第四十九話 準備
小鞠は丁寧に雪掻きされた石段を登っていた。
神社に向かうのは、先日、取締役の虹子にお赤飯を届けて以来だ。
女組の長は未婚の女性の内、年長の方々から選ばれるが、それ以外に、相談役と取締役と呼ばれる役職者がいる。
相談役は既婚女性の内、比較的年上の方が、逆に取締役は比較的若い、数年前まで女組に入っていたような者が選ばれる。
虹子は結婚して五年になり、本来なら次に取締役を譲るべき頃を過ぎているのだが、人柄と、神祇官の娘という立場から、頼み込まれて未だにその役に就いている。
相談役も取締役も、外部の人間として女組に意見を述べるが、相談役は聞かれたら答えるという立場なのに対し、取締役は集まりにも顔を出し、積極的に関与する。
故に、若い娘たちからすると、虹子のような人物に長く務めてもらいたいのだ。
「こんにちはぁ、社掌さん。虹子さんはいらっしゃいますかぁ」
階段を上りきった先、鳥居を潜ってすぐのところにいた若者に、小鞠は声を掛けた。
彼は虹子の夫であり、この神社に務める地方神祇官である。
社掌は役職で、名前では無い。
湯川で生まれ育った者は、殆どが彼を名前で呼ぶし、小鞠もその事は知っていたが、面識の無い相手と言う事もあり、敢えて役職で呼んた。
「こんにちは。えぇっと、何方だったかな?」
「町の桶屋の娘で、小鞠と申しますぅ」
あまり神社から下りてくる事の無い彼の方も、まだ小鞠の顔は見覚えなかったようだ。
小鞠は笑顔で名乗りながら、相手の様子を窺う。
情報では婿養子に入って五年のはず。だが、まだ若く神祇官らしさは無い。
「ああ、小鞠さんね。何のご用かな」
掃除の手を止めて問い掛ける社掌に、さてどう説明しようかと考える。
この話はまだ男性には漏らさない方が良い。
既婚の社掌は男組には入っていないが、どこでどう伝わるか判らない。
「……女組の事で、取締りさんに確認したい事があって来たんですよ」
こう言えば、深くは追求してこないだろう。
「女組の……、そうか。虹子は社務所の方に居るから、どうぞ上がってください」
社掌は視線で社務所の入り口を指した。
つい先日も来たので、その辺りは小鞠も知っている。
「ありがとうございます。では、お邪魔します」
お辞儀をし、一度拝殿に進んで参拝した後、改めて社務所へ向かう。
玄関先で振り返ると、もうこちらは気にせずに、参道を掃き清めていた。
真面目そうな方だな。
ただそれだけの感想を持って、小鞠は再び前へ向き直り、中に声を掛けた。
社務所は、文字通り社務をする所で、神祇官の住まいはその奥にある。
女組の件でと話しかけた小鞠は、自宅の方へ案内された。
これも先日と同じ流れである。
暫くして、小鞠の待つ居間に、長い髪を緩く束ねた美しい女性が、茶器を持って入室した。
「お待たせしました」
「いいえ、突然お邪魔してすみません」
三つ指をついて頭を下げる小鞠に座布団を勧めてから、虹子はお茶の用意をする。
「それで、組長では無く私に話しと言うのは、何か困り事ですか?」
卓の上に茶を置いてから、先に虹子が問い掛けた。
やはり、まずは女組のお姉さん方に相談するのが普通なのだろう。
「すみません。ちょっと、お姉様方にお話するのは憚るべきかも知れませんので、まず取締りさんに相談しようかと思いました」
虹子は軽く頷き、探るような目を向けてくる。
「色恋事、ですか」
「はい、まぁ、ですねぇ」
言われてみればその通りだ。
ただ、今のところ色っぽい事は何一つ無い。
「町の、兵士さんとのお付き合いは、禁止されているのでしょうか?」
「兵士さん?」
虹子は驚きを露わにして目を開く。
「駄目ですか」
「あ、いえ。駄目じゃ有りませんよ。ただ、すみません、予想外だったもので、少し驚いてしまいました」
そんなに、珍しい事なのだろうか?
唄太の話では、少なくともここ数年、例は無いようだったが。
「兵士とお付き合いする人は、あまりいらっしゃいませんか」
「ええ、そうですね。兵士さんは数年で町を出て行く人が多いですし、昔は、乱暴な方が多くて、あまり近付こうとする女の子は居なかったですね」
数年前、まだ戦乱が続いていた頃だろうか。
それならよく解る。
ただ、今はもう事情が違うはずだ。
小鞠はお茶で口を潤し、話し始めた。
「町付きの兵士で伍長を務めている、唄太という方ですが、私と同じ山津の出で、父親同士付き合いがあります。先日、お赤飯をお渡ししたんですが、兵士は町の男組に入っていないからとお断りされてしまいました」
一息に話し、様子を窺う。
「まぁ、それは」
虹子が意識を向けたのは「お断りされて」の部分のようであった。
「聞けば、前例が無いだけで禁止はされては無いみたいだったので、取締役さんに確認をと、お邪魔した次第です」
虹子は頬に手を当て、軽く首を傾げながら、少し物思いに耽る。
「確かに、禁止はされてませんね。前例が無いのも確かですが」
「唄太は、禁止さえされてないのなら、吝かでは無いみたいです」
その言葉に、虹子の視線がスッと小鞠へ向かう。
「それでしたら、お相手さんも宜しいようでしたら、組としてもお止めする事は無いでしょう」
「本当ですかっ」
小鞠はポンと手を打ち身を乗り出す。
「ただ、その、……この町では、男の人が夜に女性の家へ通う事は、あまり無いんですよ」
それは知っている。
ただ、その状況でどうやって仲を深めていくのかまでは知らないが。
「皆さんは、どの様にしてお付き合いされているんですか?」
虹子の視線が横へ逸れた。
口元に手を当て、眉が疑問を訴えかける。
「そう、言われれば、どう……だったかしら」
それは自分への問いかけだろうか?
虹子はそのまま、ぐぐっと俯いて考え込む。
「えっと……」
この反応は小鞠にも予想外だった。
「虹子さんは、お父様の紹介だったのですか?」
「えっ? いいえ、違いますよ。夫からの申し込みです」
「それで、どうなさってたんです?」
虹子の視線は、今度は斜め上へ向かう。
「どう……」
「昼間は、お仕事がありますよね」
「あっ」
ポンッと手を打つ。
「そうそう。あの人は婿入りだったから、お父様に挨拶をして、その後は神社で勉強を始めたんですよ。だから私はそのお世話をしてて、徐々に親しくなっていきました」
嬉しそうに微笑む虹子に、しかし、小鞠の頭には疑問が浮かんだ。
「と、言う事は、交際を申し込まれた時は、まだ好きでは無かったんですか」
「それは、……どうでしょう。勿論、嫌ではなかったですが」
そんな事を言いながら、虹子は首を傾げる。
釣られるように、小鞠も首を傾けた。
「小鞠ちゃんは、どうだったんです? どうしてその方を好きに?」
好きに、と言うより、当たり障り無く、好都合だった、とは流石に言えそうも無い。
「どうでしょうか。何となく、ですかねぇ」
好きか嫌いかで言えば、好きな方であるのは間違いない。
「ああ、昔なじみでしたね。歳も近く?」
「あ、いえ、違いますよぉ。実はもう二十歳くらいです」
「えっ……?」
「え?」
「もう、二十歳、ですか」
この反応も小鞠には予想外だった。
歳の離れた恋愛は、反対されるのだろうか。
「歳が、気に成りますか?」
「お歳そのものでは無く、二十歳なら、そろそろ異動があるんじゃないでしょうか」
「あっ!」
考えていなかった。
現在、湯川の軍団は、正規の定数を満たしていない。
この先、唄太が出世するなら、国府か東陸道沿いにある東西の拠点、若しくは八坂街道の方に移る可能性が高い。
「むぅ」
折角戻ってきたのに、また離れる事になるのか。
そう考えて、すぐに思い直す。
そもそも、小鞠が戻りたかったのは湯川では無く山津だ。
父の仕事を助けたい一心だったが、それももう必要が無いらしい。
今となっては、美湯の国の中なら、何処へ移っても構わないのでは無いだろうか。
「うん。大丈夫です。どこへでも付いて行きます」
「わぁ」
虹子が感嘆の声を漏らす。
「愛ですね」
そうだろうか?
「私だったら、湯川を離れると言われると悩んでしまいますね」
普通はそうだ。
小鞠も山津に帰っていて、そこで隠密の仕事が多くあったのなら、付いて行こうとは考えなかっただろう。
笑ってごまかすようにして、再びお茶を口へ運ぶ。
ちょうどそこで襖が開き、小さな女の子が顔を出した。
「わあ、可愛い」
思わず口を衝く。
「瞳子?」
虹子が振りながら声を掛けると、瞳子と呼ばれた少女は、少し不安げな表情で小鞠に視線を向けた。
来客中に入って良いのか、悩んでいるようだった。
「こんにちは、瞳子ちゃん? 初めまして。小鞠ですよぉ」
小鞠が笑顔で手を振って見せると、瞳子もニコッと笑って母の元に駆け寄り、その背にしがみついた。
「ほら、瞳子。ちゃんとご挨拶して」
促され、ぺこりと頭を下げる。
その仕草も、実に可愛らしい。
「お母さん似ですね。美人さんになりそうな予感がします」
予感と言うより、これは確定だろう。
「すみません、恥ずかしがり屋で」
「いえいえ」
お邪魔した目的はもう果たした。
この後も長居する必要は無い。
「この件は、お姉様方にお話しすれば宜しいのでしょうか。男組の方には、どのようにしましょう?」
問われて、虹子は僅かに考える。
「そうですね。男組の方へは組長から申し送る事になります。組長へは、まず私から伝えておきましょう。小鞠ちゃんからは月末の寄り合いの時で良いですよ」
「はい、解りました」
女組の寄り合いで、誰々さんとお付き合いを始めましたと発表するのは、決まりでは無いが、定番である。
これが複数の女性から好意を向けられる男性であれば大騒ぎだが、唄太に限っては大丈夫だろう。
残りのお茶を一気に飲んで、湯飲みを茶托に戻す。
「今日はお世話になりました」
「いいえ、また困った事があったら何でも相談してください。恋愛の事でも、生活の事でも」
「はい、ありがとうございます」
挨拶程度は何度かあったが、虹子とちゃんと話をしたのは初めてだった。
流石、長年女組の取締りを任されるだけあって、物腰が柔らかく優しい人だ。
「瞳子ちゃんも、またいつかゆっくり遊びましょうね」
小鞠は、虹子の服を握ったままの瞳子に微笑みかけて、席を立った。
実験体三十八番と三十九番を使った実験は、研究所全体に申し送りがされるほど大規模な物であるようだった。
所属する全ての神祇官と、見習いの若手までが参加する事になっており、この研究所の全力を以て、最大何処までの霊力が込められるかを確認するらしい。
基本的に二度目は無い、一度限りの実験故の体制だった。
祈祷対象の神霊の選定は終わり、現在、神器に依せる祭祀の準備が進められている。
一柱は旭日の神霊、もう一柱は古くからこの場所で祀られていた神霊らしい。
計画自体は以前からあったのか、黄金色と赤銅色の青銅鏡が既に用意されていた。
急に慌ただしくなった各部署を他所に、雲雀はいつも通りの仕事を済ませる。
朝食の片付け、掃除、洗濯。
一段落すると、守貴から貰った飴桶を持って、ミヤたちの部屋へと向かった。
実験は三段階に分かれて行われる。
まず祈祷対象の神霊を神器に降ろす。
次に祈祷により実験体に術を仕込む。
そして最後に術の発動を試す。
第一段階は今夜から明日の朝に掛けて行われ、明日の午後には第二段階に移る。
ミヤとミクに飴を食べさせてあげるなら、今日しかない。
雲雀はもう一人の当番に声を掛け、部屋に入った。
「ミヤちゃん、ミクちゃん」
二人は昨日と同じように、天井をじっと見つめている。
ただ、よくよく観察すれば、瞬きはしているようだ。
雲雀はミヤの頬を優しく撫で、傍らに置いた桶から飴を摘まむと、口にそっと含ませた。
その表情に変化は無い。
勿論、雲雀の顔を見る事すらしない。
暫くミヤの髪を撫でた後、次はミクの傍へと移る。
同じく、ミクにも飴を与えてみたが、全く反応は無い。
解っていた事だが、解っていたつもりではあったが、気持ちは深く沈み込んでいく。
心のどこかでは、飴を口にして、微笑む二人を期待していたのだろうか。
雲雀は溜め息を吐きそうになったのを堪え、呼吸を整えて立ち上がる。
結局、全ては自己満足だ。
自分の罪悪感を少しでも軽くする為、やっているに過ぎない。
だからこそ、ここで溜息を吐いたりする訳にはいかない。
雲雀は飴の欠片を一つ口に入れ、目を閉じた。
守貴と一緒に食べた時は、もっと甘かったような気がする。
それも気分の問題なのだろうか。
そのまま口の中で飴を転がしながら、ミナとミヨの部屋へと入った。
「戻りましたー」
声を掛けながら中へ入ると、二人は向かい合う様にして、壁に凭れて座っていた。
一度雲雀の顔を確認し、それぞれ視線を床に落とす。
「飴を貰ってきました。如何ですか?」
努めて明るい声を出しながら、手に持った飴桶を見せるようにする。
「……飴?」
少し意外な事に、先に反応を示したのはミヨの方だった。
「うん。食べた事はある? 私は先日、知り合いのお宅で初めていただいたんだけど、すごく美味しくて。それで、みんなにも食べさせてあげたいとお願いしたら、分けて貰えました」
「……飴って、高価な物じゃ無いの?」
「ええ、たぶん」
「そんな物もあるんだね、この場所には」
それはどういう意味だろうか。
「この研究所の人じゃ無くて、近くの村でいただいたんですよ。湯川の町で売られているんですって」
「へぇ……」
腰を起こしたミヨを見ながら、ミナもこちらの様子を窺っている。
「ミヨちゃんは、食べた事あるの?」
「随分昔に」
雲雀が飴桶を置いて蓋を取ると、ミヨはその前に座って覗き込んだ。
「私が知ってるのとは、ちょっと違うな」
「違うの? 私はこれしか知らないけど」
そもそも雲雀は、湯川以外の町を知らない。
他の町には違う飴がある事など、知るはずも無い。
雲雀の反応には気も留めず、ミヨは桶の中の飴を一つ摘まんだ。
飴は食べやすいように、家で割ってきてある。
ミヨは一番大きな欠片を、いつの間にか隣りに来ていたミナに手渡した。
「食べてみな。たぶん、信じられないくらい美味しいよ」
そう言って笑いかけ、もう一欠片、二番目に大きかった物を摘まんで口に入れた。
そして、柔らかく微笑む。
ミヨがこんな風に笑ったのは、初めてかも知れない。
雲雀はつい見とれてしまっていた。
「おいしい……」
ミナも口元を手で押さえ、驚きの言葉を漏らす。
「でしょ? 私も初めて食べて驚いて、それで、みんなにもって思ったの」
嬉しくなって応えた雲雀に、ミヨは棘のある視線を放つ。
「みんなって、ミヤとミクは?」
二人は「みんな」に含まれないのか?
「二人には先にあげてきた。口には入れたんだけど、……なにも、分からないみたい」
「……そう」
呟くように応えて俯いたミヨに、釣られるようにミナも俯く。
「やっぱり、駄目そう?」
「まだ、何とも言えない」
床に視線を落としたまま訊いたミヨに、いつも通りの応えを返す。
「前の、魂を修復する実験ってのは、また続けるの?」
「それは……たぶん、やってみるとは思う。まだ一度も成功してないけど」
既に亡くなった数人に、最後の頼みとして行った実験だ。
他から持ってきた霊力で魂の穴埋めをする事は出来たが、人としての魂が足りない事に変わりは無かった。
一時的に命は取り留めたが、気が触れたまま、戻る事は無かった。
その結果を、ミヨは知っているし、見ている。
「魂って、心なのかな」
ミヨのその呟きは質問だったのか、独り言だったのか。
雲雀は何とも答えず、飴桶の蓋を閉めてミヨに手渡した。
「後は、二人で分けて。私は、買いに行く事も出来るから」
まだ昼だが、雲雀はこの後仮眠を取って、夜番に当たらなくてはいけない。
部屋を出て数歩で、つい溜め息が漏れた。
我慢しようと思ったが無理だった。
胸の中に、何かドロドロした物が溜まり、吐き出せなくなってしまったかのように思えた。
その日の夜。
神社の前庭と、洞窟の最深部に祭壇が組まれ、そこに祭祀用の供え物が届けられる。
実験の決定が急だったので、一度に全ての物を運び込む事になり、久しくなかったような行列になっていた。
米は俵で二つ、酒は樽で四つ、山菜、野菜、果物は籠でそれぞれ二つ三つ。
更には磯の香りがする海藻が入った籠や、生きた魚や海老が暴れる桶まである。
反物は麻の他、木綿や絹も積まれていた。
箱に収められて中が見えない物も含め、全てが人力で担がれている。
あまり見るなと言われていた麓の村の人々も、驚くほど明るい提灯を下げたその異様な集団に、思わず目を奪われた。
やがて、お社からも若い男たちが降りて来て、村長の屋敷の裏辺りで落ち合うと、手分けして上へと運んでいった。




