第四十三話 穢れた銀
「それは普通の銀ですね」
小鞠の言葉に、奇妙な物が含まれている。
つまり、普通では無い銀が存在するという事か。
「閂が、外されてるようです」
扉に触れて、小鞠が呟く。
被いの付いた鍵穴があるが、それには触れず、そのまま、ゆっくりと力を込めて押し開いていった。
その動きを背後から眺めながら、芹菜は思わず息を飲んだ。
急に、強い負気の匂いが、部屋の中から溢れ出したのだ。
「これは……」
扉の外から中を覗き込み、小鞠が声を上げる。
「壊されてる」
言いながら、戸を潜った。
衛士長が小鞠を追って部屋に入り、芹菜もそれに続く。
中はかなり広い、四十畳ほどはあるだろうか。他と違い、人工的に削り出されたような真四角の空間が広がっている。
異様なのは、その全てが銀で覆われている事だ。
そして、鬼も負気溜りも存在しないのに、部屋全体から、負気の匂いが漂ってきている。
小鞠は小走りに、壊されているという、それに向かって駆け寄った。
「銀の社か」
衛士長が呟く。
だがそこにあるのは、上と前が開いた、銀の箱のような物。
その周りには、金属片が散らばっていた。
「すでに、ある程度持ち出していますね、これは」
小鞠は傍に膝を突いて調べる。
部屋自体が負気を放っている、その中でも、特にそれから強い匂いを感じた。
「それは、何ですか?」
負気を放つ銀。
それについて問い掛けた芹菜に、小鞠はまったく別の質問を返す。
「芹菜さんは、小鬼や鬼の子を身籠もった女性が、なぜ負気に侵されないかご存じですか?」
「ええ、勿論」
残念ながら、芹菜はその事について詳しい。
「子を身籠もる子宮という臓器が負気に侵され、それが境目となって内側に負気を溜め込むから、ですね」
そして、体内に負気溜りが出来て、そこから小鬼が湧く。
もしくは鬼の子が宿り、人の子と同じように成長していくのである。
「そうですね。人以外の、牛や猿も、同じだそうです」
そうだ、だから母体が負気によって死亡する事無く、小鬼を産む。
「そこで、それを利用して、負気を溜める事が出来ないかと考えた学者が居たそうです」
「ええ?」
溜めてどうする。
それは……。
「それは、人工的に負気溜りを作る?」
鬼の村がやっているように?
「負気溜りを作るのが目的では無く、負気を永遠に封じ込めておく方法、それを見つけ出す為の研究だったそうですよ」
「そんな無茶な」
それが出来るのなら素晴らしい事だが、現実的とは思えない。
「実験自体はそれほど無茶では無かったようで、牛の体内から取り出した子宮でも、ある程度の負気は溜める事が出来たそうです」
「それが、破けたらどうなるんです」
「勿論、小鬼が出るでしょう。ただ、破かなければ、小鬼が内から破いて出る事は無かった、という事です」
そう聞くと、芹菜も一瞬、希望が見えたような気がした。
だがしかし、世界中の負気を集める事など無理な話だ。
何より、危険すぎる。
それに、負気に侵された子宮が大量に必要になるはず、と考えて、目の前の物に思い至った。
「……まさか、その銀は」
負気を放つ銀を、指さして問い掛ける。
「はい。これが長年の研究の末に作られた、負気を通さない、穢れた銀です」
何だそれは。
負気に侵された銀?
そんな物が存在するなんて、聞いた事も無い。
「でも、それ自体が負気を放ってますよね。部屋の外からは負気を感じなかったのに」
自分の言葉にハッとして、芹菜は部屋全体を見渡す。
「壁も、扉の内側も、全てそれですか」
「そうですね。多分そうだと思います。私には少し黒っぽい感じの銀にしか見えないのですが」
そう言いながら、小鞠は落ちていた銀片を拾い、光に当ててみる。
「たぶん、穢れた銀自体は負気を放ってないんじゃないか。負気を放ってるんなら、いずれ普通の銀に戻っちまうだろ?」
小鞠の横に立った衛士長が、同じく銀片を覗き込みながら言った。
「じゃあ、この負気は」
「以前、ここで、この銀の社に封じ込められていた負気の残りでしょうか」
事も無げに言った小鞠の台詞に、芹菜は愕然とする。
「それは、つまり」
僅かに体が震えるのを感じる。
「そう、かつて、穢れた銀を利用した、負気の封じ込め実験が行われ、何らかの理由で、その大量の負気が解き放たれたんです」
「まさか、……それが」
そんな事が起こったのなら、当然の結果が待っている。
「七年前、湯川の町を、湯川道の村々を襲った、鬼の大量発生の原因です」
グラリと、目眩がした。
「そんな……、人を守る為の皇儀が、またしてもそんな事を」
多くの人を死に追いやった災害が、皇儀によって引き起こされる。
それは在っては成らないはずだ。
「じゃあ、それじゃあ、コマさんのご両親も……」
「はい、その時に」
町を守って戦い、命を落とした皇儀の隠密たち。
それは名誉な事だと思っていた。
いや、小鞠の両親は立派な方だったのだろう。だけど、原因が自分たちの仲間にあるなんて、そんな酷い話があるだろうか。
芹菜は頭を押さえながら、歯を食いしばる。
「……大体の話は理解できました。それで、コマさんはこれを運び出す事に反対なのですね」
「反対というか、先ほど初めて知りました。勿論、好ましくないと思っています」
当然だ。
その穢れた銀を、他で利用するという。
何に使うのかは知らないが、また同じような事が起こらないとも限らない。
「それで、もう一部が運び出されていると」
小鞠は壊されてると言った。
恐らくそれは、元々、箱状か、社の形をしていたのだろう。
「はい。これと、他にも穢れた銀で作られた武具や実験器、負気を集める道具があったはずです」
芹菜は眉をひそめる。
「またそんな、厄介な物を」
普段、負気を散らし薄めようと努力している芹菜にとっては、それを集める道具など、嫌悪感すら抱く代物だ。
「上は、当然、ご存じなんでしょうね」
口元に手を添え、俯くように呟く。
当然、本所の隠密や学者たちが、これを知らないはずは無い。
上が判断し、その指示で動いているなら、本来、芹菜が異議を申し立てる事は出来ない。
「いずれ、本所に戻った時に確認してみます。川崎屋さんにも話を聞いてみたいですが、とりあえず、一旦戻りましょう」
「そうですね」
ここに留まっていても、できる事は特にない。
それに、今は先にやるべき事がある。
「今後の対応について、相談させてください」
「はい」
応えた小鞠が先導するように部屋を出る。
続いた芹菜は、銀の扉を潜る時に、その表と裏にそっと手を這わした。
成る程、確かに何かが違う。
簡単に言うと、裏面、穢れた銀の方は、気持ちが悪い。
振り払うように軽く手を振り、小走りに小鞠の後を追った。
小鬼を押さえつけた藤吉郎は、その背筋に銀の管を突き立てた。
「ぎぃぃいぃぃっ!」
悲鳴のような叫びを上げ、小鬼は手足をバタつかせるが、藤吉郎は小揺るぎもしない。
最初の一匹を吸おうとした時には、捕まえておく事すら難しかったのに。
「……ぐふぅ」
一息に負気を吸い出し、息を吐く。
その吐息にも、負気が溢れ出していた。
更に銀の管に吸い付き、残りを貪る。
吸えば吸うほど、力が湧いてくる。
なぜ親方は、もっと多くの小鬼を吸わなかったのだろうか。
こんなに沢山の小鬼がいるのだ、もっともっと、吸う事が、力を得る事が出来たはずなのに。
ミシリッと音を立て、藤吉郎の両肩が盛り上がる。
腕も、脚も、既に元の数倍の太さになっているが、当の本人がそれに気付く様子は無い。
ただ、奇妙な空腹感が、背中を押す。
小鬼がビクリッと痙攣し、解けて負気に変わる。
その様子を見ていた他の小鬼たちは、怯えたようにそれぞれ柵の際まで逃げているが、それ以上距離を取る事は出来ない。
藤吉郎はギラリと視線を走らせると、その内の一匹に狙いを定める。
回避する余地も与えず、一足に跳んだ藤吉郎は、小鬼を鷲掴みにすると、肩口に銀の管を突き立てた。
「ズズズズズッ!」
たった一息で、その小鬼の負気を吸い尽くす。
ただ、腹が減っていた。
今まで感じた事の無い感覚。
小鬼を吸えば吸うほど、強くなるそれは、飢えだろうか。
だんだんと頭が重くなり、思考に靄が掛かる。
視界も狭くなり、息も苦しい。
ほんの僅かに、何かがおかしいと訴える意識が、自分自身を止めようとする。
だが、最早、体は言う事を聞かない。
ニタリと笑った藤吉郎は、次の小鬼に飛び掛かった。
社を通り抜け、洞窟に入った御大は、まず一番手前の部屋に草履が二足並んでいる事を確認した。
視線を走らせると、一つ先の部屋には三足の草履が並んでおり、そちらは板戸が開かれていた。
普通に考えれば、男性二人と女性三人に別れたとも思えるが、御大は迷わず三足の方の部屋へ向かった。
「入るぞ」
返事を待たず、襖を開ける。
合わせるように、中の障子も引き開けられた。
「お待ちしてました」
手前にいた芹菜が声を掛ける。
その奥、戸口に向かって小鞠と衛士長が座っていた。
「何処まで話が進んでいる?」
訊きながら御大は後ろ手に障子を閉め、その場に座った。
本来なら一番の下席である。最年長の座る場所では無い。
寧ろ、立場的には一番下位であるはずの衛士長が、最上席に座っているが、それについては誰も何も言わない。
「先に、奥の部屋を見せてもらっていました。今後の対応については、今から話し合う所です」
「そうか、それは良かった」
芹菜の返答に、奥の部屋の事は気にも留めないかのように応える。
恐らく、予想通りなのだろう。
「そちらはどうでした?」
「できる限り散らしてきた。明日明後日、国府からの増援が来てからの対処でも間に合うだろう。それと、ざっと見た限り、生き残りはいなかった」
芹菜はふうと一息つく。
予定通り、一段落だ。
「後は、鬼の村と、特級鬼ですね」
小鞠と衛士長は無言で頷く。
「どちらを優先するつもりだ?」
「特級鬼です」
御大の問いに、芹菜は即答した。
「村に残った鬼は時間稼ぎの為の者でしょう。明日の昼、銀の管と村の女性たちの受け渡しだけを行って、そのまま、暫く放って置いても良いかと考えます」
「成る程」
御大は胡座の上に頬杖を突く。
「しかし、奴の言っていた事に嘘があったらどうする? 既に、残りの鬼が、逆方向に逃げているかも知れんぞ?」
言われて、改めて神経を研ぎ澄ます。
芹菜の感じる匂いは、遮蔽物の影響をあまり受けない。この洞窟の中からも、感じ取る事は出来る。
「確かに、鬼の村そのものをまだこの目で確認していませんが、負気の総量は見当が付きます。それに、もし、離れて行っているなら、私の感じる匂いは弱くなっていくはずです」
芹菜は匂いのする方向、鬼の村の方へ視線を向けながら答えた。
「村の匂いは、ここに着いた時と変わりません。非常に感覚的ですが、こちらへ来た分の残りと考えて差し障りない量の負気が、鬼の村と思われる場所に留まっています」
「ふっ、便利な物だな」
断言した芹菜に、御大は小さく笑う。
馬鹿にした訳では無く、素直に感心しての事だ。
「鬼の村に残ったのが、本当に一匹なのかまでは判りませんが、今のところ動いていないのは確かで、この距離なら、動きがあれば察知できます」
「ふむ」
御大は座り直し、改まって芹菜に話しかける。
「……君は、何事も、得られた情報から答えを求めようとしてしまうきらいがあるな」
「どういう意味ですか?」
「作戦を立てる時、状況を判断する時、自分の知り得た情報で最良の判断を下すのは、当然の事だ」
勿論だ。
そうすべきであり、そうしない理由は無い。
「だがな、これも当然の事だが、自分が知らない出来事も、世の中には存在する」
「それは、解っています」
「なら、一つの答えに縛られるべきでは無いと考えるべきだ」
「……どういう意味ですか」
芹菜は先ほどと同じ言葉を発する。
「相手だって物を考える。敵の行動に対処する時、右か左の二択があれば、君は自分の持つ情報で、どちらが正しいか判断するだろう。だが、それが良くない場合がある」
「なぜですか?」
「言っただろう。君の知らない事があり得るし、敵も物を考えるからだ」
「ではどうしろと」
御大は一つ息を吐く。
「右か左を決めて手を打つのでは無く、右ならばこう、左ならばこうと、それぞれの対応が出来るようにしておくべきなのだよ」
言わんとする事は解る。
「それは、充分な戦力があればそうですが、今回のように手が少ない場合は、それこそ、町に残るか、動いてみるか、決める必要があります。下手に戦力を分散すれば、右も左も対処できないのではありませんか」
「手が足りないのなら、まず増やす方法を考えるべきだよ。実際、今回も衛士が鬼と出会ってなければ、村の鬼の大半を逃していた可能性が高い」
「それは……」
結果的には上手く事が運んでいるが、確かにそうだ。
芹菜は、鬼が今夜中に逃げる事は無い。清次を見つけても、それが清次であると断定できないと踏んでいた。
明らかな読み違えであり、その本質は、そうであったら良いという希望的観測だった。
「手が少ない、戦力が乏しいという時にこそ、不測の事態が起こる可能性を考えねばならないのだよ。なぜなら、人員不足は情報不足に繋がるからだ」
実働部隊である甲種隠密であり、一人で活動する事も多い芹菜は、その辺りの意識が少し薄い。
いつも乙種隠密からの情報を受けて、足りない部分は自分で調べていた。
人数を割き、情報を集めてもらうという考えを、忘れていたかも知れない。
「まず、自分が知り得た事が全てだとは思わぬ事、だ。それに、相手も情報を集めて判断をしている。自分の知らない事を知っている可能性は、いつも存在するし、同じ情報を手に入れたとしても、全く違う判断をする事が、往々にしてある」
「……はい」
少し落ち着いて、考え直そう。
現状、判っていない事は何か。
敵、特級鬼と、鬼の村の残党が、どう動く可能性があるのか。
「まぁ本来なら、情報の収集と判断は、私たち乙種の仕事ですけどねぇ」
溜息を吐くように小鞠が言った。
それはそう、本来ならば、小鞠や御大が充分且つ正確な情報を提供し、甲種の芹菜が行動を起こすべきだ。
だが、往々にして状況は変化する。
そもそも、今回は鬼絡みの案件では無く、全てが、芹菜が動き始めて明らかになった事ばかりだ。
御大も、それは解っているのだろう。
「どのみち、現状、戦力は乏しく、皆、疲労している。休まねば成らん事には変わりないだろう。行動は明日の朝になるな」
「はい。そうですね」
芹菜達は改めて、明日の朝の行動と、今夜中にしておくべき事を話し始めた。




