第7夜 紫色の瞳
「デコ!大変じゃ、急いでここから離れないと!」
「え~、動けないよぉ~」
ゆっくりと確実に高度を下げつつある見習い天使に、悪魔からの心話を終えたばかりのコウモリは金切り声を放った。
今まで感じたことのない虚脱感に、見習い天使は小さな天使を落とさないように抱えているので精一杯であった。
「どこかで休めないかなあ…」
「無理じゃ!天使の国に戻ってからにするんじゃ!早く、早く!」
「あ~う!」
「何じゃ?」
小さな天使が声を上げて、ふくよかで小さな手で空を指した。
つられるように、見習い天使とコウモリが顔を揃ってあげた。
疲れた顔に、一瞬にして緊張が走った。
「死神…!」
空にまぎれるような夜色の裾のほつれたマントをなびかせて、空からゆっくりと死神が降りてきたのだ。
「しまった~。万事休すじゃ…」
死神が接近したことで、死人形と同じ冷気が場に満ちてきて、二人はごくりと喉を鳴らした。
「さあて…、教えてもらおうか。私の大事なお人形さんをどうした?」
おおよそのことを知っているのか、死神の表情は厳しく冷ややかである。
「魂たちは解放したわ」
「お前が?かけてあった装置を、お前が壊したというのか?」
死神は、自分の姿に怯えて強張った顔をした見習い天使をじっと見据えた。
姿は天使を名乗る者なだけあって、整った顔は可愛らしく、華奢な雰囲気を漂わせている。
だが、死人形を解除するだけの才を持っているようにはまったく見えない。
ただの凡庸な少女にしか見えない。
目線を下ろしていくと、見習い天使の両の手がやけどしたようになって赤くただれていることに気づいた。
ただれてしまった己の顔と同じように。
軽んじていた星の子に受けた屈辱の瞬間が脳裏をよぎる。
身の内の深いところまで焼かれ、今も尚、浸潤する痛みがにぶく響く。
「お前も、あの忌々しい技を使ったというのか。それでせっかくの私のコレクションを台無しにしたと…!」
「あの人たちはあなたのコレクションなんかじゃない!あんなひどいこと許せない!」
ヒュッ。
面白くないとばかりに、死神は手にしている鎌を荒々しく振った。
するどく空気が切れて、冷たいしぶきが見習い天使とコウモリにかかった。
「ふん…!天使のお前に、とやかく言われる筋合いはない」
額にかかったしぶきを、見習い天使は空いている手で拭って、その手の甲に目を見開いた。
「血…!」
赤黒い血がこすれて手の甲についていた。
空からこんなものは降ってはこない。
それに、これは死神が鎌を降った時にかかったものだ。
見習い天使とコウモリは、目をこらすようにして死神を見つめた。
死神が持っている鎌の刃にそれは大量についていた。
月明かりに、粘りある液体が盛り上がった感じで光を反射していた。
「そ、その血は何じゃ?」
コウモリはさきほど心話したばかりの悪魔が、いつもよりずっと弱々しかったことに思い至った。
「ま、まさか、それは坊の…」
急に喉が詰まったように、コウモリの声がかすれる。
「ああ、そのまさかだね。これ以上邪魔されないように、お仕置きをさせてもらったよ」
「坊に何をしたんじゃ!」
「何って…」
死神は薄ら笑いを浮かべて、ズボンのポケットをまさぐると、そこからハンカチを取り出した。
不審に強張った顔つきで、その死神の所作をただ二人はじっと見つめた。
くしゃくしゃに丸まっているハンカチを、死神は片手で器用に端をつかんで振った。
まるで中から出てきたかのように、包んでいたには大きすぎるものが空中に現れた。
そう、それは今切り落としてきたばかりの足。
「やっ!!」
「ぎゃーー!!それは坊の足じゃ!」
二人の悲鳴が空に響く。
靴下に靴を履き、今にも動きそうなほどの足が、ゆらゆらと不自然にその場に浮いていた。
「何てことするの!」
「何てことする…?それは私がお前に言いたいことだが…?もとはといえば、リストに載った魂を渡さないお前が悪いのだろう…?」
死神の鋭くそして低いひと言に、見習い天使は唇を噛んだ。
そう、このすべては自分が招いたことなのだ。
小さな天使に、ひとときでも母親の姿を見せてあげたかった。
どれだけ愛されていたのかを、ほんの少しでも感じさせてあげたかった。
よかれと思ってしたことが、すべてのはじまりとなってしまったのだ。
死神が現れ、星の子を失い、そして、今度は手助けしてくれた悪魔が足を切り落とされた。
「天使のくせに、お前は罪深いねえ…」
見習い天使の疲れ切った顔に、さらに満ちる苦悩を目にして、死神は薄い唇を歪めて冷笑を浮かべた。
「償ってもらうよ。今度はお前が新たなお人形さんの翼となるのだ」
「翼…?」
「見たんだろう?お前と同じ見習い天使を使ったお人形さんのからくりを」
「強情をはって魂を寄こさないから一緒にくくってやったのさ。そうしたらあんな素晴らしい一体になった」
「素晴らしい一体…?」
死神の話に、見習い天使は睫毛を揺らした。
冷え切って霜の浮いた、あの天使たちの顔に、そんな素晴らしさなんて感じなかった。
冷たい装置に魂を縛られ、届いてくるのは絶望と哀しみばかりだった。
「あれのどこが素晴らしいっていうの…?」
こみあげる想いをこらえるように、掠れた声で見習い天使はつぶやくように言う。
胸の中がちりちりと熱くなってくる。
堪えきれないほどの怒りを、ぶつける相手は目の前にいる。
「バッカ!デコ!!アンタここで果てるつもりか!!逃げることを考えるんじゃ!!」
意識が怒りの炎に飲まれそうになっていた時に、コウモリの甲高い声が聞こえてきて、見習い天使はハッと我に返った。
「逃げる?無理だよ。お前たちはお人形さんの器になってもらうんだからねえ」
「よくも坊を!今度はワシが相手じゃ!小さいからと言って舐めるんじゃないじょ!ワシはこう見えても」
ギャーギャーとうるさいばかりのコウモリを死神はチラリと見やり、スッと鎌を持っていない方の手を真横に振った。
途端、浮かんでいた悪魔の足が真横に滑るように動き出し、支えをなくして空を落ちていった。
「あっ!?」
「ギャアアアアア!!坊の足が!!」
「急がないと、地面に直撃してこっぱ微塵になるぞ。くくくく…」
コウモリは頭を下にして、足を追いかけて急降下していった。
「あう!」
呆気にとられて、思わず片手で口を押さえてその様を見ていた見習い天使は、小さな天使の放った声に顔を上げた。
「っ!?」
「チェックメイト。邪魔者はもういない」
間近に聞こえてきた声に、ぞっと背筋に冷たいものが通っていった。
息がかかるほどすぐそばに、死神に詰め寄られていた。
マスクの下の冷たい色の瞳が満足そうに細まる。
見習い天使は、死神から漂ってくる冷気に、ただ体を硬くして、抱えている小さな天使を強く抱きしめるばかりであった。
「くくく…。さ~て、どっちからいこうか…」
冷たい鎌の柄を頬に押しつけられて、見習い天使は恐怖とその冷たさにガクガクと体を震わせる。
あえて訊かなくても、死神が言ったことの意味はわかった。
怯え、震えながらも、この窮地を抜ける術を必死に考える。
「…おや?まだ逃げる気でいるんだ」
何かタイミングを見計らっているような見習い天使の目つきに、死神は更に鎌の柄を押しつけて言った。
頭上にある大きな鎌から悪魔の血がポタリと滴って、小さな天使の頭の上に落ちた。
「ふ…。ふぇあ、ふぇあ…」
冷たく不快な滴りに、小さな天使がぐずり出す。
「チビちゃん、泣かないで~」
よしよしと体を揺すってみるが、ぐずぐずが納まらない。
「ったく、このべそかきが…!」
赤ん坊の泣き声を、実に不快そうに顔を歪めて見ていた死神はボソっとつぶやいた。
「そんなこと言ったって、チビちゃんが泣いたのはあなたのせいでしょ!これひっこめてよ!」
見習い天使は、頬に押しつけられている鎌の柄を顔でぐいと押した。
「何だ、偉そうに!私に命令するのか!」
押し返された鎌に、死神がいらだちを隠せず声を上げ、そしてまた鎌を押す手に力を加えた。
見習い天使も、ついやっきになって、押されまいと歯をくいしばって、柔らかな頬を大きく崩して必死に押した。
二人に押されて、鎌は揺れるたびに、小さな天使の頭の上にポタポタ血の雫を降らせた。
一際悲鳴に近い泣き声が上がって、ようやく二人は押し合うのをやめた。
「んもう、ポタポタ落ちてくる~!」
疲れとやるせなさに、見習い天使は今いる立場を忘れて、死神に癇癪を起こしかけて声を荒げた。
死神はわなわなと唇を震わし、一方的な物言いに言い返したいことを飲み込むと、しかめっ面で無造作にポケットからハンカチを取り出して、小さな天使の頭に溜まった血を拭きとりはじめた。
意外なことに、フワフワと柔らかな金髪に染みこんだ血液を、丹念に拭っていく。
小さな天使は、頭をグラグラと動かされ、口をへの字に結んで、泣き顔の不機嫌な顔のまま、死神にされるがままになっている。
そしてそれを終えると、鎌を手元に寄せて、付着している血液を拭きはじめた。
(…もしかして、今って逃げるチャンス…?)
見習い天使はそれに気がつくと、入念に鎌の刃を拭取っている死神を見据えたまま、静かに羽を羽ばたかせて後退しはじめた。
大きく羽ばたいて、天使の国の入り口を目指して顔を上げた。
「おっと、そうはさせない」
死神の節ばった手が伸びてきて、両方の頬を掴まれ、思わず唇が突き出す。
「ふぁぐ!」
パタパタと羽が激しく動く音だけが辺りに響く。
すごい力で押さえこまれて、体が全然浮いていかない。
「目を離した隙に逃げようだなんて、ずいぶんとセコい手を使うな」
ミシミシと掴んでいる指先が頬に食い込んできて、その痛みに涙が滲んでくる。
「ふー!ふー!」
チクっと痛みが頬に広がって、見習い天使が上げた高い声に、爪で頬を傷つけたことにようやく気づいた死神は、その手の力を緩めた。
「ふっ、私としたことが…。器は丁重に扱わないとな」
盛り上がりはじめた血の溜まりを、死神は指先で拭うようにすくいとり、じっとその血の雫を見つめた。
「ほぉう。こちらは色が薄い」
見習い天使の目の前で、死神は赤い舌を伸ばして、その指先の血を舐め取った。
「ひ…!」
その不気味さに、見習い天使は思わず身を引いた。
けれどすぐに襟首のファーを掴まれて、間近なもとの位置に戻されてしまった。
「はーなーしーて…!」
空いている片手で、必死に死神の腕を叩き、足は届かないまでも、抵抗すべく必死に動かした。
このままでは、時間切れどころではない。
死人形の器にされてしまう。
あの人たちの悲しい姿が目の前にちらつく。
それは嫌だ。
託されたこの小さな子を、ここまで来て諦められない。
「嫌っ!やだやだ!!」
「黙れ、うるさい」
「黙ってなんかいられないわよ!このまま、あなたの思うようになんかならないんだからっ!」
「ああ、もううるさいな…!」
変に切れはじめた見習い天使とのやりとりに辟易して、苦々しく唇を歪めた。
死神が目を外した瞬間を、見習い天使は見逃さなかった。
持てる怒りを手の平に集中して、見習い天使は死神の腕をギュッと掴んだ。
熱いエネルギーが腕を通って流れていくのを感じた。
「あっつ…!」
上着を通して熱が広がって、死神は甲高い声を上げた。
すぐさま、死神は掴まれた腕をその腕で払い、足で見習い天使の腹を蹴り吹っ飛ばした。
うめき声を漏らして、力なく落ちていく見習い天使をあわてて死神は追う。
「ちぃ…!私としたことが…」
すぐに追いついて、見習い天使の腕を捕まえた。
手の平はまだ熾き火のような光がくすぶっていて、その光は死神にとっては忌まわしく、近づきたくはない光だった。
見習い天使の顔にはダメージがありありと出ているが、その紫色の瞳は、ギラギラとまばたきもせず死神を見据えていた。
隙があれば、まだ逃げようとする者の眼だ。
これ以上抵抗されて、器としての価値をなくされても困る。
「もっと弱らせてからにするか…。出でよ…!『魂の記録』…!」
死神の前に、青白い炎に包まれた半透明な本が現れた。
見習い天使が、見覚えのあるそれに気づいて、目を大きくする中、何も触れずに本は開いて、一ページずつゆっくりとめくれていく。
「…それは…、星の子に見せた…」
「そう、同じ本だ。だが、書かれている主人公はお前だ」
「私…?」
その本の表紙には何の名前の記載もなかった。
めくれていく本を、死神はじっと目で読んでいく。
「ほほう…。さすがに人としての名を授かる前に死んだようだな。だが、ずっと呼びかけられていた名が存在している」
「…呼びかけられていた…?」
「これで術が作動する…。皮肉なものだな、お前も、かつては『チビちゃん』と呼ばれていた」
「チビちゃん…?」
半透明な本を包む青白い炎が煌めく。
そして何も書かれていなかった表紙に、金色の文字で『チビちゃん』と書きこまれていった。
「あ…ああああ…!」
『チビちゃん…』
死神の声が、耳の中で反響する。
こだまのように、音を引きながら、小さくなっていく。
ドキンと胸を打った。
そして音がまた戻ってくる。
『チビちゃん…』
『チビちゃん…』
その声はもう、死神の声ではなかった。
聞いたことのない声。
違う、覚えていないだけ。
懐かしいその声の余韻に、胸が震えた。
対峙している死神の姿は掻き消えて、目の前には古い煉瓦の街並みが広がった。
これはどこ…?
白い雪が暗い空から舞い落ちてくる。
寒さは感じない。
でも、心が凍えていた。
すごく寂しい。
始終聞こえていた、お母さんの音が聞こえなくなって、心細いの…。
これはいつの記憶…?
失ってしまった記憶を、いま手の中で抱えているようなそんな心地であった。
見上げる空には、白い翼の見習い天使と、星の子の姿があった。
もの悲しい顔で見下ろしている。
少しツリ目の厳しい眼差しをした見習い天使。
見覚えのある顔立ちをしている。
どこで見たのだろう…。
ああ…、その眼差しは…。
それは上官の天使さまが見習いの頃の姿だ。
そして、隣に並んでいる星の子は、私がよく知っている星の子だ。
星の子は、ひとつめの試練で私を迎えにきたと話していた。
はじめて目にする天界の者たち。
今の自分の心で見るその姿は、とても懐かしく映る。
懐かしくて、胸がざわめく。
同時に、温かい世界から放り出された日の、不安と心細さを思い出す。
そう、これは私が天使として生まれた日の記憶…。
ふわふわと空へと体が浮かんでいく。
上官の天使さまと星の子の顔がどんどん近くに見えてくる。
『待って…、待って…、いかないで…』
背後から、覚えのある声が聞こえてきた。
ゆらゆら揺れる視界の中で、雪の積もっている中にその人は倒れていた。
もう見えないはずの私を、その人は青白い顔に印象的な紫色の瞳で必死な眼差しで見つめていた。
私と同じ色の瞳が、射るように見つめてくる。
『…チビちゃんを…つれていかないで…』
胸に突き刺さる掠れた声が心を通っていった後、視界はまた暗い世界に彩られた。
そして声が響く。
何かに遮られたように、こもった声が聞こえてくる。
何と言っているのかわからないけれど、優しさに満ちた声だった。
その声に呼ばれると、むずむずしていた気持ちがすうっと落ち着いていった。
…これは生まれる前の記憶。
人として生きたほんの10ヶ月に満たない記憶。
暗く何も見えない世界。
温かいそのまどろみは、いつもどこか眠っているような心地よさだった。
トクン、トクン。
胸から聞こえる音とは別に、低く響く音が聞こえている。
これはお母さんの音。
ずっと絶え間なく聞こえてくるこの音は、私を安心させて、いつしか眠気を誘う。
『チビちゃん、聞こえる?お母さんよ』
時折、音に混じって優しい声が聞こえてくる。
返事は返せないけれど、いつも聞こえてくるその声もまた、心地よかった。
暗いまどろみを漂ううちに、ふいにかけられる声に、いつのころからか返事をしたくてたまらなくなってくる。
話をしてみたい。
どうやったら、返事をすることができるの?
動かせない体がもどかしくてむずむずしてくる。
『うわあ、蹴ったわ。ね、今のわかった?すごい動いたの』
お母さんは嬉しそうに誰かに話しかけている。
ボソボソと低い声が穏やかな響きでかすかに聞こえてくる。
これは誰?お父さん?
お母さんの規則的な音を聞きながら、私はまたまどろんでいった。
それは幸せな時間。
温かくて、とても心地よかった。
そうした日々を経て、私はどんどん大きくなっていった。
幸せな気持ちを抱いて。
自分へと与えられる温かな愛情をその身に受けて。
『もうすぐあなたに会えるわね。ね、チビちゃん、どんな名前がいいかしら…』
『男の子かな…?それとも女の子かな…?どんな顔をしてるのかしら…?』
『私に似てるのかな…?それともリチャード?』
問いかけては、くすくすと笑う楽しそうな声がかかる。
もうすぐ私は生まれるらしい。
手を握ったり、体を少しよじったりして、その日を待っていた。
もうすぐお母さんに会える。
それは私にとっても待ち遠しいことだった。
けれどその日が来る前に、突然お母さんの奏でる音が変わりだした。
『そんな…!急にこの町を出るだなんて…!』
大きく何か物音がして、かけられた話し声に、母が立ち上がった。
その突然の動きに、体が大きく揺れた。
『無理よ!どこへ行くの?行く宛てはあるの?これから厳しい冬になるのに!』
ドクン、ドクン、ドクン。
音がとてもはやい。
不安が私にも流れ込んでくる。
『そうよ!だって行けないわ!もう、いつ生まれてもおかしくないのよ!』
『逃げる?どうして?リチャード、だって、あなた、家族はいないって…』
『そんな…、だって行けないわ。この町を離れるだなんて…。私には出来ない…。だって、この町にいれば…、もしかしたら母さんが私を迎えにくるかもしれないんだもの…!』
『囚われてる?あなたになんかわかるわけないわ!どんな想いで私が待ち続けてるかなんて…!』
搾り出すようなお母さんの声の後、またしてもするどい声と大きな音がして、カタンカタンという音が遠ざかっていった。
耳元ではいつもは心地よい響きの音が、今は激しく鳴っている。
聞いているうちに、息苦しいような気持ちになってくる。
何?今のは何の話なの?
私には、お母さんの荒い声しか聞こえてこなかった。
何が起こったの?
「おやおや…。天使を生み出した夫婦が、こんな諍いをしているなんて…」
暗闇の中、すうっと吹き込む冷たい風のような声音に、ぞくりと背筋が波立った。
死神の声だ。
すっかり母のおなかにいる気持ちになっていた見習い天使は、急に届いた声に身を縮めた。
「溢れるほどの愛情を注いだ夫婦。それが天使を生み出す資格らしいのだが…。お前はどうやら特殊らしいな」
特殊?
死神が告げたことに、自分を見るほかの上官の天使たちの顔ぶれを思い出した。
なぜあんなにも穢れたものを見る目つきだったのか。
自分の出生に、何かあるのだろうか…?
「暗がりばかりでは、何もわからないだろう。くっく…、では、お前に私の視点を与えよう」
死神の声が響いた途端、目の前が不意に明るくなった。
ゴーン、ゴーン…。
鐘の音が響いている。
その余韻ある響きは、どこか懐かしい気持ちにさせる。
ぼんやりしていた視界は、思い馳せているうちに見知らぬ街の風景をとらえていた。
開けた視界には、通ってきた街と同じようなレンガ造りの高い建物がひしめき合っている。
今よりもずっと寒い季節なのか、明るい空から雪がはらりはらりと落ちてきている。
「…ほう…。お前の母親はどうやら信心深かったようだ」
真下を歩いているのが、どうやら私のお母さんらしい。
厚手のコートに身を包み、ストールを目深にかぶって、白い小さな顔からは絶えず白い息が漏れているのがわかる。
大きなおなかを抱えるように、その女性は慎重にゆったりとした足どりで積もった雪の中を歩いていく。
そして、鐘の音を鳴らしている高い塔のある建物にたどり着くと、古めかしい大きな扉を開けて、中へと入っていった。
ゆらゆらと漂うように、見習い天使は閉められた扉をすりぬけて後をついていく。
扉の中は天井が高く、ステンドグラスで彩られた窓から入るほのかな明かりで薄暗く、扉からまっすぐに敷かれた緋色の絨毯の先には祭壇があった。
その祭壇には、上層の天使さまに似ている像があり、穏やかな微笑みを浮かべた顔をしていた。
遠くに響く鐘の音。
その音以外には物音もなく、室内は静まりきっていた。
そして緋色の絨毯の手前に、その女性はストールを外して跪くと、静かに手を組んで祈りはじめた。
鐘の音はいつしか止み、それでも祈る姿勢を崩さなかった。
次第に、太陽の高さが変わり、ステンドグラスから入る光は角度を変えていった。
何を祈っているのだろう…。
お父さんとの諍いのことなのだろうか。
それとも生まれてくる私のために…?
時折肩をふるわせる女性の姿に、見習い天使は胸がいっぱいになった。
女性を見つめていると、温かい気持ちの他に、切ない気持ちもこみあげてきてしまう。
もし、自分のために願いをかけていたのなら、今こうして天使となっている自分は、その女性の願いを果たせなかったということだ。
沢山の愛情を貰いながら、何も返せないまま、自分は去ってしまったのだから。
ガチャリ。
ギギギィと木が軋む音を立てながら、入ってきた扉がゆっくりと開けられた。
そこから入ってきた光が、すうと伸びて女性の背中を照らし出す。
『マリー。ここに来てたのかい。何度部屋を訪ねてもいないから、心配したよ』
扉から姿を覗かせたやや年配の女性は、女性の姿を見るなりホッと白い息を沢山もらして、そう声をかけた。
声に、マリーと呼ばれた女性は、体ごと向きを直して女性を見上げた。
入る日差しに細められた瞳は、綺麗な紫色をしていた。
白く小さな顔立ちを、栗色の髪の毛がゆるい曲線を所々に見せながら覆っていた。
その姿に、見習い天使は、自分と同じ瞳の色だと思って見つめた。
たまに見る鏡に映る自分の顔立ちと、髪の色を除けばとてもよく似ている。
『こんな暖房もないところに…!風邪を引いたらどうするんだい!もういつ生まれてもおかしくないってのに』
『大家さん、ごめんなさい…。もしかして家賃のことで探してました?』
『こんな事情なのを知ってて、急がせるほど私は悪どくはないよ。さあ、早く立って』
大家さんと呼ばれた大柄な女性は、マリーに近寄ると、節ばって大きな手を差し出して、マリーが立つのを手助けする。
『ここに毎日来てるのかい?』
『…こうして祈ることしかできないから…』
マリーが浮かべる心細げな笑みに、大柄な女性の顔は曇った。
『ったく、一体何があったんだい。あんなに二人で生まれてくる日を待っていたっていうのに…!』
女性はそう苛立ちを含めて、祭壇を睨むように見つめて言った。
『…この街から出られない私が悪いの…』
マリーの消えそうな声音に、女性の顔が哀れを感じて歪む。
『…リチャードはどこへ行ったんだい…?』
恐る恐るそう訊ねられ、マリーは青ざめた顔を横に振った。
『…わからない…。彼はもともとこの街の人ではないから…』
母の瞳には、暗い影が差し込んでいる。
あの言い争いの後、父は出て行ってしまったのか。
この身重の状態で一人になって、不安にならないはずはない。
大柄の女性はマリーの華奢な背中に手をまわすと、ぐっと胸に抱き寄せた。
優しいその所作に、マリーの顔が一層歪んだ。
『あ~あ、何て恩知らずなんだろう…!マリーがいなかったら、行くあてもないまま凍え死にしてたってのに…』
『違うの…。ここの入り口に雪をたくさん積もらせて座っているリチャードを見てたら、母に置いていかれた自分みたいに見えたの』
『…救われたのは、私の方なのに…、行くって言えなかった…』
唇を震わせながら消え入るように言葉をこぼし、涙がはらはらと青白い頬を幾筋も引いて落ちていった。
『…でも…、愛しているのよ…』
母には母の事情があり、父には父の事情があったようだ。
その上、こんな切羽詰った状況に置かれた母のもとを、自分は去ってしまったのだ。
傷つき、不安に揺れる母を、さらに自分は悲しませる存在となってしまったのか。
与えられた愛情を、あの幸せを、返すいと間もなく去ってしまった。
自分が運んでいる小さな天使と同じように。
今もこうして、ただ過ぎてしまった時を覗くだけで、母のために自分は何もしてあげられない。
涙を拭いてあげることも、手を握ってあげることも、そんな小さなことさえしてあげられない。
(ごめんなさい…)
見習い天使は、こみあげる嗚咽をただ堪えるばかりであった。
部屋の中に入る光もなくなり、すっかり暗くなったことに気づいた大家さんに背を押されるようにして、マリーは帰路についた。
古びたレンガの街並みを、雪を踏みしめて二人は並んで歩いていく。
暗くなりかけた空からは、絶え間なく雪が舞っていた。
寂しいくらい静かに、白い雪が降っていた。
「マリー、月末に一階の部屋が空くから、そこに移らないかい?」
アパートの二階へと外にある階段を登ろうとしていたマリーに、大家さんが声をかけた。
「大丈夫よ。今はおなかが大きくてちょっと大変だけど、もう少しのことだし」
「部屋からの眺めは、裏庭向いてて確かに悪いんだけどさ、階段はやっぱり危ないからね、これからのことも考えないと」
「ありがとう、考えておきます」
小さく微笑んで、タン、タンと音を響かせ、一歩一歩を用心深く踏みしめるようにして、マリーは段を上がっていく。
鉄筋の階段には雪が積もっていて、大家さんは登っていくマリーの姿を心配そうに見上げていた。
階段に面した部屋の明かりが灯って、それを見届けてから、女性は寒さにぶるりと体を震わせて、自分の部屋へと入っていった。
地味に続きます…