第四十六話 唄太と小鞠
昨夜の雪で、湯川の郷はすっかり白く染まっていた。
常日頃、降るとは言っても一寸二寸だが、一冬に数回、尺単位で積もる事がある。
早朝からの雪掻きも一段落して、小鞠は町人橋を渡り、最近お気に入りの貸本屋に向かっていた。
大きな声では言えないが、湯川に来てから三日にあげず通っている。
その胸に抱えられた風呂敷包みには、何冊かの薄い本が収められていた。
「小鞠っ」
不意に、後ろから声が掛けられた。
この町で小鞠を呼び捨てにする男性は限られている。
勿論、聞き覚えのある声に、その名を呼びながら振り返った。
「唄太ぁ? どうしたんです、こっちへは珍しいですねぇ」
軍団の陣所は町の下手側にある。
町人橋の、しかも本通りとは逆の方から来た事に、少し疑問を覚えた。
「いや、お前に用があったんだよ。店の方に行くつもりだったんだが、歩いてるのが見えたんで追ってきた」
「へぇ」
唄太が、何のご用だろうか。
小首を傾げた小鞠に対し、キョロキョロと辺りを見回した唄太は、本通りの方を指さした。
「あそこの茶店に入ろうか。……って、お前、時間はあるか?」
「大丈夫、急ぎじゃありませんよ」
小鞠は胸元の包みを見せるようにして答える。
これが出かけた理由だが、急ぎの物では無いと示して見せた。
「そうか、よかった」
なんだか何時もより落ち着きのない素振りの唄太は、わしゃわしゃと髪を掻きむしって、照れ笑いのような表情を浮かべる。
小鞠は先ほどとは逆の方向に小首を傾げた。
「唄太の奢りですかぁ」
僅かな疑問は心に納め、まずは唄太の用とやらを聞いてみるべく、小鞠は軽い足取りで歩き出した。
ずるっ!
「あっ!」
その浮ついた足を、凍てついた橋板が容赦無く滑らせる。
「あぶっ……!」
咄嗟に支えようとその両肩を掴んだ唄太だが、その足下も覚束無い。
踏ん張りが利かず、そのまま足を取られて尻餅をついた。
ズシャーッ!
唄太が小鞠を抱きかかえた状態で、二人は橋の袂まで滑り込んでいった。
クスクスと、周りから小さな笑い声が聞こえる。
「痛……、小鞠、大丈夫か?」
仰向けに倒れた唄太が、小鞠に声を掛けながら体を起こす。
「うぅ、びっくりしました。唄太も、ちゃんと支えてくださいよぉ」
足を滑らせたのは自分の方なのに、小鞠は唄太の胸をぺしぺしと叩いて責める。
「大丈夫?」
不意に優しげな声が掛けられ、正面から手が差し伸べられた。
二人が改めて前を見ると、長い髪を三つ編みにした、線の細い女性が微笑んでいた。
「あ、山吹姉さん。ありがとうございます」
名を呼びながら、小鞠はその手を取る。
引き起こされて、雪を払おうとするが、小鞠自身はそれほど汚れてはいない。
代わりに、唄太の袴が大変な事になっていた。
「うわっ」
小さく声を上げ、自分で雪を払う唄太に手を貸すように、山吹も太股から尻に欠けてパンパンと叩いてくれた。
「ああ、ありがとう。えっと、小鞠の知り合い? ですか?」
年は唄太の方が上だが、念のために「ですか」を付ける。
「はい。初めまして、ではないですね。ご挨拶するのは初めてですが」
「あ、はい、そうですね」
そこへ小鞠が袖を引くようにして割って入り、言葉を付け足す。
「お名前は唄太ですよぉ。山津の舟屋の高峯さんの養い子です」
「へぇ、それは……」
一瞬、山吹の視線が鋭くなる。
「今は家を出て、恩を返す為に働いてるそうですよ。で、唄太。こちらは赤壁亭の山吹さんです」
「赤壁亭?」
山吹の変化には気付かず、唄太は問い返す。
勿論、赤壁亭という温泉宿があるのは知っている。
「はい。赤壁亭で仲居の真似事をしております。尤も、もうすぐ嫁に出てしまいますが」
その言い回しから、亭主の娘かと判断する。
「へえ、それはおめでとう」
「ありがとうございます」
山吹は唄太の言葉に礼を返し、ニヤリとした笑みを小鞠に向けた。
「小鞠ちゃんも、いい人を見つけたようね」
「あ、唄太は……」
小鞠は親指から中指までを立てて顔の前に軽く振り、そのまま肩口に流す。
その動きに唄太は怪訝な表情を向けるが、山吹は一瞬間を開けて聞き返す。
「ん? 恋人じゃないの?」
「違いますよぉ」
「え、いや、その事で、話が……」
簡単に答えた小鞠に対し、唄太は少し慌てて答える。
「……? 唄太? 話って」
「あの、あれだ。あの、赤飯の件で」
キュピーンっと、山吹の瞳が輝いた。
「えっ、お赤飯? 小鞠ちゃんが?」
先日の挨拶回りで、当然ながら山吹にもお赤飯を贈っている。
小鞠が成人した事は、勿論把握している。
「あ、はい」
余っていたので、と言おうとして、ふと考える。
唄太は、お赤飯の意味を、真面目に受け取ったのでは無いか。
「で、お返事は……、あっ、今からお返事かっ!」
山吹は両手で口元を覆い、一歩後ずさる。
ああ、そういう事か、と小鞠も今気が付いたが、言葉には出さない。
チラリと横を窺うと、年甲斐も無く唄太が真っ赤な顔をしている。
ここで、そんなつもりは無かったと言うのは有りだろうか?
そのまま三人は、無言で暫く立ち尽くす。
「え……っと、うちに、場所を貸しましょうか?」
「え?」
うち、とはつまり、赤壁亭で?
小鞠と唄太は、思わず顔を見合わせる。
「それは、気が早いような……」
親に秘密の交際をする男女が、宿を借りるのはよく有る事だ。
ただ、それは深い関係になってからの話である。
唄太もやんわりと断った。
「そう? 入り用になったら声かけてね、いつでも都合付けたげるから。勿論、ご両親には内緒で」
山吹は口元を隠して小さく笑う。
「それじゃあね」
軽く手を振り、上手へ向かって歩き出した。
その後ろ姿を見送って、小鞠と唄太は再び顔を見合わせる。
「えぇっと、とりあえず茶屋に入るか」
「うん」
「足下に気を付けろよ」
言われて、先ほど滑った橋を振り返った。
この町の橋は真ん中が膨らんだ弓なりの形状に成っている。
「どうしてここの橋は、真ん中が膨らんでるんですか? これじゃぁみんな滑りますよねぇ」
「上から丸太を流してくるからだよ。だから真ん中に橋脚が無い凸型なんだ」
「へぇ」
話しながら歩き始める。
「普通は筏に組んでから流すんだけど、こっから上は川が細いし流れが速いから、丸太のまんま流すんだと。で、町の下手の材木屋で受け止めて、そこで筏に組むんだよ」
「下流の、山津では平らな橋でしたよ」
「あの辺りでは川幅が広いから流れも緩やかだし、水面から橋までが高いだろ? それに所々橋脚の隙間が広く作られてて、筏や川舟はそこを通るんだ」
「ああ、そう言えば、舟屋さんでしたね」
「そう言えばって何だよ」
唄太は舟屋で積み卸しの手伝いをしていたが、高峯家に引き取られてからは、国府まで舟に乗っていく事も多くあった。
その中で、川の流れや橋についても学んでいる。
唄太は、どうなっているかだけでは無く、何故そうなっているのかまで、興味を持って人に訊いていた。
「どうして、舟屋さんに成らなかったんですか?」
小鞠は、以前からの疑問を訊いてみた。
「んー、高峯さんとこには跡取りがいただろ? 俺の為に舟を用意してくれるって話もあったんだけど、そこまでしてもらう訳にはいかないし、それに、商売敵には成りたくなかったしな」
唄太は目線を上に上げ、思い返すように言葉を続けた。
「舟屋は舟一艘あたりで稼ぎに成る。元締めは別にいて、舟ごとの働きで金が貰えるんだ。俺が舟を持っても、高峯さんの稼ぎが倍になる訳じゃ無いんだよ」
「頂いたお金を渡す訳には?」
「そういう風には成ってないんだよ。下手すりゃ高峯さんとこが悪く言われる」
「なるほどぉ」
小鞠は茶店の床几に腰を下ろした。ふんわりとした毛氈が敷かれ、意外に柔らかい。
しかし唄太は腰掛けず、左右の通りを窺う。
「……中に入らないか?」
人目を気にしているのだろうか?
先ほど滑って転んで大分目立ったので、今更な気もするのだが。
「いいですよぉ」
応えて、立ち上がる。
御用聞きに来てくださったお姉さんが、その遣り取りと聞いていたようで、そっと奥へと促してくれた。
唄太は迷わず一番奥の座に座って、そのままお姉さんに声を掛ける。
「善哉二つ」
意見も聞かずに注文したが、特に文句は無い。
小鞠も黙って向かいに座った。
もう、何の話かは見当が付いている、どちらか、までは判らないが。
手を組んで両肘を付く唄太に、小鞠の方から問い掛けた。
「それで、お話って……」
「すまん」
いきなり振られた!
ちなみに、振った振られたは袖の振り方で、縦に振るのがお受けします、横に振るのがお断りである。
当然どちらも袖を振っているのだが、何故か断られた場合のみ「振られた」という言い方をする。
勿論、普通振り袖は女性がする物だ、男性に振られるのは珍しい。
「正直、そんな風に思ってくれるのは嬉しかったんだが」
……実は何とも思ってなかったのだが。
「兵士は、町の男組に入ってないし、基本的に、町の女に手を出すなって言われてんだ」
「へぇ」
それは初耳。
でも、あり得る話かも知れない。
「殆どの奴が数年で入れ替わって町を出て行くから、嫁に連れて行かれると、結果的に町の女が少なくなるし、当然、地元の男たちに取っちゃ自分たちの女を奪われる事になる。そんなこんなで、昔かなり揉めたらしい」
それで「奪われた」とか言い出す地元の男も情けないと思うが、理屈は解る。
小鞠は他所から来た女だが、町の女組に入っているからには、その掟には従わなくてはいけない。
「禁止されているなら仕方ないですね」
「すまん」
唄太は卓の上に手を突き、頭を下げた。
存外、真面目な性格のようである。
思えば、幼い頃から仕事をもらって働いていた事も、舟屋に恩を返す為に兵士になった事も、この真面目さ故か……。
「んー、……ちょっと惜しいですねぇ」
「へ?」
小鞠の呟きに、唄太は怪訝そうに顔を上げる。
振られておいて、惜しいという言い方はおかしい。
しかし、小鞠は気にせず他の事を考えていた。
山吹もそうだが、隠密が嫁に行くなら、相手も隠密である方が良い。
当然の事だ。
だが、意外に丁度良い相手と巡り会う事は少ない。
任務でたまたま落ち合う事はあるのだが、そういう場合は大抵、任務が終われば離れてしまう。
地方の、隠密が少ない地域で、長期間共に過ごす事は殆ど無いのが実状だ。
唄太自身は隠密では無いが、後見人の舟屋、高峯が山津付きの隠密である。
また、血縁が居ない事も好条件だ。
少し年は離れているが、顔は……まあ良し。そして槍の腕はかなりの物だと聞いている。
「……唄太、今、役職は?」
「伍長だが?」
伍長は軍団の最小部隊、五人組の長である。
役付きとしては最下級だが、この上は五十人を指揮する隊長になるので、今の唄太なら妥当な所だ。
改めて見れば、そこそこの優良物件。
「んー……」
「小鞠? おい?」
「ちょっと保留、かなぁ」
「なんでだよっ!」
何故か怒られた。
善哉を運んできてくださったお姉さんが、ビクッと怯える。
「ああ、すいません」
慌てて唄太が取り繕う。
「いえ、大丈夫です」
明らかな作り笑顔を浮かべ、善哉とお茶を卓に並べると、そそくさと引き返していった。
小鞠は善哉の入った椀を両手で包み、それを見送りながら唄太に注意する。
「もう、脅かしちゃダメですよぉ」
「誰の所為だよ……」
唄太は片手で湯飲みを取り口に運んだが、熱くて飲めなかったらしく、そっと卓に戻す。
「で? 保留ってなんだよ」
改めて聞き直される。
「んー、唄太は悪くないのですが、もうちょっと、周りに相談、でしょうか」
「なにを言ってるんだ、お前は」
確かにお断りを入れたはずなのに、小鞠の反応はどこか的外れだ。
「その、兵士と町娘がお付き合いすると、どんな事になるんですか?」
「うん? いや、罰則がある訳じゃ無いんだが、聞いた話では、いざ事に及ぼうかとした時に、相手の親父に踏み込まれて、穴に箒の柄を突っ込まれた奴が居たらしい」
「おぉー」
悲惨な出来事に、何故か小鞠は感嘆の声を上げる。
「やっぱり男同士はお尻の穴でしょうか」
「なにを言ってるんだ、お前は」
本格的に意味が解らない。
「男は尻以外に穴は無えよ。あと、突っ込まれたのは箒だからな?」
「ですよねぇ。昔は男の人にも、男同士の穴があると思ってたんですけどねぇ」
「なんだそりゃ」
「物の本には『お尻の穴』という表記と『ケツの穴』という表記があったんですよ。ケツって、そもそも穴の事でしょう?」
「ちょっと待て、お前、何の本を読んでんだ」
思わず唄太は身を乗り出す。
「都で流行ってた浮世草子ですよぉ」
ふと思い出して、小鞠は脇に置いた包みから、薄い本を取り出した。
「何冊か持ってきましたが、これなんか、これから流行ると思いますよ?」
そう言って、唄太に表紙を見せる。
『三本松砦の十一人』と書かれたそれは、一見すると戦記物のようにも見える。
「それ、……男色物じゃねぇのか?」
「おお、唄太っ、流石です」
「流石じゃねえよ!?」
唄太は思わず声を荒げる。
「これは良いお話ですよ? 小さな砦に追い込まれた十一人が、互いに励まし合いながら懸命に戦い、最後は散っていく悲劇物なんですが、それだけでは終わらないのです!」
急に熱が入って語り出した小鞠に、唄太は押し負けるように身を引いた。
「最後の夜、敵の篝火に囲まれた砦の中で、全員がお尻を差し出して、輪になって貫き合うんです!」
「……おい」
「そして見習いの美少年が隊長のお尻で男になった所で、隊長が『俺たちは一つだっ!』って叫ぶんですよ」
「小鞠、ちょっと」
「最後の最後に、隊長が見習いさんに『お前は俺たちお姫様だった』と言って口付けする場面など、涙無しでは見れませんっ!」
「おいっ! 小鞠っ!」
「……なんですか?」
何故か唄太は卓に突っ伏している。
「お前、声がデカすぎる……」
ふと見ると、店内の客が興味深げにこちらを窺っている。
「これは、……失礼しました。つい盛り上がってしまいました」
こほんっと小さく咳払い。
落ち着いてお茶を頂く。
「こっちに帰ってから、御本の話が出来る相手がいなかった物で」
「お前、都で何を勉強してきたんだ?」
「それはそれ、これはこれ、ですよぉ。山都には”物語を書こう”っていう同人会があって、そこの写本は結構人気なんですよ」
言いながら『三本松砦の十一人』を唄太の前に進める。
「なんなんだ、そりゃ」
唄太はそれを受け取ると裏返し、まず最後の頁を開いた。
「誰がそんな……」
そこには奥付が書かれている。
作者の名前と、写本を作った人物の名前。
写本者が一人という事は、原本から直接書き写した本であるということだ。
著者 花鳥院 風月斎
写本 土御門 小鞠
「お前じゃねーかっ!」
スパーンッ!
唄太は思わず草紙を叩き付けた。
「ああっ、何するんですか!?」
「お前が書き写してるんだろうがっ! こんなもん流行らすな!」
「酷いですっ。これは良い物語なんですよ!」
二人は勢いで、向かい合って立ち上がる。
一触即発の緊張感に、横手から怖ず怖ずと声が掛けられた。
「あのぉ、他のお客様のご迷惑になりますので、もう少し、お静かに……」
「……」
「……」
唄太と小鞠は店のお姉さんと周囲に頭を下げ、改めて座り直した。
「……残念ながら、物語の趣味は合わないみたいですね」
「合う訳ねえだろ……」
唄太は、はぁーっと長い溜息を吐く。
「他は問題無いのですが」
「無いのか!?」
予想外な小鞠の言葉に、驚いたように顔を上げる。
「んー、無いですよ?」
小鞠はのんびりとした調子で言い退けた。
「いや、だから、兵士は町の女と付き合えないんだって」
「禁止、では無いのでしょう? それなら、ちゃんと話を通したら、なんとかなりますよ」
話が逸れてしまったが、先ほどの例えなどは、男組、女組、相手の親の誰にも話を通さず、いきなり家に行ったのだろう。
それなら無理があって当然だ。
箒の柄だっただけで、ありがたいと思わなくてはいけない。下手をすれば槍で突かれている。
「女組の取締りに相談してみます。唄太はまず高峯さんに話をしてみてください」
「マジか」
「マジですよぉ」
婿に取るか嫁に行くか、どちらにしろ養い親であり後見人でもある、高峯の主人の意向は確認しなくてはいけない。
ひょっとすると、隠密には関わらせたくないと、言われる可能性も有る。
「女組で良しと言われれば、男組の方は大丈夫ですから、きっとなんとか成ると思いますよぉ」
「本当かぁ?」
唄太は半信半疑だ。
「成らなかったら、唄太が町の男に闇討ちされますねぇ」
そう言って、小鞠は楽しそうに笑った。
三日と開けずかと思っていましたが、三日にあげずが正しいらしいです。
小鞠が貸本屋に通っているのは、借りて読む為では無く、手持ちの写本を売り込む為です。




