第五十八話 戦端
略地図に尾根筋を書き込み、改めて山並みを考える。
北山の稜線は、屏風状になだらかに広がっている。
山を越えて町に来るという事は、どこかの尾根を越えてくると言う事だ。
「何処だと思う?」
宗泰は弁柄に問い掛ける。
この湯川で長らく生活してきた彼の方が、山には詳しいはずだ。
だが、弁柄も即答を避ける。
「何とも言えんな。人の鬼であるならば、先ず山を下るはずだ。しかし、獣の鬼となると、元になった獣次第だと言える」
「うむ」
獣鬼との交戦経験は、甲種隠密の宗泰ですら、殆ど無い。
活動記録や生態に関する調査など、本所にも無いだろう。
「獣本来の習性を維持するなら、縄張りに留まるだろうか」
「だったらありがたいな」
宗泰の希望的観測を、弁柄は希望的だと受け返す。
今は、そうで無かった場合を想定しているのだ。
「何処を越えてくるかより、最も早いであろう道を警戒すべきだろうか」
「越えてくる場所は判らんでも、町へ降りてくる筋はある程度限られる」
弁柄は略地図に更に線を書き足し、説明する。
「普段から人の通る道が、最も駆け下りやすい。当然だがな。町の北側、ここからここまでの尾根を越えたとするなら、神社の裏、郷司の館の裏、この赤壁亭、町人橋の向かい、そして町人町の裏のこの斜面。それ以外は街道か、町より北西の川沿いに降りてくるはずだ」
「多いぞ」
こちらの数は少ない。
もっと絞り込みたいが、流石に難しいだろうか。
弁柄は地図を指でなぞりながら、予想される道筋を説明する。
「こちら側の尾根、ここが谷筋だ。この谷があるから、ここの辺りまでを越えてきた鬼は、恐らくここを通って街道へ出る。逆に西は……」
男たちが防衛線の話をしている間に、絢音は山吹と茜、そして紙屋の隠密の手を借りて、祓いの術札を作っていた。
普段からある程度は備えているが、今回は間違いなく大量消費する。
余裕がある内に、一体でも多く用意したい。
そうしている間にも、湯山にいる運び屋たちから文が届く。
山吹はそれを弁柄に伝え、また、郷司の陣にいる忠好へ、文を認めて飛ばした。
流れ出ていた負気は、溶岩状のドロドロした物から、水のようなサラサラした物に変わり、やがて黒い靄だけになった。
通常、靄が勢いよく流れる事は無い。重力に従い、流れ落ちる事自体が無い。
にも拘わらず、依然、研究所の方から負気は流れ落ちて来ていた。
「減ってきましたかね?」
洞窟の中、銀の社からは出尽くしたのだろうか。
「さあな」
これが全てだとしても、とても消し去る事は出来ない量だ。
いい加減止まって欲しいと言うのが本音だが、実際どのくらいの負気が封じられていたのか、誰も知らない。
皆それぞれ神器を手にして、互いに距離を取る。
敵がどのような存在で、どのように動くか、想像すら付かない状況の中、如何様にでも対応できるようにする為だ。
まだ、朝は遠い。
目には研究所に続く階段すら見えない。
その中で、じっと前を見つめていた幸永が、小さく、しかしはっきりと呟いた。
「来た」
緊張が走る。
まず、幸永が鏡を翳し、降神した。
「降神、火之夜藝速男命」
それに全員が続く。
降神の声に応えて、様々な光を放ちながら、神気が溢れ出す。
風が、炎が、雷が、呼び掛けた者達を包み込み、その身に溶け込んでいく。
降神した事により、鬼の姿が僅かに見える。
「複数……、五、六匹か。向かってこない?」
輝く神気を対岸に見たはずの鬼は、しかし、何事も無かったかのように、更に負気溜りへと降りていった。
「まさか、更に負気を吸収するのか?」
滅多に無い事だが、意図的に負気溜りに入り、力を増す鬼が居る。
もし奴らが、それが可能なのだと知っていたら。
「あれを吸収されたら、最早対処できん」
危惧していた、伝説級の鬼の出現。しかも複数体同時だ。
郷や国どころの話では無い、世界の存亡に関わる。
「人体術札を出せっ! 取って置きのつもりだったが、最初から、最後の手段だ」
先ほど後ろに下げた人体術札を持って来させ、慌てて布を解く。
幸永は、胸に書かれた文字を確認すると、一体を抱えて前へ出た。
「火の方は俺がやる。光属性の者、もう一つを頼む。……全員離れろっ!」
その言葉を受けて、一斉に後ろへ下がる。
先ほどチラリと見えた鬼の集団は、既に深い靄に沈んで見えない。
「行くぞ……っ、火山輝霊っ!」
霊力を込め、人体術札の背を押す。
意識が無い筈のそれは、自らの足で直立し、両手をゆっくりと広げる。
その胸元にから、赤黒い焔が湧き上がった。
見る見る内に膨らみ、大きな球状に形作られたそれは、単なる炎では無く、灼熱の溶岩の塊だった。
一瞬の間を置いて、爆発するように溶岩が噴き出し、うねりながら前方へ放たれる。
ドゴゴゴゴゴオォーッ!!
轟音を響かせながら突き進む溶岩は、数匹の巨大な蛇へと姿を変えて、負気溜りへと降り注いでいった。
それは赤い目を輝かせ、開いた口から焔を吐き出しながら、黒い液体へ食らいつく。
ズドドドドオォオォンッ!
液状化していた負気を巻き上げ、吹き撒き散らし、鬼が居るであろう辺りを舐め尽くす。
衝撃で大地が揺れ、放たれた熱に、運び屋たちも思わず後ずさった。
どうする事も出来ないと思われた負気が押し退けられ、すり鉢の底が見える。
幸永は腕で顔を庇いつつ、鬼の姿を探った。
のたうつ溶岩の蛇により家々が燃え上がる、その中に、数匹の鬼が立っている。
「まさかっ! そこにも居たのかっ!」
研究所から降りて来た数匹だけでは無い、もっと多くの鬼が居る。
ふらりと倒れる術札を抱き留めて、背後に指示を出す。
「光を放てっ!」
負気を散らした今なら、直接、鬼の元まで通る筈だ。
今しか無い。
一人の若者が人体術札を抱え、前に進み出た。
「行きますっ! 天火明っ!」
その言葉に応えるように、人体術札が手を広げると、村を飲み込むような巨大な光の柱が顕れた。
ふわっと、音も無く翼を広げて舞い降りる、夜空には場違いな白鳥を、忠好は人差し指を伸ばすように手を挙げて、受け止めた。
瞬間、鳥の姿は掻き消えて、折りたたまれた紙に変わる。
周囲の兵士も、初めて見た時には響めいたが、今は奇怪な物を見る様な目で、遠巻きに窺うだけだ。
「どうだ?」
一人、郷司だけは普段と変わらぬ態度で忠好に接していた。
「はっ。湯山の南山麓に尋常ならざる負気溜りが出来ておりますのは、直接確認が出来たとの連絡がございました。ただ、予想されていた小鬼の大軍は発生しておらず、代わりに……非常に、強力な鬼が顕れ、まもなく戦闘に入る、との事にございます」
「むう。それは、皇儀が対処してくださると言う事か。では、小鬼は来ないか?」
「はい。その強力な鬼には、皇儀の者が当たらせていただきます。ですが、ある程度の数の鬼が街道に抜ける可能性あり、との予測が付け加えられてございます。更に、山を越えて直接湯川に現れる可能性も有りと」
郷司は黙って、忠好の顔を見つめながら聞いていた。
「他には?」
「はっ。……後は、鬼の強さについての予測が書かれてございます」
「それは、儂が聞いても解らぬものか」
忠好は一瞬言葉に詰まる。
「……皇儀では、概ね、鬼を下級、中級、上級と分類してございます。肉体的に強いだけの、所謂、ただの鬼が下級。霊獣と同じように炎や水などを操るのが中級、体が炎や水そのものに変化するのが上級にございます」
「ふむ、それで、どの程度が来る?」
「恐らく、上級鬼を含む、中級以上の鬼が、散発的に来襲するのではないかと」
説明する忠好の視線は下に逸れ、苦渋の表情が見て取れる。
「体が炎に成る鬼など、見た事が無い。勝てるのか?」
「一対一で勝てる者は、湯川にも一人か二人」
「お主は?」
「私奴は、中級がやっとの事にございます。強い鬼には、力を合わせて戦う他ございません」
ゴクリと小さく唾を呑み、郷司は頷いた。
「解った。一人か二人、居てくださるのだな。それだけでもありがたい」
「はっ」
「会えぬか?」
「ご勘弁くださいませ。場合によっては戦う姿はご覧頂けましょうが、紹介などは、どうかご容赦を」
郷司はフッと笑って片手を挙げる。
「冗談だ、半分はな。会ってみたいのは確かだが、それが理由で町を去られては、今後に差し障る」
朝廷に刃向かうつもりなど無い。
敵対しないのなら隠密など恐ろしくも無いし、寧ろ、このような場面で助けて貰えるなら、いっそ居てくれた方が良い。
「忠好。今回の事、感謝する。事が片付いても、黙って姿を消すような真似だけはしてくれるなよ」
「……はっ。恐れ入ります」
郷司の陣は川の南、木材問屋の下手にある軍の広場に張られていた。
直接指揮を執るのは、二隊、百名。これを川の南岸に配置している。
本来、小軍といえども五百はいるものだが、現在、湯川郷の兵は定数割れの四百名しかいない。
残り三百を百五十ずつに別け、二人の校尉に委譲している。
左翼は本通りの町人町に二隊、下手橋上に一隊。右翼は町の門前に二隊、街道の山津方面へ一隊。
衛士は朝廷からの派遣で、郷に直接の指揮権は無いが、詰め所に待機して貰って、夜明けと共に湯治客の避難に当たって貰う手筈になっている。
街道の北には幾重にも柵が設けられ、篝火と見張りが配置されている。
町の入り口にも柵が足され、各隊の正面には楯が並んでいた。
配置に着き一時が立つと、兵士たちの緊張感は少しずつ薄れ、本当に来るのだろうかとの疑念も湧く。
そこへ、陣容の変更が指示された。
右翼の一隊が坂の上まで進められ、左翼は大きく展開し、三隊がそれぞれ、町の北口と上ノ橋、町人橋の袂へ移された。
代わりに、郷司の隊が町の入り口と下手橋に移る。
鬼が山を越えてくる可能性に対応しての陣容だが、現場の兵士に、その意味までは伝えられない。
なんの戦闘も起こらないまま、小鬼の姿すら見えないままの陣容の変更に、戸惑いと疑問が浮かぶ。
特に、町中に配置された隊では、何故こんな所にと口にする兵士もいた。
「まぁ、良いじゃないか、俺たちは戦わずに済みそうだ」
呑気に笑い合う。
その背後で、突如悲鳴が上がった。
咄嗟に振り向くが、悲鳴の発生源は空へと舞い上がっていった。
二人の兵士が、まるで夜空に釣り上げられたかのように、手足をバタつかせながら、凄まじい勢いで遠ざかっていく。
何が起こったのか、その場にいた兵士は誰も理解できなかった。
本当に釣られたのか?
よくよく目を凝らすと、綱のような物に曳かれているように見える。
その先を探って、一人の兵士が声を上げた。
「鳥だっ! 上の方、鳥が引っ張っているっ!」
羽ばたきの音すらさせず、一羽の鳥が、飛んでいる。
スルスルと、捕らえた兵士を引き寄せながら、クルリと旋回して南岸の建物の上に舞い降りた。
依然、羽音は全く聞こえない。
捕らえられた者達の悲鳴だけが、闇夜に響いていた。
「梟? 梟だっ!」
誰か指をさしながら言った。
だが、身の丈八尺の梟など、存在するだろうか。
「ぎゃあぁぁあぁぁっっ!!」
ざわめく兵士たちを気にも留めず、巨大な梟は捕らえた獲物を啄み始めた。
生きたまま突かれる仲間の叫びに、居並ぶ兵士も総毛立つ。
「……っ、ゆっ、弓を構えよっ!」
隊長の叫びに似た命令に、一同は、ハッとして、弓に膝を掛けて弦を張り始める。
予め張っておくべきだった。完全に油断していた事に今気付く。
「小鬼じゃ無かったのかよっ」
吐き捨てるように誰かが言った。
あれは獣鬼。梟の鬼だ。
「構えよっ」
再度指示が飛ぶ。
「放てっ!」
多少乱れたはいたが、一斉に矢が放たれる。
ザァッと音を立てて、梟の留まった家に数十の矢が降り注いだ。
瓦屋根に当たる堅い音も響くが、少なくとも十本近くは中ったはずだ。
その背に矢が立っているのが見て取れた。
しかし、梟が体を軽く揺すっただけで、それらバラバラと振り落とされる。
「くっ、遠いかっ。全隊、進めっ!」
一般的な矢の飛距離は百二十間、有効射程は五十間だ。
十分届く距離であり、十分射抜けるはずだ、人や普通の梟ならば。
だが、実際には効果を発揮していない。
問題は、距離では無く相手の堅さなのではないか、そう思いつつも、他に手は無い。
隊長は弓を構えたさせたまま、橋の上に隊を進めた。
矢を振り払った梟は、そのままの姿勢で向かい来る兵士を見つめていた。
「ギャアアァァァーッ!」
突如、梟が翼を広げ、威嚇の鳴き声をあげる。
まるで強い向かい風に当たった様に、兵士の足が止まった。
家の屋根を覆い尽くす様な巨大な翼で、ふわりと、音も無く梟が飛び立つ。
「ギャアァァエェェーッ!」
再び声が響き、低く、滑空するように梟が向かってくる。
ギュッと体が硬直し、誰一人動けない。
震える事すら出来ない。
前に突き出された梟の爪が、放たれた矢のように伸びてきた。
それは錯覚などでは無く、事実として伸びてきて、最前列にいた二人の兵士の、それぞれ頭と胸を鷲掴みにして、グンッと大空へ引き上げる。
「うわあぁぁっ!!」
「おぉぉぉおおっ!」
悲鳴とも、叫びとも付かない声が響き渡る。
梟は綱の様に長く伸びた足で二人を曳きながら、そのままグルリと旋回し、高空からブンッと投げ落とした。
「あああああぁっ!!」
避ける事も出来ず、橋の上に並ぶ兵士たちの上へ叩き付けられる。
重い物がぶつかる嫌な音を立てて、巻き込まれた数人が一緒になって転がっていく。
「キェエェェーーッ!」
真上から梟の声が降り注ぐ。
空を見上げた者も、倒れた仲間を見下ろした者も、攻撃する事も逃げる事も出来ない。
指示を出すべき隊長すら、動けない。
軍である。
数年前までは戦が続いていた。
鬼と戦った事のある兵士だっている。
しかし、全ての兵士が、今、思い知った。
恐ろしいとは、こういう事か。
梟の羽ばたきは音も無く、強烈な風だけを吹き付ける。
一旦距離を取りながら大きく旋回すると、今度は川に沿って、橋の側面から急接近してきた。
弓に矢を番えるべきか、いや、弓を捨て槍を取るべき、いや、逃げるべき……。
多くの者が目を見開き、滑るように接近する梟を見つめていた。
ズガァァンッ!!
突然、轟音を響かせ、天から雷が降り注いだ。
片翼を撃ち貫かれた梟は、体勢を崩して橋の欄干に激突し、川に墜落する。
ドボォーン!
橋が崩れるのでは無いかと思えるほどの衝撃と、直後に上がった水柱を見て、やはり兵士たちは誰も動けない。
何が起こったのかさえ、誰も正しく認識できていない。
ただ、橋の下から、梟が暴れる水音が聞こえている。
「しっ、下ですっ! 下に居ます!」
誰しもが解っている事を、誰かが叫ぶ。
だが、そのお陰で皆が動き始めた。
「下がるぞっ! 全隊、橋の袂まで撤退っ! 陣形を整えよっ」
倒れている者も居る。
同じ組の者が、また傍に居た者が抱え上げ、それぞれ橋から退き、本通りに列を成した。
そこへ上ノ橋の袂に配置されていた一隊と、郷司の一隊が駆けつける。
橋の下で藻掻いていた梟は、まるで手を伸ばすように翼を広げ、自分が打ち壊した欄干を掴むように体を起こした。
ギロリと、妖し光を放つ瞳が、兵士たちを睨み付けた。
梟の奇声が町に響き渡った頃、街道に配置された一隊も、奇妙な音を聞いていた。
その隊は町の入り口から北に延びる坂の上で陣を構え、向こうの峠までを見張っていた。
音は、更にその先、街道の北から響いて来た。
馬が駆ける音に似ていたが、兵士がそれを聞き間違えるはずは無い。
もっと重い、大地を揺らすような音。
いや、事実、足下が僅かに揺れている。
隊長は後方へ報告を送り、全隊に弓を構えさせた。
何が来るかは判らないが、向こう峠を越えれば姿は見える。
そこから駆け下りてきた所に、上から矢を射かけ、更に、柵を利用しながら槍で迎え撃つ。
同数の兵士にも、小鬼にも十分勝てる、必勝の構えだ。
そう、思っていた。
いや、事実そうであっただろう。同数の小鬼なら勝てていた。
地響きを伴い、向こう峠を躍り出たのは、馬よりも遙かに巨大な猪だった。
それは文字通り、瞬く間に坂を駆け下りて、そのままの勢いで駆け上ってくる。
途中には、急ごしらえの柵が二重に張られていたが、簡単に弾き飛ばされた。
「弓を構えよっ!」
驚愕しながらも指示を出す。
全隊が一斉に矢を番える、その間にも猪は迫って来ていた。
早い。あまりにも早い。
一射して、すぐ槍に持ち替えなくてはいけない。
そう思いながら、掲げていた手を振り下ろす。
「放てっ!」
迫る猪は、まるで巨岩が転がり落ちるような勢いで、坂を登ってきていた。
その顔面に、矢が降り注ぐ。
そう、それこそ、まるで岩に矢を放ったかのようだった。
降り注ぐ矢を弾き飛ばし。
頑丈に作られたはずの柵を吹き飛ばし。
坂の上に構えていた兵士たちを跳ね飛ばし、踏み潰し。
猪の鬼は湯川に向けて駆け下りていった。
矢の飛距離、百二十間、216m 届く距離
有効射程、五十間、90m 集団から集団への攻撃
狙撃射程、三十間、54m 人を狙える距離
精密射撃、十五間、27m 頭を狙える距離




