第三十二話 湯山
皇都山都から東、俗に言う東国には二つの大街道が存在するが、それらは、それぞれ陸地の南端と北端を通っていた。
物流は海運が主であり、農耕は河川の下流域、開けた土地が好まれる。
故に、大きな町は海沿いが多く、それらをつなぐ街道は、必然的に海沿いに作られた。
だが、もう一つ、中央部を突き抜ける街道が作られなかった理由は、険しい山岳地帯にある。
美湯の国の北方、八坂の国は、古くは八十八坂の国と呼ばれ、起伏の激しい山道が多い。
実は温泉の数だけなら美湯の国よりも遙かに多いが、御湯よりも坂の方が注目され、数多くの坂を表す言葉が国名になってしまった。
その東、岩屋の国の旧名は、岩屋根の国。
樹木の生えない高山が多く、国土はかなり広いが、住民は少ない。ほとんどが山の民か、所謂、落ち武者の子孫である。
そして、更にその東にあるのが鏡原の国。
元々は、人犬、伏が多く住んでいた地域だが、複数の銅山が見つかると、金属を司る山の民、石凝氏によって攻め滅ぼされた。
鏡原というが、国全体の平地は少なく、中央の盆地が元々の鏡原である。
この鏡原を中心に、山の民は活動している。
山の民は、狩人の他に、木工を生業とする木地師なども居るが、ここで主となる石凝氏は、金属採掘と鋳造を行う氏族である。
特殊な技能集団であり、彼らには皇帝の名の下に、国を越えて山を採掘する権利が与えられていた。
そして、その全員が丁種以上の皇儀隠密で、特に地域ごとに作られた銀座、銅座の座頭は、丙種以上の隠密である。
人が立ち入らない高山深山に独自の道を作り、自由に行き来する彼らの活動により、数多くの鉱山が発見され、皇帝の御料地、御禁地となった。
その彼らの活動域の南西の端が、美湯の国の湯川道である。
厳密には、それより西でも活動は許されているし、実際、活動している者は多い。
だが、そこで一つの線引きがされている理由が、湯山である。
湯川の郷に住む者が、裏山、北山などと呼んでいる山の、更に北方に連なる山が、御湯をもたらす山として湯山と呼ばれていた。
郷の南の丘から見ると一つの山に見えるが、実際は南北に長く延び、複数の山頂と、それよりも多くの火口を持つ火山である。
国府から北に延びる湯川道は、湯川の郷を過ぎると、この湯山の東に沿って北上する事になる。
この湯山の北端にあるのが、美湯の国の三湯の内の一つ、極楽温泉である。
街道の東が極楽谷と呼ばれ、温泉宿場となっている。反面、西は獄落谷と表記され、立ち入りが禁止されている。
この湯川北山の山麓から獄落谷まで、湯川道の西側全てが御禁地であり、町は街道の東にしか作る事ができない。
その理由が、湯山の毒、火山ガスにある。
時に前触れ無く発生し、迂闊な者の命を奪う、故に、広範囲が立ち入り禁止区域となっており、山の民も、この空間には立ち入らない。
鬼の村は、この湯山の南西部、湯川の郷から見れば、川上の山の陰になる位置に作られた。
山の民も含めて、人が立ち入る事の無い場所である。
そう、思われていた。
親方の命がけの願いを受けた藤吉郎は、全力で山を駆け抜け村へ戻ると、その場に居た者に親方の言葉を伝え、皆を集めるように頼んだ。
その話を聞いた者の反応は、千差万別である。
慌てふためく者
嘆き悲しむ者。
怒り狂う者。
中には村を飛び出していこうとする者までいる。
それを引き留め、宥め、兎にも角にも、広場へ集まるように促した。
蜂の巣を突いたような騒ぎをなんとか収めて、皆を集めてはみたものの、喧喧囂囂、藤吉郎に耳を貸す者は殆どいない。
特に、紗々女が殺されたという知らせが、多くの者の怒りと悲しみに繋がっていた。
「仇を討つべし」
そんな言葉があちこちで上がり始めた。
当然、それに反対する意見も沸き起こる。
「勝手な事をするなと、散々親方に言われただろうが。まだ懲りんのか」
「紗々女さんを殺されて、おめおめ引き下がれるか! やられたらやり返す、他にあるか!」
「そもそも、お前達が木こりの村を潰したからこんな事に成ったんじゃねえのか? なぜ人の立ち入らん場所に村を作ったのか、解らんのか?」
言い争いは、掴み合いに変わろうとしている。
藤吉郎は声を大にして、叫んだ。
「いい加減、話を聞け! 親方が命を張ってくれとるんだぞっ!」
近場にいた何人かが口を噤み、代わりに藤吉郎を睨み付ける。
「まず、湯川を襲った清次という新参者と、一昨日、木こりの村から連れてきた女どもを引き渡す。それから村を引き払う。これはもう親方が決めた事なんだ。オレらがどうこう言うもんじゃねえ」
鬼の村において、基本、親方の決定は絶対である。
だが、内容が内容だ。おいそれと承服しかねる。
「そりゃあ親方自身の口から聞かにゃあ、何とも言えねえ」
「大体、なんで貴様は親方を残して帰ってきてやがるんだ」
まるで逃げてきたかのような言われ方をして、藤吉郎も言い返す。
「オレは親方の命令で戻ってきたんだ。それに、オレが残ってても役に立たねえ。敵は親方と明光さんと、紗々女さんの三人でも勝てなかった相手だぞ」
その言葉に、不審の目が向けられる。
「信じられねえ」
親方たちの強さを知っている鬼にとっては、人に負けたと言われても、信じられるものでは無い。
「親方に勝てる人間なんて、本当にいるのか?」
「親方は、人の姿をしていても、あれは化け物だと言っていた」
「化け物、か」
いつの間にか、殆どの鬼が藤吉郎の話を聞いていた。
「確か、高藤の旦那と一緒に出てた奴が、雷の化け物とか言ってなかったか?」
岩性鬼、高藤と一緒に木こりの村に出ていた鬼が、一人だけ戻ってきた事を知っている者が何人か居る。
「あん? そう言やあ、そんな事を言ってた気もするが。……そいつはどこだ?」
「小屋で休んでる」
一人の鬼が、クイッと親指で近くの小屋を指す。
「おい、誰か連れてこい」
端に居た何人かが顔を見合わせ、一人が小屋へ向かって駆け出した。
「それと、清次とか言う新参者ってのは、何奴だよ」
言われて、集まった者達も辺りを見回す。
「いや、オレも顔は知らん」
藤吉郎も首を振りながら答える。
「居ないんじゃ無いか?」
誰かの言葉に、ざわめきが起こる。
「まさか……逃げやがったか!?」
ざわめきが激しくなる。
全員が互いの顔を確認するが、新参者とやらはここには居ない。
「それは、マズイ。洒落にならんぞ」
藤吉郎は誰へとも無く、呻くように言った。
そもそも、敵が約束を守るとは限らない。
ひょっとすると、約束など嘘で、跡をつけてきているかも知れないと、親方も考えていた。
しかし、だからと言って、こちらから約束を破る訳には行かない。
「みんな、聞いてくれ。親方は、もし自分が戻らなければ、今夜中に逃げてくれと言っていた。でも、オレは、戻ってくると信じている」
皆が、藤吉郎に注目していた。
「戻ってくる事を前提に、相手が約束を守る事を前提に考えるなら、こちらから約束を破る訳にはいかねえ。その、清次という鬼、逃がす訳には行かねえ。そもそも、何の恨みか、そいつが湯川の町を襲ったのが諸悪の根源だ」
「おうっ!」
鬼たちが一斉に応える。
「まず手分けして、その清次と言う馬鹿を探そう。それと、万が一の為に、逃げる為の道の確認もせにゃならん」
まだ、紗々女の敵を討ちたいと考えている鬼は居る。
だが、大勢は親方の指示に従う方向にまとまりつつあった。
指揮を執る、力の強い鬼が居ない中で、古参の鬼たちと藤吉郎が話し合い、清次の捜索について決められた。
それとは別に、もし逃げる場合の道筋も、幾つか考えられる。
とは言っても、百人ほどの鬼の集団が素早く移動できる道はそう無い。
道の存在しない奥山に入り込めば、移動速度は遅くなり、痕跡も多く残ってしまう。
結局、最後に決められたのは、いつも使っている、人に知られていない道、湯山の麓を抜けて街道に出る道である。
人は夜間、街道に出る事は無い。
また、湯山近辺の湯川道は、西側に人が住んでいる場所は無く、村を通り過ぎる時だけ山際に入るようにすれば、気付かれる事無く、一晩でかなりの距離を走る事ができる。
疲れを知らない鬼ならば、今夜中に北の隣国、八坂の国の山中に隠れる事も可能だろう。
話がまとまると、数人ずつで組を作り、各々、決められた場所へと捜索に向かった。
親方と明光が戻ったのは、その直ぐ後だった。
廃村まで戻った芹菜達は、予定通り、少し長めの休憩を取っていた。
特級鬼がこの道を戻ってくるのかどうか、現状では判断できないので、芹菜は遭遇する事を前提に体力温存を主張し、花梨はできるだけ早く町に戻る事を主張したが、結果的に芹菜に従った。
小鞠は阿刀に用意させた紙で文を書いている。
既に一通は湯川で待つ阿子に向けて飛ばされ、今書いている物は本所への報告である。
最悪の場合、自分たちは生きて帰れないかも知れない。
今日知り得た情報、特に特級鬼の存在は確実に伝えておく必要がある。
小鞠は度々筆を止め、思案しながら書き進めていた。
とりあえず、それが書き上がるまで休憩せざるを得ない。
芹菜と花梨は、村の外れの斜面で、踝辺りまで草を薙ぎ払い、日向に横になっていた。
目を閉じ、日の暖かさと髪を撫でるそよ風を感じながら、鳥の鳴き声を聴く。
緩やかに、じんわりと疲れが大地に染み出ていくような気がした。
一応、虫除けを辺りに振り撒いておいたのだが、まるで気にせず小虫が芹菜の上を横切って行く。
僅かに目を開け、それを爪弾いてから、再び目を閉じる。
そして、ゆっくりと、浅く、自分の意識の中に潜り込む。
思っていたよりも、消耗しているかも知れない。
調子に乗って、岩性鬼程度に大技を使ったのは勿体なかった。
反面、親方との戦いは大して力を使っていない。
ただ、降神は、するだけでもある程度は力を失ってしまう。自分の霊力を、降神した神霊に喰われるからだ。
それも、芹菜にしてみればいつもの事であるが、花梨の状態は、未だに計りかねていた。
花梨は芹菜に言われた通りに、呼吸を深くして横になっている。
芹菜の能力では、降神していない花梨は普通の少女と区別が付かない。
唯一、その右手に宿っている火之迦具土命の神気を感じる限りである。
「花梨ちゃん。体の方は大丈夫?」
「……はい。問題ありません」
今日はここまで、結構な距離を歩いた。
だが、普段から里山に入る事が多い花梨にとっては、大したことでは無いらしい。
「自分で、霊力の消耗の程度って、判断できる?」
これは、慣れを要する。
普通の生活をしている限り、霊力を消耗すること自体稀であるし、そもそも、そうだと認識する事は無い。
「はい、何となく判ります」
「あの何回ぐらい降神できるとかは?」
「それは、流石に判りません」
本所での訓練には、限界に挑戦する類いの物もある。
連続で何回、降神と昇神を繰り返せるか。
降神した状態で、どのくらい活動できるか。
それで自分の程度を把握しておくのである。
もし、神霊の方が判ってくれていれば、限界に達した時点で昇神されるし、降神できなくなる。
しかし、人をよく理解していない神霊の場合、術者が失神することもあり得る。
火之迦具土命は、今まで降神して来なかったので、どの程度人を理解してくれているか判り兼ねる。
莫大な神気を放つ花梨の降神は、芹菜が建御雷命を降神している以上に、喰われている可能性も有る。
基礎訓練も無く、初陣で、連戦。
芹菜はこっそり自嘲する。
「そろそろ、よろしいでしょうか」
村の方から、阿刀が声を掛けてきた。
よろしいでしょうかと聞きながら、既に小鞠たちと共に出立の準備を整えている。
「では、行きましょうか」
芹菜は体を起こしながら応える。
本来なら、帰りましょうかと言うべき所だが、町の方に強力な鬼が居るとなると、行くと言ってしまう。
「現れませんでしたね」
花梨が残念そうに呟く。
もし、あの特級鬼が鬼の村を目指すなら、ここを通るはずである。
しかし、こちらからは見えない可能性が高いので、向こうに見つけてもらえる所に寝転んでいたのだが、残念ながらそれは無かった。
「通りがからなかったのか、こちらを無視して通り過ぎたのか、判断できないのが悔しいわね」
芹菜は服に付いた草を払い、グッと伸びをする。
「それなんですけど、もしかすると、清彦さんも一緒なら、見えるかもですよぉ」
「ああ、そうか」
柘榴の遺体は清彦が隠している。
そもそも、あの鬼は清彦の頼みで柘榴を鬼にしようとしていると言っていたので、共に行動している可能性は高い。
「清彦さんが共にいるなら、移動速度は人並みか」
なら、まだここまで到達していない可能性も有る。
「もしアレが、自分の負気で人を鬼に変えられるなら、こちらに来ていない可能性も有りますけどねぇ」
「やめてくださいよ」
気軽に厄介な事を言う小鞠を、溜め息交じりに止める。
有り得ると仮定して行動しているが、実際にそんな能力を持っているのなら、対処しようが無い。
「叶うなら、この道で鉢合わせて、且つ、こちらの話を聞いてくれるとありがたいわね」
「殺さないんですか」
花梨の言葉に、僅かに顔を顰める。
「今はね。戦って、確実に勝てる状態でないと意味が無いから」
しかし、今、取り逃がしたら、再び発見する事が出来るのだろうか。
アレがどのくらい長い時間生きていたのかは判らない。
ただ、その間、まったく知られていなかったのは確かな事だ。
大体、自分の姿を消すぐらいなら解るが、ばら撒いた負気まで消すなどあり得ない。
……あり得ない?
その場に存在する負気の中で、自分が出した物だけを消すなど、あり得ない。
「あ、まさか、認識阻害?」




