第七十八話 思い
ドロリと、大地が溶け始めた。
御杖代が放つ光は、直視するのが難しいほどになり、熱が術札の技術官の肌を焦がす。
何だ、これはっ!
祈願した内容は、人体術札の時とほぼ同じ。
火之山輝霊姫の司る火山の力により、溶岩の蛇を作り出し、敵対する者を薙ぎ払う。
まるで物語の一節の如くに語り、そうであるのが当たり前のように、そうであれと訴える。
それにより、”そうなる”、はずだった。
今、大地は揺れ動き、溶岩は御杖代の手元では無く、フワリと浮かんだ、その足下から湧き出している。
いや、寧ろ、辺り一帯が溶岩に変じつつあった。
術が、制御出来ていない!!
神霊がこちらの言葉を聞き届けてくれなかったのか。
それとも、余りにも強い力が、叶えようとする願いとは違った結果を生み出しつつあるのか。
何にせよ、こちらの思い通りになっていただくように、働きかけねばならない。
ジュウっと音を立て、技術官の足下から煙が上がる。
熱いのか痛いのか、判らない。表現出来ない感覚が両足から腰を駆け上がり、体をガクガクと震わせる。
言葉を発しようと試みるが、息を吸う事すら出来ない。
ここまで……か?
術札の神祇官は、この命懸けの戦いに際しても、まだ生きて帰れると疑っていなかった。
仲間たちと力を合わせ、恐るべき鬼を打ち倒し、負気を祓って、ありふれた日常へ帰るものだと、そう思っていた。
心のどこかで、自分だけは生き残るのだと、理由も無く信じていた。
だが、今、確実な死がそこにあった。
神霊の力を借りて……、いや、神霊を思いのまま利用してきた人生が、制御出来ない神霊の力によって、終わりを迎えようとしている。
だが、喩えそうだとしても……。
自分がこれで終わりであったとしても。
最後まで訴えねばならない事がある。
息を吸う事が出来ない。
肺腑が焼けた大気を拒否している。
言葉を紡ぐ事すら出来ないままで、技術官は祈った。
どうか、鬼を打ち払う為に力を、我らにお貸しください。
先ほどのように、溶岩の大蛇を繰り出し、あの鬼を、あの谷に蟠る負気を祓ってください。
目を閉じ、手を合わせ、一心に祈る。
グラグラと揺れる体を、何とか支えようとしていたが、自分の足がどうなっているのか、まだ形を残しているのかさえ判らない。
やがて、ガクリと崩れるように膝を突いた。
猛烈な煙を放って臑が焼け、衣が燃え上がる。
不思議と、痛みは感じなかった。
ただ、白くかすむ視界の、眩しい輝きの中に、妻の姿を見たような気がした。
自分たちの居る本隊と別れ、北へと向かったはずの妻。
最後に見たのは、連絡用の文を飛ばす為に、しゃがみ込んだその後ろ姿だった。
どうか、無事で……。
そして思い出すのは子供たちの事。
娘の雲雀は、今晩は研究所の中に居たはずだ。
無事であろうか?
負気に呑み込まれている可能性は高い。
助からなかったのだとしても、せめて、鬼にだけは成らないで居て欲しい。
そんな事を切に願う。
木寅は、一人きりで留守番をしている。
逃げる事は出来ただろうか?
誰か、連れ出してくれただろうか?
どうか、どうか子供たちが、無事でありますように。
目も焼けて、既に視界は濁っている。
ゆっくりと、前のめりに倒れる技術官の手を、誰かがそっと受け止めた。
木寅、雲雀……。
鬼を倒すという、本来の祈願を、最早思い出す事も無い。
術札の技術官は炎に包まれながら、溶岩の海に沈んでいった。
「何だこれは!」
少し距離を取っていた神祇官たちも、思いもよらない現象に声を上げた。
赤熱した八咫鏡が空中にふわふわと浮かび、刺すような光を放っている。
地面は御杖代を中心に溶け出し、近付く事さえ出来ない。
その先で、術札の技術官が炎に包まれていくのが見えた。
「どうなっている!」
誰かの叫ぶような問い掛けに、誰も答える事が出来ない。
ただ、皆の見つめる先で、御杖代がゆっくりと振り返り、既に火達磨となっていた技術官に手を差し伸べていた。
「なん……!?」
まるで、人のような振る舞い。
だが、アレにはもう、人の魂は残されていないはずだ。残っていたとしても残滓だろう、そう思われていた。
八咫鏡が煌とより一層光を放つ。
直後にドロリと溶けて、空中を流れるように、御杖代に吸い込まれていった。
本来の計画では、鏡に火山の神霊を降ろし続け、その霊力を御杖代に送りながら術を放つ事で、継続的に術が放ち続けられると、そう考えられていた。
しかし、実際には予想もしなかった現象が起こっている。
なにがどうなっているのか、誰も解らない。
呆然と眺める神祇官たちに背を向け、御杖代は高々と手を挙げた。
「何だ……?」
合図を受け斜面を駆け上がった幸永たちだったが、予想されていた攻撃は無かった。
こちらに向かって浮いていた御杖代は、背を向けしゃがみ込んだように見える。
「まさか、失敗したか?」
前例の無い実験。
そう、試した事すら無い術を行使したのだ、失敗する可能性も十分ある。
だが、失敗する物だとは思っていなかった。
技術官の術により強力な鬼を滅ぼす。
自分たちの役目は、そのための時間稼ぎであった。
もし、予定された術が発動しないのであれば、自分たちの力だけで戦わざるを得ない。
あの、土中に隠れたもう一匹から、負気を補充されているらしい鬼を相手に、か。
一撃で倒せる相手ではない。
それどころか、覆っている”皮”すら貫けず、即座に回復されてしまう。
ならば、延々と消耗戦を繰り広げる羽目になり、総量で劣る自分たちに勝ち目は無い。
だが、ありがたい事に逃げれば逃げられるように見受けられる。
倒す事が出来ないのが確定であれば、再起を図る為、仲間を逃がす事も策の一つだろう。
自分たちも、時間さえあれば回復する事が出来、繰り返し戦えば倒す事も出来るはずだ。
故に、できる限り多くの仲間を逃がしたい。
勿論、再び相対するまでの間に、鬼は甚大な被害を発生させるだろう。
それを抑える為に、できる限り負気は削っておきたい。
相反するが、どちらも重要だ。
十分な距離を取り、鬼を見下ろす幸永は、決断を迷う。
真っ直ぐ見つめ返す鬼の、その視線がふと逸れた。
「!?」
直後、幸永もそれに気付き、そちらに目をやる。
小さく響き続ける地鳴りは、山全体を揺らしていた。
その中でも、そこが震源であるかのように、溶けた地面を波紋状に波立たせながら、少女がフワリと浮かび、赤い眼光をこちらへと向けていた。
その右腕が、そっと上がる。
同時に、磁石に引き寄せられる砂鉄のように、溶岩が盛り上がり少女に纏わり付いた。
降神よりも、鬼の属性変化に似ている。
幸永はそんな印象を受けた。
あれは術札では無い、御杖代を利用した術の発動とも違う。
最も似ているモノは……霊獣、湯山の山猪か?
岩で出来た体を持つ猪の霊獣。
あれは怒り狂うと大地から溶岩を呼び寄せ、身に纏う。
肌の大部分を赤熱した溶岩で覆い隠した少女は、まさにそれに似ている。
その少女が大地に……溶岩の上に降り立つと、先ほどと同じように右手を掲げた。
ただし、引き起こされた現象は違う。
少女の周辺に溶岩で出来た柱が突き出し、手が振り下ろされると同時に猛烈な勢いで鬼に襲いかかった。
これは!
火山輝霊の術。
しかし、先に研究所の下で見た物に比べ、規模はかなり小さい。
威力は人体術札を上回るという予想では無かったのか?
幸永の疑問を他所に、飛来する溶岩は蛇の形を取り、黒い鬼に襲いかかった。
迎え撃つように負気の刃が幾つか放たれたが、蛇はそれを物ともしない。
ドドドドドドドッ!!
大地を揺らし、頭から突き当たるように次々と蛇が降り注いだ。
鬼は腕で頭を庇うようにしながら、それを受ける。
瞬く間にその姿は溶岩に呑み込まれ、見えなくなった。
だが、これで倒せたとは思えない。
幸永の感想とは裏腹に、背後からは歓声が上がった。
そう、多少誤差はあっても、作戦通りに事が進んだ……ように見えたのだろう。
喜ぶ部下たちを片手で制し、チラリと視線を向けた後、再び鬼を凝視しながら幸永は自分の考えを述べた。
「聞け。残念ながら、事は巧く運んでいる訳では無い」
予想外な言葉に、一同は無言で幸永を見つめ、その真意を探ろうとする。
「アレは二匹の鬼が合わさったように見えるだろうが、恐らく違う。もう一匹は地中に潜んでいる」
鬼を包み込んでいた溶岩が、ドロリと落ちる。
その中から姿を現した鬼に、変化は無い。
見た限りでは、全く傷を負ったようには見えなかった。
「一つ、上級鬼は自在に変化するが、小さな隙間を擦り抜けるような事は出来ない。つまり、小さな割れ目から地中を移動したアレは、負気で作られた紛い物だ」
半ば溶岩にめり込んだままになっていた下半身を、不器用に引き抜きながら鬼が体勢を立て直す。
それを真っ直ぐ見つめつつ、御杖代はゆっくりと歩き出した。
「二つ、下の谷に蟠っていた負気の、大部分が消え失せていた。恐らく、姿を隠した鬼が吸収したのだろう」
初めて、隠密たちが騒めいた。
「三つ、アレの足下から、地中へ伸びる黒い綱の様な物が見えた。あくまで推測であるが、谷の負気を吸収したもう一匹が、地中に身を隠しながらアレに負気を送り続けているのだと考える。……如何か?」
如何と問われても、幸永以外の隠密が気付いたのは、精々、あの小さな割れ目から移動するのはおかしいというくらいだ、殆どの者は、地中を移動してきた鬼が、もう一匹を喰らって力を付けたと判断していた。
幸永の推測を聞いても、まさかと思う反面、そうなのかと理解する、それだけだ。意見などは出ない。
「その上で、だ」
鬼の首の一つが御杖代を、もう一つが幸永の方を見ていた。
幸永もそれを睨み返す。
「今後の対応を相談したい」
その言葉に、一同は目を丸くした。
このような場面で、相談?
状況を正しく判断する事すら出来ていなかった者達に?
「正直、この後、どう変化するか見当も付かん。あのまま御杖代と戦い、力尽きてくれればありがたいが、そうは行かんだろう」
ゆっくり歩いていた御杖代も、既に自分たちより鬼に近い。
のんびり話をしている余裕は無さそうだ。
「出来ればもう一匹も引きずり出して、御杖代の力を借りて倒してしまいたい。綱を切った場合に、姿を現すか、それとも逃げられるか」
或いは、再び負気で出来た分身を送り出してくるかも知れない。
幸永は自分の考えを反芻するように、言葉を続ける。
「綱を付けたまま戦った場合、アレに攻撃を加えれば地中の奴の負気を漸減出来るだろうが、総量で負ければこちらが先に力尽きる。その上、ある程度弱らせても、やはり逃げられるかもしれん。皆、どうするべきと考える?」
一部の上位者を除き、このような質問をされた事は無い。
そもそも、幸永が部下の意見を聞きつつ戦う事など、まず有り得ない。
自らの経験を元に、判断し、行動する者で無ければ、戦いの指揮を執る事は出来ないのだ。
誰もが返答に窮する。
質問の中にある現状を理解するだけで精一杯の者も多い。
「わ、我々も、どのような事に成るかは判断出来かねます。ただ、目の前の鬼を討つ事に専念すれば宜しいのでは無いでしょうか」
一人の若者が、至極当たり前の事を言ってのけた。
そう、現状が異状なのである。
どうなるかなど、判った物では無い。
「出来れば倒したい」
「勿論です」
「出来れば逃がしたくない」
「勿論です」
真っ直ぐな返答に、幸永もフッと笑みを漏らした。
「そうよな」
考えざるを得ない立場であり、考えざるを得ない状況ではあるが、考えた所で意味は無い、か。
「すまん。柄にも無く迷ってしまった」
大きく息を吸い、溜めて、吐く。
自分の迷いが、皆の不安を生んでいるのが、目に見えて解る。
「聞いてくれ。谷に在った負気の殆どが、アレに……アレの下にいる奴に吸収された。故に、彼奴らさえ倒せれば、こちらは片付いたも同然だ」
鬼の三間手前で、御杖代は立ち止まった。
聞いていた話とは違う、霊獣のような御杖代の力の程は、計り知れない。
残念ながら、期待していた程では無いようにも思える。
だが、意思を持って戦ってくれるなら、ある意味ありがたい。
「掛かるぞ! 御杖代を援護しつつ、鬼を叩く。続けっ!」
叫ぶように言い残し、幸永は斜面を駆け下りた。
それを見ていた鬼の顔が、明確な意思を示して腕を振り上げ、負気の刃を作り出す。
その動きに反応する様に、御杖代も鬼に向かって跳びかかった。




