第三十四話 業物
「場所を借りるぞ」
突然現れた川崎屋に、留守を預かっていた阿子は驚きの声を上げる。
「川崎様!? これはお早いお着きで」
「うん? こちらに顔を出す予定は無かったはずだが」
阿子の反応に、御大が僅かに首をかしげつつ、玄関へ上がり込む。
「昨日、文を送りましたが」
「ああ、すまん、昨日にはこちらに着いておった」
言いながら草履を脱ぐ。
「鬼が出たとは聞いていたが、それだけでは無いな。何があった?」
問いかけられた阿子は、チラリと清人を見る。
「ふむ。……清人。呼び立てておいてすまんが、暫く待っておれ。先にこちらの用事を片付ける」
「はい」
清人は素直に応じたが、阿子がそうでは無いと口を挟む。
「あ、いえ、構いません。清人様は粗方ご存じです」
「なに?」
「疑問に思いましたのは、なぜ、川崎様が清人様をお連れなのかという事でございました。失礼しました。お二方とも、どうぞお上がりください」
そう言って促した阿子の視線が、スッと空へと向けられる。
釣られるようにして、二人も振り返った。
見れば真っ白な鳥が一羽、赤壁亭に向かって舞い降りてくる所だった。
阿子は素足のまま一歩表に出ると、右手を掲げてそれを迎える。
バサリと羽ばたき、指に留まったかと思えば、その瞬間、白鳥は消え去り、阿子の手には紙束が握られていた。
「ちょうど、主からの文が届きました。……どうぞ、まずは中へ」
再び促され、清人も草履を脱ぐ。
先に上がっていた御大は、片手を挙げながら阿子に声を掛ける。
「足拭きはいらん。奥の間は借りられるか?」
「はい。そのままお進みください。お茶を用意して参ります」
「うむ」
応えて御大は奥へ向かって歩き出した。
阿子は文を持ったまま、台所へと下りていく。
清人は少し迷ったが、御大の後を追って廊下の奥へと向かった。
そこは弁柄の私室であり、その奥は祭壇の間である。
御大は襖を開けると、スタスタと入り込み祭壇の向かって右、左側に腰を下ろした。
清人はその対面、右側の下手に座る。
「状況を知っていると言う話だな。どういう事だ」
御大に問われて、清人は窮する。
何を答えて良いのか、どこまで答えて良いのかが判らない。
ただ、御大がここに来たという事、何より、ただの仲居に事件の詳細を尋ねようとした事から考えると、ある程度知ってはいるはずだ。
「……川崎さんは、鳥が紙に変わったのを見ても、驚かれませんでしたね」
「お前もな。ついでに言えば、あれは、お前の前で鳥を紙に変える事を躊躇わなかったな」
清人はハッとして気付く。
阿子は二人が見ている前で鳥を紙に変えた。
隠そうともしなかった辺り、見られても構わないと判断したのだろうか。
「川崎さんも、隠密ですか」
「迂闊だな。減点だ」
「え?」
御大は、何やら嬉しそうにニヤリと笑った。
「隠密同士が、あなたは隠密ですか、などと問い掛け合ったりはしない。つまり、お前は隠密では無い、且つ、隠密の存在は知っている、というところか」
「……はい」
御大は清人の左、開けたままだった襖から入室した阿子に視線を移して言った。
「相変わらず、この町の隠密は、穏でも密でも無いな」
「恐れ入ります」
阿子は茶器を一旦置き、一礼してから襖を閉める。
「茶は自分で淹れる。先に文に目を通せ」
「はい。……では清人様。お願い出来ますでしょうか」
「はい」
清人が茶器を引き受けると、阿子は脇に退き、懐から紙束を取り出して、目を走らせ始めた。
一度読み終わり、再び最初の一枚から読み直す。
御大は清人の淹れた茶を飲みながら、それを眺めていた。
やがて、読み終えた阿子が真剣な面持ちで、御大に紙束を渡す。
その表情を見て御大が問い掛ける。
「良くないか?」
「はい。まずは昨日までの件、お話しさせていただきます」
阿子は先日からの出来事を、丁寧に話し始めた。
ただ、花梨の降神など、一部の事柄は、意図的に話さなかった。
「ふむ」
頷いた御大は、片手で阿子に茶器を勧める。
「いただきます」
応えて、阿子は自分と清人の分の茶を淹れる。
御大は姿勢を正すと紙束、小鞠からの報告書を読み始めた。
その表情は、即座に険しくなる。
度々、左手で顎髭を撫でたり、湯飲みを取って茶を飲む。
そして、阿子と同じように、読み終わると最初から読み直し始めた。
二度見直した後、更に何カ所か確認し、やっと紙束を降ろした御大は、ふうっと深い息を吐いた。
「先に謝っておこう。この件は清人には教えられん」
「はい。構いません」
「本当にか?」
本当に、構わないと思っていた。
だが聞き返されると気になる物だ。
「必要ならば、教えていただけるものと思っています。教えていただけないと言う事は、必要無いか、知らない方が良いかだと思います」
「ふむ。ならばよし」
そう言って御大は紙束を阿子に返した。
「さて、これはこれとして、こちらの用事を済まそう。待たせたな」
「いえ」
そうは言う物の、清人はなぜ御大が態々この赤壁亭に来たのか、理由を知らない。
御大は立ち上がると、祭壇の脇の戸棚を探り始めた。
阿子には断りも無しであるが、それを咎められる様子は無い。
「道具を借りるぞ」
目当ての道具を取り出してから、許可を取る。
それは、刀の手入れ道具のようだった。
御大は正座すると、大浦屋の蔵から持ち出した袋を開け、刀を取り出した。
一見、二振りが一つの袋に収められているかのように見えたが、片方が白木の鞘、片方が黒塗りの拵えで、用途が違う事は清人にも判った。
刀身は白木の鞘に納められており、懐紙を口に咥えた御大は、まずそれを引き抜くと、刃を立ててその姿を眺めた。
一通り目を通した後、束を外して敷布の上に寝かせ、次に黒鞘の拵えをバラし始める。
慣れた物で、瞬く間に目釘や鍔が外され、保存用の木の刀身が抜き取られる。
「簡単に組み立てて置くが、出来ればちゃんとした職人に締めて貰った方が良い」
外した目釘などを確認しながら、御大が言う。
刀の手入れは素人でも出来るが、専門の職人に任せた方が良いとはよく言われる事だ。
実際に刀を使う機会が多い者こそ、自分の手入れでは満足せず、研ぎに出したり目釘を換えてもらったりする。
清人はただ、黙って御大の作業を見守り続けた。
程なくして拵えが整うと、御大は一度鞘に納めて立ち上がった。
抜刀し、納刀する。
それを三度繰り返し、膝を突いて軽く素振りする。
「ふむ。……では持ってみるか」
刃を納めて、清人に差し出す。
今更ながら、これで鬼と戦えと言う事なのだろうか。
清人は僅かな不安を心に隠し、刀を受け取った。
鞘を左手に持ち、右手で引き抜く。
それを正面に構えてみるが、少し重いような気がする。
鞘を床に置き、両手で持って振りかぶり、振り下ろす。
ブンッという音と、ズシリとした重さ、やはり、清人が今まで振った事のある刀とは違う。
「樋が掘ってない分、重たかろう。それと、重心が遠い様な気もするな」
さらに、やや長く、刃も分厚い。
「どちらかというと、鬼斬りよりも人斬り用だが、良い物に変わりない。業物という話だったが、良業物か大業物かもしれん」
清人には、鬼斬りと人斬りの区別は付かない。そもそもどちらも斬った事が無い。
「ありがとうございます」
自分の為に用意してくれたのだ、礼は言わねばならない。
しかし、まだ、御大が何を望んでいるのか掴みかねていた。
「腰に差していけ。白木はここに預けておこう」
そう言って、刀の入っていた袋と白木の鞘を敷布に丸めて包み、阿子に手渡す。
「すまんが用事が出来た。また会おう。飴釜屋にもよろしく伝えてくれ」
一方的に別れの挨拶をされて、清人は退出せざるを得なくなった。
用事というのは先ほどの手紙、鬼に関する事であろうから、長居して迷惑を掛ける訳にもいかない。
「はい。お世話になりました」
清人は深々と一礼してから立ち上がり、受け取った刀を腰に差す。
ふと、刀の銘を聞かなかった事を思い出したが、特に気にする事でも無いかとそのままにした。
清人はもう一度礼を述べ、部屋を退出する。
葬儀から、随分と遅くなってしまった。
既に日は傾き始めている。
兄、清彦の事は何か判っただろうか。
時刻は、酉の刻(午後四時)を回っていた。
玄関で草履を履くと、足早に河鹿亭へ向かった。
鬼の調査に出された三人だったが、衛士の足でも、鬼湧谷まで行って帰ってきただけで深夜になってしまう。
勿論、日没後に鬼の居る場所へ立ち入るのは、腕の立つ衛士でも自殺行為である。
当然、今日は近くの村で宿を取り、明日の朝、本格的な調査をして、夕刻には湯川に帰る計画で動いていた。
湯川郷から北には、所々小さな村が点在している。
殆どの村が林業や農業で生計を立てつつ、たまに旅人に茶を出したりして小銭を稼いでいた。
そして、小街道ではあるが、湯川道は八里ごとに宿場があり、宿屋が個人、もしくは村で運営されている。
それ以外に、凡そ四里ごとの村には、旅人を泊める為の施設が用意されていた。
囲炉裏と竈があるだけの、薪代だけで泊まれる木賃宿だが、非常時には、この四里の半宿に助けられる事は多い。
今回、三人組は湯川から四里付近にある小村で、この半宿を借りた。
「まだ、日があるなぁ」
衛士の一人、浩太郎が空を見上げながら行った。
日は大分傾いてきては居るが、日没までは半時以上有るだろう。
「谷口辺りまで一度行ってみるか。せめて、御山の毒があるかどうかぐらい確認できればありがたい」
別の一人、助信がそれに応えた。
背負ってきた小袋を宿の戸口へ放り込み、草履はまだ脱いでいない。
一日分の行程である。着替えなどは持ってこず、荷物は最低限。水だけは行く先々で汲み直している。
武器は槍と刀だけで、弓矢は持ってこなかった。
「今からなら、四半時行って、帰ってから飯にするか」
最後の一人、村長と話していた正好が振り返りながら声を掛けた。
木賃宿には、食事は付いていていない。
だが、郷の衛士だけは村で食事を作ってもらう事が出来る。
今から半時、日没前ぐらいに戻ればちょうど夕食にありつけるだろう。
「と言う訳で、ちょっとだけ出てきますが、予定通り夕食をお願いします」
再度夕食の依頼をし、正好も小袋を宿へ放り込む。
「そうだ。最近、御山の毒って出てますか?」
「いんや、谷のもっと奥の方に行きゃあわからんが、この辺りは何ともねえ」
「そうですか。ありがとうございます」
正好は村長に頭をさげて礼を述べ、助信に預けていた槍を受け取る。
「そんじゃあ、ちょっとだけ行ってみますか」
「はいよ」
正好の言葉に浩太郎が応え、助信が無言で頷いた。
彼らの持つ槍は八尺の両手槍である。
戦で使う二間半と呼ばれる長槍に比べると随分短いが、鬼にはこちらの方が都合が良い。
密集しても使えるし、相手を取り囲むのにも使える。
各々の好みで長さを変えたり、穂先を変えたりも出来るが、基本的に衛士になれば支給される物で、一本を長く使う場合が多い。
衛士たちにとっては、刀よりも馴染みがある、相棒とも呼べる武器である。
湯川郷から北に進んで約二里ほど、左に見える北山の山頂を過ぎた辺りから一応御禁地ではあるが、実はあまり厳密では無い。
だが、これから向かう谷は違う。
谷という地形上、やはりガスが溜まりやすく、草木も枯れている。
危険である故の御禁地。
立ち入ればそれだけで死ぬかも知れない危険地帯である。
「誰か、御禁地に行った事はあるか」
「いや、無い」
「ある訳無いだろ」
浩太郎の問いに、他の二人が答える。
三人とも湯川の出身では無い、街道を行った事はあるが、街道の西はそれでもまだ緑が生い茂っている。
草木も枯れる御禁地という物は、話にしか聞いた事が無い。
「衛士長が、頭が痛くなったら戻れとか言っていたが、それで判るもんなのか」
「知らん。信じるしか無いだろう?」
「それで戻っても良いと言われてるだけ、御の字だぞ」
質の悪い上司だと、誰かが倒れるまで進まされるかも知れない。
「とりあえず、道にだけは迷うなよ」
助信が、先頭を歩く正好に釘を刺す。
毒の在る場所で、道に迷うのだけは勘弁願いたい。
「迷うかよ。谷に沿って一本道だぜ」
前方に、大きな石を倒しただけの橋が架かっている。
その下を流れているのが、郷の北山と湯山の間を流れている名も無い小川で、ここが谷の入り口である。
川までは高さ一間ほど、とは言っても身長よりも高い。
三人は槍を先に下ろし橋の脇から岩を伝うようにして下りた。
川自体はそれほど大きくなく、石がゴロゴロと転がっている。
暫く、その石を踏むように河原を進むと、一段上がった場所が、道のようになっていた。
「聞いた話だが、確か、御禁地に村を作ってた奴らがいるんだってな」
「ああ、恐らく、戦から逃げてきたか、落ち武者の筋かだろうな」
よくある話だ。
ただ違うのは、ここには御山の毒が有り、その村は全滅してしまったらしい。
「それは、大分前の話だろ。これは、最近使われた道じゃ無いのか」
道らしき物を手でさすり、助信が疑問を口にした。
慌てて正好も近づき、確かめる。
「草が踏まれた跡がある。これは、また誰か住んでんじゃ無いのか」
毒があるかも知れない、こんな所に。
「まさか、また御山の毒でそいつらが死んで鬼に成ったとか」
浩太郎が少し怯えたように言った。
それは、三人にとっては良くない想像。
しかし、そもそも、ここの調査が必要とされたのは、その可能性があったからである。
「あり得るな」
正信が自分に言い聞かせるように呟いた。
「逃げる段取りをしながら行こう。槍はここに隠しておいて、もし鬼が出たら、……人を見つけた場合でも、まずは藪に隠れるようにしよう」
その提案に、浩太郎も助信も無言で頷いた。




