第九十二話 転戦
「斬れるのか!?」
宗泰の問いには答えず、平八はただ驚きの声を上げる。
部下たちは液状の負気溜りを斬り別ける事が出来なかった。
自分にも出来ないと……、事実出来そうも無いのだが、朱鷺以外の誰にも出来ないと思い込んでいた。
ならば、宗泰にこちらを任せておけば……。
宗泰と兼次は、泥性鬼を倒す事が出来ずに引いて来ている、これは仕方が無いのだろう。
最初からそちらを諦めて、宗泰に負気溜りを任せていれば、今の、この状況は無かったはずだ。
そんな、考えても意味の無い事が頭を支配した。
だが既に、状況はそれどころでは無い。
朱鷺は「自分が四人要る」と言った。それは掛け値無しに、事実だったのかも知れない。
そして、甲種が数人集まった所で、朱鷺の一人分を賄う事も出来ない。必要なのは、単純な強さでは無く、才能やコツを掴む能力なのだろう。
「朱鷺は居ない。火性鬼の核と共にどこかへ消えた」
平八が改めて応える内に、兼次も土塁の内へ転がり込んできた。
二人も朱鷺を当てにしていたらしい。
確かに、こちらを山津組が押さえて、朱鷺と宗泰が泥性鬼に当たれば倒す事も出来たのだろう。だが、それでは結局負気溜りを押さえられないし、そもそも火性鬼の核を切り取る事も出来ず、敗走していた可能性がある。
「くっ!」
呻きながら、宗泰は更に負気溜りに斬り掛かった。
同時に平八たちは前方の蛇頭に攻撃を加え始める。
だが、もう保たない。
平八の判断では、蛇頭を殲滅出来る程の力は自分たちに無く、一旦仕切り直して、回復を図らなければ戦線を維持出来ない。そして、背後の負気溜りは、宗泰に斬る事が出来たとしても、間もなくこの場を呑み込んでしまう。
ここを放棄し、撤退するしかない。
だがしかし、それをすれば、蛇頭どもが負気溜りを取り込み、手が付けられなく成る可能性が高い。
だがしかし。
だがしかし。
自分たちが全滅すれば、民を守れる者は他に居ない。
「天衝石柱陣っ!!」
土性の隠密が拳を突き立て大地に神気を注ぎ込む。
一瞬の間を置き、隠密たちを囲む様に石柱が衝き上がった。
ドドドドドドッ!!
波紋が広がる様に、同心円状に次々と石柱が上がり、蛇頭と負気溜りを衝き飛ばしていく。
単純に質量のある攻撃ならば、倒す事が出来なくても、一時的に押し退ける事は出来る。
「今だっ! 引くぞっ!」
自らの迷いを断ち切る様に、平八が叫ぶ。
衝き上がった石柱は、手前から崩れていく。
それを踏み越える様に、平八は広場の真ん中へ飛び出した。
走り抜けながら、周囲を確認する。
宗泰が斬り付け、兼次の流星雨を受けた蛇頭は形を歪め、大きな炎の揺らめきに変わっている。
斬り飛ばされた首は吹き消える様に散って負気へと戻り、袈裟斬りにされた物は一時的に二つに分かれ、今、絡みつく様に戻ろうとしている。
それなりの痛手は負わせた様だが、やはり倒しきれていない。
泥性鬼は向かってきてはいるが、まだ僅かに距離がある。
ふと、町の入り口を塞いだ土壁の上に、隠密が二人膝を突いているのが見えた。
片方が手を挙げて合図を送ってくる。
特に打ち合わせがあった訳では無いが、平八はそれを、「用意が出来たので、こちらへ下がってください」との意味に取った。
チラリと後ろを振り返り、右へと進路を変える。
全員、付いてきている。そして、鬼の追撃は無い。
一気に跳び上がり、土壁の天辺に手を着いた。
その時、先ほどまで居た場所に新たな火の手が上がる。
三匹の蛇頭が負気溜りに両手を突いているのが見て取れた。
キィィィン、キィイインっと、薄い金属片を打ち鳴らした様な透き通った音が、谷に響き渡った。
静かな様な、逆に非常に煩い様なそれが、耳の奥でイィィンっと鳴り続ける。
「何だ、この音は……」
武器を構え直した隠密たちが、突然の神気に思わず顔を東へ向ける。
眩しい朝の光が、谷間の向こうから差し込んできていた。
否。光源は二つある。
既に丸い形を露わにした日輪の手前に、煌々たる光を放つ何かがあった。
それは、光を放つと言うよりも、光の柱その物だった。
隠密たちは皆、朝の光の神を祀った八咫鏡と、それを利用した人体術札を思い出す。
今、旭日を迎え、それを御杖代に変えたのだと、誰もが理解した。
だが、この”鳴り”は一体何なのだ?
絶えず鳴り響くこれは、光の柱が放っているのでは無く、空間その物が鳴っている様に感じられた。
それがどのような作用による物か、皆目見当が付かない。
それでも……。
「御杖代だっ!」
誰かの上げた声には、歓喜が含まれていた。
御杖代の戦闘能力は先ほど見せつけられた。その上で、このもう一体の御杖代は、更なる力を感じさる神気を放っている。
これで勝ったと、誰もが確信を持つほどに。
ゆっくりと、光の御杖代がこちらに近付いてくる。
火の御杖代を抱えた者は、それを横目で見ながら、斜面の上に避難していた。
他の隠密たちは、合わせる様に少しずつ下がり、鬼を包囲する円を広げる。
放たれる光は直視出来ないほど眩しい。
それぞれが片手で目を守りつつ、光の中心があると思しき場所を探る。
距離を取り、間合いを外した隠密たちと入れ替わりに、それが鬼の前に立った。
鬼は見えているのか、いないのか、少なくとも顔は御杖代に向けている。
音も無く、光の槍……としか形容出来ない何かが鬼の背に突き立った。
「おおっ」
誰かが声を上げる。
それは感嘆の意か、驚愕の意か。
指の間から透かし見た御杖代は、右手を高々と掲げ振り下ろす。
何かが放たれた様には見えなかったが、鬼の背にはいつの間にか更に三本の槍が刺さって、消えた。
この時になって、何人かの隠密は御杖代の後ろに誰かがいる事に気付く。
そして、中空に浮かぶ八咫鏡。
鳴っているのは、あれか?
音は周辺で発せられている様にも感じるが、あの八咫鏡が鳴動しているようにも思えた。
確か、神祇官たちは鏡に朝日の神霊を降ろし、そこから御杖代に神気を注ぎ込むと言っていた。
降ろし続けて、注ぎ込み続ける、だったか?
火の御杖代はそうでは無かった様に思えたが、今回は成功したようだ。
ならば、この力が自在に使えるならば、全ての負気を清める事も不可能では無い。
日の光の神気は、無限のはずだ。
皆が見つめる前で、あれほど恐ろしかった鬼が、ボロボロと形を崩し始めた。
既に場に負気は感じられない。
解ける鬼から発せられる負気も、その場で光に清められ、消えていった。
鬼が完全に消え去ると、それを見届けてから、光はゆっくりと収まっていった。
更に暫くの間が空き、やっと息をするのを思い出したかの様に一息吐いてから、歓声が上がった。
生き残った隠密たちは一斉に駆け寄り、御杖代と、その背後に居た仲間の元に集まっていく。
「よくやってくれた。ありがとう」
「もう駄目かと思う事数回、正直ここで果てる物と覚悟していたぞ」
感謝し、褒め称える者。
「凄まじい神気だった。これがもっと早く使えていれば」
中には、僅かばかりの悔しさを滲ませる者も居たが、皆の顔には、一様に安堵が広がっていた。
一頻り喜び合っている間に、神祇官たちもやってきた。
「神祇官殿! 見事であった!」
「素晴らしい力です」
改めて賞賛の声が上がる。
しかし、前に進み出た神祇官は片手を上げ、それを制す。
「お喜びの所申し訳ないが、もう暫く手をお貸しいただけますか」
その言葉に、しんっと、静まりかえる。
そう、まだ喜んでいられる状況では無い。
「研究所に残った者たち、それに私どもの家族がどうなったか……、恐らく、山の上に逃げたとは思うのですが」
振り返って見るその方向に、研究所はある。
意識してみれば、山全体に不穏な空気が感じられた。
綺麗に祓い清められたのは、この辺り一帯だけだ。
「解りました」
隠密も応えて仲間と顔を見合わせる。
先ず、生き残りの中で一番上位の者を定め、指揮系統を再編しなくてはならない。
そして現状の再確認。
強力な鬼、二匹は完全に消滅した、負気の残滓も無い。
西の谷に蟠っていた負気も、ほぼ消え去っていた。
残るは研究所とその周辺、そして東へ流れていった分だ。
同時に死傷者の確認がなされる。
改めて見れば、被害は甚大だった。
皆、歯を食いしばり、涙を堪えて遺体を並べた。埋葬までしている暇は無い。
見事に吹き飛んだ麓の村を見下ろす辺り、研究所の反対側に塹壕を掘り、極簡易な拠点として、ここから研究所の調査をする事に成った。
同時に生存者の探索が行われる。
重要なのは負気の発生源、研究所の調査だが、神祇官たちにとっては生存者の行方が気掛かりであった。
だが、それ言い出せる者は居ない。
何より、この時点で、東側、つまり街道方面へ流れた負気の追撃は諦めていた。
光の御杖代を使えば恐らく祓う事が出来るが、それはこちらで使わなければいけない。
隠密は神気の消耗が激しく、神祇官たちは体力の消耗が激しい。
単純に、余力が無かった。ここで「自分の家族を」とはとても言い難い。
「先ずは何より、研究所まで進みましょう。その後、中へ入るか、周辺の調査に移るかは其処での判断で」
新たに隠密の指揮に付いた者は、神祇官たちに向かってそう言った。
これに、同じく神祇官の代表になった者が応える。
「中の調査が最優先では?」
「行ってみないと判らないが、負気の本体は全て外に出た可能性がある。それと、ここからでも判るほど、山のあちこちに鬼の気配がする」
そう言われて、神祇官も山を振り仰いだ。
液状化するほどの濃さは無いが、靄の様な負気が其処彼処に漂っている。寧ろ、それは良い。
負気が減っている部分には、それを吸収した鬼が居る可能性が高い。
「研究所の人間か、獣鬼か」
呟く様に、神祇官が言った。
それに頷き、隠密が言葉を続ける。
「最悪の事態は有り得る。だが、悲観する必要も無い」
研究所に残った技術官の中には戦える者も多い。なにより、ここには藤枝がいた事を隠密たちは知っている。
彼女なら、どれほど絶望的な状況であれ、むざむざと女子供を死なせるようなことはしまい。例え、自らが力尽きたとしても。
「そうだな。女官長様ならやはり山頂へ逃がしている可能性が高いだろう」
見上げながらそう言った、視線の先には大きな鳥が旋回するのが見えた。
恐らく、獣鬼。鳥の鬼だろう。そう判断して、眉をしかめる。
「急いだ方が良い」
一同を見回した隠密に、皆、頷き返す。
「場合によっては研究所は封じて、山頂を目指しましょう」
液状の負気溜りが流れ去った後、研究所の境内に残された負気は、大きく渦を巻きながら一人の女性の遺体に集まっていた。
倒れた人々の中で、最も強い意志を持っていた者。
その者の願いが、形を結ぶ。
一匹の鬼が、ふらりと立ち上がり、取り落とした太刀を拾い上げた。
背後に獣鬼の咆哮を聞きつけ、ゆっくりと、睨み付ける様に振り返る。
赤い瞳が、ギラリと輝いた。
全身に伸し掛かる様な疲労感と、割れる様な頭痛に、牙の生えた歯を噛み締めながら、山へ向かって歩き出す。
重い足は、半ば引きずる様だった。
靄の掛かる視界と思考の中、ただ、それだけを考える。
「……鬼を、倒す」
「すまん。しくじった」
一足先に町の中へ入った平八は、次々と降り立つ隠密たちに、唐突に謝罪の言葉を述べた。
尤も、殆どの者には、その意味は判らなかったが。
「拙いな」
一人応えた宗泰も、心の中で思う。
先ほどから「拙い」としか言って無いな。
語彙が無いと言う意味では無い。如何に変化しても、ただ只管「拙い」としか言い様の無い状態が続いている。
「鬼が負気溜りに辿り着いた」
確認する様に言った平八に、宗泰は頷く。
「ああ。だが、少しは増しかもしれん」
「なに?」
疑問を返した平八に、先ほど、土壁を越える際に見た景色を伝える。
「坂の上、液状の負気溜りが途切れているのが見えた。恐らくは、だが、負気はあれで全てだ」
その言葉に、流石に苦笑を返す。
「それは、朗報か?」
「俺と朱鷺の二人だった時は、先が見えなかった」
そう言われれば、言葉が続かない。
状況は判るが、どれほど絶望的か想像が付かなかった。
「先ずはお下がりください」
山津付きの隠密が声を掛ける。
「あちらに」
そう指し示された先には、早くも土壁が立てられていた。
「良いのか?」
平八が疑問に思ったのは、其処まで下がるという事は、其処までは見捨てるという意味だからだ。
必然的に、撤退を繰り返す度に、放棄する範囲は増えていく。
彼からすれば、下がる距離は少ない方が良い。いっそ、ここで待ち構えるつもりで居たくらいだ。
「兵士たちの撤収も済んでいます。この距離で時間を稼ぎつつ敵戦力の漸減を計りますので、皆様は回復を」
「解った。だが、無理はするな。戦おうとはするなよ」
「はい」
乙種隠密は、普通の上級鬼にも勝てない。単純に降神状態の神気が少ないからだ。
上級鬼の中でも力の弱い物はいるので、状況や相性、用意した術札や武具により、倒す事が可能な場合もあるが、今回は間違い無くそれに当てはまらない。
自分たちが回復する余地さえあれば、それで良い。
そう思いながら、二つ目の土壁を越える。
やや前方に郷軍の一隊が、そして左にある橋の向こうにも一隊が構えていた。
ここが、最終防衛線か。
自分たちが敗走すれば、町と兵士に直接被害が出る。その最終線がここ。
正直に言えば、もう少し余地が欲しい。
「平八様」
飛び降りると直ぐに、山津の隠密が声を掛けつつ術札を放った。
術札は前もって祈祷を行い霊力を込めて使う。その応用である程度は神気を溜めておく事も出来る。
ただし、飽く迄も”ある程度”でしかない。
平八に続いた隠密たちにも、次々と神気回復の札が使われる。
「特に宗泰に使ってやってくれ。消耗が激しい」
そう言いながら、一つの疑問に思い至った。
「朱鷺は……、朱鷺には回復の術札は使ったか?」
彼女は直ぐに土壁の中から飛び出してきた。
結果として、そうで無ければ間に合わなかったからだとは解るが、回復を受けてから来た様には見えなかった。
「いえ、天音さんを預けて、刀を受け取られると直ぐに出られました」
そう応えた山吹に、小鞠が聞き返した。
「母さん?」
その声にビクリとして、小鞠と、そして宗泰を見た山吹は、思わず口元を隠す。
しまったと、言わんばかりだ。
「母さんは? 母さんが、どうしたんです!?」
つい、詰め寄ろうとした小鞠を、他ならぬ宗泰が肩を掴んで止める。
「落ち着け」
そう言った、自分もまた困惑の表情を浮かべている。
天音は、この場に居なかったはずだ。
少なくとも、宗泰が広場で戦っていた時には、居なかった。
その後、参戦した?
だが、乙種が戦える場では無い。朱鷺ならば、追い返したはずだ。
もし、追い返す余裕の無い時に割って入ったなら……。
宗泰は、ゴクリと、唾を一つの見込んだ。
「後にしよう。今は、やるべき事がある」
「でも……」
言い掛けた小鞠に、宗泰は背を向けた。
再び山吹の顔を見るが、露骨に目を伏せている。
嫌な予感しかしない。
言い知れぬ不安に唇を噛み締めた時、ズズンッと、地響きがした。
前方の土壁が壊されたのだろう。
「回復を終えた者。出るぞ」
そう言って地を蹴った平八に、小鞠も即座に続いた。
さっさと、片付ける。
そう、強い思いを込めて。




