第二十六話 紗々女
血を吐くのは十数年ぶりだ。
紗々女は自分を貫く土の塊に両手を突き、なんとか上半身を支える。
傷は深く、何より最早動く事が叶わず、次の攻撃を避ける事も防ぐ事もできない。
ここまでか。
思っていたよりは長く生きた。
しかし、こんな所で、こんな事で終わるのか……。
紗々女の生まれは皇都の北西、天水の国。
御山の麓の小さな町の、代々町長を務める庄屋の一人娘だった。
幼い頃から三国一の美人と称えられ、その噂は皇都にまで及び、十を過ぎた頃には早くも縁談が来たほどだった。
祖父に当たる町長は、紗々女の意向を受けてその全てを断り、十四の時、同じ町の生まれの幼なじみを婿に迎えた。
その頃は、とても幸せだった。
周辺の村里は天水湖の恵みを受け、山も野も豊かな実りをもたらし、集められた特産物は置き場に困るほどで、皇都に送り出されては、金や銅、様々な物に姿を変えて返ってきた。
祖父は富を蓄える事よりも、町の発展と交通網の開発に力を注ぎ、結果としてより多くの富を築き上げ、それを皆と分かち合った。
家を訪れる誰もが笑顔であり、祖父に対する賞賛と感謝は、自分の事のように嬉しかった。
そんな幸せが、ずっと続くと思っていた。
二人目の子供が産まれた直後、町は襲撃を受けた。
それは近隣の郷司の私軍であり、国司への反逆の一環であったのは、後に知る事になる。
私軍という名の野党崩れは、暴虐の限りを尽くし、全てを奪っていった。
夫と両親は、衛士と共に奴らに立ち向かうと言っていた。混乱の中、その姿は人混みへと消えていった。
紗々女は指示された通り、他の女性たちと共に山へと向かったが、既に回り込まれており、逃げられるものではなかった。
目の前で、息子が槍で貫かれ、産まれたばかりの娘は、煩いと言われ坂の下に投げ捨てられた。
無理矢理服を剥ぎ取られ、乳が出るの、腹の皮が余ってるのと囃し立てられながら、何度も陵辱を受けた。
泣き叫んでも、男達は手を叩いて笑うだけだった。
それ以後は、物として扱われる事になる。
兵士の為の雑用係として、性欲の捌け口として。
残念ながら外見に優れていた紗々女は、優先的に男の相手をさせられた。
やがて紗々女達を所有していた私軍が討ち破られると、次は勝利した軍の所有物となった。
戦乱の時代、物として奪われ、時に売り飛ばされ、縄を掛けて連れ回されながら、使用されてきた。
中には紗々女を知っている男もいた。かつて祖父や両親と親交のあった人達だ。
だが、助けようとした者はおらず、どうせならもっと若い内に抱きたかったとか、体が綺麗なうちに使いたかったと愚痴をこぼした限りだ。
どこをどうやっても、昔のように戻れるはずも無く、紗々女は全てを諦め、ただ、自嘲気味に笑って受け入れるだけだった。
やがて年を経て、幾つかの病を得ると、同様に使えなくなった女達と共に、あっさりと捨てられた。
支え合うようにして、谷間に住まいを構え、まだ体を売れる者が近隣の村に出向いて、食物や苗を手に入れた。
そして小さな畑を作るようになり、辛うじて飢え死にしない程度の生活を維持できるに至った。
過酷ではあったが、ある意味、穏やかな日々を手に入れられたかのようにも思えた。
ある日、山芋を掘って戻ると、小屋に火が放たれていた。
仲間達の悲鳴と、知らない女達の罵声。
紗々女は藪に身を隠し、様子を窺う事しかできなかった。
頭を抱え、声も無く泣き、そのまま一夜を過ごした。
翌朝、仲間の遺体を確認したが、生き残った者がいると知られるのが怖く、埋葬もせず、紗々女は逃げた。
丹精込めて作った小さな畑は、意図的に踏み荒らされていたが、それでも食べられそうなものを収穫し、旅支度とした。
再び全てを失い、行く当ても無かった紗々女は、ふと思い立つ。
故郷の町。
あの美しい天水山の麓。
緑深く、恵み豊かな大地。
振り返って見れば、家族の生死すら確認していなかった。
いや、生きてはいないだろう。
そんな事は解っている。
それでも、だからこそ、あの町へ帰ろう。
自分はもう長くない。
せめて、家族の、亡くなった町の人達の慰霊を行って、それから死を迎えよう。
そんな思いを胸に抱え、紗々女は天水の国へ向かった。
そして、たどり着く事無く、力尽きた。
……力尽きる所だった。
見上げるほど大きな鬼が現れ、道ばたに転がる紗々女を拾い上げた。
あまりにも恐ろしく、命尽きる瀬戸際であるのに、私を食べても美味しくないと命乞いをしたほどだ。
しかし、意外な事に、その鬼は紗々女を食べようとも殺そうともしなかった。
むしろ、生きたいかと尋ねてきた。
紗々女はよく考えもせず、ただ、生きたいと答えた。
そして与えられたのは、鬼の生だった。
若く美しかった頃の体。
綺麗な肌と艶やかな黒髪。
そして、不自由なく動く体。
あまりの感動に、涙が溢れ出して止まらなかった。
紗々女は感謝の気持ちとして、その鬼に自らの体を差し出した。
他に差し出せる物が無かったし、長らくそうやって生きてきた為に、そうするものだと思い込んでいた。
鬼は戸惑いながらも受け入れ、そして、その後に感謝の言葉を口にした。
「ありがとう」
たったそれだけの事で、紗々女は心も救われた気がした。
自分が、自分の体が、物では無かった事をやっと思い出す事ができた。
紗々女はまたしても涙を流し、自らも感謝の言葉を口にした。
以後、仲間から親方と呼ばれていたその鬼と共に、鬼の生きていける場所を探す旅に出た。
途中、紗々女は親方以外の鬼とも、積極的に肌を重ねるようになった。自分の意思で。
それが仲間の為にできる事だと考えてであり、実際、仲間からは感謝されていた。
ある者はただ紗々女を抱きしめて眠り、ある者は紗々女の胸に顔を埋めて泣いた。
そして繰り返される、思い思いの感謝の言葉。
紗々女に特別な情を向ける者も多くなり、いつの間にか、親方以外は二ヶ月待ちという程になっていたが、皆、争う事無く自分の為の夜を待った。
誰かを思い、誰かに思われる。
感謝し、感謝される。
それは凄く暖かな事であった。
そう、それこそが、ずっと求めていた温もりだった。
やがて紗々女は、自分の持つ鬼の力が極端に強くなっている事に気が付く。
他の鬼の精を受けるたび、徐々に、確実に、力が増していった。
仲間から貰った力。
それは仲間を守る為の力。
旅の道中、人や霊獣の類いと争う時、それは大いに助けとなった。
そして、親方との出会いから数年後、複数の街道から大きく離れた、山の奥の谷間を切り開き、念願の鬼の村が完成した。
それはかつて失った故郷の代わり。
やっと手に入れた安らげる場所。
帰るべき家であった。
いつか死を迎える時は、あの村で、皆に囲まれて、皆にありがとうと言いながら死にたかった。
こんな所で、こんな風に自分は死んでゆくのか。
思い出すのは人であった頃の故郷でも家族でも無い。
苦労を共にした、今の仲間達、一人一人の顔と声。
こんな所で……。
ギリリと歯を食いしばり、突いた両手に力を込める。
最早これまで……だとしても!
キッと顔を上げ、土偶を睨み付ける。
「けやぁっ!」
気合いと共に、右手を振りかぶり水の槍を放つ。
たとえここで力尽きるのだとしても、あれは、あの土偶女だけはそのままにできない。
無傷で親方の元に行かせる訳にはいかない。
決死の思いで放った水の槍を、土偶はひょいと軽く躱した。
……避けた?
そう、避けた。
術で土手を作って避けて以来、初めて攻撃を避けた。
それはつまり、避ける必要があったという事だ。ギリギリで放ったような、あの水の槍を。
やはりあれが本体。
そして、あの攻撃でも、避けなければ傷を受けると判断したのだ。
命尽きようとしていたはずの紗々女の中に、僅かな希望と、しっかりとした力が湧き上がる。
それらを全て一つにして、相手に叩き込む。
強い意識により、再び周りの水気が集まり始めた。
そして、自分自身が持つ水も、その右手に集中させる。
「おやぁ、まだ頑張りますか」
そう言った土偶の声に、しかし嘲りはもう無いように感じた。
偽物の土偶の様に無駄に飛び跳ねず、その場で屈伸……脚の伸び縮みをしている。
いっそ嘲っていてくれた方が良い。
一撃の勝負を挑むつもりでいるのに、これでは避けられる。
土偶を睨みながら、ただ力と水を圧縮させ続ける。
どうか、止めを刺しに来い。
先に攻撃する事ができず、祈るように願う。
攻撃体勢を取りつつ動かない紗々女に対し、小鞠はポンッと後ろに跳び下がり、体を深く沈めて身構えた。
「来ないのでしたら、こちらから行きますよぉ」
願っても無い!
しかもあの体勢、こちらに飛び掛かって来る構えか。
嬉しくて笑顔が零れそうになる。
「はぁぁぁ……」
緩やかな小鞠の呼気に合わせ、足下の土がズルリと動いて、土偶の右足に巻き付く。
「行きますっ!」
わざわざ高らかに宣言し、土偶が天に飛び上がった。
「埴生ゅーぅっ! 爆っ裂っ脚っ!」
土偶を形成していた土も大半が右足に移動し、小鞠の上半身がむき出しになる。
集められた土は、右足を軸に太く大きな杭を形成し、真っ直ぐ紗々女に突き進む。
「おぉぉぉああぁーっ!」
紗々女は最早言葉も無く、絶叫しながら水を放った。
ズドドドドドドドドッ!
土の杭と水の槍が空中でぶつかりながら、互いを削り合う。
水は一点に穴を穿ち、泥を撒き散らすように突き進む。
土は一本の杭の形を形成したまま、吸い込まれるように紗々女に向かって落ちて行く。
ズッドオォーン!
土の杭は大地を揺らすほどの衝撃を放ち、爆裂した。
円錐形の土の槍も衝撃で吹き飛び、その遙か向こう側で、紗々女の上半身が転がっていた。
「おや、まだ息がある」
それを確認した小鞠が、驚いたように声を上げた。
紗々女はうっすらと目を開ける。
黄土色の長い髪を揺らし、左目に金の輝きを宿した少女が見下ろしていた。
それが、戦っていた相手の本当の姿だと解った。
だが、何かを応える力はもう無い。気力すら無い。
顔も、体も、既に干からび、皺だらけになっていた。
「では、行きますよぉ」
小鞠の言葉に、紗々女はただ目を閉じる。
「埴生重破断っ」
後ろに蹴り上げた小鞠の右脚に纏わり付いた土が、半回転する間に鉈のような形に変わる。
高々と掲げられたそれは、紗々女の頭部に振り下ろされた。




