第五十話 露天風呂
一般的に、毎日湯に入る風習は無い。
湯船いっぱいの湯を沸かすには、当然、大量の水を汲んでくる必要があり、同じく大量の薪を消費する。
時間を掛けてそれらを用意するのは、他人に用意させる事が出来る貴人たちだけだ。
兵士の身分にある者にそんな事が出来るはずも無く、連日繰り返される訓練で汗をかいた後でも、水で濡らした布で拭うのが精一杯である。
普通ならば。
ここ、湯川の町は古くから温泉町として栄え、誰でも利用できる公衆浴場が整備されている。
基本的には、外から来た湯治客の為の物だが、町の人間も日常的に使っている。
勿論、湯川付きの兵士も、入る事が許されていた。
兵士は身の回りの事を、自分たちで行わなければいけない。
夕食の用意、片付けなどは当然のこと。
だが、それさえ済ませてしまえば、夜番の者以外は自由に活動できる。
殆どの者はこの時間帯を利用して公衆浴場へ向かう。
ただ、今日に限って、唄太は仲間とは連れ立たず、途中にある温泉宿、赤壁亭へと向かった。
小鞠に呼び出されての事である。
弓の鍛錬の後、ふと見れば唄太の箙(矢筒)に朱鷺の羽の矢が立っていた。
一瞬目を疑ったが、確かに自分の物では無い矢がそこに刺さっており、小鞠からの文が結ばれていた。
腰に付けていた時には無かったし、片付け中に小鞠が来た訳でも無い。
当たり前だが、矢を放って箙に立てる事など出来る筈が無い。
何をどうやったのか、驚きと興味を持って、唄太は小鞠に会いに来た。
赤壁亭の玄関先から顔を覗き込み、先日会った山吹に声を掛ける。
向こうも唄太の顔は覚えていてくれたようだ。
「小鞠ちゃんは少し御用がありますので、温泉にでも入ってお待ちください」
そう言われて、丁寧に案内される。
「上がりましたら、上の階の一番手前、左側の部屋でお休みくださって構いません」
まるで普通の客に接するように振る舞い、一礼して去って行く。
こちらが恐縮してしまいそうだった。
何にせよ、この後に公衆浴場へ行くつもりだったので、湯浴みの用意はしてきている。
唄太は遠慮無く、湯を使わせて貰う事にした。
その頃、一階の奥の間では、小鞠が指令書と睨めっこをしていた。
こちらに来てから、初の仕事だ。
ただし、小鞠を指名という訳では無い。父と、どちらが受けても構わない案件だ。
ただ、その内容が、少し変わっている。
「どういう事でしょう。……依頼は解りましたが、どうしましょうか」
依頼の目的は、霊獣の捕獲。
討伐では無く、捕獲という依頼は初めて見た。
更に、気になったのは、「どのような霊獣でも構わないので」という点だ。
「被害が出ている訳では無く、何でも良いから霊獣が欲しい、って事ですか」
部屋の端で腕を組んでいる弁柄に質問する。
彼は湯川郷付きの乙種隠密で、依頼の仲介、連絡、情報収集などを行ってくれる。
「そうらしいな。何かの実験か研究に使うんだろう。今までは無かった事だが、新しく始めたのかもしれん」
「それにしても、生け捕りですか」
霊獣は、基本的に強い。
弱い者でも中級鬼程度で、普通ので上級鬼並みだ。
人が襲われれば抵抗のしようも無い場合が殆どで、被害報告があれば討伐対象にもなる。
ただし、鬼と違って人に対して敵対的という訳では無く、実に自然的で、被害についても、たまたま捕食したのが人だったとか、そんな原因が殆どだ。
故に、実害が無い者を、態々討伐に行く事はまず無い。
「霊獣の捕獲実績って、有るんですかねぇ」
「聞いた事も無い」
そもそも、捕獲できるのか、あれらは。
「今、この辺りに出る霊獣って、何が居ます?」
「君のお父さんの活躍でかなり減ったが、馬掛道の大水蛙はまだ残っている。後は……、湯山の山猪、山津の向こうの二重の大蜘蛛、隣国になるが八坂の国に虚猿と言うのが出る」
「ふむ」
虚猿以外は知っている。
「猪と蜘蛛は、捕獲は無理ですよねぇ」
「恐らくな。その場で動けなくする事ぐらいは出来るかもしれんが、研究所まで運べんだろう。大きすぎる」
その点、大水蛙は大小様々居る。
つまり、選択の余地は無さそうだ。
「大水蛙、あれは、殺したら融けますよね」
「殺したら捕獲じゃ無いだろう」
ごもっとも。
「殺さないように、陸にあげて、袋にでも詰めるしか無いでしょうか」
「いや、どんな素材にしても、袋は破られるだろう」
「でも、あれは縛れませんよ」
大水蛙の体の殆どは、水そのもので出来ている。
「あれの、中身に縄は掛けられんか?」
透けて見える内蔵に。
「……どうでしょう。どのみち手足は止められませんし、水を吐くのも止められませんよ」
経験豊富な弁柄も、流石にうーんと頭を捻る。
「土で取り囲めないか?」
「出来ますけど。それ、引き摺って帰るんですか?」
大きな土の塊を引き摺って歩く少女は、さぞ目を引く事だろう。
「そうだな。小鞠には土で捕らえる所までやって貰って、後は運び屋に木箱に詰めてもらうとするか」
「……ん、それなら何とか。でも、山津に入れますかね?」
山津に怪しい荷物を運び込めば、衛士に呼び止められる。
「難しいかも知れんが、そこは運び屋に任せれば良いだろう。遠いが、北の極楽谷回りでも良いし、湯川道に抜ける林道が無い訳でも無い」
下手をすれば捕獲より運搬の方が大仕事かも知れない。
「そうですね。ではそのように段取りをお願いします」
「ああ、解った。丁度、運び屋連中が研究所の方に出ている。明日にでも戻るだろうから、そこで話を付けよう」
大まかな方向性が定まった所で、部屋の外に人の気配がした。
「失礼します」
声が掛かり、山吹が襖を開いて一礼する。
「お話中すみません。小鞠ちゃん、唄太さんがいらっしゃいましたよ。予定通り、露天の方に入ってもらっています」
小鞠に話しかけた後、ニヤリと笑った。
「はいっ、ありがとうございます」
小鞠も元気よく応え、笑みを返した。
「こんなに広々と手足を伸ばすのは、初めてかもな」
唄太は言葉の通り、手と足を伸ばし、湯の中で大の字になっていた。
町の大衆浴場も露天だが、非常に混み合っている。
比べれば狭い湯船だが、一人だとゆったりと浸かる事が出来た。
「他に客は居ないんだろうか」
まだ半分欠けた月を見上げながら、呟いた。
「へっへぇ、他のお客さんは御用で町を出てるのですよぉ」
期待も予想もしていなかった応えが、不意に背後から返ってきた。
「なっ、小鞠っ!」
咄嗟に伸ばしていた手足を窄め、振り返る。
「お前なに……っ、何やってんだお前はっ!」
「ふっふー、ここは混浴ですよ?」
「湯巻きはどうしたっ!」
小鞠は手桶を小脇に抱え、前を手ぬぐいで隠している、が、湯巻きは着けていない。
唄太は勿論、下帯を着けて湯に入っている。
「着けてませんよぉ」
見れば判る。
「成人したんだろ、湯巻きぐらい着けろよ」
言いながら視線を逸らす。
そんな唄太を気にも掛けず、小鞠は湯船の傍に屈み、掛かり湯を浴び始める。
「一応、母さんに貰ったんですけど、なんか変な感じがして、ねぇ?」
「ねぇ? じゃねえよ。大人になったら他人に股を晒すような事はするんじゃねえ」
「他に人は居ませんよ」
唄太の視界の端に、小鞠の白い足がするりと伸びてきて、湯に入る。
「いやいや、俺が居るだろ。恥ずかしくないのか、お前は」
唄太は更に目を、と言うより顔を逸らす。
「んー、どうでしょう。ついこの間まで湯巻きを着けろとか言われませんでしたし、そもそも、唄太とは一緒に入った事、ありますよね」
湯巻きは成人した女性が着ける物。
早熟な子は初潮を迎える前から着ける事もあるが、小鞠は着けて湯に入った事は無かった。
そもそも、普段は混浴には入らない。
「一緒に……いつの話だ?」
「いつだったでしょうか、ずっと昔に」
小鞠は口元に指を添え、思い出すように視線を空へと向ける。
「そうですねぇ、唄太が、高峯さんの所に引き取られた頃ですね」
そうだろう、一緒に入ったとすればその頃ぐらいの筈だ。
「……高峯さんは、どうでしたか?」
どう、とは、また曖昧な訊き方をするが、問いたい事は解る。
「あー、すまん、まだ話せてない」
「えーっ!」
小鞠はバシャリとお湯を叩く。
「どうしてですか!」
「どうしてって、非番でもないと山津までは行けんだろ」
唄太の首は小鞠と反対方向、ほぼ真横に向けられている。
「夜中にひとっ走りしたら良いじゃ無いですかぁ」
「無茶言うな。向こうにだって迷惑だろ。……ってか、くっつくな、胸が当たってる」
横を向いたまま、片手で小鞠の顔を押しやる。
「くぅ。夫婦になろうかという話をしているのに、胸ぐらいで……」
ぴーんっと閃いた小鞠の瞳が輝く。
「そう言えば、大きくなるんですよね」
ゴソゴソモゾモゾ。
「ちょっ、何やってんだっ!」
ごすっと唄太の手刀が小鞠の脳天に叩き込まれる。
「んくぅ、なにするんですか」
「こっちの台詞だろうっ、何やってんだ、痴女かっ!」
両手で頭をさする小鞠の、その胸元につい目が行ってしまって、唄太は再び顔を逸らす。
「えー、アレが大きくなるって聞いたんですが、まだ見た事が無くって」
唄太は頭を抱えそうになる。
「そういうのは、ちゃんと恋人になってからするもんだ」
「恋人になったら見せてくれますか?」
本当にこいつで良いのだろうか。
唄太は少し考え直す。
正直に言えば、身元のはっきりしない唄太にとって、結婚できる相手は、他に宛てが無い。
小鞠はちょっとおかしな所はあるが、見た目は可愛らしく申し分ない。
遠慮が無さ過ぎるような気もするが、楽しくやっていける相手だとも思う。
また、父親の事は唄太もよく知っているし、養父の友人でもある。
逆に言えば、お付き合いを始めてから、やっぱり止めますとは絶対に言えない相手だ。
逃げるなら今しか無い、だが、逃げた所で一生独り身の可能性が高い。
性格はアレだが、この縁談は非常に幸運な物にも思えた。
「ふむ。アレって、大きくなったら腕ぐらいになるんですよね」
「なるかっ!」
怒鳴りつけ、はあっと息を吐く。
「お前の知識はあれか、また変な本でも読んだか」
「本というか、絵で」
「うはぁ、都にはそんな物まであるのか」
「そんな物とは何ですか、そんな物とは」
「いやお前、そもそもだな、俺のアレが腕ぐらいあったとして、お前の体に入るのか? ちょっとは考えてみろよ」
「うーん……」
小鞠は再び視線を斜めにあげて、想像を膨らませる。
「男の人のお尻になら入るんじゃ?」
「入るかっ」
ズビシッ!
再び唄太の手刀が叩き込まれた。
「きゃあ、何するんですか」
「アレは尻に入れるもんじゃねえよっ。お前、いっぺん頭ん中洗い流せ」
「うぅ、酷いです。どの絵でもアレは一尺くらいありましたよ? 唄太のが……あっ」
小鞠は何かに気付いた様に、口元に手をやる。
「俺のが、なんだよ」
「そう言えば、受けの子のアレは、半分ぐらいの大きさに描かれていました」
「よし、ちょっと頭出せ、耳の穴から湯を入れて、俺が洗い流してやる」
唄太は小鞠の頭を両手で鷲掴みにして引っ張った。
「きゃあぁぁっ!」
「まったく、お前は……」
言葉を続けようとした、その瞬間。
スパーンッ!
「そこの貴方っ! うちの娘に何やってるのっ!」
突然、脱衣所の戸が開かれ、箒を持った女性が現れた。
「母さんっ!」
咄嗟に唄太が手を離し、振り返った小鞠が声を上げる。
一瞬で小鞠の母は唄太の元まで踏み込み、その米噛みに箒の柄を突きつけた。
「……貴方、唄太さん?」
鋭く厳しい視線が唄太を射貫く。
明らかに殺気を含んだそれに、まさに蛇に睨まれた蛙の如く、唄太は動けない。
温泉の所為だけでは無い、冷たい汗が頬を伝う。
「あぁ、唄太がお尻の危機ですっ」
「違うだろっ!」
ビシッと、本日三度目の手刀が決まる。
ただし、先の二度ほどの威力は無い。
「前に言ってたじゃ無いですか、夜這いを掛けた兵士が、親に見つかってお尻に……」
「違う、そうじゃ無い。ちょっと黙ってろ」
先ほどまでの殺気は霧散して、小鞠の母はあっけに取られたように二人を見ている。
唄太は湯船から出ると、その場で土下座した。
「すみません。戯れが過ぎました。ただ、その、無理矢理おかしな事をしようとした訳では無くて……」
コツンッと音を立て、箒の柄が唄太の目の前の床を叩く。
「どういう事、ですか?」
質問の声は、唄太では無く、小鞠に向けて放たれた。
「えぇっと、唄太とお付き合いを始めようかという話をしていたのですが、山吹姉さんが、男の人と仲を深めるなら、まず一緒に温泉に入るのが良いって奨めてくれて」
「まず、いきなり温泉ですか」
そう呟くように言いながら、くくくっと、ゆっくり振り返り、その先、脱衣所の中へと視線を向ける。
「山吹ちゃん?」
「ひええぇ」
僅かに怒気を孕んだ声に、脱衣所から山吹が飛び出してきた。
「すみません、絢音さん、良い案かと思って……」
「ある程度仲の進んだ、既にお付き合いしている恋人同士ならともかく、まずで一緒に湯に入る人がありますかっ」
「ごめんなさいぃ」
頭上で何事かが起こっているが、唄太は許しがあるまで平伏したままである。
一人、小鞠だけが呑気な声上げる。
「母さん、どうしてここへ?」
「小鞠が赤壁亭に行ったと聞いたので、私も一緒に湯を貰おうかと思って来たんだけど」
軽く息を吐いてから、小鞠の母、絢音が改めて話し出す。
「内湯の方には居なかったので、下に訊きに行こうかと通りがかったら、露天の方から悲鳴が聞こえて……」
「あぁ、それで」
「それで、何をされて声を上げたの?」
「あー」
小鞠は未だ頭を下げたままの唄太を窺う。
「えーっと、何だったっけ、唄太のあそこの大きさの話をしてて、お前の頭を洗い流してやるって怒られたんです」
「え?」
「へぇ?」
絢音と山吹がそろって変な声を上げる。
「それは……」
「小鞠ちゃん、アレの大きさの話は、特に小さいとか何とかは言っちゃ駄目だよ」
「あ、やっぱりちっちゃいんですか?」
山吹の助言に、小鞠は見当違いな応えを返す。
「くっ……」
唄太は僅かに呻いたが、顔を上げる事はしない。
「いや、ちっちゃいかどうかは知らないけど……、ちっちゃかったの?」
「え? 絵で見たのよりは……、あ、いえ、まだ見てないです。昔、絵で見たのは腕ぐらいあったので、それで……」
その言葉に、絢音は額に手を当て俯き、山吹は天を仰いだ。
「小鞠ちゃん……、絵には誇張の美学っていうものがあってね、大事な物は普通より大きく派手に描くものなのよ」
「そうなんですか」
「そうなの」
「ともかく」
絢音が二人の会話を割って止める。
「唄太さん、どうぞ顔を上げてください。すみません、勘違いで、失礼な事を致しました」
「いえ、こちらこそ。少し迂闊でした」
「湯冷めしてしまいます、どうぞ、湯船に浸かってください」
湯冷めと言うより、肝が冷えた。
促されるまま、唄太は湯船に戻る。
「小鞠は上がりなさい。一度体を拭いて、内湯の方へ行きましょう」
「はぁい」
ザバリと湯船から立ち上がる小鞠に、一同が驚いた。
「小鞠、あなた、湯巻きは?」
「え、着けてませんよ?」
見れば判る。
「あなたは、もう。成人したんだから、ちゃんと着けなさい。女湯ならまだしも、男の人と一緒なのに……」
ついうっかり、小鞠の白いお尻を見上げてしまった唄太は、慌てて向こうの空を眺めている。
その背に再び絢音が声を掛けた。
「唄太さんも、後で一緒に、ちょっとお話を聞かせて頂いてもよろしいですか?」
「あ、はい、勿論、よろしくお願いします」
「あー、二人の為に三階に部屋取ってますよ、そちらへどうぞ」
山吹が丁度良かったとばかりに提案する。
「……二人の為に、部屋を、ですか?」
ゆっくりと絢音が聞き返す。
「え……、えっと、気が早すぎた、ですか」
「山吹ちゃんも、後でお話ししましょうか」
「……はい」
項垂れた山吹を先頭に、三人は脱衣所へと向かっていった。
途中、桶を拾った小鞠は、ふと振り返った唄太と目が合い、何故か嬉しそうに笑顔を見せた。
「罠か」
これで退路は無くなった。
今更、やっぱりお付き合いは出来ませんとは、言える状態では無い。
「まぁ、良いか」
大きく息を吐いて、唄太は再び湯船に手足を伸ばした。
これが全部仕組まれた事なら、いっそ笑える。




