞳にためて、指をしゃぶりながらも泣くのをやめた。
静けさが戻ってきて、死神はホッとため息をつくと、再度見習い天使に顔を近づけた。
「まず傷を癒す涙だ。それを出せ」
そう言い寄られて、見習い天使は困惑した。
どう出したらいいものか、まったくわからなかった。
出す方法からして不明なのだ。
なぜあの時に不思議な光を放つ涙が出てきたのか、ただ母を救いたくて、その一心であったのだ。
切なくて、何もできない自分がもどかしくて。
母には生きていてほしい、それだけだった。
母の姿を思い出し、見習い天使は思わず涙ぐんだ。
『駄目だ。今そこに力を使わせるわけにはいかないよ』
「えっ?うあ…!」
突然頭の中に響いた男の子の声に、見習い天使は頭を激しく打たれたような衝撃を感じて、驚くと同時に痛みに呻いた。
思わず空いている手で、頭を押さえた。
「どうした!はやく涙を出すんだ!」
「うあ…、誰…?」
死神は、見習い天使の襟首をせっつくように揺すった。
耳鳴りがする頭をゆさゆさと豪快に揺すられて、見習い天使は吐き気を感じた。
「やめて、揺すんないで…!」
イラっとした心地が、胸の奥から湧いてきて、見習い天使は弱々しくも告げた。
だが、そんな頼みを聞いてくれるような死神ではなかった。
「何をグズグズしている!早くしないと首を狩るぞ…!」
あまりな言い様に、胸が焼けるような怒りを覚えた。
時間もないという現状に、押さえつけられ、自分の力量以上のことを要求されていて、もどかしさと自分へのふがいなさに、どこにも持って行きようのない苛立ちが湧いた。
『…そう、怒れ。怒っていい。怒る気持ちを死神に向けていろ』
死神には聞こえない声が、またしても頭の中でこだました。
それは聞き覚えのある声であった。
記憶にある声が思い出されて反復しているのとは違い、誰かが中に居て話している、そんな心地だった。
「あなた…誰なの?」
『オレ?はっ、わからないってありえないな。物覚えも悪いのか?』
クククとその声は笑い声を上げた。
「…え…、まさか…」
『し~…。声にしちゃ駄目だ。やっと接点ができたんだからな」
この声には聞き覚えがあると思ったのは間違いなかった。
でもなぜ、どうして?
見習い天使はそれを不思議に思いながら、笑い声や、話していることが、変に反響して気持ちが悪く、深く考えることができなかった。
目の前にいて話しているのとは違って、小さくなって頭の隙間に入り込んでいるようで、そのイメージを浮かべて吐きそうになる。
『おい、気持ち悪いのはわかるが、ゲートに入るまでしゃんとしてろよ』
それは言われるまでもなく、見習い天使は目を固く瞑ってもよおした吐き気を堪えた。
しゃんとしていたいところなのは重々わかっている。
けれど頭の中で、自分のものではない声が聞こえてくるのは耐え難い苦痛であった。
「どうした?」
冷や汗をかいて急に疲労を顔に出した見習い天使の様子に、ようやく死神が気づいて揺する手を弛めた。
『デコ。オレに抗うなよ』
「え…?」
頭の中でそう声が響いた途端、口がひどく熱をもった。
痺れたように自分のものではない感じとなっていった。
「…年若い死神さん」
自分の口から出た自分の声に、見習い天使は目を剥いた。
驚きに瞳が揺れた。
それは自分の口から発せられたものであったが、自分が言おうと言ったものではなかったからだ。
発した言葉の違和感に、対峙する死神も気がついて、細い眉を寄せすぐに不審な眼差しへと変わった。
「お前は…?」
「ふふ…、さっきはずいぶんとやってくれたよね」
見習い天使の話す口調に、死神はひそめた眉の下の目を怪訝に細めた。
「まさかお前…あの悪魔か。なぜ…、どうやって…?」
「方法は秘密だよ。さあ…、墓場での続きといこうじゃないか」
驚きと戸惑いを同居させている見習い天使の表情を無視するように、唇は勝手に動いて話を続けていく。
今まで自分の意のままに動いていた口が、まったく感覚を無くしてしまっていた。
「ふん…。その疲れきった天使を操って、この私を攻めるというのか? この天使らを、今すぐに狩ってしまってもいいんだぞ?」
「デコを狩るにも、君のその顔を直してからでないと困るんじゃないの?」
「ぬぅ…!」
冷徹にいつでも狩れるとばかりに鎌を持っている死神は、悪魔のひと言に顔をしかめた。
「このままじゃ、せっかくのハンサム顔が台無しだよねえ。でもね、オレには君の顔がどうなろうと関係ないんでね」
「…!」
見習い天使の手が勝手に伸びて、死神の鎌を持つ腕をがっしりと掴んだ。
感覚が急に無くなった手が、死神の腕を指先を食い込ませるほどに掴んでいるのを、見習い天使は怯えた眼で見つめた。
自分の体であるはずなのに、まったく動かすこともできなくなっている。
それが恐ろしかった。
死神は、掴まれた腕から手を払おうと腕を揺すった。
「…年若~い死神さんに、特別に、地上の人々の夢を贈るよ」
「人々の夢…?お前何を言って…」
「生者たちの果てない欲を味わうといい…!」
不敵言い放ち、ニヤリと口角を上げた唇は、すうっと力が抜けた。
「は…あ…ああ…」
同時に、見習い天使自身の、苦痛の声が漏れた。
悪魔の支配が解けて、痺れが抜けたが、代わりに異質なものが満ち始めたのだ。
口の中に、熱くピリピリとした空気が急に湧き上がってきたことに、見習い天使は涙目で嗚咽を漏らした。
そして、溢れはじめたものへの恐ろしさに、体がガクガクと震えはじめた。
自分も持っている想いに、それはとても似ていた。
けれどそれはあまりにも激しく、そしていびつに歪んでいて、体に、そして精神にまで染みこんできそうなほどに淀んでいた。
朱色の唇は、青黒く内側から色が変わっていく。
「あーー!ぎゃーー!」
抱えられている小さな天使も、怯えて火がついたように泣き出した。
「怖い、いや…、やめて…!いやっ、いやっ、はあぁああああ!!」
おどろおどろした想いが、複数の人のざわめきが内側から響いてきて、たまらず見習い天使は悲鳴を上げた。
声のトーンがピークに高まったその時、開いた口から、黒い煙が立ち昇り、唖然とまばたきをするのも忘れて見つめていた死神へと向かった。
力いっぱい腕を振るって、見習い天使の手を外すと、死神は後退した。
すべての煙が見習い天使の口から出尽くすと、見習い天使の唇の色は元に戻っていった。
「な、何だ、これは…!」
吐き出された煙は消えることなく、うねるように、まるで蛇が獲物を狙うように、両目を見開いて煙を見上げている死神を前にしばし揺らぐと、一瞬にして膨らみ広がって死神を包み込んだ。
「は…あ…、がぁあああ、何だこの悪しき想いは…!!は…、やめろ、おああああ…!!」
覆いつくすと、死神の目や鼻、口、耳という体に開いているすべての穴から、その黒い煙はゆるやかに内側に入り込んでいった。
するすると質量のある動きで入り込む様を、見習い天使は放心しきった涙に揺れる視界に見つけて、背筋に寒気を感じて体を大きく震わせた。
「はああ…!やめろ…!うるさい、黙れ!うあ…っ、何だ、お前たちは、やめろっ、近づくな…!」
体に入りきらなかった黒い煙を纏いながら、死神はどこを見ているのか定かでない目つきとなり、凍りついた顔で、叫びもがきはじめた。
『同じ闇の住人と言えど、オレらが集めている人々の欲望は受け付けないみたいだな…。妬みや恨み、人の欲には底がない。しばし味わうといいよ』
また頭の中で、悪魔の面白がるような声が響いた。
言葉が響くと、キーンと頭の芯が痛くなり、見習い天使は思わず顔をしかめた。
『さあ、今のうちに行くんだ…!』
「…あ…、痛ぅ…」
『今夜はいつもの半分も集めてない。そう持たない…。行け…』
「…わ、わかった。ありがと…」
交わした悪魔の声は力のないもので、声が途絶えると、ふっと頭にかかっていたもやのような感じがなくなった。
「悪魔?」
突然頭に入り込んできた悪魔は、また突然と消えてしまっていた。
身悶えしている死神から、見習い天使は目線を上空に向けると、再度天使の国の入り口を目指して飛び上がった。
体は疲労しきっていて、翼を羽ばたかせる力はすっかり失ってしまっていて、意識しないといけないほどだ。
ふっくらとした少女のような見習い天使のつややかな顔の目の下の窪みには、不似合いな青いクマが浮かんでいた。
何もかも放り出したいほどに体は重く、抱えている小さな天使の体を支える腕も、気を弛めれば落としてしまいそうにだるかった。
けれど今を逃せば、逃げ切るチャンスを失ってしまう。
何としても夜明けまでに入り口をくぐらねば…。
空はさらに薄い色に変化してきていて、夜明けまでもう時間はないのだ。
疲れた顔に、二つの瞳だけをぎらつかせながら、厚く広がる冷たい雲の中を、見習い天使は必死に小さな天使を抱えて、歯をくいしばって飛び続けた。
厚い雲の中をもう一度くぐって、見習い天使は天使の国への入り口を目指して飛び続けた。
体が重い。
小さな天使を抱えている腕が抜けそうなほどに重い。
追われている焦燥感に、ただひたすら翼を羽ばたかせるばかりだ。
果てしなく続くとと思われた雲の中を、ようやく突き抜けた。
まだ夜の名残りを残す空と、揺ら揺らしている青い光が真上にあった。
入り口を示す、星の子が掲げる青いランタンの光である。
そこをくぐれば、この任務が終る。
あともう少しだ。
見習い天使は、汗に汚れた顔を食いしばるように気力を振り絞って、青い光目指して舞いあがっていった。
青い光の光源は、近づくにつれてそれがランタンだとハッキリと見えてきた。
地上から心で見たのとまったく同じに、館へと続く雲のトンネルを前に、青い光のランタンを星の子が華奢な腕で掲げていた。
「星の子…」
やっと、やっとここまでたどり着いた。
見習い天使は、こみ上げてきた想いに胸がいっぱいになって涙ぐんだ。
自分の失敗がなければ、星の子と二人でここまで戻ったはずなのだ。
まったく同じ姿かたちのランタンの子に、心が揺れた。
任務が無事完了したことを、喜び合えたはずなのだ。
けれどもう星の子は失われた。
ここへ戻れたのは自分と小さな天使だけだった。
悔しさと安堵の混じった複雑な感情に涙していると、ふと青い光が動くのがたまった涙の向こうに見えた。
あわてて涙を拭って、まばたきしながらよく見てみると、青いランタンの星の子が顔色を変えて雲のトンネルに入っていくのが見えた。
「えっ?あっ、待って!」
まだ星の子に声もかけてないというのに。
朝を迎えるため、交代に行ったのだろうか。
「待って!待って!」
見習い天使は、力の尽きた体で雲のトンネルへと飛んだ。
「はあっ!!」
ガシャーン。
まるで侵入者を防ぐように、白い門扉が物々しい音を立てて先を行く星の子の間を隔てた。
「待って、星の子!任務から帰って来たの!時間がないの!お願い、ここを通してえっ!!」
頑丈でビクともしない冷たい柵を片手で掴み、透かし模様の間から顔を押し込むようにして、見習い天使は叫び声を上げた。
暗いトンネルの向こうに、青い光が揺ら揺らと動いている。
まだ遠くには行ってない。
「星の子っ、戻ってきてーーーっ!!あうっ!!」
後ろから急に頭を押されて、見習い天使は額が柵にめり込んだ痛みに呻いた。
「…よくもやってくれたな…」
ヒヤリと冷たい空気に、この殺気のこもる声…。
見習い天使は振り返ることもできない状況に、ただ息を飲んだ。
「…危うくこの顔を直す機会を失うところだ…」
ぞぞと背筋が凍りそうな、怒りを底に漂わせた声音であった。
頭の後ろを、死神に痛いくらい手で掴まれている。
伸びた爪が、柔らかい見習い天使の頭に食い込んでいた。
押されて柵に顔がはまっていて身動きができない。
せっかく出来たチャンスを、また生かせなかった。
天使の国を目前にして、悔しさに歯噛みした。
刻々と夜明けのタイムリミットが近づいているというのに。
この柵さえ越えれば、天使の国だというのに。
逃げこもうとしていた場所には、門扉が降りてしまって、もう逃げ場もなければ時間もない。
「…残念だったな。これが運命というものだ。リストに載った以上、見逃すわけにはいかないんだよ」
「う…くっ、星の子っ!星の子ーーーっ!!」
「くくく…、無駄だ。心の弱い星の子が戻ってくると思うのか?」
「うっ、そ、そんなことない。あなたを前に、星の子は逃げなかった!!」
突然の死神の襲来に、自分たちを救おうと、星の子は身を挺して守ってくれたのだ。
「うあっ!」
ガシャン。
掴む指の力が増して、一度引き上げると、また柵に押し込まれた。
足で踏ん張っていたものの、柵にぶつかって小さな天使の泣き声が柵の音と同時に上がった。
「ああ…!忌々しいことにな…!」
また怒らせてしまったようだ。
だが、星の子が悪く言われるのを黙っては聞いていられないのだ。
痛む体に顔を歪めながら、見習い天使は救いを求めるように、暗いトンネルの先を見つめた。
青いランタンが揺ら揺ら迷うように動いていた。
星の子は近くにいる。
せめてこの小さな天使を受け取ってくれたら。
「星の子ーー!お願い、チビちゃんを、この小さな天使を受け取って!時間がないの!お願い!お願いよーっ!!」
「くっくっく。星の子は来ない。与えられた人生へのちょっとした障害を乗り越えられない弱き者どもだ。わざわざ怖い目に遭いに来るとでも?」
雲のトンネルに死神のあざわらうような声が響いた途端、うかがうように寄って来ていた光は遠のいていった。
「星の子ぉ!お願い!チビちゃんを助けて…!受け取って!」
「こんな近くに居ても助けが来ないとは…!神の御使いのなんと無情なことよ…!これもまた運命…と言うことか」
「まだ、まだわかんないよっ!!」
ガンガンとありったけの力で見習い天使は門扉を叩いた。
無機質な音が響くばかりだ。
何度も打っている手が痛かった。
でも今出来る何かをしなくては。
何もしないで、これが運命なのだと諦めるなんてできない。
ここで諦めたら、今までのことがすべて無駄になる。
星の子が体を張って守ってくれたことも。
悪魔とコウモリに助けてもらったことも。
この小さな天使の母の悲しみも。流した涙も。
ありえたかもしれない未来も、すべてが…。
一緒にいるべき二人を裂いて、ここまで連れてきたのだ。
絶対守ると誓ったのに、ここまできて。
「誰かっ!誰かーーっ!はっ!」
不意に頭を掴む手が外れて、突如目の下を死神の指が拭っていった。
知らず泣いていたらしい。
「ふっ、はは…!やっと…!はっ」
抑え切れない感情に満ちた笑い声が背後で上がった。
柵の枠から顔を外して、見習い天使は後ろを見つめて目を見開いた。
「傷が…」
「直った。直ったぞ。実に素晴らしい能力だ!」
あれほど痛ましく顔を醜く引き攣らせていた火傷が、はじめからなかったもののように消え去っていた。
もう片方の目にたまっていた虹色の涙の雫が、ポロリと真下に抱いている小さな天使の頭に落ちて、虹の光を散らして消えた。
「ははは…、素晴らしい。もう痛みもない」
死神は、顔を撫で、まったく傷のない顔を確認すると、凄みのある笑みを浮かべた。
「…さあて、ようやくふりだしに戻った。では、魂をいただこうか」
このままでは狩られる。
見習い天使は自分の顔がはまっていた大きめの柵の隙間に、ぐずっている小さな天使を押し込もうと躍起になった。
「星の子、お願いっ!この子を受け取って!」
死神の目的は小さな天使だ。
夜明け間近となった今、自分の手から離れても大丈夫なはず。
任務のはじめに、館に帰るころには魂がこの姿に定着すると、星の子が言っていた。
「ううあ、あうあうあ~~っ!」
小さな天使は、乱暴をされて手足をばたつかせた。
頭は通りそうなのだが、天使の輪が邪魔して通らない。
「くく…、必死だな。お前のその能力をもう発揮できないのは残念だな。ん?待てよ、お人形さんにしてから研究すればいいか…。ふっ、楽しみだな」
「いや…!そんなの嫌っ!」
見習い天使は羽を広げれるだけ広げて、大きく何度も羽ばたいた。
翼から何枚もの羽根がちぎれて死神の前に舞った。
「はっ、はっ、はっくしょん!やめなさい!せっかくの翼が劣化してしまう!それに私は埃が苦手…っっくしょん」
綺麗な顔を歪めて、死神は話半ばでくしゃみを連発した。
上着をまさぐり、先ほどのものとは違う模様のハンカチを取り出すと、鼻をかみ出した。
今がチャンスと、見習い天使は他に何か助かる術はないか、入れる隙間はないか、四方をくまなく大きな眼で見つめた。
よく見ると、門扉の横の柱に、呼び鈴の鎖が下がっていた。
それを鳴らせば助けがくる。
シャッ。
背後で鋭い何かを引き抜く音が聞こえて、見習い天使は柵にへばりついたまま振り返った。
「余計な抵抗をするなよ。痛みを感じないようにしてあげるから…」
死神が鎌の柄の下の部分を外して構えていた。
それは見たことのある形をしていた。
風に消えていったあの死人形の魂たちに打ち込まれていた杭である。
「さあ…、すべてはお前が招いたことだ…!」
「あああああ!!」
しかと掴まれた杭は勢いをつけて、自分と、胸に抱きかかえている小さな天使を狙って向かってきた。
もう駄目だ…。
あの死人形にされてしまう。
自我を奪われ、自由を奪われ、命ずるままに動かされる人形に。
「いやーーーーーっ!!」
最後の気力を振り絞って、翼をはばたかせた。
大きく動く翼から羽根が飛び散り、背後で死神の咳き込む音を聞きつけると、見習い天使は呼び鈴を目指した。
「くっ、いい加減に諦めろ!ちいっ!ええい」
どっ
鋭い痛みを翼に感じて、押されるまま門扉に体を打ちつけられた。
「はぁうあっ…!」
焼けるような痛みが翼と胸に広がって、動かせなくなった。
「暴れるから、手元が狂ったじゃないか…!」
「ああっ!ぐっ」
片翼から胸へと刺した杭を見つめ、死神は弱った見習い天使を哀れむような目で見下ろした。
尖った杭で突き刺したために、白い翼が赤い血で汚れはじめた。
前の人形と同じく、綺麗に整った翼を求めていた死神には、不本意な一撃となってしまった。
「ふえあ…」
ポタポタと杭に沿って落ちる血の雫に、小さな天使の顔が歪んだ。
駄目だ、この体では、もう天使の国に入るのは無理だ。
力はもう尽きた。
流れ出る血に、力も一緒に流れ出ていくようだ。
この騒ぎに助けがこないのは、もう任務として遅かったからなのかもしれない。
館に入れない以上、夜明けを迎えれば…。
見習い天使は涙をためて、すぐそばにある小さな顔を見つめた。
水色の綺麗な瞳が、自分を頼って見上げている。
小さな天使のその瞳は、母親のものとまったく同じ瞳だ。
受け継がれた瞳を、生まれなかった両親の愛を残してあげたかった。
でも、自分というものがない死人形として残されるくらいなら…。
「…ごめんね…」
ためた涙を頬に滑らせた。
見習い天使は、残る力を振り絞るように小さな天使の体をぎゅっと抱きしめ、体の温かさと柔らかさを感じ入ると、意を決して門扉の柵にかけていた足を外した。
力の抜けた体は、一気に空を落ちていった。
あれほど目指した天使の国への扉は、涙に滲む視界にすぐにわからなくなった。
「ぬう…!」
まさかの飛び降りに、死神は唸った。
だが自分の物である杭を媒介に追えばすぐに捕まえれるのだ。
口元に冷笑を浮かべると、死神は鎌を持ち直した。
「…!」
死神は体をビクリと揺らすと、上着のポケットからあわてて手帳を出して広げた。
書かれていた小さな天使の生前の名前が、死神が見つめる中、掠れて手帳の紙の中に消えていくようになくなった。
「リストから消えた…。時間切れということか…」
落ちていった天使たちの姿はもう見当たらなかった。
「風に消え去るのみ…ということか…」
散々抵抗され、大切な人形を失った死神は、神の気まぐれに苦々しく顔を歪めると、破けたマントを翻して姿を消した。
痛々しい話ですが、続き頑張ります><