第五十五話 悪寒
それはまるで、冷たい風が体の中を吹き抜けていくような感覚だった。
皇儀の隠密の殆どは、特殊な力を持つ能力者では無く、技術者だ。
薄い負気を直接見る事が出来る者は、極一部に限られる。
それでも経験を積む内に、普通の生活を送る人々に比べれば、負気や鬼の気配という物には敏感になる。
湯川の郷にいた隠密たち、そして湯山に出向いていた研究所の一団は、すぐに異変に気付いた。
特に研究所の者は、その異様な気配と、それを感じた方角から、即座に原因に思い至った。
その場にいた全員が、同じ意見を持った。
「銀の社が、開いたか」
二度目の術の発動実験は中断され、直ちに荷物が纏められる。
祭壇や供え物の類いなどは、放置して行く事になった。
早足で移動しながら、対応が協議される。
途中、戦闘能力の無い者は列を離れ、北へ向かう事になった。
女官を中心として十数名が立ち止まり、研究所に向かう仲間を見送りながら、各所に文を飛ばす用意を始める。
先ず第一報を至急で飛ばし、次に現状と自分たちの推測を記す。
白鳥に変化した文が、湯川と山津、国府、東夷鎮守府、そして、山都にある隠密の本所へ向けて飛び立った。
全身を突き抜ける、ゾクリとした悪寒に、雲雀は飛び起きた。
術で明かりを灯し、戸を開けて外を照らす。
本能的に、左……銀の蔵の方に目をやった。
そちらから、光を飲み込むドロリとした黒い何かが、まるで流れる溶岩のように向かって来ていた。
雲雀も研究所の人間である。
それが高濃度の負気である事、そして銀の蔵から漏れ出た事はすぐに理解した。
咄嗟に振り返り、鍵束を掴むと向かいの建物に駆け寄った。
「起きてっ! 早くっ!」
戸を開きながら、叫ぶように呼び掛けた。
見ればミヨは既に体を起こし、ミナに寄り添っている。
「二人ともっ! 逃げましょう!」
ミヨは、雲雀の事を信じている訳で無い。
信用も信頼もしていない。
だが、その言葉だけには飛びついた。
現状がどうであるかは判らない。
猛烈に嫌な予感がする。
だが、だからこそ、「逃げる」という言葉に即座に反応した。
「行くよっ、ミナっ!」
「えっ!?」
ミナの手を引き上げるようにして立ち上がらせる。
その間に、雲雀は錠前を外していた。
まだ足下の覚束無いミナの腰に手を回し、格子戸を潜る。
部屋を出た三人が見たのは、洞窟を満たしていく黒い液体のような物と、そこから沸き立つ黒い靄だった。
「なに、これ」
目を丸くしてミヨが呟く。
「これを突き抜けなきゃいけないの、二人とも、息を止めて!」
細かい説明をする余裕は無い。
無茶は承知の上だった。
雲雀は右手で明かりを持ち、左手でミヨの手を取った。
ミヨはもう片方の手でミナの手を引く。
二人の為の履き物は無い、それどころか、そこにあるはずの雲雀の草履すら見えなくなっていた。
何処まで行けば助かるのか判らない。
そもそも途中の門が閉まっている可能性が高い。
それでも諦める事無く、負気を吸わないように息を止め、雲雀は駆け出した。
負気に突っ込んだ足が、猛烈な拒否反応を示し、嫌悪感が全身を駆け巡る。
背後で二人の悲鳴が聞こえたが、止まる訳には行かない。
分岐点に差し掛かる頃には、足の感覚は無くなりつつあった。
だが、ここまで来て、先の門が開いているのが見える。
もう少し、あの門を出れば。
既に息が苦しい。
門を出たところで、負気が薄くなるとは限らない。
どこかで息を吸わなければ、走り続ける事は難しい。
不意に腕を強く引かれ、雲雀は振り返る。
ミナが倒れ、負気溜りに沈んでいた。
「ミナっ!」
ミヨが迂闊にも声を上げる。
雲雀の手を振りほどいて負気の中に両腕を突っ込み、ミナを抱き起こそうとして、その場でガクリと膝を着いた。
駄目だ、このままじゃ二人とも、助からない。
雲雀は袖で口元を押さえながら、息を吸った。
意味が無い事は解っていた、負気は布を通り抜ける。
胸が、喉が、急に冷たく凍り付く。
痛みに咳き込みそうになりながら、歯を食いしばり、二人を抱きかかえる。
負気に触れた明かりが消えた。
それをその場に捨てて、二人を引き摺るようにして、門がある方へと向かう。
負気に触れると、術で作られた明かりは消える。
ならば、明かりが見える門の外には、まだ負気に侵されてない空間があるはず。
「く……うぅ」
「ん、あぁ……」
二人の呻き声が聞こえる。
大丈夫、まだ生きている。
最早、息を止めておく事など出来なかった。
黒い靄になるほどの濃い負気を吸いながら、それでも前に進む。
外へ、広い所へ。
二人を助けなくちゃ……。
ふと気が付くと、雲雀は倒れ伏していた。
いつの間にか、暗闇の中、うつ伏せに倒れていた。
全身の感覚が無くなり、自分が体が、首から上だけしか残されていないような錯覚に陥る。
先ほどまでの胸の痛みも既に無い。
急激に失われていく感覚の中、意識だけはしっかりとしていた。
ミヨも、ミナも、真っ暗な、自分の体すら無い世界で、それでも強く、死にたくないと願っていた。
雲雀は強く思った。
二人を助けたい。
起き上がって、二人を連れて外へ。
ミヨは強く思った。
私は、生きてここから出るんだ。
ミナと一緒に、ここを出て、自由に。
ミナは強く思った。
こんなの嫌だ。
もう、何もかも嫌だ、私に構わないで。
閂の外された門の手前で、三人は抱き合うようにして、息絶えた。
藤枝の私室は洞窟の中程にある。
長く研究所付きの隠密として、様々な任務を熟してきたが、今は事務方として半隠居の身である。
尤も、この世界が崩れたかのような絶望的な悪寒は、隠密としての経験など関係なく、洞窟内に眠る全ての人間を叩き起こしたはずだ。
跳ね起きて、直後に意味を悟る。
このような気配、他には有り得ない。
奥歯を噛み締め、鏡と札束、そして愛用の太刀を取り、表へ飛び出した。
普段は隣室に三人の女官が生活しているが、今夜だけは実験に帯同していて留守だ。
彼女らは幸運であったのだろう。
誰も居ない建物に目線を走らせ、ただそれだけは良かったと安堵する。
どうか、生きてくれ。
恐らく、自分は逃れられない。
藤枝は太刀を抜いて、その勢いで鞘を投げ捨てる。
銀の蔵へと続く門は、何故か開かれていた。
その奥から、猛烈な負気が溢れてくる。
戦乱末期、全国には負気が溢れていた。
自然に薄まるような量では無く、勿論、祓いを行っても意味が無かった。
神霊の力を借りた浄化でも、とても対応できない規模で、広範囲に点在していた。
神気と負気の均衡を保つ為、一部の甲種隠密に課せられた極秘の任務。
その結果、各所の負気溜りから集められた負気が、ここに封じられていた。
それが今、溢れ出している。
「降神、科長戸辺命」
眼前に翳した鏡から突風が吹き出し、藤枝の体を駆け巡る。
袂を、着物の裾をバタバタとはためかせながら、猛烈な神気が流れ込む。
懐かしさと、暖かさで、体が満たされていく。
「すまない」
藤枝は科長戸辺命に言葉を掛ける。
共に長い時間を過ごした神霊。
逃がしたいという思いもあった。
だが、そうする訳にはいかない、ほんの僅かな時間であっても、あれを止めなければいけない。
カッと見開いた左の目には、淡い銀色の光が宿っていた。
「共に、人の楯となってくれ」
自分の中にいる神霊が、応えて微笑んでくれたような気がした。
門を閉めるべきかと一瞬考えたが、穢れた銀で無ければ何の道止める事は出来ない。
ゴウッと、負気を含んだ風が吹き抜ける。
黒い靄が辺りに漂い始めた。
有りっ丈の術を叩き込み、少しでも減らす。
そして、全身全霊を掛けて押し留める。
その間に、他の者ができる限りの対処をしてくれるはずだ。
時間さえ稼げれば、実験に出ている神祇官も、湯川の隠密も来てくれるはず。
僅かに開いていた門を押し広げるように、黒くドロドロとした物が流れ出てきた。
藤枝をして、見た事の無い物だった。
だが、それが何かは解る。
負気の物質化。
要は、小鬼の形を取っていない、小鬼の大群だ。
「荒風」
先ずは強風の術を使い、負気を押し返せるのか試してみる。
藤枝の手元から発せられた暴風は、黒い靄を巻き込みながら吹き荒れるが、しかし、本体とも呼べる、液状化した負気の元まで届く事無く掻き消える。
「やはり……」
漂う負気が、術を打ち消してしまう。
その分、負気も減少しているはずだが、目に見えるほどの成果は無い。
速度を落とさず流れ来る負気から距離を取りつつ、攻撃系の術を立て続けに放つ。
「疾風っ、風槍っ、竜巻っ」
小鬼なら数匹纏めて吹き飛ばせる術を受けても、小揺るぎすらしない。
不味い。
藤枝は更に下がりつつ、唇を噛んだ。
押し返すとか押し留めるとか言う話では無い、速度を落とさせる事すら出来ない。
「女官長っ!」
不意に奥の方から声が掛かった。
見れば、数人の若者がこちらへ向かっている。
「降神できない者は来るなっ!」
この負気の濃さは、間違いなく命に関わる。
あのドロドロとした負気の塊に触れれば、即死も有り得るかも知れない。
「戦えぬ者は外へ逃げろっ! 戦えるなら、有りっ丈の術を叩き込めっ!」
それは無理な命令かも知れない。
いっその事、全員逃げろと指示した方が良いのではないか。
ここに留まれば、死を免れない。
「はいっ」
藤枝の指示に何人かが応え、その場で降神する。
また、恐らく降神できないのであろう者は、立ち止まり、しばしの逡巡の後、背を向けて走り出した。
「加勢致します」
「ああ、ありがとう。だが、これ以上近付くな。下がりながら術と技を使って減らしていけ」
少しでも効率よく減らす為に、手持ちの術札を全て使い、その後、剣技を以て攻撃する。
札束に目を落とし、ただ上から順番に術を放っていった。
しかし、負気は減らない、止まらない。
「う……くぅっ」
一人の若者が、呻いて膝を突いた。
「!? しまった!」
気が付けば周辺は、既に濃い靄に覆われている。
液状の物に集中している間に、高濃度の負気溜りに完全に捕らわれていた。
「全員、大きく下がれ。立てない者には手を貸してやれっ!」
たとえ降神していても、この負気に因って神気が減衰されれば、耐えきれない。
乙種でも、長くは保たないか。
いや、甲種相当の力を持つ藤枝ですら、かなりの神気が磨り減らされている。
思っていたよりも、遙かに、現状は宜しくない。
「はあぁぁぁぁあっ!!」
藤枝は大地を踏みしめて、気合いを発した。
神気を高め、集中し、太刀を構える。
「破軍降天陣っ!」
千の軍勢を吹き飛ばす、暴風の大技。
本来は上空から叩き落とす技だが、藤枝は薙ぎ払うように正面へ放った。
ゴオォオオォオォォッ!
まるで洞窟を揺らすかのような轟音と振動を伴い、爆風が荒れ狂う。
一瞬、辺り一帯の負気が掻き消えた。
「今だっ! 下がれ!」
言いながら、藤枝も後ろへ下がる。
札はもう無い。
自分自身の霊力も、今の技で殆ど使ってしまった。
後は、本殿、拝殿で迎え撃つしか無い。
黒い靄が消えていたのは、ほんの僅かな時間だった。
水が空いた隙間に流れ込むように、すぐに埋められる。
洞窟内に居た者は、全員避難できただろうか?
そんな思いが頭を過る。
だが、取り残された者が居たとしても、今更助ける余力は無い。
「女官長様っ!」
負気が流れ出る方向とは別の一角から、一人の若者が走り出てきた。
若者と言うより、少年に近い年齢。
先ほど逃げたはずの、降神できない者の一人だ。
「馬鹿者っ! さっさと逃げんかっ!」
咄嗟に叱責するが、彼は止まらない。
胸に抱えた大荷物を、バサリと藤枝の前に降ろした。
包んでいた布から零れ出たのは、銀色の光を放つ杖だった。
若者はそれを掴み上げ、カツンと床に突き立てる。
「天照っ!」
力ある言葉に応え、杖に込められていた術が発動した。
音も無く、強烈な光が辺りを照らし、藤枝も顔を伏せ、蹲る。
「……くっ」
呻きながらも、今見た物について思い出す。
以前、術札の技術官から聞いた、銀器、青銅器の術札の事を。
「地照っ!」
藤枝が顔を上げるより早く、二つ目の術が放たれる。
目を閉じ、顔を伏せても眩しく感じるほどの光。
「……目を、開けても良いか?」
「はい、すみませんっ」
ゆっくりと、目を開く。
強烈な光だったが、目が眩んで見えなくなるような事は無かった。
「謝るな、寧ろ助かった」
礼を述べながら、若者が降ろした包みを拾い上げ、手渡す。
洞窟を埋めていた黒い靄は消え去り、止める事が不可能かと思えた負気の塊を、僅かであるが押し戻している。
「良く持って来てくれた。だが、一旦下がろう。洞窟の入り口で迎え撃つぞ」
「はい」
早くも、靄が立ち上り始めている。
二人は外へ向かって駆け出した。
その先で立ち止まっていた者達も、釣られるように入り口へ向かう。
表へ出れば、負気は拡散してしまう。
周りの生き物たちを鬼に変えてしまうか、大量の小鬼が湧くか。
何にせよ、ここで止めるしか無い。
藤枝たちは本殿に駆け込み、そのまま拝殿へ抜けた。
拝殿前で守衛のフリをしていた村の者は、初めて感じる猛烈な悪寒に、飛び上がって体を震わせた。
何が起こったのかは、解らない。
だが、何か、途轍もなく悪い事が起こったのだけは間違いない。
そして、恐らくそれは、侵入した村長と重蔵たちの手によって引き起こされたのだろう。
怯えるように、二人、視線を合わせる。
社務所や儀式殿の方から、声が上がり始める。
当然ながら、お社の人間も今の悪寒に気が付いたのだろう。
逃げるか?
しかし、主たちの退路を確保するのが自分たちの役目。
ガラリと社務所の戸が開き、神祇官らしき男が飛び出してきた。
「お前たちっ! ……お、お前たち? 誰だ?」
守衛に呼び掛けようとして、それが自分の知っている相手ではない事に気が付いた。
その直後、槍が彼の胸を貫いていた。
「ぐ、ごふぅ……」
血を吐きながら槍を掴もうとした腕を、振り払うようにして横へと倒される。
「止むを得ん」
二人は再び顔を見合わせ、呻くように呟くと、続けて社務所から飛び出してきた男も、同じように突き殺した。
藤枝たちが拝殿を出た頃には、その場は死屍累々となっていた。
守衛のフリをしていた二人と、集まってきた技術官たちの戦いに、鳥居の下で伏せていた村の者が駆けつけて、混乱に拍車を掛けた。
鎌や鉈、包丁を振り回す集団に、不意を突かれた技術官が斬り付けられる。
対して、数人の技術官が降神し、術を使って攻撃すると、村の者はろくに抵抗も出来ず倒れていった。
だが、その僅かな時間に、現場は冷静な判断を失ってしまった。
洞窟内から逃げ出してきた者も、外にいた者も、その場に倒れる数十人をただ見つめ、対応出来ずにいた。
より優先すべき問題があるにも関わらず。
「な……なんだこれは!?」
拝殿から出た藤枝は、驚きながらすぐ傍にいた者に問い掛ける。
「判りません。私も、出てみればこんな有り様で……」
ギリリと歯を噛み、藤枝は階段を駆け下りる。
倒れている者をざっと見回し、すぐに事の次第を察した。
何人か研究所の者が含まれているが、殆どは下の村の人間だった。
「そういう事か……っ!」
下の村の者が洞窟に侵入し、銀の蔵を、銀の社を開いたに違いない。
だが、今、それをどうこう言っている場合では無い。
「負気の塊が来るっ! 迎え撃つぞっ!」
そう叫ぶ合間にも、背後から黒い靄状の負気が溢れ出て来ていた。
本当に、もう後が無い。
「戦えぬ者は山の上へ逃げろ! 残る者は全ての術を叩き込めっ!」
山の上へと指示したのは、麓の村が危険であるからと、もう一つ、液体状の負気に重さがあるように見えたからだ。
地面を這うように進むそれは、溢れ出れば坂を下って谷へ向かうのでは無いか、咄嗟にそう判断した。
「女官長様、これを」
先ほど術札を持って駆けつけてくれた若者が、包みを解いて術札……らしき物を取り出す。
「……すまん、私にはよく判らない。お前が使ってくれるか?」
「はい、お任せください」
若者は場違いなほどの笑顔で応え、拝殿に目を向けた。
溢れ出る負気は濃さを増し、開いたままの本殿の奥に、ドロリとした物が見え始めた。




