第三十五話 接触
双方、警戒しながら移動していた。
その状況で、衛士たちが先に気付けたのは、足音の差である。
前方から聞こえてきた激しい足音に、衛士たちは咄嗟に藪へと身を隠した。
直後に、音の発生源、鬼たちが姿を現し、恐ろしい早さで近付いてくる。
様子を窺いたい、せめて数だけでも確認したい所ではあるが、顔を覗かせて見つかってしまえば、間違いなく殺されるだろう。
三人は頭を庇うような姿勢で身を丸くし、動く事が出来なかった。
幸いにして、鬼たちは衛士に気付く事は無く、そのままの早さで道を走り抜ける。
衛士の一人、正好がその後ろ姿をそっと確認した。
「五匹、か」
他の二人も、恐る恐る顔を上げる。
だが、藪から出ようとはしない、正好もだ。
顔を見合わせ、もう少し奥の方へ移動した。
「藪がある所で助かった。思えば、草も木も無いところで鉢合わせたら、どうしようも無かったな」
「本当だ。助かった」
考えれば判るはずのそんな簡単な事を、三人も居て誰も気付いていなかった。
ただ、漠然と思っているのと、実際対応するのとでは丸で違う。自分たちの迂闊さを、今になって理解した。
鬼の足音は、既に聞こえない。
「一匹だけじゃ無かったのか」
四つん這いになった浩太郎が、地面に向かってぼそりと呟く。
「ああ、そうだな。居るとしても一匹だと思い込んでた。……迂闊すぎて笑えないな」
正好は、そう言いつつも自嘲する。
そして、二人を見て続けた。
「兎にも角にも、生きて帰ろう。俺たちの使命は、鬼退治じゃない、ここに鬼が居ると町に知らせる事だ」
浩太郎と助信も黙って頷く。
三対一でも勝てるかどうか判らないのだ、五匹相手だと、どうする事もでき無い。
「あいつら、街道に向かってましたね」
助信が鬼の走って行った方を眺めながら言った。
勿論、その先は街道に繋がっている。
ただ街道に出る事が目的では無いだろう。街道に出た後、どこへ行くつもりなのか。
「昨日の鬼も、こっから湯川に来たのかな」
「多分な」
「だとしたら、今の奴らも?」
「さあ、どうだろう? そこら辺の村を襲うかも知れないし、他に目的があるのかも知れないし。……何にしろ、とりあえず村に戻ろう」
「その村が襲われてたらどうする?」
「……どうしようも無い。隠れてやり過ごして、町へ報告だ」
「わかった」
暫く顔を見合わせ、頷き合う。
そして姿勢を低くしたまま、元の道に戻ろうとした所に、再び、あの足音が聞こえてきた。
先頭を歩いていた正好が、片手で後の二人を制する。
ドドドドドっと地を蹴る音が、街道側から急速に近付き、そして谷の方へと遠ざかっていく。
「……通り過ぎた?」
先ほどと同じく、衛士たちに気付く事無く、鬼の集団は通り過ぎた。
「何だったんだ」
正好が、誰へとも無く呟く。
それに助信が答えた。
「偵察だったんじゃないのか。この道の」
人の領域との境を、定期的に巡回偵察しているのではないか。
「ああ、そうか。日没前に、街道の際まで行って戻っているのかも知れないな」
「にしても、五匹も出すか?」
浩太郎の疑問に、正好は額に拳を当てるようにして考え込む。
そのままの姿勢で、確認するように言葉にした。
「偵察に五匹も出すのなら、本隊は、かなりの数だよな」
浩太郎と助信は共に顔を顰める。
状況は、想像していたよりも遙かに悪いのかも知れない。
「急ごう。日は暮れるが、今日中に町へ戻った方が良い」
助信の意見に二人が頷く。
足音を忍ばせ、ゆっくりと道へと出る。
通り過ぎて行ったと判っていても、やはり恐ろしい。
音を立てないように藪から出ると、まず鬼が駆けていった方を確認する。
勿論、既に姿は見えず、足音も聞こえない。
「行こう」
正好の言葉に、三人は元来た道へ駆け出した。
河鹿亭に戻った清人は、まず帰りが遅くなった事を謝り、川崎屋との事、そして、大浦屋の刀の事を説明した。
部屋の隅には槍と弓矢が立て掛けられている。預けていた若旦那衆が、ちゃんと届けてくれたのだろう。
おそらく、大浦屋であった事も説明してくれているはずだ。
「成る程な。自分の妻になる女は、自分で助けて見せろと言う事か、川崎屋さんも無茶を言う」
父はそう言って、僅かに苦笑する。
相手は鬼。いくら良い刀を渡された所で、普通の町人に、それは酷な話だ。
清人は黙って部屋を見渡した。既に片付けも終わっており、直ぐにでも薬屋を再開できるようになっている。
「何か、手伝いできる事がありますか」
「こちらはいい。そろそろ、夕食の用意をしよう」
部屋は河鹿亭に借りてはいるが、食事までお願いする訳にはいかない。
幸い、米と幾ばくかの食材、野菜や味噌などは誰かが見つけ出して、ここに届けてくれている。
清人は河鹿亭の台所借りて、夕食の準備を始めた。
基本的に食事は一日二食。朝餉夕餉を正卯の刻、正酉の刻に食べるのが一般的で、間食は決まってはいないが、概ね巳の刻、未の刻が多い。
町中の竈から、一斉に煙が上がり始める。
日没が近い。
何とか、日没までに湯川に戻ってくる事が出来た。
だが、一行の足は徐々に重くなる。
最も重要な案件、特級鬼の件が全く何の収穫も無いままだったからだ。
「もう少しで町の北に着きますよ」
小鞠の声に芹菜が頷く。
「はい。……日暮れまで待ってから、裏山に入りますか?」
「町中を歩く訳にはいきませんからねぇ」
花梨は現在行方不明という事になっている。
芹菜自身も、あまり変な意味で目立ちたくは無い。
小鬼なら「倒してきました」で済むが、鬼を倒して攫われた娘を助けてきたとなると、大きな噂になりかねない。
最悪、今の名前を使えなくなる事もありうる。
一応、穏に密に、だ。
ここを曲がれば町の北口が見えるという所で、一行は休憩を取る。
北口は獣除けの柵が設けられてはいるが、見張りなどは立っていない。裏山に入るのはその手前からだ。
芹菜は一応様子を窺い、誰も居ない事を確認した。
「やっぱり、現れませんでしたね」
「こちらに来なかったのか、通り過ぎたのか。……来なかった可能性の方が高いわね」
花梨の言葉に、芹菜は俯き加減に応える。
そして、思い出したように小鞠に問い掛ける。
「コマさん。遺体を隠すとなると、どこだと思います?」
「普通に考えるなら、自分の家ですね。でも、飴釜さんの家はもうありませんからねぇ」
「空き家は?」
「今はありませんよ」
一時期、結構たくさんあった空き家は、今は全くない。それこそ、空き家があるなら飴釜屋に宛がわれている。
この二、三年で町は随分活気づいて、新しい人間も増えてきていた。町人町にも空き地は無い。
この湯川の町で暮らしたいという人間は、まだ結構いるのだ。
「普段使っていない、小屋か蔵か、そんな所でしょうか」
そう言って、小鞠がはたと動きを止める。
「どうしました?」
「いえ、……大浦さんのところ、蔵は焼けてなかったなぁって思って」
聞いて芹菜もポンッと手を打つ。
「成る程、隠れるには良いかもしれませんね。外から鍵を掛けてもらえば、まず見つかりません。赤壁亭へ戻ったら、私とコマさんで確認に行きましょう」
尤も、あの鬼は自分たちより先に町に着いている筈で、もしそこに隠れていたのだとしても、今はもう居ない可能性が高い。
だが、手掛かりはあるかも知れない。
つい声を大きくしてしまった芹菜を、弁柄が片手を挙げて制した。
「……!」
咄嗟に口を噤み、気配を探る。
……特に何も感じない。
「川だ」
弁柄が小声で呟く。
芹菜と小鞠が軽く顔を見合わせ、体を起こして川を覗き込んだ
「小鞠さん?」
「あれ、瞳子ちゃん?」
小鞠と瞳子の声が重なった。
川の中に、巫女の瞳子が佇んでいた。
「こんな所で、どうしたんですかぁ? 禊ぎ?」
瞳子は袴を身に着けず、腰ぐらいまで水に浸っていた。
「小鞠さんこそ、こ……」
言い掛けた瞳子が目を見開く。
「あ、な、花梨さん!?」
驚きの声を上げ、ザバザバと水をかき分けながら、岸に近寄ってくる。
あー、町の人に見られちゃったか。
芹菜は心の中で溜め息を吐く。
さて、花梨の事をどう説明するべきか。
「ご無事だったんですか」
「……はい」
花梨も立ち上がり、河原に上がった瞳子を出迎える。
瞳子の視線は、花梨の体を確認した後、小鞠に向けられる。
「やはり、小鞠さんが助けに行かれたんですか。こちらの方は?」
「ご同業ですよぉ」
瞳子の質問に、小鞠が簡単に答える。
「……あれ?」
それを聞いた芹菜の頭に、疑問符が浮かぶ。
「こちら、神祇官のお孫さんで瞳子ちゃん。こちらは芹菜さん。旅の薬師の振りをして、鬼を退治しに来てくれました」
突っ込みどころが多すぎて、何を言えば良いやら。
「えっと、私たちを知ってる? でも、この町の神祇官は……」
この町の神祇官は、協力的では無い。
我々が皇儀の隠密とは知らない。
確か弁柄がそう言っていたはず。
「私たちが何者かまではご存じないですよ。ただ、町を守る為に、鬼と戦っているのはご存じです」
「へぇ……」
なのに、協力的では無い?
「初めまして、瞳子と申します。お世話になりました」
少なくとも、目の前の少女は非常に友好的に思える。
「芹菜です。流れの薬売りをしながら、鬼討ちをしています」
我ながら、奇妙な自己紹介だ。
互いに手を差し出し、握手を交わす。
そして瞳子は、花梨に向かって声を掛けた。
「花梨さん、心配してました。清人兄さんも心配してましたよ。早く、顔を見せて差し上げてください」
「はい。ありがとうございます」
花梨は軽く微笑んで応えているが、芹菜は違和感を覚える。
これは、作り笑顔だ。
芹菜は小鞠と弁柄に向かい、どう対処するのか目で問い掛ける。
「うーん。瞳子ちゃん、ちょっといいですかぁ」
「はい」
「実は、花梨ちゃんが無事だという事は、まだ暫く秘密にしたいんです」
「え? どうしてですか?」
当然の質問に、小鞠は口元に手を当て暫く黙る。
「重要な話をしましょう。近隣に、大規模な鬼の集団がいます」
瞳子は息を飲み、一歩後ずさる。
「それは……」
「あの時程じゃ有りませんから、大丈夫ですよ」
小鞠は優しげに微笑んで、一歩詰め寄る。
「あの時程じゃ有りませんから、私たちだけで、内々に殲滅します」
「え、でも……」
でも、既に町に被害が出て、鬼の存在は明らかになっている。
「大浦屋を襲った鬼は討伐済みです。あとは明日にでも片付けますので、それまでは、花梨ちゃんの事も含め、何も知らない振りをしておいてください」
瞳子は目を見開き、立ちすくむ。
本当にそれで良いのか、自問しているようだった。
「特に、神祇官さんには話しちゃいけませんよ。予想外の事をされると、対処できなくなりますから」
「……はい」
俯き加減に頷く瞳子を見て、芹菜は疑問を口にする。
「その、神祇官さんは、そんなに厄介な人なんですか?」
「いえ、良い人……ですよ?」
小鞠の返事は、なぜか疑問形。
「真面目で責任感が強く、自己犠牲的。だからこそ、良くない時もあるんです。……七年前は、助けられましたが」
瞳子がぱっと顔を上げる。
「お母さん……」
「ええ。あの方の助けが無ければ、町は守れませんでした」
言いながら、小鞠は更に瞳子に近付き、そっと頭を撫でる。
「あなたのお母さんは、私にとって大切な戦友です」
七年前。
鬼の大量発生。
その時、小鞠や他の隠密と共に、瞳子の母が……戦友?
再び、芹菜の頭に疑問が浮かぶが、今、聞かなくてはいけない事でも無いだろう。
日は既に山の陰に隠れている。
ゆっくりと、辺りが暗くなり始めていた。
「小鞠さん、そろそろ」
「そうですねぇ」
小鞠はニコニコ微笑み、もう一度、瞳子の頭を撫でる。
「本当に、今回はあの時ほどでは無いから、私たちに任せて、ゆっくりお休みなさい」
「はい」
「と言う訳で、私たちは町の人に見つからないように、裏山を行きますが、気にしないでくださいねぇ」
瞳子は黙って頷き、そしてハッと思い題したように花梨に声を掛ける。
「あの、清人兄さんには……」
「大丈夫、清人ちゃんには伝えてあります」
「え……?」
瞳子からしてみれば、今、無事に帰ってきたばかりの筈だ。
いつ、何を伝えたのか、意味が判らなかっただろう。
だが、花梨はそれ以上説明する事も無く、軽く頭を下げ背を向ける。
「では、また」
芹菜も別れを告げ一礼する。
先に立っていた弁柄も、こちらへ向かって目礼を贈り、裏山への侵入経路を確かめる。
「瞳子ちゃん。まだ寒いから、体を冷やさないよう気を付けてね」
小鞠はそう言い残し、ポンッと裏山に飛び込んだ。
瞳子は不安げな表情で、その後をただ眺めていた。
日没から半刻、湯川の町の入り口に一頭の馬が駆け込んできた。
急制動を掛け、飛び降りるように下馬した若者は、周囲の者に問い掛けた。
「衛士長はどちらにっ!」
「正好!? どうした? この馬は?」
突然の事に驚く同僚に、正好は掴み掛かるようにして言葉を続ける。
「そんな事よりっ、衛士長は? 報告がっ!」
「俺はここだ」
詰め所の戸口から声を掛け、衛士長が足早に近付いてくる。
その表情は、いつになく険しい。
「何があった?」
問いはするが、答えの想像は付いている。
「鬼が、出ました。鬼湧谷の入り口付近です」
「そうか。他の二人は?」
「あ、無事です。急ぎでしたので、自分だけが馬を借りて、先に知らせに」
「解った。よくやった、良い判断だ」
衛士長は正好の肩にポンと手を置き労った。
「それで、鬼の数ですが……」
続く正好の言葉で、周りで聞いていた衛士たちに、動揺が走る。
「恐らく、偵察か警戒の為の見張りかと思われる鬼が五匹、谷の奥から現れ、街道の手前辺りで引き返していきました。日没直前ぐらいの時間です」
「……ほう」
偵察か、見張りが五匹。
「解った。詳しく聞こう。とりあえず中に入れ。……誰か、馬に水をやっておけ」
衛士長は正好の肩を抱くようにして、詰め所へ入っていった。




