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第6夜 解放

文中にややグロい表現がありますので、苦手な方はご注意ください。

まるで冷気が指先から入り込んで、体中に沁みこみ流れていくようで、見習い天使は止まらない体の震えに大きく体を揺らした。

このままでは凍えてしまう。

今まで感じたことのない強烈な冷気に、小さな天使を抱えている指先だけは温めるように絶え間なく動かし続けた。

このまま感覚を失って、この小さな子を落とすことになってはいけない。

そして反対の指の先には、もう一人の見習い天使の手に繋がれている。

霜がかかって白くなっている彼女の睫毛が揺れた。

寒さに震える自分とは反対に、彼女の方へは温かさが流れ込んでいるのかもしれない。

青ざめきっていた頬に、かすかに赤味が浮かんできていた。

そして、深い夜明け前の空のような色の瞳が、ゆっくりと開いた瞼の下から現れた。


『…あたたかい…』


かすれて、耳を澄まさないと聞こえないほどの小さな囁きをあげると、その見習い天使の瞳にうっすらと涙が浮かんだ。


「このまま…あなたの体が温もったら、脱け出すことができる?」


見習い天使の問いに、青ざめた顔をゆっくりと横に振った。


「どうして…? 天使の館まで、あともう少しだよ…。そこまで行ったら、きっと上官の天使さまや、上層の天使さまが何とかしてくれるよ」


寒さに震え歯をガチガチ鳴らしながら見習い天使がそう告げると、もう一人の見習い天使は哀しい眼で笑みを浮かべた。


『…もう…私が選べる道はひとつだけだわ…』

「どうして?」


彼女が目線を落として、抱えている小さな天使に打たれた杭を見やった。

見習い天使も、その目線を追って、息を飲んだ。


ひとつだと思っていた杭は、二本を重ねて錠前がかかっていた。


「そんな…!」


小さな天使の体を通ったもう一つの杭は、抱いている見習い天使ごと深く打ち込まれていた。

動揺し、瞳に涙を浮かべて、今にも泣き出しそうに顔をゆがめている見習い天使の顔を、ただじっと見つめ返していた。


選べる道はたったひとつ。

見つめる眼差しの奥には、悟ったような光があった。


「駄目だよ…!あきらめちゃ駄目だよ!きっと他に、あなたも、このコも助かる手立てがあるはず…、だから…っ」


顔をくしゃくしゃにして、そう必死に語る見習い天使に、ただ静かに小さく顔を横に振った。


『この枷を外して…自由になりたいの…それだけ…それだけが願いなの…』


それもそうだろう。

何体もの魂と一緒に、一つのものとして作りかえられ、命じられるままに動かされてきたのだ。

見習い天使は、涙に揺れる視界の中、小さな天使にかけられているごつい鉛のような錠前を見やった。

表面は薄く霜がかかって、そこから冷たい空気が発していた。

鍵穴は見つからない。

白くなっている表面はボコボコしていて、読めない文字の刻印が施されていた。

壊せれるようなものには思えない。

どうしたら、これは外れるのだろうか。

検討もつかないことに、見習い天使の瞳が左右にうろつく。


死人形は、この状態をいつまで保っていられるのか。

あの場に残った悪魔が、いつまで死神を止めておいてくれるのか。

星の子のように、死神に無残な目にあっているのではないだろうか。

突き飛ばしたジイは、無事なのだろうか。


こうして考えている間にも、刻一刻と天空の月は傾き、夜明けへと向かっていってしまう。

時間は少ない。

夜明けまでには、天使の国に戻らないといけない。


切羽詰まった中で、色んなことが頭をよぎっていった。


間に合うのだろうか。

この目の前の天使たちを救ってあげたい。

けれど、半人前ですらない自分に、何ができるのというのだろう。

こうしているうちに、抱えている小さな天使までも救えなくなってしまったら…。


冷えて震えのとまらない体で、見習い天使は、悪いことばかり考えてしまう自分を頭の中で叱咤した。


「大丈夫…。大丈夫だよ…。落ち着いてやれば、失敗したりしない…」


知らず息が上がっていることに気づくと、見習い天使は気持ちを落ち着かせるべく、ゆっくり深く呼吸した。

その時、またしても、ズン、と腕の中の重みが増した。

同時に、見習い天使の体が沈みそうになり、あわてて羽ばたく力を増やした。


「重…っ。ちびちゃん、また大きくなった…」


歯を食いしばって、元の高さを保持すると、見習い天使は、腕の中の天使を見下ろした。


「は〜う」


ふくよかさが一層増していた。

ぷにぷにした頬を、思いっきりつまんでぐにぐにしたい衝動に駆られる。

目があったことで、ニコッと笑いかけてくる口元には前歯が2本生えていた。


「あ、あなた、どんどん大きくなってくのね」


急がないと、重さに耐えられないかもしれない。

驚きと同時に、先を思うと喜びよりも不安が増す。


「手を…一度離すね…。大丈夫…?」


さっと顔を引き締めると、見習い天使は、自分と手を繋いでいる方へと目線を向けてそう告げた。

見習い天使から流れてくる温もりに、表情を和らげはじめていたもう一人の見習い天使はうなづいた。

そのうなづきに、見習い天使はもう一度目線を錠前に移した。


鍵穴はない。

錠前を壊すだけの力など、どう頑張っても自分には出なさそうである。

道具だって何も持ってはいない。

繋がれている鎖もごつく頑丈な作りであった。

突き刺されている杭もまた、先にいくほど太さが違っていて、いくら霊体であっても痛みを伴いそうであった。

この錠前を、死神はどうやって使っているのだろう。


「チビちゃん、ちょっとギュってなるからね」


繋いだ手を離して、抱えている小さな天使を抱き直した。

両手で抱えると、だるくなっていた腕がずいぶんと楽になる。

それから片腕と両膝で小さな天使を支えて、見習い天使は冷え切った手を擦り合わせた。

雪を降らせる作業の合間に、よくこうして冷えた手を温めたものだ。

顔を伸ばしてふうっと温かい息を吐きかけ、何度も擦り合わせながら、どうすべきか考えこんだ。


首を切られた小さな天使にかかっている錠前は、まるで氷のようだ。

高い温度を当てたら、壊れたりしないものなのだろうか…。

手で触れたら、溶け出したりしないものなのだろうか…。


刻々と時間は過ぎていく。

まるで過ぎていく時間を計っているかのように、ドキドキする気持ちがせりあがってくる。


悪魔のように、何か術が使えるわけではない。

でも、何もしないで、何もできなかったことを後悔したくない。


見習い天使は目を閉じて一度大きく息を吸い込むと、紫色の瞳で、しかと目の前の錠前を見据えた。

そして、少女のような小さな手の平で錠前を覆うように掴んだ。


「う…っ、あっ…!」


強烈な冷えが手の平から入り込んできて、見習い天使はうめき声を上げた。

冷たさよりも痛さを激しく感じる。

そして一気に指先の感覚がなくなっていった。

冷えが体へと浸潤してくる。

それは、囚われている見習い天使から伝わってきていたものよりずっと激しい。

ガクガクと歯が重なって音を立てた。


「あぅ…」


緊張して、色んなことを巡らせていた頭は、ひどくぼんやりしてきて、虚ろな気持ちになってきた。

今まで、何に一生懸命になっていたのか、それさえ曖昧な感じがしてくる。

なぜこんなところにいるのか、それさえ朧になってくる。

いつもなら、大勢の見習い天使がいる雲の上で、せっせと地上に向けて雪を降らせていたはずなのに。




どんな味がするのだろう。


いつも降らせる雪の元になる氷を手にしていて、ふとそう思ったことがあった。

霜がかかっていた白い塊が、手で触っているところが溶けて、月の光に虹色を反射してとても綺麗だったから。

それを舐めるつもりが、うっかり白い霜がかったところを舐めて、ペタリと舌がはりついて、とれなくなったことがあった。


『何をやっている…!』


涙目で顔をやっと上げると、そこには怒っている眼差しの中に、呆れたような面持ちで自分を見下ろしている上官の天使さまの姿があった。


あの時はどうやってとったんだっけ?

ぼんやりとその時の光景が、虚ろな意識の中で展開していく。


呆れながらも、くっついているところが溶けるまで、上官の天使さまは氷を押さえてくれていた。

もうこのまま取れないのではないだろうか。

不安にベソをかいてる自分を、ただじっと見守ってくれていた。


厳しいつりあがった眼差しの中に、どこか安心させる雰囲気があった。

そんな顔で自分を見てくれるのは、上官の天使さまと星の子だけだった。

いつも何か失敗をするたびに、他の上官の天使たちが、こそこそ隠れるように囁いていることに気づいていた。


『…なぜ、あのような者に、神は天使の輪を授けたのか…』


そう言って、穢れたものを見るように目線を背ける天使たちもいた。

いったい自分は何をしたというのだろう。

繰り返す毎日に、そこまでされるだけの失敗は見つけ出せなかった。

上官の天使さまと向き合うたびに、見習い天使はそのことを訊いてみたくなった。

いつもそう思いながら、口を開いては閉じてばかりいた。

上官の天使さまは、本当のことを知っていて、包み隠さず教えてくれるかもしれない。

でも、それを知ってしまうのが怖かった。

こうして何も言わず、面と向き合ってくれる存在を失ってしまうかもしれなくて。



「何しとるんじゃ!!」


大きな声に、半ば意識を失っていた見習い天使は我に返った。


「え…?」

「ここじゃ!下じゃ、下!」


ずり下がってしまい、今にも落ちそうな小さな天使の小さな足を下からコウモリが押し上げようとしていた。

せわしなく皮膚の薄い羽がパタパタと動く音が聞こえてくる。


「ジイ…? え?ジイさん?」

「ジイにさんをつけるなって言ったはずじゃろ!!」

「うあ、ごめん!」


激しい怒声で言い返されて、見習い天使は、寒いながらもハッキリとした意識を取り戻した。


「ほら、チビが落ちるじょ!何やっとんじゃ!」

「冷えちゃって、腕に力が入らないの〜」

「チビの足も冷たいわ!このバカたれ!坊があんなに関わるなって言ってたのに!」

「ごめん」

「こんなところで足止めくらっとったら、朝になっちまうじょ!」

「あ〜う」


腕に挟まってて見えなくなっていた小さな顔をあげて、見習い天使の引き攣った顔に笑顔を向けた。

首周りを覆う、ハーフマントのファーのついた襟元を、小さな手でしっかと掴んだ。


「ありがと、チビちゃん。何とか…う〜ん…」


手立てはまったくなく、両手は錠前に張り付いたままでとれそうになく、見習い天使は、向けられた顔に、情けなさに顔を歪めるばかりであった。


「デコ、これをどうするつもりじゃ?あの中身がこんなんじゃったとはビックリじゃったが…」


コウモリが下で支えつつ声を張った。


「実は…、手がはりついちゃってて…」

「何じゃと…!」

「手で触れたら、錠前が壊れるかなって思ったんだけど…」

「カーーーッ!アホじゃーーっ!」


小さな体の割りに、大きな声で怒鳴られ、見習い天使は首をすくめた。

今更文句を言われても、どうしようもないではないか。


「こんなところで時間切れになったら、せっかく坊が死神の足止めしてるのが無駄になるじゃろが!!」

「あーん、もう〜!!わかってるから、ジイはちょっと黙ってて!!」

「ほえぁ〜〜〜!!」


見習い天使が返した怒鳴り声に、小さな天使が驚き、かつてない大声で泣き出した。


「うわぁん、チビちゃん、泣かないで〜え」

「デコのせいじゃぞ」

「言わなくてもわかってるわよ〜。もうどうしよう、私だって泣きたいよぅ…」


大きくなった分、声も大きくなったようだ。

重さと、ままならないじれったさに、見習い天使は涙ぐんだ。

このままでは体に残る熱を奪われ続けて、小さな天使を守るばかりか落としてしまう。


どうしたらいいの…。

目の前の魂たちを助けるどころか、このままではここで時間切れを迎えてしまう。

どうしたらいい…、どうしたら…。

青いランタンを持った星の子がいる天使の国への入り口は、あともう少しのところにあるというのに。


星の子…。


心を飛ばして見た星の子とは別の、もういなくなった星の子の姿が浮かんだ。

いつもどこか哀しげな眼差しの星の子。

自分よりもはるかに強い相手だった死神に、勇ましくぶつかっていった星の子。

どれだけ恐ろしかったことだろう。

あの時、星の子は何を考えていたのだろう。

まるで地平線の彼方に沈んでいく夕日のように、赤々と体を燃やしながら。

必死に守ってくれたことを無駄にしてはいけない。

何としても、あの約束を守りたい。


「うああああーっ!!」


星の子、星の子…!


思い出す星の子は、いつもベソをかいてる時に空でまたたいていた。

自分を見つめるそのふたつの目に、いつまでも泣いてられなかった。

からかいながら、いつもどこか慈しむような眼差しを向けてくれてた。


星の子。

あんな風にあなたを失うなんて思ってなかった。


「うああ…!」


伏せた目に涙があふれ、そして心の奥に炎が灯されるように、胸が熱くなった。


魂よ、燃えろ…!

星の子のように…!


見習い天使は、悲しみと怒りを糧に心を燃やした。

送られてくる冷えを押し戻すように、集中した。


「何が起こってるんじゃ…?」


涙を流しながら、嗚咽を漏らし続けている見習い天使の両手からまばゆい光が漏れ出して、小さな天使の足を押さえているコウモリがまぶしさに目を細めた。

光はどんどん輝きを増して、黄色から夕焼け空を染める太陽の輝きとなっていった。


「そうか…!魂、魂を燃やしてるんじゃな…!」


コウモリはそうと気づくと、驚きの顔にあせりを滲ませた。


「バカじゃ!そんな力技使っておったら、ここで果ててしまうじょ!!」


だが、その声は集中しきっている見習い天使には届かなかった。

ただ一心に、心にあふれた感情を放ち続けた。


「アンタが抱いとるチビが黒コゲになっちまうじょー!!」


コウモリの叫びと、ゴキリという嫌な響きが同時に夜空に響き渡った。


「まさか…」


片方の牙が折れた口をポッカリと開けて、コウモリは目を見張った。

見習い天使が放つ熱に、赤く変色した錠前が壊れた音であった。


「外れた!外れたじょ!!」

「外れた…?」


コウモリの声に、急に力を失った顔で見習い天使がつぶやく。

同時に両手から出ていた光はスゥと輝きを失い、明るくなっていた空は元の暗さに戻った。

ぐらりと見習い天使の体が沈む。

コウモリが必死になって小さな体で二人分の体を支えた。


「とと、しっかりするんじゃ!」

「う〜ん…、だるい〜…」

「だーかーらー!言ったじゃろ!」

「ごめん…。あっ!?」


ぐらぐらする体を保とうとしたその時、目の前の囚われの魂たちが光輝きはじめた。

壊れた錠前と鎖と杭から、青みがかった光の文字が、まるで風に溶けるように出だしたのだ。

頼りなくそれが消えるたびに、死神の装置は砕けるように消えていった。


そして、輝ける魂たちは、苦悶の表情から一転して、皆、まるで春の雪解けのような微笑みを浮かべていた。


『…ありがとう…』


数字の大きな順に、魂はそう口々に告げて、空気に消え去っていった。


『…ありがとう…、そして…さよなら…』

「待って…!一緒に、天使の国に行こう!間に合うよ!」

『…この子と一緒に…、そう決めてたから…』


透き通りはじめた体で、安らかに眠る小さな天使を抱きしめると、やわらかい笑顔を浮かべ、その見習い天使もまた風に溶けるように消えていった。


「…そんな…」


助けてあげたかった。

けれどこんな形でしか、救うことができなかった。

大粒の涙が、見習い天使の頬を流れていった。




「くくく…。さすがに悪魔と言えど、身がすくむんだねぇ…」


懐から出された小刀の、小さくも鋭い刃先が月光にキラリと光る。


「バッカじゃないの…。寒いからだよ」

「ふっ。まあ、好きにほざいているといいさ」


死神は、またぐっと体を傾けてきて、悪魔の尖った顎を掴んだ。

元々暗めな色の悪魔の唇が、ガクガクと小刻みに震えている様を、死神は薄い唇を歪めて楽しそうに見つめた。


「さあて、中はどうなっているのかな、くくく…」

「うっ」


顎を掴んでいた手を離すと、長めの爪でツツ…と胸の間を掻いた。

少年の弾力ある皮膚の感触を味わい、そして指の腹で、その下のしっかりした骨を押し当てた。


「案外と、骨っぽいねえ」

「悪いか…」

「いや、悪くはないよ。見てみたいねぇ、この皮膚の下の骨格も」

「何だこの変態…!」


悪魔は押さえつけられている両足で死神を蹴ろうともがく。

だが、四方から伸びて押さえつけられている白い手の圧力に、膝と太ももがかろうじて動くくらいであった。

必死にあがく悪魔の朦朧とした眼に、死神は満足そうに微笑むと、頭をさらに下ろして胸の中心に唇を押しつけた。


「はっ」


悪魔が小さく声を上げ、背筋を波打たせた。


「くっく…、脈打ってるのが伝わってくるよ。おや、だんだん速くなってるねぇ」

「中が見たければ、さっさとやれよ…!」


顔を歪め、荒い息のもと、不快そうに言い放つ悪魔を、死神は顔を上げると肩を揺らした。


「わかってないねぇ。結果はもちろんだが、その過程も大事なのだよ」

「何がだ。この変態め…!」

「あ〜あ、いい眼になってきたねぇ。切羽詰まってきたのが、眼に浮かんできてる」

「ちっ」

「まあ、こちらとしては、あまり時間もないことだし、お望み通りに」

「そんな小さなナイフで、切り開けるのかよ」


悪魔の捨てゼリフに、死神はニヤリと笑った。

月光を受け、仮面で覆われていない切れ長の二つの眼がキラリと光った。

凍てついた湖の寒々しい薄青のような瞳が、色も相まって冷たく悪魔を見据えていた。


「切れ目を入れたら、後はこの手で…」


死神は長い鎌の柄を持つにふさわしい、長く華奢なようでいて節々がごつい手を、小刀を持っていない片手だけ持ち上げると、悪魔に見せ付けるようにゴキリと音を鳴らして見せた。


「胸の骨を開いてやろう。ふっ、お前みたいな薄い胸など簡単なものだ」

「さあ、はじめようか」


首を軽く揺らして、迫ってくる死神に、悪魔は身動き出来ずにただ息を飲んだ。

しっかりと握り直された白刃が、注ぐ月の光の線を引きながら、胸に下りてくるのを直視していた。


「うぐ…!」


衝撃と激痛に押し殺した声が上がる。

悪魔の胸板がしなって、顎は天へと反り返る。

浅黒い皮膚につきたてられた刃から、少しの間を置いて、赤黒い血が盛り上がりはじめた。


「くっく。お〜や、痛いかい?もっと痛くなるからねぇ」


悪魔の苦悶の表情に、楽しそうにしていた死神は、突如体をビクリと震わせた。


「何だと…?消え…た?」


悪魔の胸に小刀を突き立てたまま、それから手を離すと、慌てて手帳を懐から取り出した。

そして、急いでページを開くと、まるで舐めるようにあるページを見つめた。


「消失した…? まさか…、あの天使が…?」


信じられない様子で、そうつぶやくと、もう一度間違いがないか食い入るようにして見つめた。


「ちぃっ!こうしてはおられない」


手帳をやや乱暴に閉じて懐にしまいこむと、ひきつった顔で死神は立ち上がり、死人形に持たせておいた鎌を乱暴に取り上げた。


「小僧、残念だが、もう行かねばならぬ。お前はここでお人形さん達に吸い尽くされるがいい」

「はっ、そんなの…、黙ってされてるワケないだろ」


弱々しいその声に、死神は冷笑を浮かべた。


「そうだな。加勢されてもやっかいなだけ。念には念を…入れておくべき、だな」


寒さに加え、痛みと出血に朦朧としている悪魔は、あえぎながら死神が何をしようとしているのかを半ば閉じかけた目で追っていた。

手前に立つ死人形たちに合図して、左の足が持ち上げられる。


「何を…」

「時間がないので、手っ取り早くさせてもらう」


死神が何をしようとしているのか、悪魔が気づいた瞬間、高く宙にかかげられた鎌がするどく煌めき、血しぶきをあげて膝下を切断していった。


「うああああああっ!!」


肉と骨を切断する激しい振動に、悪魔は身をよじって叫び声を上げた。

足首を押さえていた死人形から靴下と靴を履いたままの足を受け取ると、死神はニタリと意地悪く笑った。


「私に関わろうとした代償だ。これに懲りて、もう茶々を入れるのはやめろよ。おっと、もう次はなかったな」


肩を揺らして押し殺した笑い声をあげると、ポケットからハンカチを取り出して、まるで手品のようにかぶせて足を消し去った。


「じゃあ、心ゆくまで可愛がってもらうんだな」


死神はほつれてボロボロなマントをひるがえして姿を消した。


「ちぃ…、持っていきやがった」


悪魔は憔悴しきった顔で、弱々しくつぶやくと、肩で大きく息をしながら周りの雰囲気をうかがった。

死神が去ったことで、効力が切れたのか墓の住人たちは崩れるように地面に伏せて動かなくなっている。

あとは大勢の死人形たちだけが、この墓地にいる。

吸い取るエネルギーがある限り、離れることはないのだろう。

悪魔は呼吸を深く、そしてゆっくりするように努めた。

頭の芯で、音がガンガンと鳴り響いている。

これ以上は危険だと知らせているように。


悪魔は目を瞑ると、小さく唇だけを動かして何かを唱え始めた。

途端に悪魔の印象がすうっと薄れはじめた。

氷が溶けて消えていくように、悪魔も小さくなって、死人形たちが押さえていた手足もまた消えていった。


攻撃対象がなくなって、死人形たちは体を伸び縮みしはじめた。

その隙間を縫うように、一羽の鴉が弱々しく飛び立った。

左側の足のない鴉である。

墓地の塀のすぐ外にある太くがっしりした枝振りの木にそれはとまった。

そしてみるみる鴉から姿を変化していき、元の悪魔の姿へと戻っていった。


「くっそ、忌々しい…!」


拘束から逃れ、冷気が去ったことで、切られた左の膝下からの出血が一段と激しくなっていた。

はあはあと浅く早い呼吸をしながら、太い幹を跨ぐように座り込むと、悪魔は目を瞑り、小声で何かつぶやき、光りだした手の平を切断面に当てた。


「うっく…!うあ…!」


苦悶の表情を浮かべると同時に、面したところから煙が立ち昇り、次第に煙の量が減り、ポタポタと落ちていた赤い雫も流れを止めた。

荒い息をしながら手を離すと、悪魔は自分の胸元を覗きこんだ。

突き刺さったままの小刀を、だるさを堪えてようやく手を動かして掴んだ。

呼吸を整え、それを一気に引き抜いた。

小刀を放ると、ぶわっと溢れ出した血を押さえるように手で覆い、同じように唇をかすかに動かして何かをつぶやいた。

そうして、一時的な処置を終えると、脱力して木の幹に背中を預けた。


「ヤバ…。意識とぎれそう…」


虚ろな目で、眼下に見える墓地の中で、自分を探して徘徊している死人形たちを悪魔は見つめた。

自分が消耗したのに反して、ずいぶん調子よさそうな動きを見せる死人形たちに、思わず苦々しい顔つきになる。

目線を今度は空へと向けた。

見習い天使とコウモリが向かっていった方角を、疲れきった顔で見つめた。


「アイツら…、どこまで行ったんだろう…」


丸い月はだいぶ傾いた。

空はまだどこも暗いままだが、夜明けまでそう遠くない時間となっている。


悪魔は目を瞑り、眉間を指で押さえた。


「…ジイ。ジイ、聞こえるか…」


掠れた声で呼びかけた。

ザザ…と木々が風にそよぐ音を耳にしながら、返事を悪魔は待った。


『坊っ!無事じゃったか!』


ジイの声は悪魔の耳の中に聞こえてきた。

甲高いその声は、疲労困憊の悪魔には耳障りな声であった。


「そっちは? ゲートに入ったか?」


死神が向かった今、もう到着してれば何の問題もない。


『ま、まだじゃ。今、疲れきってて高度が下がっとる。コラ、デコ!バッサバッサと飛ぶんじゃ!!』

『坊、そういうわけで、もうちょっとかかりそうじゃ。重い〜、早くしないとワシが潰れるじゃろ〜〜!』


怒鳴っているのか、泣いているのかわからない声での返信に、悪魔は弱々しく頭を背後の木に寄りかかった。


「何やってるんだか。おいジイ、死神がそっちに向かった。急いでその場を離れろ」

『な!?なんじゃと?死神がこっちに?』

「ゲートに…早く入れ』

『今のデコじゃ無理じゃよ。死人形を解除するのに、荒技使いおったんじゃ』

「荒技?」

『死人形を解除するのに、全部じゃないけど、魂の一部を燃やしおったんじゃ』

「…あのバカ…。天使の輪をいったんそっちに飛ばすから、それを使え」

『じゃが、坊…、それはワシらの報酬…』

「…死神の思うようにはさせない…。絶対、報復してやる…」


ギリ…。噛みしめた犬歯で唇から血が一筋流れた。

受けた屈辱は、倍にして返さねば…。

やられっぱなしだったことが腹立たしく、とはいえ、今は動ける状態ではない。

悪魔は一息吐くと、両の手を重ね合わせた。

温めるように両の手をすり合わせて、ゆっくりと離していくと、ふたつの手の平の間から黄金色の天使の輪が現れてきた。

悪魔は念じながら、それを丸い球体に形を変えていった。


「もとの持ち主のところへ」


手を広げると、中から黄金に輝く鳥が現れて、大きな翼をしなやかに羽ばたかせた。


「ほお…。雀くらいのが出ると思ったら、案外と大きな鳥だったな」


手の平から飛び立って、暗い夜空を金色の光を引くように、その鳥は飛んでいき、すぐに見えなくなった。

それを見送るようにして見つめていた悪魔は、次第に意識が遠のいて気を失った。



一晩がほんとに長い話です^^;

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