第八十話 猿鬼
カンッ! キンッ! キュイン!
甲高い金属音を上げ、御杖代が負気の刃を弾き散らした。
同時に、自分たちに向けて放たれていた刃を、幸永は剣技で打ち落とす。
後ろに続く仲間たちの為だ。
ゴウッ!
速度を落とさぬまま薙ぎ払われる炎に、負気の刃は掻き消える。
だが、幸永が辿り着くより早く、御杖代と鬼が斬り結んだ。
ギイィン!
響くのはやはり金属音。
見れば御杖代の右腕から、剣のような物が生えていた。
それを鬼が短刀で受け止めている。
拙い。
多腕の相手に、正面から斬り結ぶのは自殺行為だ。
案の定、幾つもの腕が御杖代の手足に掴み掛かる。
間に合え!
「火龍閃!」
幸永が放った突きから火線が延びるが、それをもう一方の頭が見つめていた。
ボッ!
鬼は握りしめた手の甲で、あっさりと打ち払う。
まるで二つの頭が別々の鬼であるように、御杖代に向き合った頭部は振り返りすらしない。
御杖代の右腕を、捉えた腕がギリギリと押し返し、短刀から引き離す。
幸永たちの見つめる前で、自由になった鬼に刃が御杖代の首に振り下ろされた。
ドッ!
鈍い音を立て、甲種隠密の首を易々と跳ね飛ばした短刀は、三分の一ほど斬り付けたところで止まった。
それでも致命傷か!?
普通であればそうだろう。
だが、鬼は慌てたように短刀を引き抜き、御杖代を突き飛ばす。
何だ?
既に斬りかかれる距離に至っていた幸永も、思わず立ち止まって様子を窺う。
御杖代は本の一間ほどの距離でフワリと浮かび、斬り付けられた首を左手で僅かに押さえている。
見た限り、血など一切零れていない。
右腕から伸びる剣には小さな刃毀れが出来ていたが、幸永が気付いた直後にスッと消えた。
ゆるりと左手を降ろすと、首にも傷痕一つすら付いていない。
なんだ、これは。
彼女の体を覆う溶岩が、意思を持っているかのようにヌラヌラと動き、首元を隠した。
心強い味方であるはずの御杖代に、言い知れぬ気持ち悪さを感じる。
そもそも、こんな事に成るとは聞いていなかった。
これは本当に、神の力を借りた人間なのか?
幸永の疑念など気付きもしないように、御杖代はスッと地面に降り立った。
それが何であれ、今は鬼を倒す事が先決だ。
有効な攻撃手段である事は間違い無い……はずだ。
「援護する! 全員、囲め!」
鬼の背後をグルリと回るようにして、御杖代の左に付く。
他の隠密たちは先と同じように、大きく二重の構えを取った。
「接近戦は厳しい。距離を取って術で戦った方が良い」
そう声を掛けた幸永を、御杖代はチラリとも見ない。
ゆっくりと右手を胸高まで上げる。
まだ斬り掛かるつもりか?
それ以前に、こちらの話が聞こえていないのか、無視しているのか、……理解出来ないのか。
判断を付ける前に、御杖代は鬼に斬り掛かった。
ガキィン!
先ほどと同じように、鬼の短刀が受け、他の腕が掴み掛かる。
「烈火断っ!」
その腕の一つに、割り込むように剣技を叩き込む。
ガッ!
当然の様に掌で受け止められる。
業火を纏った一撃は、掠り傷すら与えていない。
「おおおおっ!」
一瞬遅れて、気炎を吐きながら複数の隠密が槍を、刀を叩き込む。
背に生えた頭は素早く視線を走らせ、それら全てを受け止めた。
やはり、こちらの頭の方が強い。
負気の扱いどうこうではなく、反応と判断が早い。
ギシリと、空間が軋むほどの霊力がぶつかり合うが、全てがピタリと止まって動かない。
その中で、御杖代が左腕を伸ばす。
キラリと爪が僅かに光り、指先から金属質の刃に変質していく。
まるで上級鬼のような変化。
幸永はそんな印象を受けた。
直後に振り下ろされた刃は、幸永の攻撃を受け止めていた腕を、根元から切り落とした。
ウォオオッ!
初めて、鬼が吠える。
体を支えていた脚の一本が御杖代を蹴り飛ばし、そのまま周囲を薙ぎ払った。
「くっ!」
幸永も刀に握り付いたままだった鬼の腕を振り払い、跳び退く。
見れば、斬り掛かっていた全員が同じく距離を取っている。
この隙に、誰かの放った炎の槍と雷が突き刺さるが、例によって鬼は微動だにしない。
更に、今斬り飛ばされたばかりの腕が即座に生えてくる。
やはり、負気の供給を断たない限り、弱体化は不可能だ。
一息に倒せないのなら、まず地下の鬼との分断を図るしか無い。
その結果、どのような事態になるかは予測出来ないが。
「足下を崩せ!」
三度斬り掛かろうとする御杖代の前に割り込んで制しながら、仲間たちに攻撃を促す。
応えの代わりに、幾つかの剣技が大地に撃ち込まれ、岩の杭が突き上がり、土砂が打ち上がる。
これがちょっと強い程度の上級鬼であったのなら、いっそこのまま土に埋めてしまうのだが。
残念ながら、それでどうにかなる相手ではない。
体勢を崩す事には成功しているが、それだけだ。
岩の杭も、打ち当たったところで砕けて散った。
だがそのお陰で、以前と同じように、地面から伸びる黒い綱が見える。
それは鬼の脚の一本に繋がっていた。
あれを断ち斬る事が出来れば……。
不意に、バサリと翼を広げ、鬼が空中に浮かんだ。
「なにぃ!?」
腕の二本が、まるで蝙蝠のような皮膜を持った翼へと変化していた。
バッバッバッと連続で羽ばたき、器用に体勢を整えると、残った腕をそれぞれ真っ直ぐ伸ばす。
先ほど御杖代がやって見せたように、その腕先が金属の剣へと変化していく。
真似た?
いや、それは出来るかもしれない。
それよりも、あの翼は何だ?
翼は人が持っていない器官だ、それを、今日鬼に成ったばかりの者が、何の練習も無くいきなり作り出せるはずが無い。
しかも、形だけの存在では無く、事実、羽ばたいている。
それは、見よう見まねでは出来る物では無い。
この鬼は、蝙蝠の翼を知っている。
否。
この鬼に、蝙蝠の翼の、その構造、働きを教えた何かが居る。
幸永は一つの確信を得た。
負気だ。
全国から集められた負気溜りの中に、蝙蝠の翼を知っている負気が居たのだ。
つまり、負気とは、知識と記憶の集まりなのだ。
森から飛び出してきた鬼は、一匹や二匹では無かった。
猿……鬼か?
唄太は素早く視線を走らせ、近場に居た数匹を立て続けに打ち倒す。
強くは無い。
この槍なら簡単に倒す事ができる。
だが、背後から斬り付けた主政の刀が、毛皮に傷すら付けられなかったのも、視界の端で確認していた。
「伍長!」
後ろから駆けつけてくれていた部下の声が、そう遠く無い位置から聞こえる。
「元春! 久成! 猿を叩き落とせ!」
指示を出したその時、前方の、逃げ出した列の中程からも複数の悲鳴が上がった。
空は随分明るくなってきた。森から次々と飛び出してくる猿鬼が見える。
全部で二十程、いや、三十と判断すべきか。
元春と久成は手に持っていた提灯を投げ捨て、それぞれ鬼に向かって槍を振り下ろした。
それをチラとだけ見て、次の鬼に立ち向かう。
「お……お前っ」
主政の声に、振り向く余裕は無い。
「主政様、お逃げください!」
そう言い残し、唄太は少女に食らいついている猿鬼の脇腹を突き上げた。
「あ、ああ!」
腰を抜かしていたかと思えた主政は、しかし、しっかりと応えて立ち上がる。
「刀を持つ者は抜け! 密集して、家族を護りながら走り抜けるぞ!」
なかなかどうして、声を張り上げ、刀を振るって家族を背に護る姿は、やはり父や兄とどこか似ている。
だが、残念ながら、彼の部下たちは文字通り腰抜けだった。
刀の柄に手を添えながら、ガタガタと震えて抜く事が出来ない者も居る。
尻餅をつき、立ち上がる事すら出来ない者も。
そこかしこで、悲鳴が上がっていた。
真っ先に走り出した者達は、恐らく安全圏まで逃げおおせている。
主政たちを含む、逃げ損ねた者、足腰の弱い老人や子供、家族を庇った者達が取り残され、猿鬼に襲われていた。
唄太は目に付いた鬼から次々と突き殺して行く。
ある程度倒せば、逃げてくれるか? そんな淡い期待もあった。
「がっ!」
呻き声の様な悲鳴を上げ、唄太の脇で久成が膝を突く。
「く……、駄目です、全く刺さりません!」
やはりか。
「距離を取れ、牽制に徹しろ! 俺が止めを刺していく!」
元春は左腕を、久成は脚をやられている。
いや、唄太からは見えないが久成は腹を押さえていた、腹部に深手を負っている可能性も有る。
基本に従うならば、膝を突いている仲間は前線から下げないといけない。
「……立てっ! 主政様を護りつつ、先に行け!」
後ろに居る猿鬼は残り三匹。
そして同じ数だけ人が倒れているが、最早助ける余力は無い。
まだ前方に二十以上居るはずだ。
先頭を行く永助と通照の二人は、やはり猿鬼を倒す武器を持たない。
自分が、やらなければ……っ!
「きゃああぁー!」
直ぐ傍で上がった悲鳴に、大浦屋の婦人は娘たちと繋いでいた手を離し、懐の短刀に手をやった。
振り向けば、後ろを歩いてた見覚えのある親子連れに、猿のようなモノがしがみついていた。
子供を胸に庇うその母親の肩口に、猿は大きく開いた口で齧り付く。
「あああっ!」
再び上がった悲鳴と、僅かに散った血飛沫で、体に熱が走った。
反射的に引き抜いた短刀は、やや反りのある不格好な物。
背後から猿の頭を押さえると、それをズブリと、心の臓目掛けて突き刺した。
ゴェエッ!
奇声を発した猿は、振り返りながら爪を薙ぎ払い、グラリと体勢を崩して地面に落ちた。
「大丈夫ですか?」
「あ、あ、……ありがとう、ございます、大浦屋さん」
応えた女性は、肩から血を流してはいるが、致命傷では無さそうだ。
寧ろ、自分の方が深手かも知れない。
「行ってください」
そう言いながら膝を突く。
女性は驚きと動揺を示し、一瞬迷いを見せたが、口を真一文字に結んで頭を下げ、そのまま走り出した。
「お母さん?」
柘榴の声に、体を起こしつつ振り返る。
「お母さんっ!?」
胸元から血を流す母を見て、柘榴は声を荒げた。
「ごめんなさい、失敗してしまいました」
慌てて傷を押さえようとする柘榴を、片手で制する。
「駄目。あなた達は先に行って。走れるだけ走りなさい」
悲鳴は、そこかしこで上がっていた、他にも猿鬼が居るのが見える。
「山津にはお父さんが居るはずだから、……清次さん、娘たちをお願いします」
「……おう。わかった」
一人、清次だけが頷いて応えた。
「逃げよう。二人とも、早く」
「でも……」
「おかあさん……」
泣き出しそうになっている柘榴と花梨を左右の手で捕まえ、同じく泣きそうになりながら、清次は大浦屋の婦人を見つめ返す。
そして、言葉も無く、僅かに俯き背を向けると、二人を引き摺るように駆け出した。
振り返りながら、と言うよりも、ほぼ後ろを見ながら、足を縺れさせるように走る娘たちを見送って、大浦屋の婦人はフウと息を吐いた。
そして、もう一人の子供が残っている事に驚いた。
「清人ちゃん!? 貴方も行きなさい!」
その言葉を聞いていないのか、清人は自分の袖を脇から割いて外し、それを婦人の傷口に押し当てた。
止血は、薬師にとって基本中の基本。
外出血の場合、傷口を押さえて止めるのは、最優先事項だ。
「清人ちゃん……」
再び掛けられた声に、清人はフルフルと首を振る。
どうしよう、自分は長く走れそうにない。
清人を連れて逃げるのは難しい。
唇を噛み締めた大浦屋の婦人は、清人を抱え上げると、滑り落ちるように河原へ降りた。
そしてそのまま身を伏せる。
「ここなら、上からは見えないから。……清人ちゃん、静かに、声を出さないでね」
清人は黙って頷き、引き続き傷口に布を押し当てる。
このまま、鬼に見つかる事無くやり過ごせるかは、運次第だ。
だが、既に空は大分明るくなってきている。
分が悪い賭けでは無いだろう。
婦人は時子から貰った短刀を片手に握りしめながら、もう片方の手を清人の頭に回した。
清人が付いてきていない。その事に清次は直ぐに気が付いた。
だが、戻っている余裕は無い。
前方で二人の兵士が懸命に槍を振るっているが、猿鬼に斬り付けられ、手足から血を流し足下もふらついている。
辺りには何人もの若い女性や子供が倒れ、猿鬼が喰い付いていた。
清次はそれらから目を逸らし、駆け抜けようとする。
不意に、グンと左手が引かれ、花梨の手が離れる。
「何やって……」
振り返り声を荒げようとした先で、花梨の上に猿鬼が伸し掛かっていた。
一瞬の迷い。
それは本当に一瞬だったのか?
判らないぐらい長い一瞬だった。
「花梨ちゃん!!」
柘榴の悲鳴にも似た叫びに、咄嗟に強く手を握りしめ、引き戻す。
「駄目だ! 逃げるぞ!」
そう叫んだ清次に、柘榴は信じられない物を見たような目を向ける。
「お姉ちゃん!!」
花梨の声が聞こえる。
清次は歯を食いしばり、柘榴の腕を引き再び走り出した。
「待って! どうして! 花梨ちゃんが!」
柘榴は走る事を拒否し、脚を動かさない。
清次はそれでも引き摺りながら前に進む。
清次には、鬼を追い払う力は無い。
そんな事は、自分が一番よく解っている。
柘榴だけでも、せめて柘榴だけでも連れて逃げなくては。
「お姉ちゃーん!」
泣きながら、必死に手を伸ばす花梨の肩口に、鬼が喰らい付く。
「あーっ!!」
「花梨ちゃんっ!!」
柘榴も必死に手を伸ばす、だが、必死に引き摺る清次によって、二人は引き離されていった。
「おねぇ……」
ブシッと、鬼が肉を喰い千切る。
信じられないくらいの血が吹き上がり、花梨は目を見開いて、口をパクパクと動かしたが、最早、声は聞こえ無い。
多分、自分を呼んでいるのだ。
そう思いながら、柘榴は気を失ってしまった。




