第八十五話 槍
人の生き様は、死に様にこそ現れる。
如何に生きたかの答えは、如何に死んだかにあるのでは無かろうか。
幸永の一生は、この一太刀にこそ在った。
最早残り少ないと思われていた神気を掻き集め、未だかつて無いほどの力を刃に載せた。
ゴッ!
鬼の左肩を捉えた一撃は、僅かに斬り込み、一瞬止まった。
直後、溢れる炎が渦を巻き、火柱を立ち上らせて鬼と幸永を呑み込んだ。
その炎の中で、幸永は叫ぶ。
「お……おおおおおぉっ!!」
ズブリと、燃え盛る刃が鬼の肉に入り込む。
鬼は喘ぐように幸永の頭を掴み掛かるが、幸永は一息に振り抜いた。
ゴウッと熱風が土埃を巻き上げながら四方に走り抜ける。
隠密たちも思わず腕で顔を庇った。
赤々と燃え上がっていた火柱は、目を瞬く間に消え去り、ただ、鬼と向かい合う幸永だけが残される。
パンッという、まるで陶器でも割れるような音を立て、幸永の刀が折れた。
短くなった刀を握りしめたままの幸永の頭を、鷲掴みにしていた鬼はそのまま右へと投げ捨てる。
ガハッ!
その勢いでグラリと体を揺らし、鬼が噎るように吐き出した血は、意外なほど赤かった。
袈裟斬りにされたその体からも、赤い血が流れ出す。
誰しもが、無言でそれを眺めていた。
束の間の静寂。
右腕で口元の血を拭いながら顔を上げた鬼は、人の顔をしていた。
「……あの顔は」
誰かが呟いた、直後、いつの間にか間合いを詰めていた、御杖代が上段から剣を振り下ろした。
鬼はそれを辛うじて受ける、しかし、交差する様に右下からも剣が振り上げられる。
剣と化していた腕も含め、左の四腕と翼が軽々と吹き飛び、まるで人間のように鬼は目を見開いた。
更に御杖代は真っ正面から、飛び掛かる様に両腕で斬り降ろす。
鬼の上半身は首を庇った右腕ごと斜め十文字に斬り裂かれ、倒れ伏す前に更に斬り刻まれる。
倒れ伏しても尚、御杖代は無言で、野菜でも切るように鬼を斬る続けた。
「……はっ、幸永様!」
不意に、一人の隠密が声を上げる。
皆、急に思い出したように、鬼に投げ捨てられた幸永の元に駆け寄った。
「幸永様!」
最初に走り寄った者が抱き起こすが、幸永は既に事切れている。
鬼の爪は肺腑と共に心の臓を貫いており、普通に考えれば即死であっただろう。
それでも尚、彼は刀を振るったのだ。
皆、膝を突き、それぞれの武器を地に置いて、深々と頭を垂れた。
隠密たちが黙祷する中、黙々と鬼を斬り刻んでいた御杖代は、やがて満足したように顔を上げると、その背後を振り返った。
はぁっ、はぁっ、はぁっ……。
荒い息を吐きながら、唄太は槍の穂先を下げる。
最初に飛び出してきた猿鬼は十匹ほど、後から逃げる列に飛び掛かってきたのが、二、三十匹。
仮に四十居たとして、既に半分以上は倒したはずだ。
残り、十……数匹。
ジロリと見回す視界の範囲に、十三、いや、十四か。
これでほぼ全てだろう。
ある者は食事の手を止めて、ある者はそれなりに満足して、自分たちの脅威と成り得る敵に、群れとして立ち向かおうとしているらしい。
普通の猿の群れには親玉がいるはずだが、ざっと眺めてみた限りそれらしい相手は見当たらない。
既に倒してしまったのか。ひょっとすると、一番最初に飛び出してきた奴がそうだったのかも知れない。
何にしろ、引くも攻めるも指揮者無し。今更だが、ある程度殺せば逃げるのでは無いかという当初の目論見は、全く見当外れだったようだ。
それもまた、好都合だ。
逃がすつもりは無い。
勢いよく飛び掛かってきた一匹を、掬い上げるように突き上げる。
下腹から深々と斬り裂かれ、悲鳴を上げる猿鬼を、グンッと振り回し投げ捨てた。
それを合図にするように、残りが一斉に躍り掛かってくる。
背後に回られると対処しきれない。
大きく下がりながら、攻め手を考える。しかし、ほぼ同時に迫ってくる猿鬼に、順序立てた対応など出来はしない。
槍を左に構え、一番端の鬼を貫きながら薙ぎ払う。
だが、当然ながら振り抜けない。
迫る二匹の爪を柄で受け止め、逆回転するように石突きで右端の鬼を突き上げる。
ズキリと、左足に痛みが走った。
懐に入られた。
槍を立て、振り回す事で牽制しようとするが、何匹かが槍にしがみついて離さない。
左足を斬り裂いた相手を視界の端で認め、石突きで狙うが、その隙に右脇腹に他の鬼の爪が突き刺さる。
「くぅっ!」
咄嗟に蹴り飛ばす、その脚をひょいと避けてギッギッと嗤う。
そちらに気を取られた隙に、顔のすぐ前にもう一匹が飛び掛かって来ていた。
頬を軽く斬り裂かれたが、首を捻って辛うじて避ける。
体勢を崩しつつ、猿鬼を纏わり付かせたまま槍を地面に叩き付けたが、手応えが緩く、鬼は全く堪えていない。
更に脇腹から背中に痛みを感じ、体を捻る。
視界の隅に、回り込んでいく鬼が僅かに見えた。
背後に回られた。
普通なら、既に槍を捨てて刀を抜くべき場面だ。
だが、自分の刀では鬼を斬る事は出来ない。
この、間合いを潰された状況で、槍を振らなければ勝ち目は無い。
連携が取れている訳では無いが、右脚に、左肩に、右腕に、鬼の爪が傷を付けていく。
それでいて油断なく、槍を振るわせまいと邪魔をする。
ただ、戦いにくい。
仲間が居れば、隊列をちゃんと組む事が出来れば、こんな事には成りはしないのに。
「この……っ!」
先ほどから、穂先が鬼を捉えていない。
これまでなのか?
仲間を失い、ここで力尽きるのか。
こんな場所で。
こんな相手に。
「はぁああああぁっ!」
突如、背後から声が上がった。
「埴生流星脚っ!」
ズッドドドドドドッ!
女の声と共に、土の槍が雨のように降り注ぎ、唄太の周りの猿鬼を押し潰すように貫いた。
スタリと目の前に降り立った少女は、振り返ると同時に、まだ槍にしがみついていた三匹を纏めて蹴り飛ばし、踏みつけた。
少女……、茶色い細袖の衣に山袴、更に袖と足首を布で巻き止め、同じ色の頭巾で頭部を隠した、まだ若い、と言うより、子供のような背格好の女の子が脚を上げると、とてもそんな重さがある訳では無さそうなのに、猿鬼たちは拉げて中身をぶちまけていた。
思わず膝を突きそうになった唄太は、辛うじて槍を突き立て、荒い息を整える。
「はあっ、はあっ、はあっ……、お前……、小鞠か?」
「はぇ!?」
唄太の問い掛けに、素っ頓狂な声を上げる。
その声を聞いて、思わず唄太の顔に笑みが零れた。
「ありがとう。助かった」
「ええ……」
感謝の言葉にも、困ったように視線を動かし、唄太の背後を見る。
それに気付き、唄太も振り返った。
十数名の、同じく顔を隠した怪しげな集団が、いつの間にかそこに居た。
「皇儀隠密の方々ですね」
それは問いかけでは無く、確信を持って発せられた言葉。
数人が顔を見合わせ、その後、代表と思われる人間が、片手を上げて前へ出た。
「湯川の兵士だな。何故、隠密の事を知っている? それと、その槍は?」
質問する途中で気付いた様で、槍に目を向けながら併せて問い掛ける。
「湯川軍八番隊三組伍長、高峯の唄太です。これは湯川で戦う隠密から借り受けました」
その言葉を聞いて、代表の男が覗き込むように唄太の顔を見つめた。そして確認を取るように振り返る。
視線の先を追って、唄太も一人の隠密に目を留める。顔を隠してはいるが、それが見知った人間であるのは間違い無い。
そして、相手も唄太が気付いた事に気付いたようだった。
「うむ。まあ、いい。それより湯川の現状を聞きたい」
何故隠密の事を知っているのか、という問いには答えなかったが、代表は何かしら納得したようで、他の、もっと重要な質問に切り替えた。
「状況は悪いです。それは……」
答えようとして、一旦止まり、道の先、山津の方を窺う。
自分は山津まで主政と町民を護衛するのが任務だった。
だが、もう良いだろうか?
「歩きながら話しましょう。余り猶予はありません」
「おう、判った。と言いたいところだが、お前の脚に合わせると遅くなる。……小鞠」
「ちょっ……、名前を呼ばないでください!」
小鞠と呼ばれた少女は手をバタつかせて慌てる。
「いや、バレてんじゃねえか、今更気にすんな。それより、コイツから話を聞いておけ、俺らは先に行く」
「え……、でも」
異議を唱えようとした小鞠を、代表は片手で制する。
「別にここでイチャついてろとか言ってる訳じゃねえ、要点だけ聞いて、直ぐに追いかけてこい。良いな?」
「了解」
「っと、それと、ついでだ。高峯、治癒札を」
振り返りながら呼び掛けた。
それに一人の隠密が応える。
「だから、名前を呼ぶなと言われてるだろう?」
「構やぁしねえよ、どうせお前もバレてんよ」
そう言いながら、前に進み出てきた高峯の肩をバンバンと叩き付ける。
「先に行く。急げよ」
「ああ、解った」
短い遣り取りの後、代表は後ろに控えていた隠密たちに片手を上げて合図を送る。
そして、一気に駆け出した。
それを見送り、フウッと高峯が息を吐く。
「先ずは治療する。小鞠さん、話を聞いてあげて」
「……はい」
名前を呼ばれる事はもう諦めたのか、小鞠も溜息を吐いて唄太に問い掛けた。
「それで、なんで私って気付いたの?」
それ、今重要か? と言いそうになったが一応答える。
「何となくだ。……そうそう、この槍持ち主、多分、この前会った山吹さんだろ? それで、何となく、だ」
「むー……、そんな、ぜんぜん関係なさそうな事で?」
後は、体型とか身長とかだが、それは言わない方が良いだろう。
そんな二人の遣り取りを聞き流しつつ、高峯は札束から一枚取り出し、小さく呟き唄太の頭上に置いた。
すると霧の様な物が札から降り下り、傷口に近付くと水の膜となって流れる血と一緒にそれを塞いだ。
「そんな事より、だ。湯川に異常に強い鬼が現れた。町の軍では対応出来ず、突然現れた皇儀の隠密に辛うじて護って貰っているところだ」
「はい」
先ほどとは打って変わって、真剣な声で小鞠が応える。
「町人を逃がそうとしていたが、町の門前が戦場になり、脱出出来たのは先ほどの連中が最後だった。それが、獣鬼に襲われて……」
そう言いながら、倒れたままの仲間に目をやる。
解ってはいたが、彼らはピクリとも動かない。
「鬼は、どんな鬼ですか?」
「猪や鹿、猿とか、……いや獣鬼は大した敵じゃ無いな」
勿論、町の軍だけでは太刀打ち出来なかったのだが。
「その後に現れた大きな鬼と、黒い大きな、……なんだ、暗闇が形を持った様な何かが危い奴みたいだった」
「黒い? 負気溜り?」
小鞠は疑問を高峯に向けるが、彼も少し首を傾げただけだ。
目で見て確認しない事には、何とも言えない。
「すまんが、鬼に関しては詳しくない。ただ、門前で戦っていた二人が、多分一番強い二人だと思うんだが、その二人でも防ぎきれないらしい」
「父さんたちでも!?」
その言葉に、唄太は少し驚く。
ああ、あれは宗泰さんだったのか、言われてみればそうであった様に思える。
だが、もう一人は絢音さんでは無かった様だが?
「拙いですね……」
唄太の疑問は他所に、小鞠は口元に手を当てて呻く。
「ごめんなさい、唄太。私たちはもう行かなくちゃいけません」
「ああ、解ってる」
言って立ち上がった小鞠に、続いて唄太も立ち上がる。
「俺も後から行く」
「えっ?」
まるで予想もしていなかった様に、小鞠が声を上げた。
「唄太は……、唄太が来ても」
「解ってる。役には立たんかも知れん。でも、必ず戻ると、隊長と約束したんだ」
傷は塞がり、出血は止まった。
それでも全身がジクジクと痛む。
この青銅の槍を持っていたとしても、大して役には立たないかも知れない。
だとしても……。
「足手纏いになるかもしれんが、それでも、俺は戻らなくちゃならないんだ」
「……ん。解った」
こんな時の男には、何を言っても無駄。
小鞠はふと両親の遣り取りと、その後、苦笑いする母を思い出した。
「じゃあ、先に行くから」
「ああ。気を付けろよ」
小鞠は高峯に目配せすると背を向けた。
高峯は頷いて応えると、唄太に向かって右手の拳を顔の高さに掲げる、唄太も同じく拳を掲げ、ゴツンとぶつけ合わせた。
「また後でな。色々聞きたいし、話したい事がある」
「はい。また後で」
グッグッと軽く屈伸した小鞠は、高峯を残し、馬も斯くやとばかりに掛け出した。
「おいおい」
多少苦笑しながら、高峯も後を追っていった。
一人、唄太だけが取り残された道には、少しずつ鳥の声が聞こえ始めてきた。
白々と明らむその場所は、猿鬼と、喰い荒らされた死体がそこかしこに散らばっている。
唄太は改めて三人の部下が、確かに事切れている事を確認し、せめて道の端に寄せようと思い、そして直ぐに考え直した。
「すまん。永助、通照、久成。俺は行く。必ず戻ってくるからな。待っててくれ」
姿の見えない元春は、恐らく主政たちと共に山津へ向かったのだろう。
一度だけ、視線を街道の先に向けるが、当然、ここからは山陰になり道の先は見えはしない。
再び前を向き、走り出そうとすれば、両足がズキリと痛む。
「くっ……そっ!」
槍を支えに、歯を食いしばり、それでも尚、唄太は歩を急ぎ道を進んだ。




