第2夜 星の子の願い
来た時よりもずっと明かりのなくなった家々が広がっていた。
星の子は木の上すれすれを飛んでいく。
「ね、星の子!何でこんなに低く飛ぶの?」
見習い天使は前を行く星の子に批難する声を上げた。
しかも速く飛んでいるため、油断していると飛びでた枝にぶつかりそうで冷や冷やするのだ。
自分だけならともかく、腕の中には小さな天使を抱えている。
先ほどまでもがいて動くものだから抱えているのでさえ大変であった。
今は落ち着いて、静かに指をしゃぶっているみたいで、その様子に見習い天使はホッと安堵の表情となった。
とは言え、気は置けない。
月の光に照らされて、赤い実をたわわに実らせた木が延々と続く。
甘酸っぱい匂いのたちこめる中を、問いかけにも振り返らない星の子の後ろを必死に追っていく。
果樹園の向こうに、ひときわ明るい街明かりが顔をのぞかせはじめた。
来る時に通ったあの大きな街だ。
「あっ!星の子!」
見習い天使の驚いた声に、今度はすぐに星の子は振り返った。
「この子の天使の輪、もとに戻ったよ!」
「あっ、ホントだ!」
「よかった〜」
母親から離れたせいなのか、また天使の輪はもとの輝きをとりもどした。
「ね、星の子、少しゆっくり行こうよ」
「駄目」
「えっ!そ、そんなぁ〜あ。 私はこの子を抱えてるんだよ。少し多めにみてよ。でなきゃ代わってよ」
「オデコちゃん。その子は君が抱いてなくちゃ駄目なんだ。手を離すとまた魂に戻っちゃう」
「ええっ!?ず、ずっとなの!?」
「魂が、その姿に定着するまで。館に着く頃には離しても大丈夫になってると思うよ」
は〜っと見習い天使は気の抜けた声を出した。
とにかく館に着くまで、気の置けない任務のようなのだ。
「それじゃ、行くよ、オデコちゃん」
「待って! せめて後ろから押してよ」
「ええ〜っ!?」
今度は星の子が不満そうな声をあげる。
「ん、もう、仕方ないな〜…」
渋々見習い天使の方へ行こうとした時、急に辺りの虫の音が静まった。
「え?な、何?」
そして気温が低くなり、見習い天使は寒気を感じた。
バサッ。
突然近くの木の枝が音を立てて落ちた。
赤い実が何個も地面に転がっていく。
ヒュッ。
風を切る音と同時に白い稲光のようなものが長い線をひいて、見習い天使と星の子の間に光った。
「うあっ!!」
見習い天使は強く頭を打たれて、新しい天使を抱えたまま近くの木に吹っ飛んで、
葉音を響かせて地面に落ちた。
「オデコちゃん!!」
ヒュン。
またしても鋭い風切り音と、白い閃光が二人を襲った。
見習い天使の背後の木は、音と同時に二つに分かれて地面に倒れていった。
「うあ…!」
恐怖に怯える見習い天使の目の前に、まるでそびえるように不気味な人影が立っていた。
全身を覆うボロボロな服。
フードに覆われてその顔はまったく見えない。
そして両の手に持たれた柄の先には長く鋭い鎌がついていて、頭よりも高いところで月光に冷たく光っていた。
「し、死神…!」
星の子も凍りついたように、その恐ろしい姿に息をのんだ。
ザワザワと木々が揺れ、目の前に立つ死神が着ているマントのほつれた裾が風に舞う。
見習い天使は恐ろしさに息をのみながらも、抱きかかえている小さな天使の体をさらに力をこめて抱える。
「渡してもらおう」
冷たく落ち着き払った声が届いて、見習い天使は大きな目をまばたかせて、顔の見えない死神を見つめた。
「こ、この子を?」
「そう。その魂は私がいただいていく」
「こっ、この子は天使になった!」
月を背後に従えて立つ死神が、フードの下で笑ったような気配があった。
「…残念だが…、しくじったようだな。魂狩りのリストに載ったぞ。一度切れた縁をつないだろ?」
さきほどの出来事を思い出し、見習い天使は空に浮かんだままの星の子を仰いだ。
星の子も引き攣った顔で見習い天使を凝視していた。
「…稀に情をかけすぎる奴がいるものだ。リストの魂を狩るのが私の仕事だ。さあ、渡してもらおうか」
「…や、この子は…、この子は渡せない…っ」
「強情はると、お前の魂も狩っちゃうよ? リストに載っていない魂は、手には入らないけどね」
「ひ…っ」
見習い天使は恐ろしさに身をすくめた。
そして、この死神を呼んだのは、自分がこの小さな天使のためにとした事が原因であることに胸が張り裂けそうであった。
このままでは、この子の魂が狩られてしまう。
どこもかしこも体は痛かったが、翼は傷ついてはいないようだ。
見習い天使はそっと腰を浮かせた。
「逃げれると思うか?この私から」
「にっ、逃げないと、かっ、狩る気なんでしょ?」
フードの下から笑い声が上がった。
「そろいも揃って、天使と言う奴はどうして強情な奴ばかりなのか…。呆れすぎて笑えるな」
ゆらりと鎌を構える。
さらに高いところで鎌は月の光をうけた。
「オデコちゃん!!」
鎌が振り下ろされそうになったその刹那、星の子が流星のごとく光の尾を引きながら死神にぶつかっていった。
まるでそれを見越していたように、死神は鎌の柄で星の子を打ち据え、星の子は大きな音を立てて地面に落ちた。
「ぐはぁ」
「星の子っ!」
だが、星の子はすぐに地面を蹴って死神に向かって飛んできた。
さすがに、死神にとってはこの星の子の素早さは意外であったらしく、柄で星の子の体当たりを防ぐ。
星の子はシールドを張っていて、短い両の手を伸ばした先に青白い光の壁が出来ていた。
「オデコちゃん!今のうちに逃げるんだ!!」
「でも!」
このまま自分だけ逃げられない。
自分も狩ると言ったように、星の子まで狩られてしまうかもしれない。
見習い天使は立ち上がり、目の前で死神と闘う星の子を血の気の引いた顔で見据えた。
「逃げてっ!早くっ! すぐに後を追うからっ…!」
星の子は歯をくいしばるように、苦しい声を上げた。
「星の子ふぜいが、私を止めれると思っているのか…?」
「オデコちゃん…、はやく逃げて…っ」
星の子の必死な声に、見習い天使は飛び立つべく体を沈めた。
「逃がすかっ!」
大きく鎌の柄を動かされ、星の子は懸命にその動きをシールドで防ぐ。
星明り色のシールドに、死神のフード下の顔が少し照らされて、歪んだ口元が見えた。
「それほどに、任務を成功させたいか?星の子」
「……っ」
「心の弱い星の子がたいしたものだな。多少イラついてきたんで、褒美をやろうか」
「…出でよ、『魂の記録』…!」
死神が両手で鎌を構える、体との間に青白い炎に包まれた半透明な本が現れた。
何も触れずに本は開いて、一ページずつゆっくりとめくれていく。
星の子はシールドを挟んで、鎌の柄の向こうに見える本の表紙を見つめて、目を見開いた。
「あ…っ!?」
「わかったか?これが何か」
死神はクククと不敵に笑う。
反して星の子は真っ青な顔であった。
「これはお前の『魂の記録』だ。お前の今までの生き様が載っているぞ」
「な…!?」
「お前が星の子になる前の記憶。ふふ…、ジェームス、いや…、両親にはジェムと呼ばれていたようだな」
「やっ、やめてーーーっ!!そっ、その名を呼ばないでーーーっ!!」
星の子のまるで泣き声のような叫び声が響きわたった。
『ジェム』
『ジェム』
両親がボクを呼ぶ声が聞こえる…。
両親にとってのボクは、宝石のように大切な存在だった。
…でも、ボクは…、その名にふさわしい者ではなかった…。
死神にかつての名を呼ばれた途端、記憶は色鮮やかとなって星の子を襲う。
幸せな時間。
過ごしてきた数々の思い出。
それらはまるで走馬灯のように次々と色をなした。
まるで目の前でおきているかのように、懐かしい声が蘇る。
『お父さん、これは…?』
仕事から帰ってきた父に手招きされて外に出ると、少し古びてはいるが自転車が置いてあった。
『ジェム、これはお前のだ。さっそく乗ってみようか』
まだ自転車は高級品で、乗ってる人はお金持ちくらいの時代だった。
生まれつき右の足が少しビッコなボクのために、父は無理して手に入れてくれたのだ。
はじめて乗った自転車は、すぐにボクを夢中にさせた。
漕ぎ出すまでは大変だけど、走り出したら軽やかに風をきった。
景色が流れていく。
いつも抜かれてばかりのボクが、はじめて人を追い越すよ。
それはとても爽快な気分だった。
その日から、ボクは自由を手に入れた。
今まで遠かった学校への道のりも、自転車に乗れば早く行けるようになった。
いつも躓くのを気にしてうつむいていた坂道も、今は広がる街の景色を見ながら降りていける。
まるで翼を持った鳥のように、滑らかに風をきっていく。
世界はキラキラしていて、とても綺麗だった。
でも、それはそんなに長くは続かなかった。
授業を終えて学校を出ると、ボクの自転車の周りを年上の子達が囲んでいた。
ボクに気づくと意地悪い笑顔を浮かべた。
その子達の向こうにあるボクの自転車が目に入った。
壊された自転車の姿が。
『誰がこんなことを!』
『知らないよ、見つけたときにはもうこうなってたんだ』
『自転車なんか乗ってるからムカついたんじゃないの?』
ニヤニヤと言葉とは違う顔をする。
ボクはひどく腹が立った。
でもその子達はずっと背が大きく、体は大きくて、ボクは何も言えなかった。
ただ、くやしくてその子達を睨みつけた。
『何だよ、その目は!』
『俺らがやったとでも思ってんのかよ?』
『うあっ』
ひとりの子がボクを押してきて、ボクは簡単に尻餅をついた。
『文句があるならハッキリ言えよ!』
怒鳴り声にボクは身がすくんだ。
何も言えずに目をその子から反らした。
『けっ、この弱虫!ビッコのくせにヘラヘラいい気になって自転車に乗りやがって』
そう舌打ちして言うその子は見覚えがあった。
ここ数日、学校近くでボクが自転車で追い越してる子だった。
ベルを鳴らして追い越していくボクを、とがった目で見つめていた。
『ボクはそんなつもりじゃ…』
自転車を壊したのはその子たちなのに、何も言えない。
やっと口にした声は震えて、すぐに途切れた。
『これ、高かったんじゃないの?』
『新品じゃなくても、結構するよな?お前の父ちゃん、かなり無理して買ったんだな』
『考えたよな、これならビッコのお前も早く走れるもんな』
『母ちゃん、喜んでたろ〜?これでビッコで鈍いお前も小回りきくようになったからな』
『ばーか、お前ら、これ直すのに金かかるだろ?』
『おお、そうだ!これは大変だね。お前、これ乗ってけそうか?』
『無理無理〜』
アハハハとその子達は愉快に笑う。
ボクはくやしくて涙がこぼれそうだった。
変わり果てた自転車を前に、ボクは黙って見てるだけだった。
それを買ってくれたお父さんの顔を、一緒に喜んでくれていたお母さんの顔を思い出しながら。
『家まで俺らが運んでやろうか?』
『い、いいよ…』
『遠慮するなよ』
『……いいよ』
ボクは立ち上がり自転車のハンドルを持ってやっとの思いで倒れている自転車を起こした。
歪んだタイヤにガタガタ上下に揺れる自転車を押しはじめた。
なぜか年上の子たちも並んでついてくる。
悔しいことに、ゆっくり歩くその子達の方がずっとはやい。
『お前、親に俺たちがやったとかウソ言うなよな』
『…言わないよ』
はやく去ってほしくて、ボクは泣き出しそうな顔に笑みを浮かべる。
『けっ、よくそんな顔でヘラヘラ笑えるよ』
『ああ、俺だったら怒るけどな』
口々に言い合い、そしてようやく遅いボクに飽きたのか、その子達はさっさと去っていった。
文句を言うことも出来なかった。
ましてや怒ることも。
ただ笑うことしか出来なかった自分が情けなかった。
今朝軽やかに走ってきた道が、壊れた自転車を押すボクには果てしなく遠く思えた。
空は夕焼けとなってきていて、いつまでも帰らないボクを、お母さんは心配しているかもしれない。
そしてこの自転車を見て何て思うか。
二人の顔を思い浮かべて、ボクは心がずしりと重くなった。
どうやって話したらいい?
どんな顔で話したらいいの?
お父さんはボクを哀れむような目で見るのだろうか。
お母さんはボクを可哀想と思うのだろうか。
昔から、ボクが足を引きずるたびに、二人の顔はそんな哀しみが浮かんでいた。
ボクは二人を哀しませてばかり。
この足が言うことをきいてくれなくて転ぶたびにボクは、本当はボクは悔しくて泣きたかった。
でも、いつもただ笑って頭を掻いた。
ボクを心配そうに見ているふたりに、これ以上哀しい顔をさせたくなくて。
いつの間にか、ボクは怒ることが出来なくなった。
ただ、笑ってみせることだけ。
でも今日は…どんな顔をしたらいいの?
そう思って見上げるボクの視界に、この街で一番高い建物が映った。
長い階段を一段一段踏みしめるように登っていく。
この建物を登るのは久しぶりだった。
出来たばかりの時にお父さんに連れられてのぼったことがあった。
途中で疲れて段につまずいたボクは、お父さんに背負ってもらって屋上へと上がったんだ。
屋上からの展望は、あの時見た景色と何ら変わってはいなかった。
レンガ造りの建物がひしめき合い、その中に学校が見える。
ボクはさっきの出来事を思い出して、また心が重たくなった。
自転車を直すだけのお金なんかボクは持っていない。
ましてや、お父さんにそんなこと頼めない。
買ってもらったばかりの自転車を直してなんて言えない…。
二人に哀しい顔をさせて、哀しい思いをさせてまで、わがままなんて言えない。
手に入れた自由は…もう手の中からすり抜けていっちゃったんだ…。
流れていく景色も、
体に受けるあの心地よい風も…、
…もう手に入らないんだ…。
いつも人の顔色ばかりうかがってる情けないボク。
誰かを怒れるほど自分に自信は持ってはいない。
ただ笑って、いつも笑って…。
でも、今日は…もう…笑えないよ…。
『風…』
その時、風が吹きつけた。
あの坂を自転車で下った時に吹きつける風と同じ強さで。
ボクはただ無心に塀の上に登って両手を広げた。
髪の毛をなびかせて、服をはためかせて、風を全身に受ける。
目の前には夕日に赤々と燃える地平線が広がっている。
まるで鳥になった気分だ。
まるで空を飛んでいるみたいだ。
もう一度あの気分を…、自由をボクに与えて…。
ボクは枷をはめられているような右足で一歩を踏んだ。
生まれてからずっとボクを苦しめてきたその足は、その時だけ、軽やかな一歩を踏んだ。
「うあああああああーーーっ!!」
生々しい喪失の瞬間に、星の子は悲鳴を上げる。
「ふん。たった11歳3ヶ月と10日の命だったな。何とあっさりと命を捨てたものだ」
冷酷な死神の声に、星の子は反応せずに真っ青にガタガタと身を震わせるばかり。
死神が出した『魂の記録』は効力を終えて、まるで炎が消えるように姿をかき消した。
そして、向かい合う星の子のシールドはすでにとかれてしまっていた。
「ほっ、星の子ーーっ!!」
星の子の突然の悲鳴に見習い天使が星の子を呼ぶ。
「心の弱き星の子よ、お前にもう用はない」
「っ!」
「星の子っ!!」
死神は鎌の柄で星の子を打ち据えて地面に落とすと、ゆらりとマントをなびかせて見習い天使へと向いた。
「さぁ、天使よ。次はお前の番だ。魂を渡すか、それとも狩られるか」
暗いフードの下で、切れ長の瞳が見習い天使を見据えて怪しく光った。
くだものを実らせた枝が風に揺れる。
ザワザワという葉音があちこちから聞こえてくる。
見習い天使は、大きな鎌を持ち自分と向き合う死神の姿に息を飲み込んだ。
そして少し離れたところでは、星の子が仰向けで身じろぎもせずに地面に臥したままであった。
この窮地に、見習い天使は怯えるばかりであった。
死神は圧倒的な力を持っていて、無力な自分が到底太刀打ちできる存在ではない。
それでも。
この腕の中にいる温かで小さな天使を引き渡すことはどうしてもできない。
「決まったかな?天使よ」
「わ、わ、私は…、天使じゃありません」
「は? 何だ急に…。その風体で天使じゃないなら、一体何だと言うんだ」
「まだ…、ただの、み、見習いです。だ、だから、天使じゃありません」
「…お前の階級など知るか。天使に違いないだろ。天使とは頭に光の輪をいただいてる奴らを言うんだからな」
見習い天使は腕の中の小さな子を見つめた。
一度は光が薄れた天使の輪は、今は金色に輝いている。
「じゃ、じゃあ、この子は天使です。え〜と、魂じゃないです」
「ああ?」
「ほ、ほら、ここに…、あの、天使の輪が光ってます。だから、この子は天使です」
トン。
死神は呆れた様子で、鎌の柄で地面を打つ。
大きな音ではなかったが、恐れながら対峙している見習い天使は思わずビクリと体を揺らした。
「では、お前がその魂を天使というのなら手を離してみろ」
「手を…?」
「手を離して、魂に戻らなかったら諦めてやろう。どうだ?」
見習い天使の脳裏に、死神が現れる直前の星の子とのやりとりがよぎった。
手を離せば…この子は魂に戻ってしまう。
ひどく時間の流れが遅く感じるけれど、さほどあれから時間は経ってはいない。
見習い天使は返す言葉に詰まった。
「早く手を離せ」
「えっと…。む、無理です」
「…何だ、コイツ。何か調子狂う…」
やりとりに呆れきった死神がボソリとつぶやく。
怯えて強張った見習い天使の顔を苦々しく見つめた。
「もういい。お前の返答を聞くのは面倒だ。さっさと奪うまでよ」
「ひゃあ!」
鎌を構えて向かってきた死神に、見習い天使はあわてて近くの木の後ろへと身を寄せた。
振るわれた鎌は白い光を引いて、その木を切り落とす。
幹が倒れかけた瞬間に、見習い天使は小さな天使を抱えたまま隣の木へと向かう。
「何だ、結構、素早いではないか。てっきり天使の中でも落ちこぼれだと思ってたぞ」
言い捨てると、さらに鎌を振るう。
木は確実に切られて傾き、たわわに実る赤い実を揺らして地面に倒れていった。
倒れてゆく木からすリ抜けた見習い天使はその実を拾うと、死神に向けて投げつけた。
死神は届いた実を鎌の柄で払い落とす。
「ふん。こんな攻撃、私に有効と思ったのか?」
「だって、他にできることなんかないんだもん!」
見習い天使はまた別の木の後ろから叫ぶ。
「天使なんてそんなもんだろう。存在に意味なんてないんだ。価値があるのは魂としてだけ」
見習い天使は夢中で転がっている実を拾っては投げつけた。
けれど、ほとんどが検討違いのところに飛んでいった。
「何でそんな言い方すんのよ!」
悔しくて涙声で見習い天使は投げつけながら叫ぶ。
「事実だからだ。その無垢な魂こそ利用価値がある」
「なっ、何に使うのよ!」
「狩った魂で作り上げたお人形さんの器に…丁度いい」
ニヤリと笑い、死神は言葉を繋ぐ。
「無垢な魂は雑多な魂の集合体を一つにまとめる優秀な材料なのだ」
「…材料…?」
「そう、材料だ。だけどね、めったに手に入らない。それはお前たち天使が気づかぬうちにさらって行くんでね」
「私のお人形さんのひとつが、そろそろ駄目になるころだったから、すぐに利用してあげるよ」
「いやっ!!この子をそんなのに使わせないっ!!」
「ギャーギャーうるさい落ちこぼれ。恨むなら、自分の失態を恨め」
「だが…、無力ながらその粘りは大したものだ。そこで寝転がってる星の子と違って…」
「星の子…?」
死神は冷笑をたたえて、星の子を見やる。
星の子はピクリと体を振るわせた。
「魂の格が違う。前に狩った天使は、最期まで譲らなかった。さぁ、お前はどうかな?」
たくさんの涙に送られて生まれた天使。
涙に暮れていた母親の姿が浮かぶ。
小さい温もりを見習い天使は抱きしめる。
「絶対、絶対この子は渡せない!渡さないもん!」
「よく言った。ならば滅せよ!」
月を背に向かってくる死神の姿がひどくゆっくりに見えた。
大きな鎌の鋭い穂先が白く光る。
目を見開いて固まる見習い天使の前に、まるで流星のように星の子が現れ、死神とぶつかり合った。
「また、時間稼ぎか…?星の子」
鎌を挟んで対峙しあう。
星の子のシールドを、呆れた様子で死神は見つめた。
「まぁ、その立ち直りは賞賛に値するがな。…星明りの加護もないこの月夜にいつまで持つかな…?」
「く…っ」
先ほどのダメージもあって、星の子が放つ光は揺らめく。
「ふん。倒れていればいいものの…。前の星の子は逃げたぞ。お前もそうすればいい」
「逃げた…?」
「知らないのか? まぁ、逃げたとは他の者には言えないよな…」
星の子は、他の星の子たちがささやきあっていたことを思い出した。
決してひと言も語らない星の子の話を。
口の重い星の子はたくさんおり、どの子なのかわからなかったが、
空を照らすことも拒み、ただ天にはりついている星の子がいるという話であった。
任務に失敗して、それ以来、心を閉ざしてしまったのだという…。
逃げたことで、一緒に行動していた天使が犠牲になったのなら、悔やんでも悔やみきれない。
ましてや、自分の後ろにいる見習い天使は特別な存在なのだ。
はじめての任務で運んだ小さな天使。
そして…凍てついた心に笑顔を戻してくれた。
笑い方を忘れ、泣き続けて空虚となった星の子の心に光を与えてくれた大切な存在なのだ。
『お前に…、二度目の任務が与えられた』
『本当ですか!相方は誰です?』
呼び出されて向かった天使の館の一室で、星の子は上官の天使さまと向き合っていた。
元々楽しそうにしている方ではないのだが、今日は一段と曇った顔つきをしていた。
『お前がよく知ってる子だ。紫の瞳の…』
『オデコちゃん?』
ため息をつくように上官の天使は目だけでうなづく。
『よかった!あの子と一緒なんて嬉しいなぁ』
『…まだ早い…、私はそう進言したのだが…』
『何で、そんな厳しくするの?ツリ目ちゃん…』
つい以前の呼び名で呼んでしまい、上官の天使さまはジロリと不快な目線を送った。
『あの子は不器用で…失敗ばかりだ。何度もチャンスのない任務を失敗してしまったら、あの子が困る』
『相変わらず、心配性だね。君だって、あの時はじめてやって、キチンと任務をし遂げたじゃないか』
『…いつまでも、そばに置いておきたいんだね、ツリ目ちゃんは』
上官の天使さまは、かつて一緒に任務についていた星の子をじっと見つめる。
『共に迎えに行ったお前ならわかるだろう…?想いが伝わって天使となったあの瞬間を…。あの祝福を…』
『…忘れてないよ、もちろん。でも、ボクは君がこんな運命を選び取るとは思わなかったよ…』
『すべての運命が決まったわけではない。私の祝福を受けた天使の行く末を見届けたくなった、それだけだ』
『まさか、あんなにおっちょこちょいとは…ビックリしたけどね』
『…この私の祝福を受けた子が、あんなに失敗ばかりとは…』
星の子は今まで目撃してきた数々のことを思い出し、クスクスと笑い、上官の天使も苦笑いを浮かべた。
『あの子を頼む…星の子…』
『まかして』
『…でも、もう一度進言してみるつもりだから、変更になるかもしれないが…』
『ええっ!』
一度目の任務は、星の子に希望を与えた。
天使が生まれる瞬間は、胸がかきむしられるほどの苦痛を感じたけれど、
小さな天使の愛らしさに二人で見入ったものであった。
自分を知る者が命を終えるまで、住んでいた街の上で泣き続けたあの日々。
記憶を持ち続ける苦しみ。
そのすべてから許される。
星の子はなかなか回ってこない二度目の任務を待ち続けていた。
任務を待つ星の子はたくさんいて、早々に順番は巡っては来ない。
星の子は、指導員となった目のつり上がった天使の様子をたまに見にいった。
皆が選び取る道を選ばず、その道を選んだ天使は、位を授かったことでグンと成長した姿となっていた。
ちょうど、こっそり窓からのぞきこんだ時、上官の天使が見習いの天使に小言を言っているところであった。
人より面積の多い額に、ビシリとデコピンを食らわすのをしかと星の子は見た。
しばらくするとその見習い天使が、星の子が浮かんでいる下の茂みに、おでこを押さえて駆け込んできて、
しゃがみこむなり泣き出した。
ふえ〜ん、とか、ほえ〜といった奇声が聞こえる。
しきりに反省の言葉が聞こえて、謝罪の言葉となっていって、
『二発も打つなんてヒドイっ!!』
文句で締めくくられた。
両手をばたつかせて怒る姿はかわいいやら、おかしいやらで、つい吹き出してしまった。
『誰っ!?』
振り返った顔は泣きすぎて真っ赤で、それよりもおでこの赤さは一段と目立った。
見覚えのある紫色の瞳。
そしていやに広いおでこ。
あの日運んだ小さな天使の成長した姿がそこにあった。
オデコちゃん、君は知ってるだろうか…?
心のどこかがいつも凍っていたボクに、君は心からの笑いを教えてくれた。
表情豊かな君を、見てるのは楽しかった。
からかうのは、もっと楽しかった。
君のように、笑ったり、怒ったり出来てたら…。
こんなことにならなかったのかもしれない…。
運命の扉をくぐれたら…、
ボクは、君のように…。
失敗に泣いても、他の見習い天使に陰口をたたかれても立ち向かう、君のように強くなりたい。
「ボクは、ボクは逃げない!」
「そうか…? もはや、限界といった感じに見えるがな」
星の子のシールドは光を失いつつあった。
「では、目の前で天使が狩られるのを見ているがいい!」
「…させるもんか…、させるもんかっ!うあああああーーーっ!!」
力が尽きかけたはずの星の子の体が突如まばゆい光を発した。
「なっ、何だ、この光は。まさか…、まさか、お前、魂を燃やしている…?」
「うあああああああーーーーっ!!」
光は辺りをも明るく照らした。
何が起こっているのか、見習い天使は小さな天使を抱えて座り込んだまま、
星の子の変貌に驚愕の表情で見入っていた。
一瞬、小さな星の子の体に、手足の長い少年の姿が重なって見えた。
鳶色の髪を揺らめかせて、両の手を伸ばしている真剣な表情の少年の姿が。
まばたきすると、その姿は掻き消え、いつもの星の子の姿だけがあった。
星の子の体の中心には、まるで太陽のような炎のような揺らめきが見える。
直視できないほどにまぶしく、目がつぶれそうなほどの光の量であった。
「星の子が…、まさか…、心の弱い、星の子が…」
「ボクはもう、逃げないんだーーーーっ!!」
勇ましい、絞るような星の子の叫び声と同時に光は増した。
星明り色ではなく、まるで夕日のような鮮やかな色の光が体の中から広がっていく。
ピキ。
硬質な異質な音が聞こえた。
それは星の子から聞こえた。
内側の光に透ける体は黒っぽく見えた。
その内側に届くような深い亀裂が何箇所にも渡って入っていた。
「ほ、星の子…?」
恐ろしい光景に見習い天使は息を飲んだ。
熱をともなうその光に、色白な死神の顔の皮膚はただれて、苦痛に顔を歪めた。
優位に立っていた死神が、はじめて恐れを顔に浮かべた。
「くっ」
うめき声を漏らして、死神は気配を絶った。
対峙する相手を失った星の子は光を失くし、ドサリと地面に音を響かせて落ちた。
「星の子ーーーっ!!」
見習い天使は小さな天使を抱いたまま、草地に倒れた星の子のもとへと飛んだ。
死神が去ったことで、辺りはまた虫の音の合唱がはじまった。
「…星の子…?」
見るも無残に変貌した星の子の姿に、見習い天使は恐る恐る声をかける。
いつもやわらかな光に包まれていた星の子の体は今は黒く、体の芯でまるで熾き火のような光が揺らめいていた。
それは今にも消えてしまいそうな揺らめきであった。
「ねぇ、星の子…、返事して…」
見習い天使の大きな瞳に涙があふれる。
触れようと、手を伸ばした。
「…ボクに触ったら…駄目だよ…、オデコちゃん…」
「星の子…。だって、スゴイ痛そうだよ」
「たぶん、ボクの体はすごく熱い…。だから、触んないで…。オデコちゃんは…はやく天使の館に向かうんだ」
「でも…」
「…死神は…きっと、またやってくる…。今のうちに…」
「星の子を置いていけないよ」
「…ボクを運ぶことはできないよ…。大人の天使さまが二人でやっとだと思うから…」
「えっ!?星の子ってそんなに重いのっ!?」
「…だから…キミだけで…後を頼むから…。任務が成功したら…ボクも成功になる…」
「どうやって帰ったらいいのか、わかんない」
「…夜空に…青く光る星がある…移動している館への雲のトンネルが…隠されてる…それを探して…」
見習い天使は、星の子の言葉に空を見渡す。
周りを囲む木々の向こうの空には、大きな丸い月が輝いていて、星の光は薄く、青い光の星など一向に見当たらない。
「見えない…星は見えないよ」
「大丈夫…落ち着いて…心を澄ませて探すんだ…」
「見えない…どうしよう…」
「…オデコちゃん…君なら…できるから………」
言葉が途切れて、見習い天使は星の子を見やる。
熾き火のような光は、さっきよりずっと小さくなっていた。
「星の子?ねぇ、星の子、消えたりしないよね?ねぇ、星の子ぉ」
「大丈夫だって言って…、ねぇ、星の子ぉ」
「…疲れてるだけだから…オデコちゃんは任務を…。夜明けまでに…その子を…」
星の子は目をつむったまま、小さな声でささやく。
今にも消えそうな星の子に、見習い天使は大粒の涙をこぼしていた。
「…オデコちゃん…ボクはね…もうボクのために誰かが泣くのは辛いんだ…」
「うっ、えっ、だって…だって星の子っ」
「…行って。ボクのためにも…任務を成功させて…」
見習い天使はしゃくりながら、言われるままに手の甲で涙を拭う。
払っても、払っても涙は止まらない。
こんなに傷ついている星の子を置いて行かねばならないのだ。
そしてたった一人になって、この小さな天使を守らないといけない。
不安に心を揺すられて、それでも行かなくてはいけない。
「…星の子、私、絶対この子を守るから…。助けが来るまで頑張って待ってて」
涙声で、黒ずんだ体の星の子に告げた。
返事のない姿に、見習い天使は唇を震わせて涙をこらえて立ち上がる。
「…あれは…?」
突如、星の子は目を見開いた。
内側からの光に焼かれて、黒目がちであった瞳は真っ白であった。
「…あれが…あれが運命の扉…? ボクはくぐれるのですか…?」
何処を見ているのかわからない瞳で、星の子はかすれた声を上げる。
「どうしたの、星の子? 何を見てるの? 扉なんて何処にもない!」
辺りは月の光が注ぐ木々が穏やかな風に揺れているだけ。
「…光がまぶしい…」
「どうしちゃったの、星の子ぉ」
自分には見えない何かを見ている星の子に、見習い天使は恐れを感じた。
声は届いてないのか、星の子はビクリともしない。
ただ一点を見つめている。
かすかな笑みを口元に浮かべて。
「…ボクはやっと…ボクを忘れることができる…」
そう星の子がささやいた途端、今まで熾き火のようであった光は一気に輝きを増して星の子の体を包んだ。
それは一瞬のことであった。
光ははじけて四方へ散った。
小さく無数になった光の破片は、いつも星の子が飛ぶと引く同じ輝きの光の線を引いていき、
そして光は消えていった。
「いやぁああ、星の子ぉーーーーーっ!!」
見習い天使は悲鳴を上げた。
何度も、何度も星の子を呼んだ。
けれどその声に、もう星の子が応えることはなかった。
「星の子ぉーーーーっ」
静かな月夜に、見習い天使の涙声は吸い込まれていった。