第七話 烈火
清次は駆けていた。
速い、速い。
まったく疲れも感じない。
これほどの力が得られるなら、なるほど、人間などに価値は無い。
花梨の手を引き歩き出した清人は、意を決して問いかけた。
「えー、あの返事は、聞いてくれた?」
「うん」
「俺は、すごく嬉しかった。正直、花梨とは結婚できないと思ってたから」
薬師の三男坊。跡取りとして考えれば予備の予備であり、養子に出されるか、他に働きに出るか、長子の元で一生下働きとして過ごすか、それが一般的である。
自分の望む相手のところに婿に入れるのは、奇跡的幸運にも思えた。
花梨の手を、少し強く握りしめる。
「俺がんばるから、立派に跡を継いで、花梨を幸せにするから」
清人の熱のこもった言葉に、しかし花梨は応えない。
様子を伺うように、花梨の横顔を覗き込む。
まさか、花梨は喜んでくれて無かったのか、そんな不安が胸をよぎる。
しかし、花梨はただ、鋭い視線を前に向けていた。
「花梨?」
「うん」
「なにか、いる?」
花梨はちらりと、一瞬だけ清人を見る。
「芹菜さんが何か感じたみたいで、町の奥の方? を見たような気がして」
清人も正面、町の奥を見つめる。
川と道は緩やかに右に曲がっていて、奥の方は見えないが。
「見えるの?」
「今は、なにも」
花梨は森の木々や壁の数枚なら、透かして鬼を見つける事ができる。
厳密には鬼の負気を感じ取り、それを視覚として認識している。
だが、距離が離れると見えなくなるのだ。単純に認識できる距離だけならば、芹菜の嗅覚の方が遙かに長い。
奥に見える山の斜面や、たまに町並みの裏の山を探りつつ、二人はゆっくりと、大浦屋に向かった。
飴釜の主人がいないので詳細まで話し込まれる事は無く、その後、お互いの気持ちや考えを確認して、柘榴と清彦は席を立った。
「では、また」
そう言って照れ笑いをうかべ、大浦屋の店の方へ出る清彦を、柘榴も微笑みながら送り出した。
「あれ? 花梨ちゃんは?」
その言葉で、初めて妹がいない事に気付く。店内を見回しても、隠れている風もない。
「飴釜屋さんかな」
柘榴が予想を口にする。清人に会いに行っているのかもしれない。
「かもしれない。居たら、帰ってもらおうか」
「いえ、構いません。二人でゆっくりしてもらってください」
あの二人も話したい事があるだろう。たぶん、私たち以上に。
店先に出て清彦を見送る。
清彦はぺこりと頭を下げ、飴釜屋に入っていった。
空は青く、先ほどの雷鳴は気のせいではないかと思わせる。
山の天気は急変するが、今日は雨が降りそうには無い。
中に戻ると、奥から母か顔を覗かせた。
「あれ、花梨は?」
「出かけたようです」
視線を飴釜屋の方に走らせる。
「ああ。どうしようか。大部屋の方の用意をしたいんだけど」
「今日はだれか?」
大浦屋に来客は多い、宿泊する事もよくある。
「川崎さんのところがいらっしゃるので、人夫は十人くらい。川崎さんは客間に泊まってもらうから」
川崎屋は川を使った運び屋で、湯川の少し下流にある山津の町から、海までの間を下りは船に乗って、上りは岸から船を引っ張って荷物を運んでいる。
そして山津と湯川の間は牛に大八を引かせて往復する、湯川の物流を担う重要な人物である。
今日は御大もいらっしゃると言う事で、何かの商談があるのかもしれない。
食事は仕出しを頼むが、客間と大部屋、それと牛舎の用意が要る。
牛舎は片付いている、客間の掃除はできている。そう考えて柘榴は応える。
「では、私が行きますから、母さんはしばらく店をお願いします」
花梨たちには先ほど、ゆっくりしてもらって、と言付けたばかりだ、すぐに呼びに行くのは忍びない。
たすきを掛けながら店の裏手に回り、井戸で水を汲む。
それをタライに移して雑巾を放り込み、上がり口の外に置いておく。
次に座敷箒とハタキを片手に持って、渡り廊下の通用口から大部屋に入った。
窓を開けて、ハタキをかけて、と考えながら人夫用の玄関のつっかえ棒を外して、ガタガタと戸を開けた。
すると、先ほどは誰も居なかった中庭に、人が立っていた。
柘榴は目を見開く。
「清次……さん?」
それは、清次のようであり、そうでは無いようにも見えた。
上半身の着物をはだけ、茶色く汚れた肌が露出している。
胸から肩にかけての筋肉が張って不自然な逆三角形を形作り、腕がだらんと長く伸びていた。
更に、膝上まで捲りあげられた裾からは、妙に太くなった脚が見える。
そして、小さいが、その頭部からは確かに二本の角が伸びていた。
「柘榴。迎えに来た」
掠れてはいるが、確かに清次の声で、清次の顔で、それが喋りかけてきた。
「迎え?」
何の迎えだというのか。
清次は両手を広げながら、ゆっくりと近づいてくる。
「俺は鬼になったんだ。お前もなれる。一緒に行こう」
鬼に。
その言葉の通り、それは鬼になった清次だった。
「どうして」
どうして鬼になったのか。どうして迎えに来たのか。
訊きながら、一つの言葉が、やっと頭に届く。
「私も、鬼に?」
「そうだ、鬼は良いぞ。すごい力だ、何だってできる。それに、もうすぐみんな鬼になるんだ。そうすればみんな幸せになれる。柘榴も一緒に行こう」
興奮したように清次が叫ぶ。
しかし、柘榴にはその意味が判らない。
鬼は、人を襲い町を荒らす。
幼い頃、一緒に見たではないか。あの日、「逃げよう」と手を引いてくれたのは、清次ではなかったのか。
「どうして、鬼になったの?」
清次はもう、すぐ目の前まで来ていた。
怖くは無い、だが、言い知れない気持ち悪さが全身に絡みつく。
「鬼になればすごい力が手に入るんだ。本当に、何だってできるくらいに」
先ほどと同じような事を口走り、笑った口元から、牙が見えた。
「誰でも鬼になれるんだ、その方法がある。人間でいるなんて馬鹿らしいんだよ。さあ、行こう。俺と一緒にっ」
手を差し出すが、柘榴はそれを拒み、首を振る。
まるで予想外な事が起こったように、清次が叫んだ。
「どうしてっ!」
「私は、鬼になんかなりたくない」
「どうして……」
呆然としたように、つぶやく。
それは、断られるとは夢にも思っていなかったような反応だった。
「私は人として、人と生きていくの。家族と、清彦さんたちと一緒に」
先ほどまでの興奮とは裏腹に、清次は泣きそうな表情を見せた。
「ごめんね」
「……くっ」
清次は呻いて俯き、ギリリっと歯噛みする。
そして、バッと顔を上げると、激情のまま、柘榴の頬を叩いた。
町人町を抜け、大浦屋の前までついた。
ここまで鬼は見当たらない。もっと奥の方にいるのだろうか。
それとも、裏山に。
「どうしようか」
清人が町の奥を眺めながらつぶやく。
探しに行った方が良いのは間違いない。
「あ、店番」
大浦屋の店先を見て、花梨は自分が店番中だった事を思い出した。
「あっ、しまった、俺もだ」
二人は、顔を見合わせる。
「とりあえず、断りを入れてこよう」
「うん」
手を離し飴釜屋に駆け込む清人を見送って、花梨も大浦屋に入る。
店先には誰も居ない。
まだ奥で話し中なのだろうか。草履を履いたまま、上がり框に膝をつき中を覗き込む。
その時、ドタッと、何かが倒れるような音が聞こえた。
「母さん?」
返答は無い。
草履を脱いで、屋敷の方へと入る。誰も居ない。
音が聞こえたのは、右奥の客間の方か。
進もうとして、それに気が付いた。
何枚かの壁を隔てて、黒いもやが見える。
客間のもっと向こう、大部屋の辺りに大きな黒いもやが蟠っていた。
鬼だ。
花梨は声を飲み込み、辺りを窺う。
少なくとも、自分の見える範囲に鬼は一匹しか居ない。
清人を呼びに行くべきか。芹菜に知らせるべきか。
それよりも、家族が居ない事が気に掛かる。
大きく息を吸い、ふうっと吐く。
懐に収めた、芹菜に借りた青銅鏡を服の上からつかむと、足音を殺し、鬼に近づきすぎないように奥へと進む。
廊下の先から、ズルッズルッと何かを引きずるような音が聞こえ、大部屋へ向かう廊下の角から、不意に母が姿を現した。
「母さんっ」
思わず大声を出してしまう。
母は両肘をついて這うように進み、花梨の前で蹲った。
髪は乱れ、その背中から大量の血を流している。
「母さんっ、母さんっ!」
鬼が近くに居る事も忘れ、駆け寄ると声を掛けて肩を揺さぶった。
「花梨……」
わずかに顔を上げ、母が言葉を発する。
「逃げて……」
がくりと、糸が切れたように頭を垂れると、そのまま崩れ落ちた。
花梨には見える。
ゆっくりと、母の体から、その魂が抜け出してゆくのが。
花梨はどうする事もできず、ただ呆然と、その亡骸を抱きかかえていた。
そのまましばらく、何も考える事のできない時間が過ぎたが、ぽっと、灯がともるように思い出した。
父と、姉の事を。
顔を上げて鬼の居場所を探る。
最初の位置から動いていない。
母を手に掛けたのは、鬼で間違いない。では、父と姉はどこに居るのか。
心の奥で鳴り響く警鐘は、しかしどこか遠く、危機感を生じさせない。
母を横たえ、静かに歩き出す。
廊下には母の血の跡が続いていた。
その先、一間ほどの渡り廊下の向こうに、大部屋の戸が開け放たれている。
そこに、大きな血だまりがあり、倒れた父の脚が見えた。
まるで警戒などしていないように、まっすぐ父の元へ向かう。
大部屋に入ればすぐ左に、鬼がいるのが判る。
渡り廊下の上、通用口の前で立ち止まるが、すぐそこにいる父はピクリとも動かない。
壁の向こう、鬼もまったく動かない。
ただ、かすかに声が聞こえた。
「……柘榴」
鬼がその名を呼んだ。
弾かれたように、花梨は部屋へ飛び込み、中を確かめる。
すぐ右下に袈裟斬りに爪で切り裂かれ、苦悶の表情で絶命している父が、左に、姉と同じ服を着た、首の無い遺体が、仰向けに転がっていた。
呼吸が止まり、ぐらりと世界が大きく揺らぐ。
頭の中で何だか判らない音がガンガンと鳴り響き、吐き気がして口元を押さえる。
ふらつき、倒れそうになりながら、柱を掴んでなんとか留まった。それでも上下が逆さまになったような感覚は収まらない。
ぐるぐると回転する世界の中で、大部屋の上がり口に蹲る鬼を見る。
それは清次の顔をしていて、ボロボロと泣きながら、髪の長い人の頭部を、胸に抱きかかえていた。
「あっ……あああーっ!」
花梨の意思とは関係無く、言葉にならない言葉がほとばしる。
自分の鼓動とは別に、懐の鏡が、ドクンと脈打った。
「……花梨?」
呆然とした表情で、目の前の鬼が自分の名を呼んだ。
「わあーっ!」
花梨は叫ぶ。
それに合わせて懐から炎が湧き上がった。
ぼうっと音を立て懐を焼き尽くし、鏡が露出する。そのまま炎は花梨の体を駆け巡り、着物を焼き始めた。
しかし花梨はそれを気にも留めず、狂気の形相で赤熱する鏡を鷲掴みにする。
それは、光り輝く火の神霊。
花梨を中心に炎が渦を巻き、それに煽られるように、立ち上がった鬼が後ずさる。
花梨は、芹菜がやって見せたように、高々と右手を掲げた。
「火之……」
鏡を掴んだ花梨の右手が、光に呑まれる。
「……迦具土命ぉーっ!」
振り下ろした手から火球が放たれ、鬼の足下に叩き付けられた。
「がああーっ!」
爆風が広がり、炎に包まれた鬼が吹き飛ばされて、中庭に転がった。
膨れ上がった熱風は、まだ閉じられたままだった部屋の建具も吹き飛ばし、窓から炎が溢れ出す。
花梨から立ち上る炎の渦は、天井を舐め、畳に広がり、父と姉の遺骸を巻き込むが、しかし花梨はそれに気付かない。
呼吸ができないはずの烈火の中心で、花梨はただ泣き続けていた。




