第六十九話 撤退
風の吹く音はなんと例えるか。
一般的にはビュウビュウか、ヒュウヒュウか。
だが、今、湯川道を吹き抜ける風は、ゴウゴウとか、ドウドウという表現が近い。
そもそも、それを風と呼んでもよい物か。
音の根源は空気の流れでは無く、負気の流れだった。
夜の闇より深い黒い固まり。
西へと流れていった負気溜りとは違い、それは街道に沿って太く巨大な蛇のように伸びていた。
ただ、うねる事は無く、音の割にさして早くも無い。
精々、人が全力で走っている程度だ。
それが、延々と、ただ延々と南へ向かって流れていた。
偶に、ふわりと黒い靄が零れるように離れ、小さな負気溜りを作ったりするが、それに気付く人は居ない。
街道沿いの村々で、異変を感じた者はきつく戸を閉ざし、感じなかった者はまだ眠りの中だ。
彼らが避けられない現実に向き合うのは、日が昇り始めてからになる。
「あの女とは、知り合いなのか?」
「まさか」
町の中に戻った衛士長に対して、隊長が問い掛けたが、軽く笑って流された。
「親しげに話していたようだが」
「話していた内容は、あまり良い物ではありませんけどね」
口元は笑ってみせるが、目は真剣だった。
「あの方たちでも防ぎきれない可能性があるので、町の人を避難させるように、との事です。私は郷司様のところへ行って参りますので、暫くここをお願いします」
何か言おうとした隊長を片手で制し、衛士長は番所の方へ向かっていった。
尤も、隊長も何か聞こうとした訳では無い。
口は開き掛けたが、そもそも言葉は出なかった。
あの方たちでも防ぎきれないという、その意味が解らない。
解りたくない。
鬼も異常に強いが、あの皇儀隠密を名乗る術者はそれを上回る力を持っている。
それでもなお、勝てない相手がいると言うのだろうか。
いくら何でも、それは有り得ない。
そう、思いたかった。
呆然と見送る隊長と兵士たちに背を向けて、衛士長は怪我人を看ていた鷹利に声を掛け、番所へ入っていった。
一人、唄太だけは、あの人も隠密だろうかと推測していた。
衛士長も、治療に当たっていた人も。
案外、隠れた術者というのは多いのかも知れないと、思いを巡らせる。
兵士と違い、体を鍛える必要の無い術者は、日常的には普通の生活を送っているのでは無いだろうか。
そして、非常時において本来の力を行使する。
それが、隠密、なのだろうか、と。
部屋の中には清彦がいる。
聞かれたくはなかったので、和歌子のいる竈の傍で、簡単に時子からの言葉を伝えた。
「姉さんでも、厳しいか」
「その可能性も有る、という事みたいだが、……いや、あの感じだと、そうである事を認めたくない、という所か」
衛士長は時子の態度を思い出しながら、自分の感じたままを言った。
「何となく解る。それで、どうします?」
「手遅れになる前に、逃がす段取りだけはしとかなくちゃ成らんだろ? 郷司様と相談してくる。お前たちは丙丁を集めてくれ」
今のところ、怪我人の治療は一段落している。
これ以上、新たな被害が出ない限り、患者が増える事も無い。
鷹利は暫し考え、後を和歌子と清彦に任せる事にした。
「乙の二人には、合図を送ったが来て貰えなかったらしい。気付かなかったのか来られなかったのか、一応確認してくれ」
「了解した」
紙屋の二人は赤壁亭で札作りをしながら、今回の配置等については一通り聞いている。
それを思い浮かべて、一番奥の弁柄には、町の入り口からの合図は見えないだろうと考えた。
もう一人は、絢音。
梟の鬼と戦った事までは把握しているが、その後は判らない。
先ずは、赤壁亭の茜に声を掛けるべきだな。
そう決めて、鷹利は一人頷く。
「そうそう、そこの隊長連中が何か聞いてくるかも知れないが、適当に誤魔化しといてくれ」
「あー……」
皇儀の関係と疑われるか。
それも仕方なし、いざとなったら、別の国に移る事になるだろう。
ただ、自分たちは良いが、飴釜屋はそうはいかない。
姉さんも、顔くらい隠していけば良いのに。
いや、寧ろ、自分たちが覆面ぐらい用意すべきだったのだろう。
引退して十年以上経つ彼女を、半ば無理矢理前線に立たせているのだ。
反省と後悔、それだけでは無い何かが心に伸し掛かる。
それを振り払うように首を振り、鷹利は草履を履いて表へ向かった。
「郷司様」
郷司の陣に着くと同時に、衛士長は声を掛けた。
取り次ぎも挟んでいない。
「ああ、衛士長殿。何かあったか」
身分的には衛士長の方がかなり下だが、郷司は常々「殿」を付けて呼んでいる。
自分の管轄外である事を、互いに認識する為だ。
衛士長はその場から、確認するように町の門前を振り返り、改めて話し始めた。
「先ほど新たな隠密が二人続けて現れ、先の一人と力を合わせて大鬼を退治なされました」
「うむ、ここからでも少し見えた」
どのような人物であるかまでは判らないが、鬼を倒す為の術と技は目に付いた。
目に焼き付いてさえいる気がする。
「それで、兵は下げたようだな」
足止めにすら成らない、寧ろ足手纏いであったのだろう。
「はい。あれ程となると、皇儀の者だけの方がやり易いのでしょう。隠密の方から下がるようにとの助言があったようです」
「ふむ……」
軍毅としては、良い判断をしてくれたと思う。
しかし、そんな事を報告する為に、わざわざ衛士長本人が来た訳では無いだろう。
郷司は改めて問い掛けた。
「それで、他に何かあったか」
「はっ」
衛士長は恭しく頭を下げ、少し間を置いて、言葉を続けた。
「あの場にいた一番強い隠密の言ですが、この先にいるのは、あんなに弱くない、と」
「……なんと?」
思わず聞き返した。
あんなに、とは、何だ?
「先ほど倒した鬼、あれは弱い部類で、この後にはより強い鬼か、若しくは、あの程度であるならば、複数匹が現れるであろうとの事です」
「……」
郷司は言葉も無く、ただ忠好に視線を送る。
その忠好は睨むように衛士長を見つめていた。
「そこで、その鬼たちが町に現れた場合、かの皇儀隠密の力を以てしても防ぎきれない可能性があり、出来るのならば、今の内に町人の避難を始めて欲しいと申しつかってまいりました」
「……」
やはり、郷司は即答出来ずに、目で忠好に問い掛けた。
これは、如何に判断すべきか、と。
「あれは、あのお方ですね」
忠好は重く言葉を吐いた。
「はい。あの方です」
あの方が誰であるのか、郷司には判らなかったが、二人の会話からして、「一人で上級鬼を倒せる一番の使い手」以外の、より力の強い存在なのだろうと推測出来た。
それと、衛士長もまた隠密に通じているらしい。
「……」
忠好も視線を落とし、言葉に迷った。
だが、判断する事はもう決まっていたのだろう、他は選べない。
「急ぎ、町人を逃がす手配を致しましょう。町の入り口で戦いが始まりますと、山津へ向かうのは非常に困難になる物と存じます」
「解った」
夜明けまで守り切れば、順次助けが来るという話だった。
だから守りに徹していたのだが、状況は、思っていたよりもかなり悪いらしい。
「どう動くか……」
普通の宿場町は街道に沿って出来ている、北から攻められれば、そこを守りつつ南に逃がせば良い。
だが、この湯川の町はその特殊な形状に依り、守るには良いが、いざ撤退しようと考えると困難を要する。
人間相手の戦であれば、町の奥、郷司の館や神社、場合によっては温泉旅館に立て籠もったり、北口から出て街道から大きく離れた村に逃げる手もある。
しかし、今、北口には鬼が出るし、立て籠もるが良策では無いとするなら、逃げ道は街道しか無い。
あの、さして広くない小街道に、一度に大人数を逃がすのは難しい。
判断を誤れば、瞬く間に混乱を招くだろう。
「誰か、主政を呼んでこい」
臆病な彼が、この非常時によい判断をしてくれるだろうか?
一抹の不安はあるが、他に適任者はいなかった。
闇夜に黒い影が飛び上がり、自分たちの方へと向かってくるのが見えた。
「もう来たか」
一人残ってくださった最年長の神祇官の姿は、既に見えない。
覚悟を決めて立ち止まると、合わせるように二人がその横に並んだ。
「二匹に増えているな」
「ああ、まだ増えるかもしれん」
嫌な予測ではあるが、より悪い可能性を考えて対処しなければならない。
そう思えば、なるべくこちらの数は減らさない方が良いのだろう。
「大技を放って、様子を見ながら逃げよう。あくまで、運び屋と合流するまでの時間稼ぎだ」
「応よ」
応えて、それぞれが神気を集中させる。
皆、武器も防具も持ち合わせていない。
力はあっても、本来は戦闘要員では無いのだ。
「行けっ! 火炎翔!」
翼だけの火の鳥が羽ばたき、着地しようとしていた鬼に襲いかかる。
ゴウッと炎が渦巻くが、期待していた爆発は起こらずに消え去った。
「風刃乱舞っ!」
続けて、目には見えない風の刃が斬り付ける。
しかしこれも、当たってはいるが、傷を与える事は出来ていない。
鬼たちは再び飛び上がり、一気に距離を詰めてくる。
「雷電旋風陣っ!」
次に放たれたのは雷を含む巨大な竜巻。
猛烈は勢いで鬼に向かっていったそれは、二匹を纏めて飲み込んだ。
「下がるぞっ!」
鬼は自分たちのすぐ前に降りてくる。
そう判断して一斉に下がった。
勿論、鬼の方が早いので、何の道、次の一歩で追い付かれる。
だが、竜巻を打ち消した鬼は、予想よりも遠い位置に着地した。
「む? そうか、打撃じゃなくて、動きを阻害するのか」
「なに?」
「足止めだよ! 着地する時なら当たるが、足止めには成らんだろ。跳び上がっている時に押し留める攻撃をすれば良いんだ」
「成る程」
鬼は三度地を蹴った。
今回は確実に自分たちを捉えている。
「対空礫石陣」
単純明快な技名通り、神気が通った石や礫が大量に飛び出し、鬼たちに打ち付ける。
「爆炎!」
更に放たれた術が、鬼たちの手前で爆発する。
案の定、鬼はそのままの位置で真下に降りた。
「よしっ! 行ける!」
そう思ったのも束の間。
地に着いた鬼は、真っ直ぐ顔を上げると、神祇官たち向かって走り出した。
「!! 岩壁!」
気付いた一人が即座に術を放った。
札が地面に触れると同時に、突然、巨大な岩が飛び出し、鬼との間を遮る。
ゴカッ!
大金槌でも打ち砕くのは難しいそれは、しかし、一瞬で砕け散る。
その一瞬の間に、神祇官たちは三方に跳び退いていた。
それぞれに、時間稼ぎはこれまでかと覚悟を決める。
「八十火矢っ! 連爆っ! 煌輪斬っ!」
手持ちの術札を立て続けに放つ者。
「呑天大地顎っ!」
「天雷方陣っ!」
全ての霊力を注ぎ込み、自らの技を叩き込む者。
強大な神気が渦巻き、大地が波打ち、轟音が大気を揺らした。
上級鬼二匹であれば、これで終わっていたであろう。
襲いかかる大地の牙を蹴散らし、炎や雷をその身に受けながら、鬼は神祇官たちに襲いかかった。
足止めに残った者以外は、そのまま東を目指して進んでいた。
防ぐとか避けるとかの訓練を積んでいない神祇官にとっては、力の強い鬼と接近戦を行うのは自殺行為に近い。
一撃で倒す事が出来ても、一撃受けると死ぬ可能性が高いからだ。
そして、今現在、自分たちを追いかけている鬼は、一撃では倒せないほどに強い。
前衛で攻防を受け持ってくれる人間がいてこそ、彼らの真価は発揮される。
視線を前に向ければ、運び屋たちだと思われる戦火が見える。
反面、背後を振り向けば、残って鬼と戦ってくれている神祇官は、それ程離れていない。
このままでは、合流は間に合わないだろう。
先導していた運び屋は、次は自分が残るべきか、いっその事、全員で残って最大の攻撃を叩き込むか、そう考えていた。
恐らく、総掛かりなら倒せない事は無い。
ただ、こちらもそれ相応の損害を受け、負気溜りの清めが難しくなるだろう。
それでも、ジリジリと減らされるより増し、か。
ギリッと歯噛みして振り返る。
足止めをしていた神祇官たちの攻撃が止まった。
止むを得ん。
「私が楯になるっ! 全員、最大威力の術と技を放ってくれっ!」
突然の発言に驚きの表情を見せる神祇官たちを背に庇い、刀を抜く。
槍を持ってくるべきだったか。
否、これ程の敵が相手であれば、得物の差など大した意味は無い。
「もっと下がれっ!」
言いながら刀に神気を集中する。
恐らく、一撃が勝負。
最初の、最大の攻撃で倒しきれなければ、こちらに死者が出るのは確実だ。
そして、一人目の犠牲者は自分だろう。
何故か、ニヤリと笑みが零れた。
兎にも角にも、先ず、敵の足を止める。
間合いに入った瞬間に斬り掛かろうと構えた、その視線の先に、黒い靄を放つ影が、二つ見えた。
二匹!?
ブワッと汗が溢れ出るのを感じた。
大地を駆けてくる黒い鬼は、確かに二匹。
一匹だけだと思い込んでいた事に、今やっと気が付いた。
しかし、もうどうしようも無い。
「おおおっ! 獄炎斬っ!」
裂帛の気合いと共に地を蹴り、刃を返して斬り上げる。
ガッ!
極高温の炎を纏った刃を、鬼は片手で受け止めた。
「むんっ!」
ズブリと、その掌に刃がめり込み、鬼の腕が炎に包まれる。
ほぼ同時に、背後で神気が沸き立つのを感じた。
それを受けて、無理に斬り込まずに刀を振り抜き、大きく跳び下がる。
神祇官たちの攻撃が来るはずだ。
しかし、彼が止める事が出来たのは、当然ながら一匹だけだった。
もう一匹はどうなった?
神祇官たちはどうなっている?
不安に苛まれながら、それでも振り返る余地は無かった。




