第三十七話 湯川道
日が沈み暫く経つと、清次の捜索に出ていた鬼がちが、続々と帰ってきた。
勿論、朗報は無い。
親方は自分の見つけ出した遺体が清次の物であると確信していたが、その思いは更に深まった。
「こんな物か」
親方が掴んでいた小鬼が、形を保てなくなり、崩れて負気へと変わって行く。
「明光、お前の番だ。少なくとも、一晩走り続けられる程度まで回復しておけ」
「もう、よろしいのですか?」
「ああ、問題ない」
そう言って、手に持っていた銀の管を明光に渡し、親方は小屋を出た。
戸口で待っていた藤吉郎を引き連れて広場へと向かう。
足取りは確かなものになっていた。
小鬼を吸う事で負気を回復し、それを傷の修復に当てる。
それは銀の管と、小鬼の牧場の両方があってこそ成り立つ。
鬼の力を以てしても、倒す事の出来ない敵が居ると分かった今、その二つを手放す事は、将来の存亡に関わるかも知れない。
それでも、それらを捨ててでも、逃げなければ生き延びる事は出来ないのだ。
自分の判断は間違っているかも知れない。いつか後悔する時が来るかも知れない。
思い返すのは、かつて人だった時の事。
あの日、誰かを頼ろうとせず、山の奥にでも逃げ込んでいれば、大切な人を、仲間たちを守る事が出来たのでは無いか、そんな後悔が、今も自分を責め立てる。
「大体戻ってきたか?」
「まだ、七割方というところですが、じきに揃うと思います」
「何事も無ければ、な」
言いながら、視線を広場へと向ける。
そこには数十匹の鬼が屯していた。
「親方、ご無事でしたか」
「ああ、心配を掛けたな。なんとか命だけは助かった」
片手を挙げながら応えるが、皆の顔には一様に不安と疑念が浮かんでいるのが見て取れる。
「全員揃ってから改めて話すが、藤吉郎に伝えてもらった通り、俺たちでも勝てない、鬼を殺す人間が現れた」
話しながら、親方は座るように手で促す。
「鬼が湯川の町を襲い、その被害者に頼まれて来たと言っていたが、どこまでが本当の事なのかは判った物じゃない」
被害者役だった少女も、奴らの仲間だった。
もう、全てが嘘なのではないかとすら思える。
親方は村を捨て、今夜中に隣国を目指す旨を皆に説明し、準備を始めるよう指示を出した。
「その、鬼を殺す人間ってぇのは、そんなに強いんですかい?」
「ああ、ここに居る全員で掛かっても勝てそうに無い。だから逃げる」
質問に答えると、一斉に騒めく。
「そんな馬鹿な」と口走る者もいるが、親方の決定には誰も異は唱えない。
互いに言葉を交わしながら、それぞれ宛がわれた小屋へ戻り、村を離れる準備を始めた。
その間も、外に出ていた鬼たちが戻ってくる。
親方は村の入り口に立ってそれを出迎え、言葉を掛けていった。
日没から約一時。
既に辺りは闇に覆われている中、篝火一つ灯さずに、鬼たちは再び広場に集まった。
清人が参戦する事に対して、反対したのは、意外にも芹菜と弁柄だけだった。
阿刀、阿子の二人は意見せず、花梨と小鞠、そして御大と衛士長が賛成した。
僅かの話し合いの結果、弁柄と阿刀、阿子が残り、他の六人が鬼湧谷へと向かう事となった。
衛士長と御大が、それぞれ馬を連れ出す為に本所と旅館へ戻った。計六頭必要なので、手伝いの為、清人もそちらへ付いて行く。
芹菜達は荷物、特に術札を再確認し、先に町の入り口へと向かった。
「花梨ちゃん、疲れてない?」
「……流石に、少し。でも、まだ大丈夫です」
あまり無理はさせたくないのだが、本人が行くと言っている。
さらに、手助けが必要なのは間違いないので、もう少し頑張ってもらわなければならない。
だが、徹夜になると、明日に障る。
そもそも、特級鬼の件は今後どうなるか予想も付かず、下手をすれば、今夜中に何か動きがあるかも知れない。
「終わったら、戻らずに谷口の村で宿を取りましょうか」
小鞠が提案する。
「状況次第ですね」
いっそ何事も起こらなければ、向こうで一泊して、早朝に湯川に戻ってくれば良い。
自分一人ならある程度無茶もするが、仲間に無理をさせる事を、芹菜は好まない。
「それで、どうするんです?」
町人町の端が近づき、町の入り口が見える辺りで裏山を下り、そのまま道の脇に身を隠す。
「衛士長さんに幻惑の術を使ってもらいます」
小鞠は札束とは別にした、一枚の札を懐から取り出す。
「ゲンワク……幻惑ですか」
芹菜はその札を覗き込んで、文字を確認した。
ゲンワクには、幻惑と眩惑の二種類が存在する。
どちらもよく使われる札ではあるが、同じ名前で呼ばれ、同じような用途に使われる為に、非常にややこしい。
ちなみに、幻惑は精神に作用して惑わし、眩惑が視界に作用して惑わす術である。
「幻惑も、認識阻害の一種ですよね」
芹菜は視線をやや上に上げ、思い返すように呟く。
幻惑は一時的に寝ぼけたような状態にして、何が起こっているのか認識できなくする。広義では認識阻害と言えなくもない。
「そうですねぇ。ただ、たくさんある物の中から、例えば、複数の負気が存在する中で、自分が放った負気だけを感じさせなくするというのは、また全然違うと思いますよぉ」
姿を消す鬼は、上級鬼の中には偶にいる。
多くが光を透けさせる、透明になる鬼で、他に、視覚認識を阻害して、相手に見えないと思い込ませる鬼も、存在すると記録されている。
ただ、そのどちらも、負気を消す事は出来ない。
「そもそも、認識できないだけで確かに存在するなら、あの負気は、周りの人を弱らせて殺してしまうはず」
芹菜は、その事に思い当たり、言葉にする。
あれは、通常存在する負気溜りよりも遙かに強い。湯川の町を飲み込む事も出来るのでは無いだろうか。
だとすると、暫く滞在しただけで町が滅びる。
「……あれ? そう言えば、あの負気からは小鬼は湧かないのかな」
新たな疑問に、芹菜は口元を押さえて考え込む。
その姿を眺めながら、小鞠も少し首をかしげた。
「思い付きの話の続きですが、アレがもし、自分の負気で人を鬼に変える事が出来るのでしたら、それはつまり、負気を自在に操れるという事じゃないでしょうか」
小鞠の思い付きに、芹菜はまたも顔を顰める。
「嫌な予想ですね」
負気を自在に操れるなら?
それが小鬼に変わる事を防ぎ、相手に感じさせなくする事も出来るのだろうか?
考えても無駄と思いつつも、考えずには居られない。
そうこうする内に、蹄の音が近付いてきた。
「で、どうするんだ?」
問い掛けた衛士長に、小鞠が札を渡しながら説明する。
「成る程な。やってみよう」
札を受け取り、しげしげと眺めた後、衛士長はそれを懐に収めて、町の入り口へ向かっていった。
「注目っ!」
言われるまでも無く、その場にいた全員が既に、衛士長と、その後ろにいる二人に注目している。
そこへ透かさず札を取り出し、術を放つ。
「幻惑」
ポッと小さく光を放ち、札は消えて無くなった。
「……これで、効いてんのか?」
思わず言葉を漏らしたが、返事は無い。
居並ぶ衛士たちは一様にぼうっと呆けている。
「よろしかろう」
背後にいた御大が声を掛け、町の方へ向けて合図を送った。
それを見た芹菜達が姿を現し、足早に通り過ぎて街道の北へ向かう。
衛士たちはぴくりとも反応を見せない。
「成る程、凄いな」
感心したように呟き、振り返る。
「なんであんたには効いてないんだ?」
清人は術の影響を受け呆けているが、御大は平然としていた。
「念のため、だ。他意は無い」
効果を受けなかった理由では無く、効果を受けないようにした理由を答える。
つまり、質問に答える気は無いという事だ。
まあ、自分が気にする事でも無いかと、衛士長は前に向かう。
既に芹菜達の姿は、この場所からは見えない。
「解」
教えられた合い言葉を唱える。
目に見える変化は殆ど無く、何人かが瞬きをしたり、僅かに体を揺らした程度だ。
「注目っ!」
その言葉に、再び全員の意識が衛士長へと向かう。
「これから谷口の村、それから鬼湧谷まで行ってくる。お前たちは門の外に、もう一列柵を作っておけ。それと、坂の中程にも篝火を立てろ。見張りは坂の下で良い。上の当番長、非常時は後列で弓の指揮を執れ、下の当番長、お前は槍衾の指揮だ」
いつにない真面目な口調で指示を出す衛士長に、改めて緊張が増す。
「衛士長は、たった三人で? それに、そのお二方は……」
下の当番長と呼ばれた衛士が、不安そうな声を上げる。
「川崎屋の御大は、昔、鬼殺しとして名を馳せた事があるそうだ。その経験を活かしていただく。飴釜の清人は、恋人を助けに行きたいという事で、同行を許可した」
「そんな無茶な」
御大が鬼殺しだという話は、誰も聞いた事が無い。
それ以上に、ただの町人である清人を連れて行くという事に関しては、衛士として苦言を呈したくもなる。
何より、複数の鬼が居る場所へ、夜間に接近するのは危険すぎる上、供が槍も持たない老人と若者というは、自殺しに行くようなものだ。
実のところ、衛士長もこの設定には無理があると思っている。
「心配するな、明日の朝には戻る。後は頼んだぞ」
返事を待たず、衛士長は馬を駆けさせた。
三人はそれぞれ、自分が乗っている馬の他、もう一頭手綱を引いている。
馬は、足は速いが、人を乗せたまま長時間駆ける事が出来ない。予備の馬を引いているのは、休まず行くという事だ。
馬の胴に付けられた提灯の小さな明かりが、坂の向こうに消えたのを見送ってから、衛士たちは動き始めた。
疑問は多いが、出された指示に従わなくてはいけない。
「これで、山津の方に走って逃げたんなら、いつもの衛士長らしいんだけどなぁ」
誰かがボソリと呟いた。
「ああ。違いない」
言って、数人が苦笑する。
衛士長は、小鬼が出ても姿を隠す臆病者だったはずだ。
散切り頭を申し訳程度に縛り、無精ひげのだらしない姿が、いつもの衛士長だった。
それが、背筋を伸ばして馬に乗り、真面目な顔でまともな指示を出して行った事が、何とも言えない、不気味さと不安を醸し出す。
何より、供回りが異様すぎる。
なぜ、衛士を連れていかないのか。
そんな事を互いに囁き合いながら、それでも衛士たちは慌ただしく柵を立てる段取りを進めた。
湯川の郷から一つ目の坂を下りた辺りで、芹菜達は身を隠していた。
衛士長たちが姿を現すと、予定通り分乗し、隊列を組む。
芹菜と御大は単騎で、小鞠は衛士長の馬に、花梨は清人の馬に乗せてもらう。
残り二頭は、馬が疲れた時の交代用で、それぞれ衛士長と清人が引く。
町を出た時は提灯の明かりのみだったが、人目がなくなったのなら気にする事も無い。
御大は術札を取り出し、放つ。
先頭を行く御大の頭上に光輪が輝き、道を照らし出す。
その後に、衛士長、清人と続き、芹菜は最後尾に付いた。
馬に乗って駆けている間は、話をする事も出来ない。
前を行く清人と花梨は、時々何かを話しているようだったが、芹菜の耳には、その内容までは聞こえない。
芹菜は鏡袋から取り出した青銅鏡を片手に持ち、それに語りかけながら、後ろに続いた。
途中、一里塚を目印に馬に水を与え、衛士長たちは予備の馬へ乗り換える。
丁度三里の塚に駐まった時に、芹菜は北西の方角を仰ぎ、皆に伝えた。
「居ますね。確かに来ています」
鬼が。
「コマさん、さっきの地図はありますか?」
「はいはい。こちらに」
それは、赤壁亭で小鞠が描いてくれた略地図である。
大まかな現在地、方角、匂いの強さなどを考慮し、そして、昼間に感じた鬼の村の匂いを思い出す。
「はっきりした事は言えませんが、鬼の村の勢力の、半分程度はこちらに来ているようです」
「半分? 残りは?」
芹菜の言葉に、衛士長が問い返す。
「何とも言えませんね。この距離では鬼の村そのものの匂いは判りませんし。村に留まっているか……」
「町に向かっている可能性は?」
「それは無いと思いますが」
戦って勝てないとは解っているだろう。
半数を囮にして、半数を逃がすつもりなら、同時に動くのはおかしい。
逃走組が発見されないように、まず、日没直後、先に囮が攻めてきてる筈だ。
「念のため、半数を先に逃がしたか」
「それが一番妥当な考えですね」
独り言のように呟いた御大に、小鞠が同意する。
確かに、鬼の側で考えれば、それは一番良い案であるように思えた。
「なら、あまり強くない鬼が中心かな。……そうだ、私の言う鬼の村の総力っていうのは、小鬼や負気溜りの負気も含まれてるから、それらを除くと、過半数が来ている可能性が高いですね」
つまり、数は多い。
「少し、急ぎましょうか。逃がさない戦いを仕掛けるなら、先に陣取る必要があります」
真面目に意見する小鞠に頷いて、芹菜は馬に向かった。
殲滅、敵を逃がさず皆殺しというのは、当然、数が多くなれば多くなるほど難しい。
通常、包囲殲滅戦を仕掛けるなら、最低でも三倍の人数が必要だと言われている。
それでも、地形が悪ければ突破されのだ。
こちらは六人。花梨と清人は一組と考えれば、実質五人分の配置で、少なくとも五十、多ければ七、八十匹の鬼を囲まなければならない。
戦地を見てみないと、作戦を立てるのも難しい。
芹菜達は、先を急いだ。
本来の計画では、谷口の村に馬を預ける予定であったが、そのまま通り過ぎた。
町の前で光輪は消し、提灯の明かりだけで進む。
必然的に、足は遅くなるが、それを気にする程の時間も掛からず、御大が馬を止めた。
「ここからだ」
ひらりと馬を下りた御大が、杖で谷を指す。
大きな石を倒して作られた橋の下、小さな川が流れている。
川の水量に対して、幅と深さは大きい。恐らく、雨が降れば水量が大きく増すのだろう。
「一旦、河原に下りるんですね」
衛士長と清人が馬を繋ぐ間に、芹菜は下りる道を探そうとする。
それを小鞠が引き留めた。
「時間が勿体ないので、下りる道を作ります」
そう言いながら鏡を取り出す。
降神し、土を動かして道を作るつもりらしい。
「あ、ちょっとまってください。清人君、ちょっと」
「どうしました?」
芹菜に呼び掛けられた清人は、花梨と共に小走りに駆け寄る。
「まず、これを再びお貸しします」
手渡されたのは、火雷命の青銅鏡。
「今から小鞠さんが降神を行いますので、見ててください」
「こうしん?」
清人の顔には疑問が浮かぶ。
降神については、まだ何も教えていない。
「鬼と戦う為に、必要な事ですので、後で清人君にもしてもらいます」
ああ成る程といった表情の小鞠が、一つ頷くと、手に持った鏡を顔に翳した。




