第七十六話 山の神
「距離を取れ!」
幸永が指示を出すまでも無く、全員が鬼から大きく離れる。
元からこの場で戦っていた者と、後から来た者で二重の包囲が敷かれる形となった。
だが、包囲してはいるが、追い詰めた感じは全くしない。
二匹に分かれているなら、何とかなると考えていたが……。
幸永の主観では、ぎりぎり”何とかなって”いたように思えた。
僅かながらも負気を削り、こちらの死傷者は、思っていたほどでは無い。
このまま行きたかったが。
鬼は、完全に異形と化していた。
腕は十本か、十一本か。
足は五本?
生えている位置も形もおかしく、最早、腕であるとか足であるとか意味は無さそうだ。
内在する負気の総量は見当も付かないが、単純に二倍となったと考えるべきだろう。
「距離を維持しろ。狙われたと思ったら大きく下がれ!」
的が一つになったと思えば、技術官の術を放つには好都合。
だが、今まで通り時間稼ぎが出来るだろうか?
接近戦になれば、手も足も出ない気がする。
幸永と同じ不安を、恐らく全員が抱えている。
様子見の、比較的威力の弱い技が四方から放たれた。
やはり鬼は微動だにしない。
ズドォッ!
直撃し、爆炎が上がるが、鬼はそれを無視して、全ての腕を高々と挙げる。
そこには黒い靄が纏わり付いていた。
「!? 回避っ!」
言われるまでも無い、その動きが何であるかは全員が理解している。
鬼が腕を振り下ろすと同時に、負気の刃が放たれた。
先ほどまでは一つずつだった物が、一気に十ほどになった。しかし、来ると判っていれば脅威では無い。
意識を集中し、狙われた者は確実に回避した。
当たり前だ。
当たるはずが無い。
一人に対して全ての刃が放たれれば流石に危ないだろうが、十人に一つずつで当たるはずが無い。
幸永の脳裏に疑問が浮かぶ。
呑み込まれた方の鬼は、戦い方を知っていた。
その知識は、呑み込んだ側には受け継がれていないのだろうか?
本当に低脳であればそれに越した事は無い。
だが、わざわざ仲間を呑み込みに来たのだ、その結果がこれでは、余りにも馬鹿馬鹿しい。
鬼は次々に腕を振るい、猛烈な勢いで負気の刃をバラ撒いた。
それでも尚、味方に被害が出るとは思えない。
接近戦に持ち込まれれば、あちらの方が有利であろうに。
「おい。奴はずっとこのような戦い方をしていたのか?」
幸永は隣りにいた者に問い掛ける。
もう一匹の鬼が地中に潜ったと知らせてくれた隠密で、神祇官たちの案内を受け持ってくれたのも彼だ。
「はい。その場から動かず、負気の刃を放つだけでした」
何だ、この違和感は。
「他には?」
「はっ。……暫く単調な攻撃を続けた後、何故か棒立ちになり、ふと顔を上げたかと思うと、一瞬で土の中へ潜りました」
土の中へ、一瞬で?
土性鬼だったのか?
なら、自分の読み違えだが。
「一瞬……、土を掘ったのでは無く、土が割れたのか?」
「恐らく。気付けば足下に小さな亀裂が出来ていました」
「小さな?」
「はい。最初は消えたかと、幻術だったのかとも思ったくらいでしたが、よくよく見れば極小さな……」
「あの鬼が通れるとも思えないような?」
「あ、はい」
上級鬼は肉体自体を変化させる事が出来る。
水にも風にも、炎や雷にすらなり得る。
だが、核となる部分、人間であった部分だけは残るはずだ。
体を水に変えたとしても、網を通り抜ける事は出来ない。
あれに核があるなら、極小さな亀裂とやらでは通れないはず。
「足下をっ! 奴の下を狙えっ!」
咄嗟に、思い付きの指示を出す。
それを受けて、数人いる土系の隠密が大地に手を着き技を放つ。
ドドドドッ!
技はそれぞれ別の物だが、結果として土砂が大きく噴き上がった。
鬼も体勢を崩しながら、軽く打ち上げられる。
その僅かの瞬間を、幸永は見逃さなかった。
鬼の足から伸びる、一本の綱の様な物。
それが、土砂を吹き上げる大地の中へと続いている。
「姿を隠す直前、顔を上げたと言ったな。こちらを見たのか?」
「え? はい、恐らくは、ですが」
別の場所で戦っている仲間に視線を向けたのならば、あの顔でも目は見えるのだろう。
だが、亀裂を擦り抜けるそれは、恐らく、本体では無い。
「暫く任せる!」
言い残し、幸永は駆け出した。
負気溜りが流れていた、谷底に向かって。
渦の在った場所の負気は、かなり減ったがまだ残っていた。
その東、研究所側の負気溜りも、液体のまま揺蕩っていた。
だが、西へ流れた、川のようになっていたそれだけは、一欠片も見当たらなかった。
ゴクリと唾を飲み込む。
あれを、全て吸収したのか?
いつの間に?
一体いつから、地中に潜っていたのだ?
バッと仲間の方を振り返る。
馬鹿みたいな単調な攻撃は、我々を引きつける為の囮ではないか?
もう一匹の鬼を呑み込んだように見えたのも、相手を助ける為に、体の一部を覆い被せたに過ぎないのではないか?
もしそうであるなら、”馬鹿みたいに単調な攻撃を繰り返していた”のは、我々の方だ。
「糞っ」
珍しく罵声を吐き、幸永は谷底を睨む。
だがしかし、動く影は見当たらず、何の気配も感じられない。
奥歯を噛み締め、踵を返して仲間のところへ駆け戻る。
技術官の切り札を使用した所で、あの一匹が倒せるかどうかだ。
辺り一帯を掘り返して捜索する余裕は、今は無い。
もう一匹、地中の鬼は、このままでは取り逃がしてしまう。
運び屋は、隠密の中でも戦いに優れた者が多い。
踏んだ場数も同年代の仲間より多いだろう。
当代初となる、特級と思われる鬼との戦いも、良く熟している。
そう思っていた、先ほどまでは。
鬼が動かないと踏んだ隠密たちは、強力な技を次々と叩き込んでいった。
反撃の刃は鋭く素早いが、相変わらず全方位へ放っている為、見ていれば余裕を持って回避出来る。
目標が一匹だけとなった事もあり、時間稼ぎにも、負気の漸減にも成功していると、ほぼ全員がそう認識していた。
幸永が鬼の足下を攻撃させた意味については、それぞれ推測はしたが、理解出来た者は居なかった。
「全員、一旦攻撃を止めろ! 更に距離を取れ!」
駆け戻った幸永の指示に、一斉に手を止める。
鬼の攻撃を軽々と躱しつつ、囲みを大きくして身構えた。
「……」
幸永はその囲みの外に立ち、鬼を窺う。
ゆっくりと、背中に生えた方の頭が顔を向けてきた。
あれの方が、先に戦っていた鬼か。
もう一つの頭は、地中にいる鬼が外を確認する為の、耳目だけの頭だろう。
そう判断したが、対処は思い付かない。
攻撃の手を止め、回避に専念する仲間から、疑問を孕んだ視線が投げかけられる。
一匹だけでも、確実に倒しておくべきか。
だが、味方は既に、かなり消耗している。自分自身もだ。
技術官の切り札を使ってしまえば、後は無く、もう一匹には勝ち目が無い。
いや、地中に隠れた鬼があの負気溜りを全て吸収したのならば、そもそも勝てない可能性すら有る。
ならば、一匹倒せるだけでも御の字とするべきか。
しかし、それは、大災害を引き起こすであろう鬼を、見逃すという判断に他ならない。
「振るべ振るべゆらゆらと振るべ」
「振るべ振るべゆらゆらと振るべ」
火山輝霊の術札として使用されていた少女を運び屋に支えさせ、祭壇も供え物も無く、神祇官たちが祭事を執り行っていた。
そう遠く無い場所で鬼との戦いが繰り広げられているが、自分たちが巻き込まれる事は無いと確信しているかのように、地面に座して瞑目し、言葉を続ける。
二度、術札として祈祷を行ったのは好都合だった。
複雑な術式を組み直す必要が無い。
神器に降神していた神霊は、その霊力の殆どを失っていたが、それも問題ない。
火の山の神霊は、ここに存るのだから。
魂振により、神霊が揺り動かされる。
普段、神器などに降神するのは、自然の中の強大な神霊の本の一欠片で、引き出す事の出来る霊威は極々僅かだ。
だからといって、依り代も無く、例えは山その物に向かって祈祷を行っても、得られる力は更に小さくなってしまう。
巨大な神霊の力を一点に集中させる、それは不可能な事だった。
ならば、只管に汲み上げ続ければどうなるだろうか?
神器に神霊の一欠片を降ろし続け、その力を引き出し続ける。
実際にやってみると頗る効率が悪く、安定性も悪く、使い勝手も悪い。
当たり前の事ではあるが、最も利用されている方法が、最も汎用的で利用しやすいのだ。
結論から言えば、二倍の力を借りたいのなら、神器を二つ用意した方が遙かに良い。
しかし、その役に立ちそうも無い研究を、技術官と呼ばれる者達は、依然、続けていた。
青銅鏡に降ろされた神霊が、御杖代たる少女に押し込められていく。
中に人間の魂があるのなら、押しつぶされてグシャグシャになってしまう所だろう。
「熱……っ!」
少女を支えていた男が、発せられる熱に耐えきれなくなってきた。
いや、もう支え続ける必要も無い、先ほどから少女は、自立している。
確かめるように、ゆっくりと手を離し、その顔を窺う。
目は虚ろだったが、瞳孔が赤い光を放っている。
ゆらゆらと揺れる長い髪は紅に染まり、それ自体が赤熱しているようにも見えた。
「……残念ながら、限界が判らない。こんな物か?」
降神の技術官が恐ろしい事を言う。
それに術札の技術官が、苦い顔をしながら応えた。
「残念ながらで言うなら、こちらも何とも言えない」
何せ、こんな実験はした事が無い。
「そもそも、限界が判らないと言うのは何だ? 通常、神器に収まらない分は降りて来ないだろう?」
「八咫鏡の方はそうだが、御杖代の方がどうもおかしい。鏡経由で神霊を補充しながら術を発動させるつもりだったが、いくらでも入っていくように見える」
「そんな馬鹿な」
山に比べれば、人一人など実に小さくちっぽけな物だ。
そこに収まる神霊など、高が知れているはず。
「既に、最初に鏡に降ろした分は丸々収まっている」
「ならば、人体術札並みの威力は出せるか?」
「それはそちらの担当だろう?」
そう言われても、これは厳密には術札では無い。
御杖代と呼ばれる古の降神術に、色々と付加しているので、どちらかと言えば降神の技術官の担当だ。
「駄目だ、熱くて触れなくなってきた」
少女を支えていた男が、ジリジリと下がりながら言った。
少女の周りには陽炎が立ち上り、確かに、離れていても熱を感じる。
「むう……。あれは、動かせなく成るのでは無いか」
「杖だと思えば、術者である私が攻撃目標を視認して術を放つ事が出来る。ここからでも問題は無い」
覚悟を決めたように、術札の技術官は一人頷いて、隠密に指示を出す。
「幸永殿に、準備が出来たと伝えてくれ。ただ、御杖代は動かせない事と、術の威力の見当が付かない事もな」
「はっ。……術の威力は、人体術札より大きく?」
「ああ、恐らくな」
術の挙動は同じような物になるはずだが、効果範囲は威力に因って変わる。
「全力で退避してもらわんと、巻き込むかも知れん」
あの鬼に耳目があり、知能があるのなら、一匹が地中に隠れていると、声を大にして叫ぶ訳にはいかない。
そもそも、伝えた所で対処の仕様が無いのであれば、伝える意味も無いだろう。
「儘成らん」
ここまで、かなりの量の負気を打ち消す事が出来た。
主に人体術札による成果だったが、仲間の隠密たちも負けじと戦ってくれている。
研究所に封じ込められていた負気の、何割くらいを消す事が出来ただろうか?
恐らく、大規模な攻撃を仕掛けられるのは、これが最後だろう。
「技術官殿より連絡。準備が整ったとの事であります」
「解った」
「それと、御杖代と呼ばれる物は動かせないらしく、あの場所から攻撃を仕掛けるそうです。さらに、威力は人体術札を超えるが、どの程度になるかは判らないと」
その言葉には、幸永も苦笑いを浮かべる。
「全力で逃げねば、我々も助からんな」
あの鬼は、地中からもう一匹による助力を受けているので、それを解かない限り動けないと思える。
ある意味、好都合か。
「我々は斜面の上へ退避する。余力があるなら谷の負気溜りも吹き飛ばしてくれと伝えてくれ」
「はっ。合図は如何しましょうか」
「お前が火柱でも立ててくれれば、それを見て皆で山に向かう。その後は技術官殿に任せよう」
「はっ」
準備は整った。
最善では無いかも知れないが、これに掛けるしか無い。
術札の技術官は、一人、御杖代に向かい祝詞を奏上する。
火山輝霊の術を仕込んだ時の物を少し変えて、即時発動を願う内容だ。
本来、術はこのように神霊に祈って、その場で効果を求めるのが普通だった。
それを、長い年月、研究と実験を重ね、いつでも簡単に使える術札にしたのは、皇儀の技術官だ。
今、執り行われるこれは、新旧様々な技術が凝り込まれている。
初めての試みも含まれ、この結果はいつか新たな力になるかも知れない。
先ず、合図の火柱が上げられた。
それを見て、技術官は、力ある言葉の代わりに、神霊の名を呼んだ。
「火之山輝霊姫命っ!」
この神が祀られていた火山洞窟は産道を表し、その最奥は子宮を象徴する。
故に、湯山の神は女神であるとされていた。
若々しく活動的で、噴火は出産であり、火口は女陰でもある。
また、山体を乳房に見立て、溶岩を乳に見立てる。
乳は血であり霊でもある。
其は、溢れ出す霊威そのものだった。
幸永の指示を受け、一時攻撃を止めていた隠密たちも、小規模な攻撃を再開していた。
鬼はやはり、同じような反撃だけ送り返す。
接近戦になれば、三人一組で戦っても一方的に殺されるのでは無いかと警戒していたが、折角の多脚多腕を利用しようとすらしない。
多くの隠密が、この鬼の知能はかなり低いと判断していた。
それでも幸永は、こちらに切り札がある事を、鬼に悟られているのではないかと、今も考えている。
自分に向けられた鬼の視線が、全て見透かしている様な錯覚。
悩みは尽きない。
この期に及んで、自分の判断が正しいとの自信が持てなかった。
思えば、隠密として随分長く活動してきたが、自分が勝てないと確信した相手は、これが初めてであったかも知れない。
今まで、碌に物を考えないで、力任せに戦ってきた付けか。
それでもその時は来る。
ポッと上がった火柱を見て、幸永は叫んだ。
「全員、退避! 斜面を駆け上がれっ!」
その言葉に応えるように、全員が一斉に湯山に向かって走り出す。
全体を見回しながら、幸永は敢えて最後尾に付いた。
本来、指揮官が殿などする物では無いが、もし奴が自分たちに追い縋ってくるのなら、命を捨ててでも足止めするつもりだった。
だが、鬼は動かなかった。
地中から繋がる負気の綱が、足かせにでも成ったかのように。
いや、事実そうであったのかも知れない。
鬼の黒い顔は、ただ呆っとするように、幸永に向けられていた。
やはり違和感が残る。
鬼が本当に高い知能を持たないのか、何故こうなのか、幸永は最後まで判断する事が出来なかった。
ゴゴゴゴゴゴゴッ
その悩みや躊躇いを他所に、大地が鳴り始めた。
術札の時と違い、実際に大地が揺れ動いている。
ふと見れば、御杖代となった少女は長い髪を靡かせながら、フワリと浮かんで赤く光り輝いていた。




