第六話 遠雷
皇の字は止ん事無い辺り、皇帝をさす。
皇儀とはそのお手元、本来は朝廷(閣僚会議)をさす。
そして皇帝直属の少数の近衛を、左近、右近と区別して、皇儀の近衛と呼ぶ事がある。
表向きの組織はこの二つだけで、一般的には勅令や朝廷からの命令、法律を「皇儀からの」と表現する。
皇儀の隠密など、存在していない。
もちろん、存在していたとしても、存在していないと答えるのが、隠密である。
「仕事柄って、流れの薬売り、ですか」
旅の薬師は様々な人に出会う。そんな人にとっては見鬼というのも珍しくないのかもしれない。
しかし芹菜は、清人の表情を窺うように、悪戯気に微笑む。
「そう思う?」
判らない。
いや、その質問が返ってくるという事は、違うのだろう。
「鬼退治も仕事ですか」
芹菜は嬉しそうに目を細めると、顔を前に向ける。
「もうすぐ町に着くから、後でゆっくりとね」
昨日、三人が出会った辺りは、もう通り過ぎた。直に町の入り口が見えてくる。
ここまですれ違った人が居ないという事は、まだ町の門扉は閉じられているのだろうか。
芹菜が歩きながら背負われた女性の顔を伺う。
その目は薬師の目だと、清人は思った。
芹菜たちが姿を見せた時は、やはり驚かれた。
門の外にいた五人の衛士が一斉に駆けよってくる。
まず清人に背負って貰っていた女性を衛士に預けながら、この二人の案内で裏山から町の外へ出た事、そして昨日、小鬼を見かけていた事を話す。
その小鬼は退治したが、今日出た小鬼も同じ群れの仲間だろうと推測し、昨日の場所を基点にして捜索、小鬼を発見、退治したと、なるべく手短に伝える。
一部に嘘が混ざっているが、筋立てに問題は無いはずだ。
「退治したって、この三人で?」
「いえ、私一人で。これを使って」
帯に差していた短刀を両手で持って、衛士たちに見えるよう、目の高さで抜く。
鉄とは違う白い輝きに視線が集まる。
「山都の神社でご祈祷して貰った、青銅製の短刀です。小鬼くらいなら一太刀で倒せます」
ほうっとか、へえっという声が上がる。
普通の武器でも小鬼は倒せる。
ただ、名刀と呼ばれるような、実戦で長く使われてきた刀であれば、より深手を与えやすく、鬼を相手にする時には有効だとされている。
また、銀の太刀や青銅の剣などもよく効くと言われているが、切れ味が悪く、更に折れやすいため、一般的では無い。
その手の指導と訓練を受けている衛士にとっても、知識としては知っているが、滅多に見かける事のない物であろう。
言ってしまえば、対鬼専用の短刀なのである。
「しかし、一人で、無傷で」
「慣れてますから」
にこりと微笑み、短刀を鞘に収める。
もう少し見たいという風に手を伸ばしかけた衛士がいたが、気がつかないふりをした。
未だ意識の無い女性が詰め所に運び込まれる。
それを追い、さも当然のように中に入った。
女性を抱えた衛士は、後ろに蹴るようにして草履を脱ぎ捨て、そのまま奥の部屋へと入る。
芹菜はしゃがんでその草履を揃え、それから自分の草履を脱いで揃える。
その時、背後で叫び声のような物が聞こえた。
先の旦那さんが女性、奥さんの名前を叫んだのだろう。ただ、何と呼んだか聞き取れない、そんなひどい声だった。
部屋を覗くと、膝立ちになった旦那さんが、奥さんを抱えた衛士に縋り付きながら泣き叫び、それを飴釜の主人が「安静にっ、安静にっ」と止めていた。
「とりあえず降ろしてあげて」
衛士の背に手を当て、声をかける。
布団は一組しか敷いていないが、旦那さんが這い出てきているので、そこに降ろしてもらう。
「奥さんはご無事です。傷も浅く、命に別状はありません」
旦那さんが、ばっとこちらへ向く。
顔は涙でぐちゃぐちゃで、頭の傷が開いてしまっているようだ。
何か言おうとして、がはっごほっと咳をする。
「あなたも安静に。まず水を」
言いながら振り返ると、清人とたちが入ってくるところだった。
清人に向かって頷くと、すぐに頷き返してくるりと向きを変え、奥手の土間へ下りていく。花梨もそれに続いた。
奥さんを降ろした衛士に「もう一組、布団を」と声をかけると、後ろから「それは私が」と別の衛士が応えた。
任せて、飴釜の主人の向かいについた。すでに傷の確認に入っている。
その所作を見ながら、芹菜が自分の所見を述べる。見立ては一致した。
「失礼します」
開いたままの襖から、清人が手桶を、花梨が湯飲みと水差しを持って部屋に入ってくる。
同時に、押し入れから出された布団が広げられる。
「手桶はこちらに。花梨ちゃん、旦那さんに水を。あと、男性は席を外してください」
「あ、体を拭くのは私が、飴釜さんは薬を」
「判った。清人、手桶は芹菜さんのもとへ」
「手ぬぐいをお借りします」
手早く指示が飛び、衛士たちと、最後に清人が一礼して退出し、襖を閉める。
水を飲み、少し落ち着いたらしい旦那さんが、両手で湯飲みを持ったまま、枕元で膝立ちになって見守る。
傷のせいで座る事ができないのだろう。広げられた布団を近くに引き寄せ、そこで横になってもらう。
その間に花梨の手を借りながら、飴釜さんが奥さんの衣を解いていた。
芹菜も座り直して、手ぬぐいを手に取った。
一人、詰め所を出た清人は、その場で立ち尽くす。
三人を待つべきだろうか?
いや、自分は店番の途中だったはずだ。それに、花梨も無理矢理連れ出してきている、大浦屋に断りを入れに行かなければならない。
それは芹菜がするべき事ではあるけれども。
清人がそんな事を考えていると、横手から声が掛かった。
「ちょっといいか」
「はい」
同じく追い出された衛士たちだった。
衛士の殆どは国府からの派遣であるが、清人にとっては全員顔見知りである。
「小鬼は本当にあの娘が一人で?」
「数は何匹居た?」
「あの短刀は本当に鬼に効いたのか」
「小鬼の居た場所を、だいたいで良いから教えて欲しい」
「昨日も小鬼を見かけた……退治したと言う話だが」
次々と出される質問に、帰り損ねたと確信する。
先ほどの芹菜の話と齟齬が無いように、そして言わない方が良い事を意識しながら、清人は答え始めた。
少し前、大浦屋。
縁談の返事は柘榴の前で父に伝えられた。
良い返事が返ってくると判っていても、ほっとして、柘榴は息を吐いた。
店の奥の腰掛けに座り、今後の日取りを話し始めた父と飴釜の主人に、お茶を用意しながら聞き耳を立てる。
この前後、店の外に目を向けていたのは、花梨だけだった。
飴釜の主人が来る前に、店の前で大きな箱を背負った少女が立ちすくんでいた事も、その後、走り抜けた衛士たちにも、他の三人は気が付いていない。
やがて下の詰め所からの使いが飴釜屋に走り込み、清彦が父を呼びに来る。
小鬼が出た、怪我人がいるとの知らせを受けた飴釜の主人は、一度店へ戻り道具を取って駆け下りていった。
その姿を見送ったあと、柘榴は清彦と共に、奥の座敷へと呼ばれた。
花梨に店を任せて座敷に入ると、父が先に座っていた。
その横に座布団が一枚、向かいに二枚。
父の正面に清彦が座り、父の隣に母が座り、当然、残りの一つ、清彦の隣に柘榴が座った。
同時に両親が深々と頭をさげる。
「清彦君。この度は儂の我が儘を聞き入れてくれて、感謝する」
「我が儘なんて。こちらこそ、こんな木偶の坊に、こんな素晴らしいお嬢さんをいただいて、ありがとうございます」
清彦も深々と頭をさげる。慌てて柘榴も頭をさげた。
柘榴は既に、清彦の側に座る人間として、振る舞い始めていた。
「まだ飴釜さんと相談するが……」
父の口から、今後の結納、仲人についての話が始まり、一度退席した母は、お茶の用意をして戻ってきた。
だれも異変には気付かなかった。
それから約四半時。
遠く山の上の方で、雷鳴が響いた。
更に前、夜半過ぎ。
清次は湯川の郷から川を遡った奥谷を歩いていた。
居ても立っても居られず駆け出して、ただ単に町の門が閉じているのが判っていたので、反対方向の上流へ向かった。
最初こそ走っていたが、やがて疲れ、とぼとぼと当てもなく歩く。
いくつかの村を通り過ぎたが、よく覚えていない。
月明かりの中、周りを見渡すと民家の影が見えた。
こんな奥地にも村があったのか。ぼんやりとそんな事を思う。
ここはどこだ。
町と同じ川沿いにある村とはいえ、この辺りの事はよく知らない。
汗も引き、体が冷えると頭も冷えてきた。
逃げたところで何も変わりはしないのだ。
帰ろう。
立ち止まり、元来た道を戻ろうとした時、不意に暗闇から声が掛かった。
「誰かと思ったら、飴釜の清次じゃねえか」
ぎょっとして辺りを見回す。人影は見えない。
今日は十六夜、満月に近い光が降り注いでいるが、人の姿はまったく見当たらない。
そもそも月明かり以外の明かりが無い。
誰だと声を出す前に、別人の声が響いた。
「なんでぇ、知り合いか」
「へい。ちょいとした、まぁ、博打仲間でさぁ」
声の方に目をこらすが、木々が生い茂り、深い闇があるだけだった。
博打仲間?
「おい、清次。俺だよ、三郎太だよ」
「三郎太?」
一月ほど前に姿を消した、遊び仲間を思い出す。郷里にでも帰ったのかと思っていた。
「なんでこんな所に。つーか、明かりはどうした。見えるのか」
いや、そもそも、三郎太はこんな声だったか。
「おう、見えるよ。ようく見える。はっはっは」
笑い声とともに、闇の中から黒い人影が浮かび出てきた。
その陰は、人の姿をしてはいたが、清次の知る三郎太よりも二回りは大きかった。
背丈だけではない、奴は少し病的かと思えるほど痩せぎすだったはずだ。
それが、妙に太い腕、太い脚。
そして、頭部から伸びる二本の角。
「お、お前……」
芹菜がそれに気づいたのは、花梨が手桶の水を替えて戻ってきた時だった。
とっさに振り返りそちらを見る。花梨では無く、その向こう。
鬼の匂いが、町の奥に感じられた。
厳しくなった視線に、花梨が何かを察したようだが、何も言わず隣に手桶を下ろして座る。
傷の手当てをしつつ、匂いを探り、頭を働かせる。
方角的には、村の奥、概ね北西方向。
先ほど見逃した匂いの元が、そのまま南下してきたのか。それとも他の鬼が、谷川に沿って下りてきたのか。
ただ、これが小鬼十匹程度なら、そろそろ町の北口に入るのではないか。もっと少ない数だとしたら、既に入っているかもしれない。
他に、町中ではなく、裏山を移動している可能性もある。
小鬼は人を襲うが、自分たちの数が少ない時は、より少人数の相手しか襲わない。
更に考えるとすれば、もっと遠方に大きな群れがあるか、力の強い鬼がいるか、だ。
どちらかというと、その方が危険は大きい。
それでも町の奥には神社があり、神祇官がいる。衛士もいるし、乙種だと思われるが、赤壁亭にも何人か仲間がいる。
普通に考えれば、そう大きな危機にはならないはずだ。
チラリと、花梨を見る。
既に傷を拭う作業は終わり、芹菜は飴釜の主人が薬を塗ってくれた布を、傷の上に押し当てて更に布で巻く作業をしていた。
「花梨ちゃんありがとう、こっちはもう良いよ」
花梨に微笑みかける。
「良いですよね?」
一応、飴釜の主人に確認を取る。
「ああ、ありがとう。助かった。行って、清人と話したい事もあるだろう?」
「はい」
応えて、立ち上がる。
「では、失礼します」
一礼した花梨と視線を合わせる。
凜とした眼差しが、芹菜の瞳の奥を窺っていた。
花梨ならば、小鬼に見つかる前に見つける事ができる。裏山に隠れた小鬼も見つけ出す事ができるだろう。
軽く頷いてみせる。
花梨もそれに応え、部屋を後にした。
清人と衛士の会話は本題から逸れ、今は芹菜の外見について盛り上がっていた。
郷に派遣される衛士は比較的若く、ほとんどの者が独身である。
国府や関所、中央などに配置されるのは十八になってからで、結婚するのもその頃が多い。
若くて美しい女性は、当然のように話題に上がる。
ただ、美人であろうとの意見は一致するが、細かい好みは十人十色だ。
「にっこり笑った、その笑顔が」「肩口に揺れる黒髪が」という当たり障りの無い辺りから始まり、「袖から覗く腕の白さが」「あの細腕で小鬼を倒す強さが」と続き、「年の割にふくよかな胸元が」「やっぱりおでこでしょう」の辺りで、花梨が詰め所から姿を現した。
「花梨。もう良いの?」
「うん」
清人の声に衛士たちの視線が花梨に集まる。
そして芹菜がいない事を確認し、それぞれの方向にそらされる。
花梨はとととっと近づくと、清人の袖を引いた。
「戻ろう、清人ちゃん」
「ああ。では、俺たちはこれで失礼します」
礼儀正しく頭をさげると、衛士も一斉に一礼した。
「世話になった、ありがとう」
「本当に。助かった」
「その言葉は、芹菜さんにお願いします」
笑顔で応えた清人に、衛士たちも笑顔を返した。
そしていつものように、清人は袖を摘まむ花梨の手を一度解き、手をつなぎ直した。
「行こうか」
「うん」
頷いた花梨が、前方に鋭い視線を向けている事に、清人は気付かなかった。




