第六十一話 静寂
進行方向のやや左手に、強い光が見えた。
見間違うはずも無い、天火明の術だ。
「始まったか……」
技術官と神祇官は、湯山の西山麓を南下し、少しずつ下りながら山を回り込んでいた。
山に馴れていない彼らにとっては、今どの辺りにいるのかさえよく判らない。
光は、現在進んでいる山体の向こう、そう遠く無い位置から発せられたように見えた。
「もう近いのか?」
先頭を歩く男に問い掛ける。
「そうですね」
直線距離なら、もう半里も無い。
自分一人なら四半刻も掛からないだろう。
だが、引き連れている研究所の人間は、普段山を歩き馴れていない。
ただ歩いているだけで、疲労しているのが見て取れる。
「……少し、足を速めましょうか」
「ああ、任せる」
敵がどの程度か判らない。
小鬼なら何万いても負けはしないだろうが、上級鬼や、もしかすると特級鬼が複数顕れる可能性も有る。
焦る気持ちを落ち着かせ、前方を窺いながら歩を早めた。
数匹の鬼を倒して、幸永は気が付いた。
鬼の中に、研究所の人間がいない。
そして、強さは上級鬼程度だった。
こいつらは、麓の村の住人?
負気の流れに巻き込まれて鬼に成ったのか。
最初から負気溜りの下にいたのは、この鬼たちなのだろう。
だとしたら、研究所から降りて来た鬼は、この中に存在しない。
やはり、負気に紛れて逃げた鬼が居るはずだ。
「後を頼むっ!」
こちらは粗方片が付いた。
幸永は村の中央と、反対側を眺めてみる。
思った通り、反対側、もう一組が追いかけていった方も、強い鬼がいるようには見えない。
中央にいる鬼は、判断力が無いのか、力を失っているのか、まだその場に留まっていた。
先に、真ん中の連中を始末するか。
駆け出しながら、考える。
元々封じ込められていた負気の総量が判らない上に、人体術札でどの程度減らせたかも判らない。
全ては自分の感覚による判断なのだが、それでも、負気溜りにいた鬼が、弱すぎる。
本来、上級鬼はかなり強い鬼であり、滅多に出る事はない。
だが、この場に顕れる鬼としては、弱すぎるのだ。
負気溜りの、本体と言うべきは、何処だ?
それが意思を持っているのなら、核となる存在がどこかにいるのでは無いか?
負気は東西に別れて逃げた。
自分の予想が正しいのなら、それぞれに一体ずつ、強力な鬼がいてもおかしくは無い。
若しくは、鬼の形で存在する必要すら無く、液状化した負気そのものが鬼なのか。
疑問は尽きない。
そもそも、幸永は研究者でも学者でも無いのだ。
本業は、鬼討ち。
「紅蓮炎獄陣っ!」
残った鬼は三匹。
体に炎を纏ってその中央に飛び込むと、爆発するように球状の陣を作り出す。
ズドォォオォッ!
中級鬼なら一瞬で焼き尽くす炎の中で、まだ三匹は動いている。
球形の炎陣はそのままに、幸永は鬼を切り刻み、焼き祓っていった。
飴釜屋に運び込まれた負傷者は、予想よりも少なかった。
それもそのはずで、街道に出没した猪鬼による負傷者は、そのまま門外に並べられていた。
あまりに多く、運ぶ余力すら無かったのだ。
騒ぎを聞きつけ、起き出してくれた近所の方々に荷物を運んで貰い、清次と清人を大浦屋に預けて、時子は清彦と共に町の入り口の番所へ向かった。
そこを仮の診療所として、治療する他無い。
状況は悪かった。
基本的に開腹手術は行われない。
つまり、内臓が破損すると、手の施しようが無い。
麻酔薬を清彦に任せて、時子は骨折と打撲の治療に専念する。
逆に、こちらは大したことが無い者が多い。
勿論、重傷者もいるのだが、命に関わるような怪我では無い。
現状、助かる見込みの無い者と、放って置いても死にはしない者に別れている。
努力しても助かる人数が増えないのは、精神的に宜しくない。
特に、今はまだ意識があるのに、やがて苦しみながら気を失っていく兵士たちは、見ているだけで辛くなる。
清彦は半泣きになりながら、麻酔薬を飲ませ、声を掛け、手を握ってあげている。
そのように教え、育てたのだ。
非常に良くやっている、にも拘わらず、なんの成果も得られない。
意識を無くした兵士は、やがて、一人、二人と息を引き取っていった。
右翼の軍は、ほぼ壊滅だった。
死者は、見た目ほど多くは無かったが、負傷者が多く、戦闘継続は難しい。
更に、校尉も重傷を負い、現場を離れた。
必然的に、最も損害の少なかった隊に残存兵力を統合し、一隊として再編された。
三隊で防衛して壊滅した場所を、通常よりは多いとは言え、一隊で守らなければならない。
特に、壊滅した隊から編成された兵士は、極端に士気が低くなっていた。
柵が修復され、楯が並べられても、それが役に立つとは誰も思っていない。
坂の上に見張りを置くべきなのだが、配置かれた兵士は死んでしまうのではないかとの意見が出て、隊長は全隊を坂の下に配した。
隊長と雑務担当の一組と唄太の組、そして山吹色の隠密が、その脇、門の前で隊を横から見るような形で並んでいる。
本隊で鬼を受け止め、側面から攻撃する手筈だった。
青銅の槍を持った唄太も、鬼に対する有効な攻撃手段として認められたのだ。
一部の兵士が羨ましそうにそちらを見ていた。
陣形が整い、先ほどとは打って変わった緊張感で鬼を待ち構えたが、次は中々現れなかった。
「空を飛べる鬼と、足が速く、且つ走り続けた鬼が真っ先に到達したのだろう」
赤壁亭、二階の屋根の上で町を見渡しながら、宗泰は説明するように言った。
「すると、次は?」
三階の部屋の中から、茜が問い掛ける。
「判らん。飛べる鬼は他にも出るだろうし、足が早いだけなら猪よりも早い奴はいるだろう。ただ、そいつらがこちらに来るとは限らんだろう?」
鬼が全て、山を越えて湯川の町に来る訳ではない。
「寧ろ、湯川道沿いの村が心配だな」
それらの村々には隠密は配置されていない。
勿論、兵士もだ。
運び屋の隠密たちは、途中で留まる事無く、負気の発生源へ向かったはずだ。
小さな村が鬼に襲われれば、一溜まりも無いだろう。
宗泰は普段から付き合いのあった、街道沿いに暮らす人々を思い出し、胸が苦しくなった。
だが、そちらに向かう訳には行かない。
甲種隠密は、切り札だ。
強力な鬼が湯川に襲いかかった時、宗泰が必要となる。
少数を助けるため、多数を見捨てる事など出来はしない。
俯き、どうか逃げてくれと願う。
あの大猪が走り抜けたのだ、異変には気付いただろう。
どうか、今の内に、一人でも多く逃げ出してくれと、願うばかりだった。
「来んな」
各隊の報告が届き、急ぎ被害状況の確認、部隊再編が行われ、郷司も次に備えて待ち構えていた。
しかし、予想を裏切るように、町は静寂に包まれていた。
衛士も人員を町に配してくれて、町人と、湯治客に事態の説明と、建物内での待機を申し送ってくれた。
静寂が訪れた事で、混乱が発生しなかったとも言える。
殆どの者が、更に鬼が現れるとは思っていないのだろう。
このまま、朝を迎えてくれれば、湯治客や女子供は山津へ逃がす事が出来る。
「父上っ!」
唯一、落ち着き無く表へ飛び出してきた連中が、その代表である郷司の息子が、声を掛けてきた。
「更に鬼が出る可能性があると聞きましたぞっ、何故お逃げにならない!?」
「軍毅が逃げて、軍が動くか?」
郷司は大領と軍毅を兼任する。
文官であり、武官なのだ。
「郷を司るからこその郷司。郷を捨てて逃げ、何の郷司か?」
そう言われ、男は露骨に顔を顰めた。
兵衛として朝廷に仕えた兄と違い、この次男はずっと郷勤めの文官で、主政を務めている。
立場上、戦には出ていない。
物品の調達や、補給、運搬において高い能力を発揮したが、戦線が近付くと取り乱し、役に立たないのだ。
後ろに並んだその部下たちも、大体が似たり寄ったりである。
現在、郷は、武官派の長男と、文官派の次男に別れていた。
武官は自分の身も守れない臆病者と嗤い、文官は自分たちが用意してやらないと戦う事も出来ないくせにと陰口をたたく。
無論、文武両官が揃っているからこそ、郷が成り立っているのは、皆が理解している。
その上で、自分たちの方が重要な役目を担っているのだという自負が、反発を生んでいた。
今、主政が郷司に逃げるよう促したのは、郷司が逃げなければ、自分も逃げる事が出来ないからであろう。
そして、上官が逃げなければ逃げる事が出来ないのは、後ろに控える文官たちも同じだ。
彼らは決して馬鹿では無い、それくらいの分別はある。
事務官であるからこそ、逆にそういう事には拘るものだ。
「夜が明ければ順次、町民と湯治客を逃がす。お前たちはそれと共に山津へと向かい、向こうで仮庁舎を立ててくれ」
郷の政務は執り行わなければならない。
国司や近隣の郷との遣り取り、村々の管理、国からの援軍に対応し、兵糧の確保や運搬、また、それらのための金策にも動く必要がある。
彼はそちら向きの人間だ。
適材適所、臆病者に変わりは無いが、郷司は彼の働きに期待していた。
「鬼が来る旨は伝えておいたであろうに、何故、わざわざこんな所まで出てきた」
「き……危険でありましょう?」
「この場所の方が危険だぞ」
そう言いながら、対岸に見えた猪鬼との戦いを思い出す。
あの鬼は川を突っ切り、最初に陣を構えていた軍の広場近くの岸にぶつかった。
下手をすれば、自分たちがあれの相手をしなくてはならなかっただろう。
郷司は忠好をチラリと見て問い掛ける。
「あれは、どうだ。あの猪鬼はそなた一人で倒せたか?」
「はっ、あの程度でありますれば」
その言葉に文官たちは驚きの表情を見せるが、それよりも、同じくこの場で猪鬼を見ていた兵士たちは、目が飛び出るほど丸くして、思わず口を開く。
声を発しなかった事を、偉いと褒めるべきだ。
あの化け物を「あの程度」と言ってしまう事も驚きだが、ずっと傍で立ち聞きしていた者たちは、忠好では勝てない鬼がいるのだと知っている。
その意味をしみじみと噛み締め、言葉にする事無く、それぞれ理解する。
より強い、より恐ろしい鬼が来るのだ、と。
そんな事とは露知らず、主政は忠好を見ながら言葉を続ける。
「この男、それ程腕が立つのですか?」
忠好は主帳。つまりは文官の一人である。
鬼より強いなどとは聞いた事が無かった。
「儂も見た事は無い。だが、偽りでありましたとは言わんだろう」
「恐れ入ります」
恭しく頭を下げた忠好に、胡乱な目が向けられる。
「それ程強いのであれば、何故こんな所にいる。前に出て戦えば良いではないか」
「恐れ入ります」
そうすべきであろうと訴える主政に、先ほどと同じ、曖昧な応えが繰り返された。
僅かに苛つきを見せた息子に気付き、郷司は忠好に声を掛ける。
「教えてやれ。忠好。そういう判断も知っておくべきだ」
「はっ」
一礼した忠好に対し、主政は更に苛立ちを重ねたように見える。
「力の強い鬼は、高い知能を持つ場合がございます。故に、強い鬼は郷司様を狙い、ここを襲う可能性が高うございます」
「何だとっ!」
その説明に、明らかに動揺が走る。
主政は、父の元、本陣こそが一番安全と思いここに来たに違いない。
「また、中程度の強さの鬼にこちらの主力を当てた場合、その隙により強い鬼が現れると対処が出来ません。よって、私はこの場から動く事が出来ず、こちらの主力も待機させてございます」
わたわたと、動揺しているを体現していた主政が、ピタリと止まる。
「主力? この軍勢以外の、何かがあるのか」
「はっ。私よりも強い人間もおります故」
「な、なら、その者たちにここを守らせれば良かろう!?」
話を聞いてなかったのか、などとは言えない。
同じ説明を、言い方を変えて繰り返す。
「そちらはより強い鬼が現れた時に差し向ける為にございます。本当に強い鬼には人の力では太刀打ち出来ません。兵の百や二百は一瞬で殺されてしまいます」
「は? 何を言っとるんだ貴様は」
人が対処する話をしていたのでは無いのか。
「そういう鬼が、来ると申し上げているのです。その為に、戦力を配置し、また温存しているのでございます」
「は……馬鹿な事を」
そう言いながら父の姿に目を向ける。
郷司は至って真面目な、寧ろ、厳しい視線で見つめ返した。
少なくとも、忠好の言葉に疑いを持っている風では無い。
「そ……そんな恐ろしい鬼が、湯川に?」
有り得ない。
有り得ないと思いたい。
呆然とする主政に、郷司は改めて言葉を掛けた。
「郷司として命ずる。朝を待って山津に移動し、主帳たちと共に仮庁舎を構えよ。国司様への援軍依頼は既に出しておる。先ずは、湯川からの避難民の受け入れ体制を整えねばならんだろう。よろしく頼む」
「は……。う、承りました」
未だに信じられない。
主政たちは鬼と思しき奇声は聞いたが、鬼その物は見ていなかった。
だからこそ余計に、兵の百や二百は一瞬で殺せる鬼と言われても、納得できようはずも無い。
それでも、郷司からの命令が下ったのなら、それに従うのが使命である。
即座に、山津の町で仮庁舎に使える館を思い浮かべ、避難民の受け入れに必要な物を考え始める。
場所、資材、食料、そして金。
思案を巡らす主政を見て、郷司は頷いた。
「よろしく頼む。とりあえず今は、そこの兵舎にでも下がっておれ」
先に言った通り、この場所は鬼の攻撃を受けかねない。
その時、忠好は郷司を守れたとしても、主政たちまでは守り切れない可能性がある。
彼らを失えば、今後の郷の運営が立ち行かなくなるのは間違い無い。
安全の確保と、優先的な避難こそが後々の為になる。
文官たちは怯えながらも揃って一礼し、下がっていった。
「すまんな」
前を向いたまま、郷司はボソリと呟くように言った。
「いえ。彼らが蛮勇では無い事に、感謝致します」
文官に「我らも共に戦う」と言い出されたら、非常に迷惑だ。
「そうか」
言葉少なに応え、郷司は僅かに笑って見せた。
赤い隠密は、校尉に付くように移動していた。
守っているのだとは、誰も気が付いていない。
町人橋で梟鬼と戦った後、怪我人は薬師の元に運ばれ、死者は一時的に兵舎へ納めることとなった。
念の為にと隠密が遺体を清めてくれたので、亡者になることは無いらしい。
「続けざまに襲いかかってくるかと思っていたが、そうでも無いのか」
校尉は誰へとも無く呟いた。
それに隠密が答える。
「獣鬼はどのように動くのか予想が付きません。先の梟のように山を跳び越え、直接町に来るのは例外でしょう」
「ほう。では?」
「鬼に成る前から移動範囲が広い獣、特に足の速い物。それと、やはり鳥の類いが次に来ると思います」
「成る程な」
言われても、しかし対処が思い付く訳では無い。
そうであるとして、だからどうすれば良いかが、校尉は判断出来ずにいた。
「このまま、この配置で待ち構えてよいのか?」
女ではあるが、鬼に関しては自分より詳しい筈だ。
率直に意見を求めた。
少しでも、良い対策を立てたい。
「……単純に湯山山麓で発生した鬼が、全てこちらに向かってきている訳ではありません」
「そうなのか?」
てっきり、鬼は町を襲うものだと思い込んでいた。
「先ほど申し上げました通り、人の鬼はともかく、獣鬼は町を目指すと言うより、餌として人を見つけたか、走りやすい街道に出て町に行き当たったかでしょう」
「では、ここよりも、街道に兵を配した方が良いか」
現在、二人が話をしているのは上手橋の袂。町の奥に近い。
「いえ、ある程度均等に配置した方が宜しいと思います。我々の予想では、一番多いのが街道、次に多いのがここの北口です」
「北口?」
そこにも一隊を配置しているが、特に何がある訳でも無い場所だ。
「山を越えてきて川に行き当たった鬼が、道なりに来るからですよ」
「ふむ、そうか」
「その他、南に向かってきて、且つ、川にも街道にも出なかったものが、直接、町の裏山に出ると予想されたので、このような配置になっています」
と、言う事は。
「この配置は、皇儀の進言による物か」
「はい」
何のことは無い、父は皇儀の隠密に通じている。
「それは、答えて良かったのか」
「良いんじゃ無いでしょうか。特に問題無いと思います。それより、配置に納得していただく方が大事です」
迂闊に全軍を門前に配されると、他の所が襲われても対処出来ない。
「相解った。他に、気を付けるべき事、今のうち出来る事はあるか?」
「さて、どうでしょう。長丁場になりそうなので、気を張りすぎないように……、いや、無理ですね」
「ああ、流石にそれは難しい」
あの鬼を見た後だ。次が来ると教えられて、気を張りすぎるなと言うのは無茶がある。
「いえ、そうでは無く。……この声、次が来たかも知れません」
「!? 声?」
そう言われても、校尉の耳には何も聞こえない。
隠密が東の空を眺めた。
釣られて目を向けるが、そちらから来たという訳では無いらしい。
「少し、空が白んできましたね。烏が動き出す時間です」
郷司の長官が大領、次官が少領。
その次が主政で、一番下が主帳。
主政、主帳は複数人いる。
国軍の内、軍の指揮官が軍毅。
作中にある通り、軍毅の下で四隊、兵200と指揮するのが校尉。
一隊、50人を指揮するのが隊長。
一組、5人を指揮するのが伍長。
伍長のみ、自分を含めて5人。
通常は、名前では無く、役職で呼ばれている。




