第4夜 青く光る星
傾いた月の光が差し込む天使の館の一室で、上官の天使は広い壁に掛けられている大きな鏡を見つめていた。
見習い天使の金髪よりも、ずっと色が濃く長い金髪が覆う姿が、薄暗い部屋ともにその鏡に映りこんでいた。
「…遅い…。何かあったのだろうか…」
想いに沈んだ眼差しで、ただ自分の姿だけを映す鏡を見入っていた。
キイィ…。
部屋の扉が恐る恐るといった様子で開き、上官の天使は、ハッとして扉を見やった。
少し開いた扉の向こうから、星明り色の輝きが、暗い部屋に明かりを伸ばしてくる。
「星の子…。戻ってきたのか…、遅かったではないか」
「あ、すいません」
そっと中をうかがうように星の形の頭が覗きこんだ。
「あの…、私は違う星の子です、ごめんなさい」
歩み寄ろうとしていた上官の天使は、声に足を止めた。
待っていた星の子とは、声があまりにも違っていた。
その子の声は、少し低めであるが、女の子の声であった。
「…いや、謝るのは私の方だ。悪かった」
「あ、いえ、上官の天使さま、謝らないでください。いつもよくあることですから」
見習い天使とともに下界へと降りていった星の子と、その子もまるっきり同じ出で立ちであった。
黒いつぶらな瞳が、よそよそしく上官の天使を見つめていた。
どうも緊張しているらしい。
その様子に、上官の天使は、すっかり顔なじみになっていた星の子のふるまいが、ずいぶん馴れ馴れしかったことに気づいて、つい口元に笑みを浮かべた。
見習い天使から位が上がり、誰もが一線を引くようになってからも、彼だけが当時と変わりなく接していたことに思い至った。
どの上官の天使より厳しい佇まいなために、星の子は扉に張り付くようにして、その顔を見上げていた。
上官の天使の口元に浮かんだ笑みに、抱えていた緊張がいく分かほぐれていった。
用事を託ってきたものの、どのタイミングで扉を開けたらいいものか、長いこと扉を前に悶々としていたこの星の子は、やっとひとつクリアしたことに安堵した。
「何か用か?」
「は、はい。上層の天使さまからです。『掟の通りに』このひと言だけ伝えるよう言われてきました」
「…『掟の通りに』…。言われなくても、わかってる」
「ですが、上官の天使さま、ここは『鏡の間』です」
この部屋に向かってくる途中、廊下にいる他の上官の天使たちが、ひそひそとささやきあっていたのである。
配下のものが試練を受けている間、下界の姿が見れる鏡のある部屋にいるのは掟を犯すのではないか?
上に当たる者もまた、試練の時なのだから。
そう、銘々にささやきあっていた。
この天使の国で、メッセンジャーとしての役割を担っている星の子たちは、何より建物の配置や、国の隅々まで覚えさせられる。
館にある部屋の名前と場所もそうだ。
ただし、星の子は言伝がなければどの部屋にも立ち入ることができない。
空にあるときと同じで、館の外で瞬いていなくてはならない。
この館に出入りを許されてまだ一年ほどのこの星の子は、いつも扉を開けるとき、ひどく緊張した。
自分の姿を目にしてくれる、話をしてくれるということ。
まだ嬉しさよりも、緊張の方が勝っていた。
上官の天使は、そう告げた星の子をじっと見つめ、そして今まで見つめていた鏡へと視線を戻す。
鏡の中で面と向かい合っているのは、上官の天使の姿だけであった。
「下界をのぞいたりはしない…」
「では、なぜ…?」
「この館の中で、この鏡が一番下界に近い存在だからだ。私は祈るほか、何もできない。せめてそばに、そう思っているだけだ」
「……」
愁いを秘めた眼差しを、星の子は見つめた。
皆が言っているように、この上官の天使は鏡を使ったりしないだろう。
ただ心配してこの部屋にいるのだと、そう実感した。
「…独りで暗い部屋にいると、かえって想いが深くなります。私がこの部屋を照らします」
「いや…大丈夫だ。じきに二人は戻ってくる」
「私と見間違った星の子は、この任務を終えたら運命の扉をくぐれるそうですね」
「ああ。戻ってきたら、星の子としての役割を終えることになる」
「…ふたつの任務を終えたら…強くなれるのでしょうか…」
「お前は、まだ任務をやったことはないのか?」
「はい…。何ヶ月か前に任務の話をもらいましたが…、受けれませんでした」
「受けなかった?…何故…」
そうそう巡ってこない任務を断った。
相変わらず扉に張り付いている星の子を、上官の天使は手招きして部屋に招いた。
部屋の中央へと飛んできた星の子の輝きが差し込んで、鏡にもほのかな光が灯る。
「この館に来たばかりの私に、まさか早々に任務が当てられるとは思ってなかったので…。それに今まで住んでいた街を通るのは…」
「…辛かったか…」
「…はい…」
うなだれた瞳に、流れないまでも涙が揺らめきはじめた。
その姿に、上官の天使は瞼を閉じた。
共に人の世界へと下った時、星の子がひどく辛そうだったことを思い出す。
手に取るように、家族の過ごす様を見ているというのに、その想いを家族に伝えれない悲しみ。
何年も、何十年も。
生きて暮した年月よりも遥かに長い時間を、悔やみながら過ごしてきた空。
今夜も、辛い瞬間を飛んでいったのだろう。
任務に選ばれる星の子は、必ずといっていいほど、目的地への通り道にかつて住んでいた街が近い星の子が選ばれる。
過去を振り切り、越えていく強さを求められる。
「あの子も、ずいぶん辛そうだった。だが、運命の扉をくぐりたいという気持ちの方が強かった」
「お前も、乗り越えれるはずだ。このままの自分でいいのか、よく考えてみなさい」
「…はい…」
自分を殺すという過ちを犯してしまった星の子たち。
空を彩る星の子は、どの子もうつむき、言葉もなく、泣いてばかり。
この館に入ることを許された星の子は、そこから這い出た子たちだ。
過去を悔やみ、心を揺らしながらも、一歩踏み出す力を得た子たち。
やり直すチャンスを、神は与える。
失ってしまった生きたいという力を、二度の試練で与えるのだ。
上官の天使の言葉に、じっと耳を傾けていた星の子は、翳った顔つきのまま返事をした。
言葉はすぐに心には届かないだろう。
何度も反復し、いつか任務が廻ってきた時、彼女の背を押すことだろう。
「…?」
部屋の外が騒がしくなってきた。
上官の天使と星の子は扉を振り返る。
「帰ってきたのかもしれませんよ。私、行って様子を見てきます」
ふわりと宙に浮かぶと、星の子は扉の前に行き、大きな扉を開いて廊下に出て行った。
パタリと扉が閉まった途端、また星明りが差し込み星の子が血相を変えて飛び込んできた。
「た、大変ですっ!!まだ二人は戻ってきてないのに、運命の扉が開いたそうです!」
「扉が…開いた…!?開いただけか?」
「通っていったそうです…。星の子が…」
上官の天使は、言葉も無くただ立ち尽くした。
「いったい何があったのでしょうか?案内を失って、見習い天使は戻ってこれるのでしょうか?」
任務の途中で運命の扉が開くということは前例がない。
「何があった…、星の子…」
上官の天使は、細長い窓の外に輝く月を見つめた。
月は小さく傾きかけてきている。
運命の扉をくぐるのは、星の子の願いであった。
だが、まだ任務は終わってはいない。
星の子を失って、見習い天使はどうしているのだろう。
そして運命の扉が開くことになった原因とは、いったい…。
この事態に、上官の天使は何もできない。
様子を見るために、鏡を使うことも許されない。
白く長い指先を、血の気が失せるほどに握り締めた。
ただ祈るだけ…。
それだけしか許されない自分が歯がゆかった。
報告を終えた星の子は、何か情報はないかと、あわてた様子で部屋を出て行った。
また月明かりだけが差し込む部屋に、上官の天使はたったひとりとなって立ち尽くしていた。
鏡には、相変わらず上官の天使の白い姿と部屋の様子だけが映っているだけ。
鏡に映っている姿をじっと見つめながら、上官の天使は想う。
あの時も、ちょうどこの部屋にいた時であったと。
コンコン。
不意に窓ガラスが叩かれ、上官の天使は目を向けた。
淡く星明りに包まれた星の子の姿が、窓の外にあった。
自分が振り返ったことで、星の子の小さな口元がニコと上がる。
上官の天使は、その窓辺に寄り、窓の格子を上げた。
『何か用か?星の子』
『用っていうか、話と言うか…。久しぶりだね、ツリ目ちゃん』
その声には覚えがある。
上官の天使は、ちょっと不快な呼び名に目を更につり上げる。
この星の子は、新しい天使を迎えに行く試練を共にした星の子であった。
前に会った時よりも、何だか口調が明るい。
『その名で呼ぶのはやめてもらおうか』
見習い天使から格上となった身の上であるが、まだ名前を名乗る身分ではない。
ましてや、この星の子は、自分を見た目のままに呼ぶ。
他の天使たちより、自分の目がつりあがりぎみなのは承知の上だ。
優しい面立ちの天使たちの中で、自分の顔つきがどれだけ異彩を放っているかもわかっている。
『ああ、ごめんね。君はすっかり大きくなっちゃったけど、やっぱりその名前で呼んでみたくって…』
『変わっているな、お前は。話はそれだけか?』
窓を閉めようとする上官の天使に、星の子はあわてる。
『あああ、待ってよ、ツリ目ちゃん。さっき、あの子に会ったよ』
上官の天使は力を加えようとしていた手を止めた。
『あの子?』
『あの子だよ、あんなに大きくなってるなんて、ボクびっくりしちゃったよ』
それでもよくわからない上官の天使に、星の子は顔をくしゃりと歪めて笑った。
上官の天使は、星の子がそんな風に笑うのをはじめて目にして、驚きに唇を少し開いて見つめた。
『君がさっき、デコピンしていた子。ボクたちが迎えに行った子なんだもの』
『ああ…』
星の子は、先ほどある見習い天使をしかっていたのを見ていたらしい。
他の上官の天使に遠巻きに小言を広められるくらいなら、自分が悪役を買う方がいいと思ってのことだ。
誕生と共に大きな力を発動してしまったゆえなのか、どうも当たり前のことがこなせないのである。
『大きくなっても、あの額の広さ…』
何やら思い出したのか、星の子は愉快そうに、角ばった星型の頭を揺すった。
『天使の成長は、人のそれとは違うからな』
『うん、わかってるけど。それに、君も位をもらってずいぶん姿が変わったし』
『うん…?』
上官の天使の顔をじっと見つめて、星の子は淋しいそうな陰を落とした。
『自分だけ変わらずいるのって、悲しいよね』
『…お前も、ずいぶんと今日は明るいみたいだが?』
『…ボクは変われるかな…?君たちみたいに』
『変われる…。私はそう思っている』
だからこそ、試練を受ける。
雲のトンネルを通る前と、そして戻ってきた後に、誰かしら変化がある。
見た目の変化が著しい天使たちより、本当は星の子の方が変わっているように上官の天使は思う。
『早く次の任務が来ないかな』
翳りを散らすように、星の子は微笑んだ。
『ねぇ、ツリ目ちゃん。ここって「鏡の間」でしょ?』
『ああ。今の私は、この鏡を覗く資格があるからな』
『…オデコちゃんのお母さんがどうなってるかも、覗いてみたの?』
『……』
不意に訊かれたことに、上官の天使は目線を背けた。
『ああ、ごめん。もしかして言えないことだった?でも、ずっと気になってたんだ…だって、あの時』
『今は』
星の子の話を遮るように、上官の天使は話し出した。
『今は元気にしている』
『ほんと?』
『ああ…』
ホッと安堵したため息を星の子は漏らした。
『よかった。ボクはてっきり』
『星の子』
『え?何?ツリ目ちゃん』
『見ろ。空に信号星が上がった。遅れるぞ』
星の子は背後の空にチカチカと上がっている一番星を見つめた。
『あっと、ほんとだ。じゃ、ツリ目ちゃん、また今度ね』
『次はその名は禁止だ』
『ええーっ!だって、君とボクの仲じゃないか』
星の子を見上げる上官の天使の驚く顔つきに、星の子は恥ずかしそうに笑う。
『だってさ、ボク、友達をあだ名で呼んでみたかったんだ』
『友達?』
星の子は、はにかむように笑いながら、キラキラした光の線を引いて飛んでいった。
星の子…。
私はいつも、お前に一線を引いていた。
お前だけではない、この館に暮す誰にでもだ。
自分が置かれる位にふさわしくあろうと。
だが、星の子、お前はいつも位も何もない素の自分に話しかけてくる。
友達と言った、その言葉がこの心にあるものなのかよくわからない。
けれど、星の子。
お前が運命の扉をくぐっていったと聞いて、私は…やはり淋しいよ。
この夜が明けるまでに、任務を無事に終えた暁には、決まっていた別れであったというのに。
星の子…、お前の願いは叶ったのだろうか…。
そして私達が運んできたあの見習い天使は、今どうしているのだろう…。
上官の天使は、窓から覗く傾き白く光る月を、翳った眼差しで見つめた。
「お〜い、どこまで行くんじゃ〜?」
途中で振り払われたために、先を行く見習い天使を疲れた顔でコウモリは見つめて言う。
「結構、街から離れたじょ」
街灯りが遠のき、家も少ない場所になったため、空の暗さがよくわかる。
曲がりくねっている道路に街灯の明かりもまばらで、道の傍に建っている家々の明かりも深夜のために絶えていた。
辺りは静かで、初秋の穏やかな虫の合唱があちこちから聞こえてくる。
「どうじゃ、天使の国への入り口は見えそうか?」
「ん〜…」
足をとめた見習い天使は空を仰ぐ。
星の子の話だと、青い星がその目印となっているらしい。
雲のトンネルをくぐり抜けてきた時は、前に広がる地上の明かりに目を奪われていて、トンネルを振り返ることもしなかったのだ。
白い雲が斑に散って浮かんでいる夜空を、見習い天使は目を凝らして見据える。
「ん〜…」
天空には大きな月が懸かっている。
ずいぶんと傾いてはきてるが、その月明かりに星の輝きがすっかり薄れていて、どこにその青い星があるのかまったくわからない。
「…どうしよう…」
「目で見える目印なのか?」
頭の後ろの方からの悪魔の声に、見習い天使は振り返る。
「わからない…。星の子は青い星が目印だって、心を澄ませて探せって言ってたけど…」
「目に見えるものだけがすべてじゃない」
「でも、どうやったら…」
見習い天使は途方に暮れた。
「ね、あなたたちはどうやって悪魔の国に帰るの?」
「そんなの簡単じゃよ。扉を思い出すだけじゃ」
「扉?」
見習い天使は、パタパタと頭の周りを飛ぶコウモリを目で追う。
「あの重厚で口やかましい門番の腹黒い中身を表わしてるような真っ黒い鉄の扉を思い描くんじゃ」
「え〜と…門番?」
「これがまたいやらしいヤツなんじゃ!せっかくワシらが集めてきたもんの一割奪いよるんじゃ!厚かましいじゃろ!」
何やら不快なことを思い出したらしいコウモリは、鼻息荒くたたみかけるように見習い天使に言った。
「予定時間をちいっとばかり越えただけで、それが二割に増えるんじゃよ!腹だたしいじゃろ!」
「や、ジイ、そんなのデコに言っても通じないから」
「通じんとは、どういうことじゃ!こんなにわかりやすく言ってるじゃろが!」
「うるさい」
「ふごっ!」
指でビシッとはじかれて、コウモリは道路脇の茂みに飛んでいった。
茂みには川が流れていて、ジャボンと水音があがる。
「ああっ!」
「や、平気だから」
「ええっ!?」
見事な弾き技に、見習い天使は、いつも自分が上官の天使さまにされているデコピンを思い出し、額がうずいた。
コウモリが気の毒でならない。
「痛そう…」
コウモリが戻ってくるのを待っていると、明かりが目に射しこみ、見習い天使は振り返った。
街の方から、二つの灯りをつけた車がゆっくりと坂になっているこの道を登ってくる。
そして一行の姿の見えないその車は、止まることもなく通り過ぎていった。
辺りはまた静けさを取り戻し、虫の繊細な鳴き声が響き出した。
「ねぇ、ジイさん、流れちゃったんじゃないの?」
「ジイさんって呼んじゃだめじゃ!」
「わあっ!」
突如現れたコウモリは、水しぶきを飛ばしながら、見習い天使のやわらかい髪の上に止まった。
「や〜ん…」
額からポタポタと水が滴ってきて実に不快である。
「ジジイ臭いから、さんをつけるんじゃないじょ」
「は〜い…」
もう泣きたくなるくらいよくわからない人たちで、見習い天使はため息混じりに返事をした。
そうしている間にも、また高らかにエンジンの音がして、また車が登ってくる。
「ん?どこ行くんじゃ?」
「うん、何か集中出来ないから、この奥に行ってみる」
小さな川にかかっている橋の向こうには、古びたレンガの門構えがあり、蔦が絡んでいるが、とても整備されている場所のようであった。
街灯の明かりに照らし出されて、門の向こうに花が茂っているのが浮かび上がって見える。
「公園みたいじゃな」
「公園?」
「お前さんみたいなチビっこが遊んだりするところじゃ」
「じゃあ、集中するのにいい場所だよね」
見習い天使は、小さな天使を抱え直すと、街灯の明かりに浮かぶ小さく古びた橋を渡り、レンガのアーチをくぐっていった。
蔦が絡んで見えなくなっている表札には「セメタリー」と書かれていたが、誰も気づくことなく通っていった。
門を越えて進んでいくと、月の白い明かりが差し込んでいて、とても幻想的な庭園が目の前に広がった。
「うわ…綺麗…」
柵にはバラが絡まるように伸びていて、今を盛りに咲いていた。
ほのかに街ではしなかった清々しい香りが漂っている。
広場の中心には、白い女の人の像があった。
布を被り、少しうつむき加減のその顔は微笑みをたたえている。
どこか上層の天使さまの顔に似ている。
周りの雰囲気に酔いしれていた見習い天使は使命を思い出し、気を引き締めると空を仰いだ。
「お願い…、どうかトンネルの入り口を教えて…」
祈るように空を見渡した。
月明かりに薄れる星々を見渡す。
そして心を澄ませる。
辺りから聞こえてくる虫の声も遠ざかっていく。
近くに立っている悪魔とコウモリの姿も離れていく。
視界がぐんと伸びる。
月を囲む夜空に、近づいていくような心持ちになっていく。
天使の館で待っているであろう上官の天使さまの面影を追う。
白い雲を越えて、心だけが飛んでいく。
目の前に青い星が瞬いた。
青いランタンを持っている星の子の姿が。
「…星…の子…っ!」
もう懐かしくてしょうがない星の子の姿に、見習い天使は集中を欠いた。
一気に体に心が引き戻される。
めまいに襲われ、息が詰まって、思わず膝をついた。
悪魔がそれ以上に倒れないようにと腕を支えてくれた。
「う…」
むせ込む見習い天使に、コウモリが心配そうに覗きこむ。
「大丈夫か?急に咳き込んでビックリしたじょ」
「うん…、でも、見えた…入り口が…」
あのランタンを持っている星の子は、違う子なのだろう。
悪魔とコウモリから見えないように、浮かんだ涙を手の甲で拭った。
「見つけたんじゃな!」
「うん」
コクリとうなづいた見習い天使の上空で、強い風が渦巻いた。
冷たい空気が沁みこんでくる。
ぞくりとした殺気を感じて、三人は一斉に空を見上げる。
月光が陰った。
三人を照らす月の光の中に、あの四角いシルエットがあった。
「死人形!」
体から翼がはみ出している。
天使のものであるはずの翼が。
逆光に黒くなっている体に、くりぬいただけの二つの目が怪しく光っていた。
「しつこいヤツじゃな!ワシら結界の中にいるのに、何でわかるんじゃろ」
「…それはね、天使の魂をとりこんでいるからさ。天使の魂の匂いをかぎつける…素晴らしいお人形さんなのだよ」
涼しい声音が、死人形とは別の方向から聞こえてきて、三人はハッと声が聞こえた方を見やった。
白い女の人の像の奥、入ってきたのとはまた別のレンガの門のところに、その声の主が立っていた。
足首を覆うほどに長いマント。
ほつれた裾が風に揺れている。
そして手には、魂を狩るための長い鎌を構えている。
「死神…!」
見習い天使は息を飲み込み、緊張しきった声でつぶやいた。
とうとう死神がやって来てしまったのだ。
「さあて、これで終わりだ。時間を有効につかえなかった自分を恨むんだな」
「し、死人形をばらまいておいて、その言い草はないでしょ!」
「可愛かったろう?あの子達の歩く姿の愛らしさ、堪能しただろう?」
「どこが愛らしいんじゃ!あんな間抜けな姿にされて、魂が嘆いてるじょ!」
「何だ、そのうるさいのは。いつから湧いた」
死神にそう言われて、見習い天使は思わずまばたきする。
「えっと、ずっと…いました」
「何、真面目に答えてるんじゃ!」
ムッとしたコウモリは、興奮しきって、見習い天使の頭上をクルクルと回る。
「ジイ。あんまり騒いでると腹が減るぞ」
「坊、何か悔しい気がするんじゃ」
口惜しいままに、コウモリは悪魔の肩の上に乗った。
そして緊張の色を漂わせながら、死神の出を待った。
相手は冥府の狩人である。
「上から見て気づいたんだが、ここはいいところだな」
「あああ、は、はい。とっても綺麗」
「何、世間話しとるんじゃ!!」
「あっ」
コウモリの突っ込みに、見習い天使は思わず肩をすぼめた。
緊張のあまりに、今しなくてもいい話を続けそうになった口をあわてて閉じた。
「ジイ」
更に小言を続けようとしたコウモリに、悪魔がささやく。
「オレが引き止めてるうちに、デコとゲートに向かえ」
「坊、とんずらするなら今のうちじゃよ。あの死神、狙ってるもの以外見てないみたいじゃし」
「行け」
悪魔が肩を揺らし、コウモリは渋々と言った様子でまた羽ばたいた。
ノッテ、ノッテ、ノッテ。
後ろの門の方から、重みの無い足音が聞こえてくる。
「あっ!?」
足音に三人が振り返る。
レンガの古めかしいあの門で、白い死人形が入り込もうとひしめき合っていた。
そう、街に溢れていた翼のない死人形たちだ。
「やっと着いたようだね、私のお人形さんたち」
死神が嬉しそうな声を上げる。
「何じゃ、コイツら。あんな一斉に入ろうとしたら詰まるに決まってるじゃろ」
ぎゅうぎゅうと押し合い、ひどく体を変形させながら、一体、また一体と門から搾り出されるように這い出てくる。
広場の周りは蔦のからまった塀で囲われている。
もうひとつの門の前は、死神が陣取っている。
だが、三人には翼がある。
いつだって飛び出せる。
それを見張るかのように、白い翼の死人形が空を徘徊していた。
「さあ…、夜も更けた。もらいそこねた魂を狩らせてもらうよ」
「あなたにチビちゃんは渡さないもん!」
「あう〜」
死神に向けて、見習い天使は「い〜〜」っと噛みしめた歯を見せた。
もう見つかった以上、この場を振り切るしかない。
おなかの中心に力を溜めた。
無力な自分に出来ることは、逃げることだけ。
天使の国への入り口の場所もわかっている。
「チビちゃん…。私、絶対あなたを守るから…」
何もわかっていないであろう小さな天使にそうささやくと、抱いている腕に力を込めた。
「くっくっ、笑わせてくれる。何が守るだ。非力なお前に何ができる?」
死神がマントを大きく揺らして笑い声を上げた。
ひどく皮肉めいた笑い声であった。
「守るわよっ!」
「無理だね。おや…。あの憎らしい星の子の姿がないね。どうしちゃったのかな」
見習い天使は、唇を噛みしめた。
自分が招いたこととはいえ、星の子にあんなむごいことをした死神に怒りが湧いてくる。
「おや…。ふふっ、また泣いてるのかい?」
「泣いてなんかないもんっ!」
「涙が滲んでるじゃないか。この泣き虫め…!」
「泣いてないもんっ!」
見習い天使は、白い像の台座に積まれている硬貨を掴むと、死神に向けて思いっきり投げつけた。
死神は、鎌の柄でそれらを払う。
コーン…。
払い損ねた硬貨の一枚が、硬い音を立てて顔に当たりレンガ敷きの地面を転がっていった。
「痛……っ」
大した威力もなさそうな攻撃に、死神はうめき声を上げるとよろけて片膝をついた。
「弱っ!あれしきのことで何じゃアイツ!」
コウモリが顎を落としそうなくらい口を開いて言う。
硬貨を投げつけた見習い天使も驚いた顔で、投げた姿勢のままで固まってしまっていた。
「痛いじゃないか…!顔を狙うなんて卑怯だぞ!」
よろけながら死神が顔を上げる。
月光に深く被っているフードの下の顔が照らし出された。
前とは違い、口から上の顔には仮面が覆われていた。
冷たい輝きを放つ白金の面。
「はぁ…っ! やっと痛いのが治まったというのに…。忌々しい…星の子め…」
星の子が、自分の体を壊すほどに出した光によって焼かれた傷がまだ癒えてなかったのだ。
ダメージの残る死神からなら、逃げ切れるはず。
見習い天使は、また硬貨を拾い上げ、すぐに投げつけた。
だが、死神は硬貨を鎌の柄で容易に払った。
「バカめ。そう易々と当てられてたまるか」
皮肉めいた笑みを、死神が浮かべた途端、脇から飛んできたレンガがその顔を直撃した。
「デコジイも、ゲートへ行け!」
「いやっ!一緒に発音した!」
「坊、アンタ、死神になんてことするんじゃ」
「ぐちゃぐちゃ言ってないで、行けよっ!」
「あ…、でも…」
不敵に口元だけで笑う悪魔の顔に、見習い天使は思い詰めた顔でうなずくと、力を溜めて少し体を沈め、一気に空へと舞い上がった。
力強く羽ばたいて、木立ちを縫い、広い空へと飛び出した。
天使の国の入り口を目指して。
何とか最後まで書きあげたいと思ってます。
なかなかイメージを膨らませるのは難しいものですね。
頑張ります。