第八話 谷川の村
近い。
芹菜は言い知れぬ不安に駆られていた。
最初の、小鬼が十匹程度ならという仮定が、間違っていたような気がする。
もし合っていたなら、既にすぐ近くまで来ている事になる。それに何よりも、匂いが強くなる速度が速すぎる。
急激に鬼が集まって来ているか、鬼が全速力で町中を走っているか。
そんな馬鹿な、とは思うが、しかし、可能性はある。
もし、町の北に、鬼、小鬼が集まってきているとしたら?
鬼が、町中では無いにしても、裏山を高速で移動しているとしたら?
どちらも良くない事だ。
傷が開いてしまった旦那さんの包帯を巻き直し、飴釜の主人に声を掛ける。
「では、私も失礼してよろしいでしょうか」
「ああ。……いや、謝礼を渡さんとな。ちょっと待っててもらえるか」
正直、お金など要らない。
「それは、またで良いです。ちょっと気になる事ができまして、急ぎますので」
「気になる事?」
「はい。鬼が、まだ居るんじゃ無いかと思いまして」
飴釜の主人が眉をひそめる。
「鬼が。どうしてそう思うんだね」
「勘です」
そう言って立ち上がる。もう時間が惜しい。
「判った、ありがとう」
「ありがとうございます。失礼します」
そう言い残し、部屋を出る。草履を履く間ももどかしく、芹菜は駆け出した。
「あ、あの……」
「すみません、急ぎます」
衛士に声を掛けられたが、袖にする。今は話をしている場合では無い。
少し移動したが、匂いの方向はほぼ変わらない、それはつまり距離があるという事で、小鬼十匹では無い事は確定である。
花梨たちはどうしただろう?
鬼が町の奥か外なら、まだ見つけていない可能性が高い。
とりあえず、荷物がある飴釜屋を目指して走る。
町人町の中程まで来る頃には目星が付き始める。
川沿いの道の曲がり具合と、匂いの方向のずれ、そして強くなる度合いを考慮する。
やはり裏山か? そして今は動いていない。
そう思った矢先、その方角から別の匂いが急に湧き立った。
それは、鬼の負気では無く、神気。
強烈な神気が目の前から溢れるのを感じた。
いや、目の前では無い。目の前には何も無い。
これが、鬼と同じ位置だとしたら、かなり強力な……。
ぽうっと、視界の先、連なる民家の屋根の向こうに、一瞬だけ小さく火が見えた。
「花梨ちゃんか!」
花梨に渡した青銅鏡の事を思い出し、芹菜は更に足を速めた。
店に戻った清人は、まず兄に店を空けてしまった事を謝罪する。
その上で、芹菜に頼まれて小鬼を探し、連れ去られた人を助けた事を説明した。
「なるほど。それは良かったな」
兄はあっさり許してくれた。
「おやじさんも、良いって言ってくれたんだろ?」
たしかに父は何も言ってこなかった。そもそも清人が詰め所に現れたことに、疑問を持たなかったようだ。
「ははっ、言われてみれば、叱られてないや」
ちょっとおどけて笑ってみせる。
「それで、もう少し時間が欲しいんだけど、良い?」
「どうかした?」
「他にも鬼が居るかもしれないから、調べて欲しいって頼まれて」
その言葉には眉をひそめられる。
「それは、危ないだろ」
「大丈夫、町からは出ない」
「そうか?」
町の中に鬼が居るなら、既に他の人が気づいているはずで、この言はおかしいのだが、清彦はしばらく考えたあと、一人頷く。
「うん、判った。良いよ。行っといで」
「はい、ありがとうございます」
清人は長兄に対する礼儀として頭をさげる。
「花梨ちゃんも一緒だろ」
「あ、はい」
別に逢い引きする訳では無いのだが、そのような言われ方をされてしまった。
「それと、あれ。芹菜さんの荷物をあそこに預かってますので」
店の隅に置かれた薬箱を指す。
「ああ。判ってる、大丈夫」
「では行ってきます、よろしくお願いします」
兄に店番を託し、表に出ると、すぐ近くから悲鳴が上がった。
続けて誰かの叫びが聞こえる。
「火事だーっ!」
それに応えるように、複数人が繰り返し「火事だ」と叫ぶ。
皆の視線の先、大浦屋の裏手から、煙が上がっているのが見えた。
「兄さんっ、大浦屋さんが火事だっ」
店の中の、既に立ち上がっていた兄に声を掛ける。
そのまま数秒、目を合わせたまま、互いに動けない。
考えていたことは同じだろう。清人は花梨を、清彦は柘榴を助けに行きたい。
しかし、隣家の火災に際し、薬師にはやらなくてはいけない事がある。
それは、薬棚の保護。
薬師にとって薬はただの商品では無い。町の人々の生活、命に関わる物を預かっているのだと教えられてきた。
家族を見捨ててでも、薬は守らなくてはいけない。父は常々そう言っていた。
苦渋の表情で、兄が言う。
「薬棚を、表に出そう」
薬棚には金具が付いており、上下に分割して運び出せるようになっている。
頷いた清人は兄とともに、素早く棚の分割にかかる。
担ぎ棒を金具に突っ込み、四台に分かれた棚の一つをまず担ぎ出して、道向かいの川際へ下ろす。
周辺ではワァワァと人が叫び、半鐘が鳴り響いていた。既に破壊消火と水掛の準備が整いつつある。
目の前に川があり水は豊富だが、火消しの基本は破壊消火、つまり建物を破壊して延焼を防ぐのである。
近隣から手桶が集められ、河原から列を成した婦人たちにより水が汲み上げられていく。それを男性陣が両手に持って大浦屋の中に駆け込む。奥で消火活動が行われるのであろう。
片や若手の火消し組が鳶口や斧、大槌、鋸などの道具を担いで駆けてくる。
「清人君っ!」
聞き覚えのある声に振り返ると、芹菜が人混みをかき分け、姿を現した。
「花梨ちゃんは?」
問われて、視線を大浦屋に移す。釣られるように芹菜もそちらに目をやった。
先ほどは煙だけだったが、今は火の手が見えている。
「すみません、先に薬を運び出します」
言い知れぬ罪悪感が胸を駆け巡る。だが、やらなければいけない。
「誰かっ、手を貸してください」
飴釜屋が薬師なのは町の誰もが知っている。清彦の声に近くの旦那衆が「おう」と応える。
「あと三台っ」
ご近所の手によって二台目、三台目の棚が店から出され、最後の棚を清人と清彦が担ぎあげる。
芹菜も店の隅に置いていた自分の薬箱を背負い上げた。
表に出て振り返れば、大浦屋の裏手には大きな火柱が上がっていた。余りにも火の勢いが強すぎる。
「飴釜さんっ、そっちもやるぞっ」
火消し組から声がかかる。
延焼する前に飴釜屋も破壊するという意味だ。それに清彦が応える。
「薬は出しました。お願いします」
花梨はおろか、大浦屋の人間は未だ誰一人姿を見せない。
本格的な、破壊消火が始まった。
清人は、やがて駆けつけた父とともに、薬棚の近くでその様子を見守り続ける。
芹菜の姿は、いつの間にか無かった。
赤壁亭に駆け込んだ芹菜は、近くに居た仲居の肩を引き、声を掛けた。
「小鞠さんはどちらに?」
「主は少し出ております」
一瞬、疑問が浮かぶ。主? 小鞠が?
しかし今はそんなことはどうでも良い。
「すぐに戻られますか?」
「さあ、なんとも」
なんとも、頼りない返事に少しいらつく。
「ではこの荷物を、昨日と同じ部屋にお願いします」
薬箱を預けるときびすを返し、表へ出て匂いを探る。
神気は、花梨は未だ火災の中心に居る。
鬼とおぼしき負気は、急速に遠ざかっている。
花梨のあれは、自分のせいだ。
火の玉ぐらいは出せるだろうと思っていたが、あんな爆発的な力を放つとは思っていなかった。
どうしてこうなった?
花梨なら、鉢合わせすること無く鬼を見つけることができたはずだ。なのに、何故。
場所が大浦屋。まさか、家族の誰かが襲われて、やむを得ず神霊の力を借りようとして、ああなった?
家族の危機であったのなら、芹菜を呼びに戻る余裕が無かったことは理解できる。
しかし、裏山を走っていたと思える鬼が、何故大浦屋に入ったのか?
自分の知らない何かが、まだある。
小鞠に助けを求めたかったが、それは無理そうだ。
他の仲居では対応できそうに思えない。
しばらくの逡巡のあと、花梨は放置し、鬼を追うことに決めた。
鬼を討たなくてはいけない。それが自分たちの使命だ。
少し高台にある赤壁亭の前からは、燃え上がる大浦屋が見える。
一度目を閉じてから、芹菜は駆け出した。
芹菜が追いかけている鬼は、かなり速い。町を出る頃には、もう匂いを追えなくなっていた。
しかし、道を見ると、地面を激しく蹴った跡がある。
更に詳しく見れば、逆方向、町に入ってきた時の足跡も簡単に見つかった。
やはり町の手前で裏山に入り、同じ位置から出てきている。
土地勘がある。この道を利用した経験のある地元の人間が、鬼化したのだろう。
ただ、小鞠から町の人間が行方不明になったという話は聞いていない。
湯治客や街道を旅する者は、こちら側に来ることは無いだろう。
と、いうことは……。
今回の任務の、この奥にあるという木こりの村か、その近辺か。
何にしろ、足跡が綺麗に残っているのはありがたい。
走っても追いつかないのだから、戦いになることも考え、歩いて行くことにする。
時刻はまだ昼前。こちらが有利な時間帯だった。
そのまま二つほどの集落を通り過ぎた。
屋根が落ちている家もあり、おそらく十年ほど前に廃村になったのだろうと思われる。
その二つ目の廃村を過ぎた上がりで、鬼の匂いを感じ出した。
谷川は蛇行し、その方向は定かでは無い、川に沿って続くこの道もそうだ。だが、このまま進んで行けば鬼の住処に当たるはず。
それから更に四半時。
鬼の匂いは更に濃くなったが、依然その姿は見えない。
芹菜は、またしても自分が思い違いをしているのでは無いかと考え始める。
鬼は、一匹では無いかもしれない。
湯川の町に現れたのは一匹だけだろう。
だが、他に仲間が居る可能性も、考慮した方が良いかもしれない。
ただ、戦乱の続いていた時代とは違い、一カ所で、複数人が同時に鬼になることは滅多に無い。
他所で鬼化した者が、何かの理由で集まった可能性はあるか?
たまたま偶然、鬼同士が出会ったか。
足跡は変わらず一定で続く、しかし、町での匂いの強さから考えれば、もう接触しているはずである。
やがて、匂いは更に強くなり、最低でも二匹と心積もりを定めた頃、次の村が見えてきた。
村に近づくと急激に道が良くなる。
もちろん舗装などはされていないのだが、他の場所では人が一人通るだけの幅に、草が踏みつけられて道になっていたものが、この先は定められた通りの道幅に、草が刈り取られている。
村人が道の整備をしている証拠だ。
芹菜は一旦距離を取り、道を逸れて藪に入った。
そのまましばらく進む。匂いのする方向が判る事を利用し、横方向に移動することで場所を探るのである。
結果、確かに村の中に居るのが判った。
しかし、進行方向、先ほどとほぼ変わらない方角にも、まだ匂いが続いている。
つまり、村の中にも居るが、まだ奥にも居るということだ。
「これはひょとすると、まずいかも」
一匹二匹という話では無く、もっと大規模な群れの可能性がある。
だとすると、率いているのはかなり力の強い鬼か、知能の高い鬼だ。
鬼を討つ事こそ使命。
だが、最も重要な御役目は情報の収集である。
仲間が危機的な状況にあっても、見捨てて情報を持ち帰れと言われているほどに。
最重要事項がこれで定まった。
改めて、この村を探る。
鬼の数はまだ判らないが、匂いから察するに湯川に来た鬼と同程度なら、もっと、三、四匹いるかもしれない。
斜面に沿って移動しながら村を見下ろすが、人の気配は無い。
何軒かの家の戸が打ち破られているのが見えた。
縁側の障子が家の外まで飛ばされているところもある。
遺体は見当たらないが、最近鬼に滅ぼされたのであろう事は間違いない。
更に探っていくと、いくつかの特徴から、ここが木こりの村では無いかと思えてきた。
道際に製材されてない丸太が高々と積み上げられている。
その横手から川に向かって綺麗に整えられた傾斜があり、ここから川に落として下流に運ぶのだろう。
あっちの任務はどうしよう。もう良いか。
本来受けていた任務を思い出す。
しかし、この村が潰れていたのではどうしようも無い。
小鞠から聞いた話を思い出していると、一つの事柄が引っかかった。
『それなりの金と女で釣られているようです』
木こりの村には女がいる。
人から成った鬼は、人との間に子を作って増える。
その為、男の鬼は、男は殺すが女は生かしている可能性が高い。
情報を集められるだけ集めて、撤退すべき。
だが、男の鬼、しかも複数に捕らえられた女がどのように酷い目に遭うか。
情報を集めた後、撤退して、村付きの小鞠に報告する、そこから近隣に連絡が飛び、戦力が集まって再びここに来るのは、何時になるのだろうか。
ふうっと、息を吐く。
なるべく、見つからないように行動する。
女性たちが生存しているかどうかだけでも確認して、可能なら助け出す。
もし見つかったら?
逃げ切れないのは確実だから、仕方ない、やってしまおう。
その結論に、むしろ少し気が楽になり、にやっと笑った芹菜は、静かに斜面を下りていった。




