第三話 夜更け
草鞋での旅はかなり足を汚す。
赤壁亭に着くとまず、玄関先で水を貰い、足を洗った。
「ようお越しですぅ」
手ぬぐいで濡れた足を拭き、玄関を入るとすぐに、芹菜よりやや小柄な女性が出迎えてくれた。
中紅花の着物に紺の前掛け、髪は結い上げ簪で留めている。
愛らしい笑顔をうかべながら、芹菜を右手の受付へと誘う。
宿台帳に身分や名前を記すのだが、芹菜は宿が用意してくれた筆を使わずに、薬箱から矢立(筆入れ)を取り出した。
この矢立を、相手に見えるように置く。
もちろんこっそり使っても見落とすような事はないのだろうが。
嬉野国薬師 芹菜
書き終えると出迎えてくれた女性と目を合わし、互いににやりと笑う。
ここで笑ってはいけないと指導されているのだが、どうしてもにやけてしまう。
わざわざ注意されるあたり、他の者もにやりとしてしまうのだろう。
「では、ご案内ですぅ」
子供っぽく振る舞ってはいるが、この女性、仲居と言っていいのだろうか、は、おそらく年上。
「よろしくお願いします」
丁寧に頭をさげ、後に続いた。
赤壁亭は川岸から離れた緩やかな斜面に建っており、よく見ると三階建てで、一階は玄関、受付、調理場、そして職員の部屋など、二階は三カ所の温泉、内湯が二つと露天が一つで、客室は三階部分だけである。
その三階には一本の廊下がまっすぐ延びており、その両側に四畳半の和室がそれぞれ四つ、計八部屋と言う構造で、各部屋の仕切りは襖、廊下側に至っては障子である。
不用心なことこの上無いようにも思えるが、この手の宿屋では当たり前のことで、襖を取り払うことで九畳にも、十八畳の大部屋にもなる。
芹菜が案内されたのは、階段を上がってすぐの左側の部屋だった。
薬箱を降ろし、まず質問する。
「他に、客は?」
「右手、奥から二間に男が一人ずつ、左手、こちら側の一番奥に夫婦が一組です」
聞きながら、部屋の奥の窓を開けてみる。
すぐ下から屋根が延びており、これが露天風呂を半分ほど覆っているのが判る。一応、部屋からは湯船が見えないらしい。
手を伸ばし、瓦を押してみる。しっかりした手応えがあり、よしよしと心の中で呟いた。
そんな芹菜の行動を特に気に留める風もなく、仲居が続ける。
「お夕食は半時(一時間)ほど後になりますぅ。お先にお風呂などいかがですかぁ」
入ってこいという意味か、それとも普通の接客か。
判りかねるが、まあ、良いか。
「はい。ではそうさせていただきます」
新しい手ぬぐいと湯巻き、用意していただいた浴衣を持って部屋を出る。
もちろん、すぐに風呂には向かわず、廊下の奥を目指す。
そこは木戸になっており、開けると屋根の付いた渡り廊下が右手側、山の斜面の方に延びていた。
そこに小さな小屋がある、ある意味お馴染みの建物だ。
「厠(便所)か」
納得して戸を閉める。
とりあえず、ここからも外に出られる事だけを認識し、お待ちかねの温泉へ向かった。
「今朝方、牧場から小鬼が二十ほど抜け出たみてぇです」
暗い部屋の中で、声だけが聞こえる。
酪農や畜産という概念が存在しないこの地に、牧場はあまり存在しない。
農耕牛の生産は各農家や村ごとで行い、決まった時期に牛市で売り買いされる。
唯一、軍馬を集中的に育成し、各国へ売りに出している村落などが、それらしき土地を持っているくらいである。
「二十か。どこへ逃げた」
先ほどとは別の声が応える。やはり姿は見えない。
「さあ、なんとも。ある程度ばらけて逃げたみてぇでして。まぁ、概ね南に向かっとるような跡がありやしたが、まだ見つかっとりやせん」
そもそも、小鬼たちに逃げる当てなど無い。ただ、谷を下っただけであろう。
「ふん。親方にはまあ、俺が報告しておこう」
「下まで探しに行きやすか」
「放っておけ」
小鬼の二十匹くらいなら、例え人と出会したとしても、自然発生だと思われるだろう。
それよりも、自分たちにはやるべき事があり、今夜は頭数が必要だ。
「まあ、次は逃げられんようにしとけや」
「へい。もうちょっと、柵をなんとかしてみやす」
それで良い。
誰かが立ち上がる気配がして、どすどすという足音とともに退出する。
「しっかし、せっかくこの体になったちゅうのに、やっとる事は人間とかわらんのう」
変わったところは、明かりを必要としなくなった事ぐらいか。
暗闇の中、自嘲気味に笑い、親方のところへ向かうべく立ち上がった。
温泉は最高だ。
むしろ、温泉宿が最高だ。
より上等の温泉旅館も存在するが、芹菜にはあまり関係がない。
旅空の下にあっては、風呂に入る事すらままならず、宿を取っても風呂が無いことも珍しくない。盥の水で体を拭うのがやっとなのだ。
それが、ここでは大きな湯船の天然温泉。更に何もせずとも美味しい料理が出てくる。
控えめに言っても最高だ。
ずっとこんな仕事なら楽しくもあるのに。
「おかわりいかがですかぁ」
「はい、いただきます」
出迎えてくれた仲居が、茶碗に白米を盛ってくれる。それだけでも贅沢だ。
「あ、そうだ。お名前伺ってませんでした」
「小鞠といいますぅ」
茶碗を差し出しながら微笑む。
「コマちゃんって、呼んでくださっても良いですよぉ」
冗談か、本気か。この人はいまいち判りづらい。
芹菜とは上下関係がある訳ではないので、年はあちらが上だろうけど、もう少し気楽な話し方でも良いのかもしれない。
「では、コマさん」
せっかくの美味しい料理だが、やるべき事をやらなければならない。
「はい」
小鞠も真面目な声で応える。そして、軽く一礼した後、話し始めた。
「半月ほど前、ここより上流の村落で、若い男の死体があがりました」
食事中に溺死体の話。
焼き魚に伸ばしていた箸が止まる。
「うちの手の者が開いて見たところ、溺死では無く、おそらく窒息死。手には縛り付けた跡がありました」
開いた、とか言わないで欲しい。
開きになった魚をじっと見下ろしながら、一応確認する。
「殺しですね」
「はい。村は奥山から木材を切り出して売りに出す事で成り立っており、ここ数年、木こりが集まって大きくなりました。被害者の男は若い衆の取りまとめ、若頭で、材木問屋との交渉にも当たっていた人物です」
「それで、下手人は」
「その材木問屋の手の者と思われます」
とは言っても、まだ捕まったわけではない、私が呼ばれたのだから。
「今判ってる事は、材木の切り出しが、お上の定めよりかなり多い事」
木材の不足は天下の大事。
だからといって大量に切り出せば、資源は枯渇する。
当然、切り出して良い量は法に基づき国府が管理しているのである。
それを木こりを増やしてまで超過しているとなると、バレないはずが無い。
「裏に、誰か居ます?」
「まず郷司は確実。それと国府の役人でしょうね。国司は違います。そちらの調査には別の方に入って貰ってます」
(注釈・国府は日本で言う県庁、また、それのある町をさす。国司は県知事、郷司が市長クラスの役人で、湯川郷司は湯川の郷と近隣の村落を管理している)
という事は、私が赴くべきはその木こりの村か。流しの薬売りなら適任だ。
個人的には、男ばかりの村には行きたくもないのだが。
「木こりの中にも材木問屋と繋がっている輩が居るようで、それなりの金と女で釣られているようです」
うわ、ますます行きたくない。
「若頭は元からの村人なのね」
「はい、そういうことです。法を守ろうとした、というよりも、森を守ろうとしたんでしょうね」
「そして、金に目がくらんだよそ者と材木問屋に殺された」
「まだ推測ですが。殺しを行った者もおそらくは木こり。しかも複数ですね」
ふむ。ある意味分かり易い話だ。
だが、証拠を集めるとなると厄介でしかない。
木材の大量伐採の証拠はともかく、殺しの証拠と犯人特定、材木問屋とのつながりの証明は、難しい。
「材木問屋の屋敷はこの町の町人町にあります。ここからなら川向かいの下手ですね」
小鞠はちらりと、閉められた窓の方へ視線を向ける。
もちろん見えないが、そちらの方角なのだろう。
食事の後を片付け、小鞠が退出する。
面倒な仕事ではあるが、温泉に入れた事と差し引きすれば、釣り合いは取れているか。
「よし。明日から頑張ろう」
ポンと膝を叩いて立ち上がる。とりあえず今夜だけは、温泉宿の宿泊客なのだ。
「露天も行きたいけど、男が邪魔だなあ」
残念ながら、露天風呂は混浴らしい。
「……使うか」
薬箱の背板を外して中を探りだす。
「何か良いのがあったかなあ」
しばらくゴソゴソと探した後、何かを取り出した芹菜は、意気揚々と露天風呂へ向かった。
柘榴と花梨の眠る部屋の外は、戸板が閉まっている。
人夫が宿泊することもある大部屋は屋敷の下手で、二人の寝室はその反対側、飴釜屋に近い位置にある。
それでも夜這いを試みる不埒者が現れる事を警戒し、外からは侵入できないようにしていた。
今日は宿泊者は居ないが、戸締まりはいつも通りだった。
トントンと、小さな音が響く。
寝室の外に回り廊下があり、音の出所の戸板は、その外だ。
再び、トントンと響く。
寝ている花梨を起こさないように、柘榴は静かに起き上がり、障子を開けて回り廊下に出た。
「どちら様?」
「俺だ」
多分、そうだろうと思っていた。予想通り清次の声が聞こえる。
「こんな時間に、どうしたの」
「話がある」
「明日じゃダメ?」
しばらくの沈黙。
正直に言えば、清次が何の話をしに来たかは見当が付いていた。
当たり前だ。そして、何が言いたいのかも、何となく判る。
「訊きたい事がある」
「明日じゃダメ?」
同じ返答、緩やかな拒絶。
しかし、清次は構わず話し始めた。
「お前は、良いのか?」
「良いも悪いもないよ。私も十六だし、お嫁に行ってもおかしくないでしょ」
「婿を取るんじゃなかったのか? お前、ずっと家の仕事手伝ってただろ。跡を取るつもりだったんだろ」
それはそう。そのつもりだった。
自分が跡を取るつもりで、親の仕事を手伝っていたのは間違いない。
再び、沈黙が続く。
「柘榴」
「ごめんね」
何の謝罪なのだろうか。
「跡を取るつもりで頑張ってきたのは確かだけど、良いのよ」
「どうしてっ」
清次の声が、少し大きくなる。
「元々、婿を貰っても、跡を継ぐのはその人だし。私は家の手伝いができればそれで良かったのよ」
「でもお前、がんばってただろ」
「うん、がんばってたよ。がんばってたの」
「だったらなんで」
「お父さんがね、お前はどこへ嫁に出しても恥ずかしくない、飴釜さんでも立派な看板娘になれるって、言ってくれたの」
清次には意味が判らない、それは柘榴の努力を否定しているのではないか?
だが、柘榴は別の受け取り方をした。
「お父さんはね、私がずっとがんばってきた事を知ってたし、跡を取らなきゃって気を張っていた事も解ってた。だから、どこへ行っても大丈夫だって言ってくれたのよ」
「なんだよそれ」
「ごめんね」
今度の謝罪は明確な意思を持つ。
「私は清彦さんのところへ嫁ぎます」
あなたを婿に取る事は無い。
長い、長い沈黙が辺りを支配する。
柘榴は部屋に戻る事なく、ただ待ち続けた。
不意に、戸板がダンッと大きな音を立てるが、柘榴は微動だにしない。
やがて、ゆっくりと足音が遠のき、最後に走り出す音が聞こえた。
ふうと息を吐き、立ち上がる。
今の音は、おそらく花梨を起こしてしまっただろう。
「花梨」
「姉さん」
障子に手を掛け呼びかけると、即座に返事が返る。
「起こしちゃったね」
「大丈夫」
この妹と清人になら、大浦屋を託す事ができる。
それは自分が言うような事ではない、父が考えるべき事で、そう考えたのだ。
むしろ、自分が飴釜屋の嫁としてやっていけるかどうか、そちらが心配なくらいだ。
でもきっと、大丈夫だろう。私はがんばってきた人間であり、これからもがんばれる。
なにより、お隣だし、これまでと同じように、助け合っていけるだろう。
妹の髪を撫でる。
もっと長く伸ばせば良いのにと言った事があるが、この子はこれで良いのだと、今は思える。
愛する人に愛される、それはとても良い事だ。
「結婚、おめでとうね」
「まだ、飴釜さんの返事を聞いてないよ」
それはそうだけど、清人が断るはずがない。
何より、清次が来たという事は、彼にとって好ましくないように、話はまとまったのだろう。
清次はもう十七才、婿入りするならそろそろだ。
余程の事がない限り二十歳を過ぎての婿取りは無い。そして、今まで縁談は無かったのだ。
柘榴は黙って花梨の髪を撫で続ける。
花梨から「結婚おめでとう」の言葉は無い。それは相手の返事がまだだからだろうか。
「私ね、清彦さんの事、好きよ」
「うん」
「幸せになろうね」
「うん」
その夜、二人は寄り添い合って眠った。
翌朝、清次の姿はどこにも無かった。




