第三十九話 包囲
結局の所、芹菜は鬼の村へ辿り着いていない。
だから、そこにある負気の総量を正確には把握していないし、鬼の総数が百匹ほどだというのも、不確かな情報だ。
判らない。
恐らく、負気を探知できるほど、鬼の村には近付いているはずだが、今、目の前に居る鬼の群れの匂いが強すぎて、その向こうに存在するであろう負気まで判別できない。
百という数が間違いだったのか。
村に残った少数が非常に強力なのか。
負気溜りと小鬼が、ここに居る鬼と同程度の負気を持っているのか。
考えた所で判らない物は、判らない。
芹菜は目の前の鬼を倒すことに、意識を向けた。
「親方こそ、皆を連れて逃げてください。大して時間は稼げないかも知れませんがね」
一匹の鬼、先ほどの火性鬼がそう言うと、続くように数匹の鬼が、周りを掻き分けるように前へと出てきた。
「親方ぁ、後は頼んましたぜ」
「行ってくだせえ、他の連中の為にも」
「ああ、親方に救われた命、やっと使う時が来ました」
口々に語りながら、力を放つ。
とりあえず、五匹。
見た感じで判断すれば、火性、木性、水性が一、土性が二という所か。
他にも六匹程の属性鬼が居るが、群れに紛れてその性質まではよく見えない。
残念ながら、力の弱い鬼たちは向かってこないようだ。
「全員、散れっ! 生きていればまた会おうっ!」
覚悟を決めたのか、親方が突然叫び、自身も湯山に向かって駆け出した。
それを合図に、他の鬼たちも正面以外の三方へ、蜘蛛の子を散らすように走り出す。
その内、ほぼ半数が、親方と同じ湯山方面へ向かっていた。
同時に、手前に居た五匹が芹菜に襲いかかる。
「花梨ちゃん、やってっ!」
鬼たちに目を向けたまま、芹菜は姿を隠している仲間に指示を出す。
「火之迦具土命っ!」
右方、やや斜面の上の方から花梨の声が響き、一瞬の後に炎が広がる。
火之迦具土命の本来の攻撃、火球だ。
その爆風は、芹菜の所まで届き、髪と袴を煽る。
今まさに木の棍棒を振り下ろそうとしていた木性鬼が、背後の爆発に驚き、愚かにも振り返る。
「全雷」
芹菜は最初から手に握っていた、一枚の術札を放つ。
術札は、極めて少量の霊力で発動できるが、勿論、発動時に追加することも出来る。
普段よりも広範囲に、雷が雨の如く降り注ぐ。
術者を中心として円形に効果を発揮する術なので、今回は半分以上が無駄ではあるが、五匹の属性鬼と相当数の鬼を巻き込んだ。
「泥沼」
村に戻ろうとしていた鬼の前に、小鞠の術が放たれた。
真っ先に走り出そうとしていた十匹程度が泥に捕らわれて、転んだり、慌てて引き返そうとしたりしている。
なんとか踏みとどまった者がそれを手助けしようとする中、比較的体の大きな鬼が、隣りに居た女の鬼を抱きかかえ、一気に飛び越えようと跳躍した。
跳躍は、的でしか無い。
岩陰から躍り出た遮光器土偶が、土の塊を投げつけて、それを泥沼に叩き落とした。
「埴生土龍咬」
ポンと突いた土偶の手元から、何かが土を盛り上げ地中を走る。
泥沼を迂回しようとしていた鬼が三匹、突然躍り出た大きな口を持つ土の鰐に喰い付かれ、そのまま地面にめり込んだ。
「逃がしませんよぉ」
どこか楽しそうな感じさえ漂わせながら、無表情な土偶は次々と術を放ち始めた。
前を走っていた殆どの鬼は爆風で吹き飛ばされた。
その中で、親方と数匹の鬼が踏みとどまっている。
「やはり居たかっ」
花梨の姿を確認し、親方が身構える。
居ないはずは無いと思っていた、自分の前に現れたのは、ある意味好都合だ。
炎に巻かれた鬼たちは、のたうち回っている者も居るが、即死した者は居ない。
それを確認して親方がもう一度叫ぶ。
「散れっ、散開して逃げろ!」
指示を受け、体を起こした鬼たちが、左右に広がろうとする。
そこへ花梨の火球が叩き込まれた。
再び鬼たちが吹き飛ばされて転がる。
拡散するのを防ぐように、左右に放たれる火球によって、鬼の動きは制限される。
一時的にでも、花梨を止めない限りは北へ逃げる道は無い。
「おおおおぉっ!」
親方が吠え、花梨に突撃する。
最早、金性鬼としての力は失われていた。
手に握られているのは半ばで折れた刀だ。
だが、親方の後ろには四十匹ほどの鬼が続いていた、彼らを逃がすには、こうするしか方法は無い。
決死の覚悟で、花梨の待ち構える石垣の上に飛び乗った親方の前に、一人の若者が立ちはだかった。
一瞬の動揺が走る。
初めて見る顔。だが、奴らの仲間であるなら、同程度に強いはずだ。
咄嗟に親方は標的をその若者に変える。
悪手だと、心の中で思った。
だが既にどうすることも出来ない。
後に続く者達が、どうにか走り抜けてくれることを願いながら、親方は刀を振り下ろした。
親方が北へ向かったのを確認し、明光は南へと向かった。
芹菜が単独のはずは無いと、確信を持っている。
だから、一人でも多くの仲間を逃がす為に、恐らく伏せて居るであろう敵に、自分が当たるつもりだった。
出来れば、奴とは戦いたくない。
弁柄との戦いが頭をよぎる。
勝てない事よりも、読めない事が問題で、仲間を無事逃がす自信が無い。
そんな明光の前に現れたのは、願いが叶ってか弁柄では無かった。
走り出して十歩も行かない内に、道の脇の、礎石だけが残った家の跡地に、一人の老人が待ち構えていた。
見た目は老人であるが、背筋はピンと伸び、杖は突かずに上端と、その少し下を握っている。
仕込み刀か?
持ち方からそう判断した。
「そのまま進めっ!」
後ろに続く者にそう言い残し、明光は老人に躍り掛かった。
爪は伸びるが、炎を宿らせる事はもう出来ない。
勝ち目が無いのは火を見るより明らかだ。
それでも、僅かな時間稼ぎであったとしても、仲間の為、親方の為、今の自分に出来得る精一杯である。
明光は死を覚悟して、その爪を振り下ろした。
「土雷命」
地に突いた手から放射状に雷が広がり、鬼に触れた所で天に駆け上がった。
まるで雷の壁のようなそれに、芹菜の近くに居た鬼は粗方巻き込まれる。
立て続けに雷撃を受け、木性鬼は煙を噴きながら仰向けに倒れ、土性鬼二匹がひび割れて膝を突く。
だが、まだ死んではいない。
火性鬼と水性鬼は、苦悶の表情を浮かべつつも、芹菜に向かってくる。
更に、その背後から属性鬼が二匹。
もう何匹か居たはず。
そう思いつつも目の前の鬼に術を放つ。
「射水」
札を持っていた左手を前に翳すと、そこに水玉が現れて、直後に一尺ほどの水の串を前方にバラ撒いた。
「ぐおぉっ」
火性鬼は体を捻るようにして悶える。
しかし、当然のように水性鬼には殆ど効果が無い。
通常より明らかに長い手に、更に長い水の爪を伸ばして芹菜に斬り付ける。
「土鉤爪」
振り下ろされる水の爪を、右手の甲で薙ぎ払いつつ、三枚目の札から術を放つ。
芹菜の足下から三本の土の爪が、バネ仕掛けのように跳ね上がって水性鬼の下腹部に突き刺さった。
攻撃を弾いた勢いで、芹菜は左に動きながら前へ出る。
予め用意していた札はこれで全てだ。
足と手だけが大きい不格好な木性鬼が、芹菜を掴もうと腕を伸ばしてくる。
短刀を抜くのは間に合わない。
「裂雷命っ」
手が届く直前に、芹菜から放たれた雷によってその腕が縦に裂ける。
いや、裂けたのは木で出来た外装か。
芹菜はその裂け目の中に、本来の鬼の手を見つけ、続けざまに術を放つ。
「若雷命」
「ぐわぁああぁっ!」
木性鬼が仰け反り、悲鳴を上げる。
その肩口が吹き飛び、火を吹きだした。
もう一匹。
芹菜は向かってきていたはずの、残りの属性鬼を探す。
次々と仲間が倒れ伏した事に恐れを成したか、二の足を踏んでいるそれは、水性鬼か土性鬼か。
泥性鬼と言うのもいるのかな。
そんな事を考えながら、短刀を抜き放つ。
「雷火烈空斬っ」
飛来した雷火の刃によって逆袈裟に斬られた鬼が、泥と水蒸気を撒き散らしながら、ドウッと倒れた。
それを横目に見ながら、他の鬼たちを確認する。
現状、死亡した鬼は少ない。
最初の全雷と火球で倒れた鬼と、逃げ損ねた鬼がまだ広場に残っていた。
更に、湯山側へ向かった鬼の内、数匹が引き返そうとして広場の惨状を見、立ちすくんでいる。
奥の方、小鞠のいる辺りは、広範囲に渡って泥や土が噴き上がり、逃げる事も戻る事も出来ずにアタフタとしている鬼が多い。
残り四匹いた筈の中級鬼は、二匹ずつ南北に向かったようで、その後ろ姿が見える。
芹菜は弁柄たちと自分との間、南東方向に逃げようとする鬼を見つけ、背後から雷を放った。
上段から振り下ろされた攻撃を、清人は刀の峰で受ける。
ギンッと堅い音がして、親方の刃が跳ね上がった。
本来の清人なら、その動きに反応する事すら出来ずに、両腕を斬り落とされていただろう。
だが今は、目に見え、打ち返す事が出来る。
単純な力は、降神した清人の方が上回っていた。
ビリビリと腕に響く衝撃を感じながら、親方は下がらない。
やはり剣の腕は並み以下。
一瞬でそう判断した。
勿論、それで勝てる訳では無い事は、先刻承知である。
剣撃以外の攻撃が、必ず来る。
折れた刀の先が触れ合う程度の間合いで、正眼に構える親方に、しかし、清人は普通に斬り掛かってきた。
疑心暗鬼。
親方は剣以外を意識したまま、鎬で刃を受ける。
ガカッと予想外な音と衝撃が走り、三度刀は打ち砕かれた。
結局のところ親方は、神気や負気の強さ、そう言う意味合いの力の差には、意識が向いていなかった。
打ち込まれれば、受けても打ち砕かれる、それほどの霊力差が、あったのだ。
パリパリと小さな雷火を纏う清人の刃は、相手の刀を破壊しながら、腕を浅く切りつけた。
踏み込みの甘さが、清人の未熟さである。
二の太刀に移るより早く、親方は刀を捨て後ろに跳び下がった。
跳び下がったは良いが、最早、手は無い。
炎の刃を構えた花梨が、冷たい目で親方を見つめていた。
もしも決して折れない刀が有るなら、せめて一太刀と思えるのだろうが、今や逃げる事さえ出来ない。
次の火球は体で止める。
そんな覚悟を決めた親方の肩を、一匹の鬼が背後から叩いた。
「交代しますよ、親方」
それは、親方と同じくらい、八尺の背丈を持つ岩性鬼だった。
そしてもう一匹、小柄な木性鬼が脇に並ぶ。
「たぶん、一度しか無理です。他のみんなと走り抜けてください」
木性鬼と言うより、草性鬼か蔦性鬼か。
全身に蔦を絡ませた少女のような鬼が、バッと両手を広げた。
その袖から、裾から、緑の蔦が伸びる。
しかしそれは、戦いに使うにはあまりにも遅い動きだった。
跳び退いた親方を追い、一段高い石垣の端に清人が立つ。
親方はその姿を、隙だらけと判断したが、攻撃する手立ては無い。
代わりに、岩性鬼が前に出た。
今の内にと走り抜けようとした鬼に、花梨が放った炎の刃が直撃して燃え上がる。
迷う余地は無い。
「頼む」
短く言った親方に、岩性鬼は前を向いたまま「はい」とだけ応えた。
「走るぞっ!」
そう叫び右へ駆け出した親方に、花梨の火球が迫る。
来ると予想していた岩性鬼は、文字通り、体を張ってそれを受け止める。
「おおおっ!」
気合いを発し踏み止まるが、爆炎が消え去ると同時に、目の前に清人が踏み込んできた。
刀で岩の鎧が斬れる物か。
そう思い、人の頭より大きな拳を振り下ろす。
ドッと、鈍い音がして、清人の刀はその拳に斬り込んだ。
牛をも殴り飛ばす剛拳が、ピタリと止まる。
衝撃は清人の体を突き抜け、足を地面にめり込ませるが、それを意に介さず、裂帛の気合いと共に刀を振り抜いた。
「せぇぇやぁあっ!」
拳を横に斬り裂いた刃は、手首を通って肘の外側へ抜ける。
痛みは無い。有ったかも知れないが、驚愕がそれを打ち消した。
無意識に半歩下がるが、返す刃が追いすがる。
頑丈な岩に守られていたはずの胴体が、まるで葦の茎の様に、あっさりと薙ぎ払われた。
岩性鬼が親方たちを守る為に右へ跳び、清人がそれを追って動いた結果、木性鬼はたった一人で花梨と向かい合ってしまった。
だが花梨は、その存在を無視するかのように、腕を掲げて更なる火球を作り出した。
「させっ、ないっ!」
木性鬼が叫びながら飛び掛かるが、花梨はチラと見ただけで、火球を放つ。
咄嗟にそちらへ視線を走らせる。
親方たちを庇ってくれるはずだった岩性鬼は、胴を二つ斬りにされ、崩れ落ちる所だった。
無情にも、仲間たちが爆炎に包まれる。
「よくもぉっ!」
飛び掛かった勢いのまま、伸ばしていた両手の蔦を相手に叩き付ける。
左右から襲いかかるそれは、狙い違わず花梨を捕らえ、ぐるぐると巻き付く。
更に足から伸ばしていた蔦が、地を這うように迫った。
木性鬼は、戦った事が無かった。
自分に草木を操る能力がある事には気が付いていたが、それを戦いに使うという発想自体が無かった。
距離二間を挟み、両手から伸ばした蔦が花梨の上半身を、足から伸ばした蔦が下半身を捕らえているが、それ以上、どうする事も出来なかった。
ただ、この隙に、一人でも多くの仲間が逃げてくれさえすれば。
花梨の冷徹な視線が、木性鬼を正面から射貫く。
木性鬼が花梨を捕らえているはずなのに、まるで逆に捕らわれているような錯覚。
それは、本当に、ほんの一瞬の間だった。
絡まる蔦など無いかのように、花梨が左手の短刀を振り上げ、振り下ろす。
飛び来る炎の刃を避ける事も出来ず、木性鬼は炎に包まれた。




