第七十二話 誤認
鷹利は本通りの建物の上を、屋根伝いに走っていた。
上手は茶屋や温泉旅館の一階部分など、走り易い場所が多い反面、屋根と屋根が離れている所が多いのが難点だ。
だが、町中をノコノコと歩いていれば、流石に兵士か衛士に呼び止められる。
上ノ橋の方へ向かいながら、兵士たちの様子を窺ってみたが、現在は落ち着いているように見えた。
近づいてみれば、恐怖で震えている者もいるかも知れないが、少なくとも今は、静かに並んで周囲を警戒している。
念の為に、屋根の棟に隠れるようにして上ノ橋まで進み、そこで改めて顔を出して、辺りを探る。
瞬間、橋の上にいた校尉と目が合ってしまった。
あ、しくじった。
そう思うが時既に遅し。
まあ、隠密だろうと思っていただけるだろう。
現に、訝しげな表情で見られているが、声は掛けてこない。
絢音は校尉の傍に付いている筈だが、その姿は見えなかった。
烏の鬼も今のところ姿は見えない、声も聞こえない。
一旦頭を引っ込めて、考える。
布を取り寄せたならば、大規模な戦闘がある筈だ。
思えば、届けられたはずの布も見当たらないという事は、どこか別の場所で戦っているのだろうか。
だが、それらしい音も聞こえない。
鷹利はもう一度顔を出して校尉に軽く会釈し、町の北口へ向かった。
兎にも角にも、弁柄に状況を報告し、判断を仰ぐ事にする。
ひょっとすると、絢音もそちらに居るかも知れない。
町の北口は、街道に次ぐ激戦地と予想されていた。
しかし、辿り着いてみると、そこも静かな物だった。
柵が崩れ、地面が抉れ、放たれた矢と何かの死骸がそこかしこに散らばっており、それなりの戦いがあった様子は窺える。
だが、今は鬼の姿はまったく見えず、兵士もきちんと整列していた。
弁柄は、その隊列の後ろ、隊長の横辺りに立っていた。
鷹利の接近に気付いてか、チラリと振り返ると、隊長に小さく声を掛けてから駆け寄ってくる。
この辺りは小さな畑と小屋ぐらいしか無く、その小屋の屋根の上で落ち合った。
「どうした?」
連絡なら、文を飛ばすはずだ。
「ご報告とご連絡、それと判断していただきたい事が」
鷹利はまず、自分が把握している範囲の戦闘状況、兵士の被害を報告した。
そして、朱鷺の参戦。その上で、朱鷺と宗泰の二人でも防ぎきれない可能性。
祓いが追い付かないので丙丁も集めて欲しいと言う意見と、祓い札自体が既に少なくなっている事。
町人の避難が始まりそうである事。
そして、絢音が見当たらない事を報告し、弁柄の判断と対応を求める。
弁柄が先ず気に掛けたのは、絢音がいないという事だった。
町の隠密の主力は、現在、甲一乙三しか居ない。
鷹利や茜、忠好は丙種で、上級鬼に当てるのは難しく、ここで乙が一人抜けているのは好ましくない。
単純に、町中に直接鬼が現れた場合、兵士だけで対応する羽目になってしまう。
「門前に戦力を集中するにしても、ここを放置する訳にはいかん。私か絢音のどちらかが、町の北半分を受け持たねばならんだろう」
「ですね」
「こちらに来ていないのだから、裏山に入った可能性があると思うが、……何があったか」
「山の方を見て来ましょうか?」
「いや、いい。今は朱鷺の助言通り、できる限りの戦力を門前に集中しよう。私はここに留まりながら町の中にも意識を向けておく、どうしようも無いような状態になりそうなら、飛火を上げるからその都度援助を頼む」
「飛火は、赤壁亭からは見えますが、町の入り口からは見えませんよ」
「それは仕方が無い、茜の判断に頼ろう」
だが、祓い清めが追い付かない問題は、すぐに対応出来そうにない。
取り敢えず、動ける丙丁は門前に向かって貰うように、というのが弁柄の判断だった。
大地が大きく揺れ、神気を含んだ土塊が隆起した。
それが二カ所、負気の大渦を挟むようにして、取り囲む。
通常の地面はある程度負気を通すが、神気が含まれているそれは、内在する神気を相殺されない限り確実に分断出来るはずだ。
「中心部を狙え!」
今回持って来ている術札は通常戦闘用であって、多数の敵や非常に強力な鬼や術者を想定した、戦用の術の札は無い。
上級鬼でもある程度の損傷は与えられるが、特級鬼相手には微々たる物だろう。
打撃を与えるには、各隠密が持つ技が効率的か。
濃厚な液状の負気にも、強力な技を叩き込めば穴が穿てるのは確認済みだ。
幸永の指示により、数人が順番に技を叩き込んでいく。
人体術札であれば、分断した負気ぐらい一撃で吹き飛ばせるのに。
そう思いもしたが、先の場面で二つとも使わなければ、もっと状況は悪くなっていただろう。
寧ろ、あの場面で二体の人体術札があった事に感謝しなければならない。
雷火系の隠密により、渦の中心一点に集中した攻撃が繰り返される。
程なくして、黒い鬼が掘り起こされた。
「あれか」
残念ながら、研究所から降りて来た鬼であるかどうかは、現時点では判らない。
ただ、もしそうだとしても、二体だけでは無かったはずだ。
他にも隠れているか、いや、残りは東へ向かったとみるべきか。
引き剥がされる事で意思が届かなくなったのか、黒い鬼の姿が見えたとほぼ同時に、渦の回転が緩やかになり始めた。
液状の負気と渦を分断し、渦と鬼を分断する。
二重の分断により、鬼の回復は阻害出来るはずだ。
「豪炎地裂斬っ!」
幸永は半歩踏み込み、渦に向かって斬り掛かった。
巨大な豪炎の刃が負気を割り、大地を削りつつ鬼に迫る。
だがしかし、鬼が片手を薙ぎ払っただけで、それはあっさりと掻き消された。
「成る程、恐ろしいな」
言いながら、笑みを零す。
素人目にはまったく効果が無かったようにも見えるだろうが、技を打ち消すにはそれなりの負気を消耗する。
奴の力の使い方は、無駄が多いように見受けられた。
何の努力も無く、いきなり強い力を手に入れた者に有り勝ちな、単なる力任せだ。
運び屋をしながら、様々な国で鬼と戦ってきた隠密たちは、一目でそれを見抜いた。
彼らはまだ、鬼の攻撃手段を確認していない。
最初の計画通り、威力は弱いが近付く必要の無い投射系の技を順に放ちながら、鬼の反撃に備える。
主力が鬼に攻撃を加えている間にも、補佐の者は土塊の外の負気溜りに攻撃を加え、戦闘領域への負気の侵入を阻害する。
また、渦だった物、今は動きを止めた大きな環状の負気溜りも、強力な技が撃ち込まれ、徐々に削られていった。
一見すると、形勢有利。
だが、肝心の黒い鬼たちには傷一つ付いてはいない。
パンッと隠密の攻撃を手の甲で弾き、鬼が右手を振り上げる。
来るか?
戦いながらも、隠密たちは鬼の一挙手一投足に注目していた。
手の先に蟠った黒い靄、恐らく負気が、振り下ろされると同時に刃となって幸永に襲いかかる。
非常に見えづらい、普通の人間にはまず見えないような攻撃も、幸永にとっては何ら脅威では無かった。
飛来するそれを確実に目で捉えながら、ひょいと避ける。
弧を書いたような黒い負気の、刃に当たる部分が僅かに金属質になっていた事さえ、幸永は見て取った。
腕を振るう一瞬で、負気を金属化させた?
「一体、金性鬼っ!」
即座に自分の考えを言葉にする。
属性変化する鬼に相対する時、その属性が何であるかを把握するのは非常に重要な事だ。
周囲の隠密はその言葉を聞き、雷撃系はほぼ効かないと即座に判断する。
風雷を含む、木性は被克性。
生性の土性と自性の金性もあまり効果は無い。
克性は火、漏性は水。
幸永の一言を受け、それぞれが自らの判断で配置を換えた。
同時に、もう一体の鬼に注目が集まる。
その事に気付いてかどうか、そのもう一体が幸永に向かって駆け出した。
速い、が、遅い。
ズガァン!
真横から雷撃が撃ち込まれる。
それを歯牙にも掛けず一気に肉薄するが、待ち構えるように幸永が剣技を放った。
「烈火断っ!」
八相の構えから炎を纏った打ち下ろしを、鬼は左手で受け止める。
「紅蓮拳っ!」
動きが止まった一瞬に、脇から飛び込んだ隠密が同じく炎の拳を撃ち込んだが、これも片手で受け止めた。
刹那、鬼の背後に一人の隠密が躍り掛かり、巨大な剣を振り翳した。
「金剛地裂断っ!」
全長6尺、身長よりも大きな神気を帯びた剣が、鬼の背に振り下ろされる。
だがしかし、それも片手で受け止められた。
更にもう一本の腕が幸永の腹部に迫る。
「なっ!」
身を捩るようにして、辛うじて躱す。
神気を含んだ衣が、その爪で浅く切り裂かれた。
「何とっ!」
叫びながら、地で一回転して身を起こす。
改めて見れば、鬼はいつの間にか四腕に変わっていた。
「離れろっ!」
ほぼ直感で叫んだ幸永の指示に、攻撃を加えていた二人が素早く跳び下がる。
僅かに遅れて、鬼の爪が周囲を薙ぎ払った。
「六椀……」
更に二本の腕が、一瞬で生えた。
腕を斬り落とされた鬼が、戦闘中にそれを再生する事は間々ある。
だが、本来無かった腕が、しかも一瞬で生えてくるのは見た事が無い。
「成る程、特級か」
呟いた幸永に、再び鬼が襲いかかる。
ガッ!
今度は攻撃せず、ただ受けた。
二本は本来の腕。
あとの四本はその肩の後ろ、背中側から生えているようにも見える。
右手の一撃を受け止めた後、左の三本腕が振り上げられるのが見えた。
それに合わせるように、近場の隠密が踏み込み、斬り掛かる。
真横からと、やや後ろからの斬撃を、振り上げていた左腕で受け止めると、空いているはずの残り一本の腕も止まった。
やはり!
幸永は蹴りを放ちつつ跳び下がる。
それを視線で追っては来るが、足は棒立ちで動かない。
斬り結んでいる者に向かって右手を振り上げた所で、更に二人の隠密が斬り掛かった。
ほぼ全ての攻撃が六本の腕に防がれる。
反面、反撃にはそれが活かせていない。
片腕三本同時、または、元から有った両腕を同時には動かせるが、全ての腕を自在には使いこなせていないように見受けられた。
細かく動かせるのは、恐らく二本まで、振り下ろすような簡単な動作ですら、同じ側の腕でしか出来ていない。
ズドッ!
後から放たれた水の槍が鬼の背を打つ、が、刺さってはいない。
足下から木の根が這い上がるが、簡単に引き千切られた。
十人程度が交互に跳び掛かり、跳び下がり、仲間の行動を阻害しない程度の術や技が放たれる。
その向こう、依然、渦の在った場所に立ち続ける鬼は、隠密の攻撃を腕で受け止めつつ、負気の刃を放っていた。
そちらの方は遠距離戦となっていて、比較的高威力の技が使われている。
その余波で、回りの負気溜りも削られている様で、再び鬼の元に集まる事は出来ていない。
想定していたよりも遙かに簡単に、時間稼ぎと負気の漸減が出来ている。
余りにも、好都合すぎはしないだろうか?
相手が、鬼である自分に馴れていない、負気を使いこなせていないのだとしても。
落ち着いて、構えを崩さず再び鬼を観察する。
奥にいる一匹は金性鬼だと判断したが、黒い靄に覆われ、その身が金属化しているかどうかは判断出来ない。
手前の方に至っては、未だに属性の見当も付かない。
改めて考えると、そもそも肉体の大型化もしていないのはどういう事だろう。
そんな事は望まなかった?
そうだ、これがもし研究所の人間であるなら、強固な肉体や力より、知能を望む可能性が高い。
もし、研究所の人間で、あるなら……?
今、やっと違和感に気が付いた。
何故、技や術を使ってこないのか。
研究所に残っていた技術官であれば、神気の働きに関しては自分たちより理解が深いはず。
神気が負気に変わったとしても、それを利用し、物質や現象に変化させる事は簡単にできるだろう。
それが未だに、一体が小さな刃を生成する事しかしていない。
圧倒的な霊力差があるにも拘わらず、それを利用して戦おうとしないのは、霊力を理解していないからでは無いか。
これは、この二体の鬼は、技術官では無いかも知れない。
次々に襲いかかる隠密を振り払いつつ、鬼が再び幸永に目を向ける。
勿論、真っ暗な顔に目は無いが。
向かい合いながら、構えを正眼から八相に変え、幸永も間を詰める。
顔は見えない。
それでも、それが研究所の人間では無い事は、よくよく見れば判る。
何者だ!?
心で問い掛けつつ、一気に踏み込んだ。
「火龍閃っ!」
中段の突きを、鬼は左手で握って受け止める。
瞬間に、幸永は刀を捨てた。
「獄炎天舞っ!」
グッと握った両手と両足に、紅蓮の炎が宿る。
「はぁああああああぁっ!!」
一息に、炎の乱打が鬼に襲いかかった。
鬼は咄嗟に握った刀を捨てたが、遅い。
反撃する隙すら与えず、雨が打ち付けるように炎が叩き込まれた。
六本の腕で頭と胸は防いでいるが、その腕に、肩や脇腹に、幾つもの拳が打ち込まれ、下半身にも炎を纏った蹴りが入る。
「爆炎掌っ!」
掌に集めた神気を大地に叩き付け、鬼の足下で爆炎に変える。
土砂を巻き込み、炎を柱が噴き上がった。
それでも尚、鬼は小揺るぎすらしない。
スッと、姿勢を低くする、その右手に短刀が握られた。
どこから出した?
生成した、だとすると、こいつも金性。
地を這うような低い薙ぎ払いを、幸永は跳び上がる事無く、後ろに下がって避ける。
鬼は手を突き、更に斬り掛かってきた。
「はああっ!」
声を上げながら上空に跳び上がった隠密が、金属質の槍の様な物を打ち下ろす。
鬼はそれを軽く体を捻っただけで躱し、振り仰ぐ事無く、猶も幸永に迫る。
先ほどよりも早い。
その動きはまるで蜘蛛のようでもあった。
何人かの隠密が攻撃を加えようとしたが、鬼は器用に、奇妙に避けつつ、執拗に幸永の足を狙う。
明らかに罠。
迂闊に足を上げれば、斬り上げからの連続攻撃が来る。
相手の体勢を崩す事に特化したこの攻撃は、一部の者にとっては定番とも言えた。
幸永はそれを知っている。
この動き、草の者か。
ふと、麓の村で見かけた、目つきの鋭い男が脳裏に浮かんだ。




