第九十話 判断
ゴガガガガガガガァッ!!
轟音を上げ、広場その物が、その空間が揺れた。
地震と違って、大地は揺れ動いていない。まさしく”空”が鳴動している。
頭に響く様な、骨の髄まで揺さぶるそれに、鍛え上げられた甲種隠密たちも思わず膝をつく。
「何だこれはっ!」
平八も片手で頭を押さえつつ、火性鬼を窺っていた。
朱鷺が何かやったのであろうとは思った。
火性鬼が液状の負気溜りに辿り着いた、ただそれだけで全てが終わる。それを防ぐ為に、何かの技を放ったのだろう、と。
だが、かつて共に戦った事はあるが、こんな現象を起こしたのは初めてだった。
ボボボボボッ!
十数匹の蛇たちが、藻掻く様にして炎を撒き散らし、四方に落ちて行く。
それぞれが本体を離れ、バラバラと地に落ちた。
倒した?
一瞬そう思ったが、それは無い。
明らかに効いてはいるようだが、負気自体は消えていない。鬼が力尽きた訳では無い。
だが、それでも。
「好機だっ!」
蛇の首、一本一本なら上級鬼程度のはずだ。
バラして、吹き飛ばし、負気溜りと距離を取らせる。
「おおおおっ!」
平八は唸りを上げながら駆け出した。
それを見て、他の甲種隠密たちも立ち上がる。
火性鬼の本体とも呼ぶべき饅頭部分は、完全に割れて別れ、それぞれの蛇に繋がっている。
どうなっているのか判らない、朱鷺がどうなったのかも判らない。
それでも、状況は良くなったはずだ。
目の前に兵士が並び、湯川郷を警戒していた。
数は少ないが、山津方面への守りだろう。
小鞠は声も掛けず、軽々と飛び越した。
その時、前方で大きな火柱があがった。
火性鬼、らしき何か。
炎で出来た柳の大木の如き出で立ちで、枝先に当たる部分が蛇の頭になって垂れ下がる。
その姿は既に見えていたが、突如倍する程に肥大化した。
何が、あった?
小鞠は思わず足を止め、その様子を窺う。
先行した平八達、山津の隠密が戦っているはずだ。
よくよく見れば、鬼に比しては非常に小さいが、隠密たちが跳び回り攻撃を仕掛けているのが見える。
だがしかし、あれは効を成しているだろうか?
父さんたちでも防ぎきれない鬼……。
口を真一文字に結び、小鞠は再び駆け出した。
迷っていても仕方が無い。皆と共に、戦って倒すだけだ。
小鞠の視点からすれば、徐々に街道の北へ押し返しているようにも見えた。巨大であっても、倒せない訳では無いだろう。
町の広場に駆け込もうとする、まさにその時、突如、空が揺れた。
「きゃあぁっ!」
不意を突かれ、思わず悲鳴を上げる。
大地は揺れていないのに、体の芯を掴まれ、ガクガクと揺り動かされているかの様な衝撃が走る。
鬼の攻撃?
両手をつき、這い蹲る様にして耐えながら周りの様子を窺う。
それがどんな攻撃かは解らないが、土に潜ってやり過ごそうかと思った。
だが、前方で平八が立ち上がって叫ぶ。
「好機だっ!」
見れば、鬼は裂ける様にして倒れていく。
巨大な大木が、幾つかの蛇に別れた様だった。
では、今のは味方の攻撃?
心の臓が冷たくなる様な、恐ろしい揺れだった。
いったい、どんな神霊の働きなのか。
そんな疑問に拘っている余裕は無く、仲間の隠密たちが駆け出したのを見て、小鞠も追い付くべく走り出した。
そして直後に気付く。
ここで戦っているはずの、父と母の姿が見えない。
土壁の向こう、町の中に居た山吹たちも突然の揺れに、文字通り身を震わせた。
「なに、これ……」
不安を煽る振動に、しかし、自分たちが築いた土壁が邪魔をして戦状の確認は出来ない。
山吹は意味も無く土壁を睨み付けてから、手にしていた文を空に投げ放った。それは瞬きの間に白鳥に変わり、西に向かって真っ直ぐに飛び去っていく。
「あれが本所に着くのはいつになるんだろう」
普段なら、急ぎの連絡ですら今日中に届けば良いと思っていた。今は一瞬でも早く届いて欲しいと願う。
生き残った兵士たちと、丁種隠密たちが燃え上がる詰め所から怪我人を運び出していた。畳ごと持ち上げ、そのまま南岸の兵舎へと向かっていく。
運んでいる方の兵士も皆、満身創痍で殆どが弓も槍も失っている。失わなかった者も、手放した。
最早、戦闘継続能力は無い。
朱鷺の進言に従い、隠密共々、撤退する事になった。
問題は、何処まで下がるか、だ。
山吹を中心に、山津の乙種が円を組む。
そこへ、茜と鷹利も加わった。丙種はこの二人だけだった。
「山津に残った丙種もこちらに向かって貰う様に連絡しておきました。しかし……、正直に言って、来て貰って役に立ちますか?」
山津付きは、少しきつく言葉を発する。
今の状況では、来ても役に立たないどころか、無駄死にするだけになりかねない。
祓いを行うなら一人でも多い方が良いのは確かなのだが、祓いを行う段階まで至らない可能性が高かった。
湯川付きの山吹としては、それでも、だからこそ手を貸して欲しいと言いたい。だが、言葉に出来ず俯いた。
その、黙り込む僅かな時間すら、今は無駄に出来ない。
ギリッと歯噛みして、顔を上げる。
「出来るだけ近隣で待機。危険なら撤退して頂くということで」
「それしか無いわね」
応える山津付きも、憎くて言っている訳では無い。湯川を見捨てるつもりでも無い。
口元に軽く手を当て、僅かに考え、指示を出す。
「一人、あの兵士たちが構えてた後ろへ行って丙種を止めてくれる?」
「はい」
若い、まだ少年と言って良い年頃の隠密が応える。
「指示があるまで待機。もし、指示が無くても、危険が迫ったら貴方の判断で撤退してね。特に、あれが山津に向かいそうだったら全力撤退、山津からも人を逃がす必要があるかもしれないから」
「はい、解りました」
少年は頷き、踵を返す。
門前の広場に出る事は出来ない。背後の橋を中程まで駆けると、そこからヒョイと川に飛び込んだ。
改めて、一同が視線を合わせる。
取り敢えず、やっておくべき事はやった。
「何処まで下がります?」
甲種達の補佐をしなければならない。彼らが傷を受けた時の治療、体力と霊力の回復、そしてその為の時間稼ぎが必要になる。
適当な距離と、それと、どちらへ下がるか、だ。
山吹が声を発するより前に、南岸で動きがあった。
右翼隊が総崩れになったのは、本隊の方でも見て取れた。
暴れ回る炎の化け物と、それに挑み掛かる皇儀隠密。
山津からの援軍が到着したのも、把握している。
戦いは既に人の力の及ぶ所では無いのかも知れん、が。
郷司は思わず吐きそうになった溜め息を、グッと呑み込んだ。
「せめて、橋の上まで隊を進めるか?」
隣りに控える忠好に問う。
「あの炎が相手では、徒に兵を失うだけにございます」
「そうだな。だが、小鬼くらいは防げよう」
右翼隊も、主に小鬼に対抗していた。
あの炎の鬼は皇儀に任せるとして、小鬼は郷の軍で対応すべきでは無いか。何より、皇儀の者に小鬼に対応する余裕が有る様には見えない。
忠好も、それは解っていた。
「炎の鬼を相手取るに、あの橋の上は好ましくない様に存じます」
橋は燃え、そして崩れる。
特に下手橋は、戦を想定して崩しやすい様に造られている。
「では?」
「本隊は南岸に残したまま、もう一隊を本通りに置いては如何でございましょうか」
そうなると、本通りに移った隊の負担が大きすぎる。
郷司は直ぐに忠好の意を読み取った。
彼は飽く迄も郷司を守る事に固執している。
「奥には若様の隊もございますれば、陣容を厚くする事も可能にございます。こちらは、いざとなれば……」
「橋を落とすか」
「はっ」
成る程、それならば南岸には一隊で十分、本通りは町人橋まで下がって戦う事も出来る。
「まぁ……」
あれが来るのであれば、橋を落とした所で意味は無い様にも思えるが。
「そうする他は、あるまいか」
右翼隊が負傷者を抱えて下がり始めている。
郷司はすぐさま指示を出した。
ズドォッ!!
水の拳が唸りを上げて、炎の蛇を打ち付ける。
忽ち霧散するそれを見て、平八は違和感を覚えた。
弱すぎる。
軽く十以上に分割されはしたが、それでも、一撃で掻き消せるほど弱いとは思えない。
平八は視線を動かし、僅かに残った……様に見える、根元部分に気付いた。
「轟衝破!」
パァン!!
放った技が、軽く弾かれて高い音を立てる。
「こちらが本体っ!?」
他の隠密たちも、ただの触手でしかない頭部に攻撃を集中し、それで倒したつもりになって次の蛇に目標を移していた。
畢竟、ただの一匹も止めを刺せていない。
「全員、待てっ! 蛇に見える部分は触手だっ!」
その言葉に、二匹目の蛇を打ち消していた者達が、ギョッとした様に振り返る。
「根元の切れ端が本体だ、見誤るな!」
それぞれが触手を失い、チロチロと燃える切れ端は、一抱え程の団子状に丸まっていった。
これは、”出る”な。
平八は自分の目の前にある炎の団子に向かい、身構えた。
グニャリと、丸まったばかりのそれは早速に形を歪め膨らむ。
炎が揺らめく様に伸び、広がり、見る間に異なる姿を成した。
「判り易くなったじゃねえか」
人型に近い。少なくとも手足は人のそれだ。
ただ、普通の鬼と違うのは、頭に角が無く、その頭部が蛇に似ている所か。
そして、全身が炎で形作られている。
「青海波!」
両掌で包み込む様に水の玉を生み出し、それを鬼に叩き込んだ。
一応、不意は突けたはずだと思った。
ズドォウ!!
爆発する様に水蒸気が噴き上がる。それを楯にする様に平八は後ろへ下がった。
技は、相殺されずに鬼に届いている。それでも尚、倒せていない事は確信していた。
距離を取りながら、周囲の部下達を素早く確認する。
……小鞠が追い付いてきている。
朱鷺が、見当たらない。
部下達が攻撃を仕掛けていた蛇も、皆一律に蛇頭の鬼に変化している。
勿論、数は減っていない。
十三、か?
つまり、隠密一人頭、一、二匹。
不利だ、と、平八は判断した。
「一旦距離を取れ!」
恐らく、二対一では勝てない者が居る。いや、一対一でも難しいか?
いつもの様に、「敵は上級鬼です」と、つまり、一対一でなら勝てますという情報を受けての戦いではないのだ。
特級鬼、勝てない相手である可能性も有ると考えるべきだ。
どうする?
北には、まだ負気溜りが流れてきている。
先ほどの短い時間で朱鷺が斬り刻んでくれた分がそこかしこに転がり、それは靄の様な負気を放ち続けている。
少なくとも、あれと引き離さなければ、鬼を倒す事は出来ない。
数で劣るのに包囲している現状は宜しく無い、負気溜りとの間に挟まれるのも、本来なら馬鹿げている、しかし……。
「負気溜りと分断しながら、一匹ずつ確実に倒すぞ。全員集まれ」
隠密は皆、得手不得手があり、力を合わせる事により、何倍もの戦力に成り得る。
ここは部下を信じ、一カ所に集中するべきだ。
「父さんは?」
いつの間にか隣りに来ていた小鞠が、鬼を睨み付けながら問い掛けてきた。
「左の森で兼次と一緒に一匹引き付けてくれている。心配か?」
「いえ」
姿が見えないから訊いただけと、小さく首を振る。
そんな姿を横目で見ながら、戦士らしくなったなと、ほんの僅かな寂しさにも似た気持ちに自嘲する。
頼もしくなったと、思うべきか。
鬼は逆に反包囲形に自分たちを取り囲みつつあった。
バラしたいと思っていたはずなのに、バラけると厄介な事に成った気がする。
我ながら我が儘も大概だと再び自嘲しながら、声を発した。
「現状、敵の方が総力が上だ。確実に崩していくぞ」
「はいっ!」
若い隠密たちは、力強く応えた。
宗泰と兼次は、敵の攻撃を避けながら、情報を交換し合っていた。
二人が掛かりで、誘いつつ避けるだけの作業は、宗泰一人の時に比べると遙かに簡単になった。
「で、どうする?」
宗泰の問いに、兼次は答えない。答えられない。
「もうそう長くは保たない。降神が解ける前に何とかしたい」
それは解る。だが、兼次にも良い案が無い。
単純に、倒せないのだ。
しかしこのままでは、じきに宗泰は撤退せざるを得なくなる。
そうすると兼次一人、これも”そう長くは保たない”だろう。
「せめて、負気を消耗させる事が出来れば」
通常、鬼は受けた傷の治癒、切断された部位の再生に負気を消耗する。
切断出来れば、その部分は丸々消耗させたと言う事も出来るだろう。
だが、この鬼にはそれが効かない。
「泥でない部分は?」
「手足は既に数回斬り飛ばしている。”身”が残ってるのは胴と頭ぐらいだ」
宗泰の答えに、兼次の視線が鬼の頭部に集中する。
朱鷺は、頭を落としても再生すると言っていた。
だが、流石に頭は泥で代用出来まい。肉体を再生させるには、負気を消費するはずだ。
その意図に、宗泰も気が付いた。
ちょっかいを掛ける様に、切っ先を掠めさせ注意を引き付ける。
グォンと振り払う様にした泥性鬼の右腕が、二倍ほどの長さに伸びるが、それも予想した上で、跳び下がると見せかけ、体を下げて避けた。
同時に、兼次が鬼の背後に斬り掛かる。
「流星剣!」
紫電一閃。
宗泰をして、その剣筋は目に見えない。
文字通り、雷の閃くが如く、剣閃が走った。
そのままの勢いで跳び過ぎ、ついでとばかりに伸びきった泥性鬼の腕も切り落とし、兼次はフワリと着地した。
振り返った視線の先、泥性鬼の頭部が、意外なほどポンッと跳ね上がる。
直後、左手がそれをガシリと掴み、首の部分にねじ戻した。
「なっ!」
「馬鹿な!」
兼次と宗泰が、揃って声を上げる。
鬼の目は、すでに二人を捉えていた。一瞬の動揺の後、左右に避ける。一瞬遅れて鬼が左腕を振り下ろし、ズシンと地を揺らす。
叩き付けられた腕は、そのまま転がっていた右腕を掴んで引き戻した。
あっと言う間に元通りだった。
鬼の負気が減衰しているようには全く見えない。
「……やはり、頭が弱点か?」
一応、慌てた様にも見受けられた。だがしかし。
「次は斬り刻むか?」
兼次の言葉に、宗泰は僅かに顔を顰めながら応えた。
斬るだけでは駄目だ。
再生せざるを得ないほど破壊しなければ、負気を消耗させ得ない。
同じ手が何度も通用するだろうか?
否、此奴は何度か有効な攻撃を受ければ、それが効かない様に変化する。
「どうせなら全身を切り刻めないか?」
「無茶を言う」
無茶だが、恐らくそれしかない。
全身を斬り刻んで、即座に散らすか、再生する傍から斬り飛ばしていくか。
「朱鷺に斬ってもらうしかないか」
それは一か八かの勝負だった。
朱鷺はまだ広場で火性鬼と戦っているはず。そこにこの鬼を連れ戻すのは好ましくない。
だが今は、山津からの援軍もいる。
力を合わせれば、個別に戦うよりも有利になるはずだ。
何より、自分たちが力尽きた後、全く消耗していないこの鬼だけが戦場に戻るのは、何としても避けなければならない。
もう余力が残されていない宗泰は、そこに賭けるしか無かった。
兼次も又、自分一人でこれを引き止め続ける事は出来ないと悟っていた。
二人は頷きあい、一旦左右に跳んで別れると、それぞれ広場に向かって駆け出した。




