第二十一話 特級
これはまずいか。
ゴカァッと異常な音をたて、大きな岩にヒビが入る。
拳の打ち込まれた場所には、穴が穿たれ赤熱していた。
「花梨ちゃん、下がってっ!」
芹菜は大きく声を掛ける。
今の花梨なら、岩の下敷きになっても死にはしないかも知れない。
しかし、危険極まりない。
グラリと体を傾ける清次の手から、柘榴の頭部が転がり落ちた。
それを両手で受け止めた花梨が、ゆっくりと背を向けて歩き出す。
その後ろで、割れて崩れ落ちた岩が、清次の遺体を巻き込み押しつぶしていった。
昇神の言葉を掛ける事も無く、花梨の体から火之迦具土命の神気が抜けていく。
その拳も既に熱を持っていないのか、抱きかかえた柘榴の頭部を焦がす事はないようだ。
芹菜はふうっと、一つ息を吐いた。
「少し、河原の方に行きましょうか」
言った小鞠が先に立ち、川へ向かって歩き出した。
皆、何とも応えず、それに続く。
ふと音がしたような気がして振り返ると、岩の上にあった巨木が燃え上がっていた。
「ああ、しまった」
別に芹菜がしくじった訳では無いが、思わず声に出る。
余熱で燃えだしたのか。
消火する為の札をっと考えて、ふと思い出す。
「弁柄さん、水系統でしたね」
「応、任せろ」
いつの間にかすぐ横にいた弁柄が、既に札を用意し、術を放っていた。
天に右手と掲げると、不意に沸き立った霧が集まるようにして、水の槍が現れる。それは見る間に、水の柱と言えるほどの太さになった。
戦いには向かないと聞いていたが、降神せずにこれだけ出せるのなら、充分ではなかろうか。
本来なら人が持ち上げる事など叶わない程の水が、弁柄の手の動きに合わせ、ひょいっと巨木に向かって放たれる。
狙い違わず、巨木の先端辺りに当たった水柱は、バシャリと解けて落ちながら、火を消していった。
そして岩にも掛かり、ジュウッと水蒸気を上げる。
熱の残り方が自分の時とは違う。
芹菜が使っていた頃よりも、火之迦具土命の放つ熱量が明らかに大きい。
降神して放つと……、いや、やはり自分では無理だ。
これは、花梨の、個人の力による部分が大きい。
芹菜は妙な悔しさを覚えた。
それは嫉妬というものか。
美しかった柘榴の顔は、醜く歪んでいた。
顎は砕けて、顔の左半分は完全に拉げており、艶やかな黒髪も、今は血に汚れ酷く痛んでいた。
うっすら開いた右目と鼻から血の流れた跡があるが、それももう、既に乾いている。
河原に正座した花梨はその頭部を膝の上に置き、じっと見つめ合った後、体を丸めるように抱きかかえ、静かに嗚咽を漏らし始めた。
それは直に、大声に変わる。
ただ、ただ、大きな声を上げ、花梨は泣き続けた。
それは芹菜にとって、何度も見た光景だった。
何度も何度も、繰り返し、何度も。
鬼に家族を殺され泣き叫ぶ人を、どれだけ見てきただろうか。
何度繰り返しても、結局それを止める事は出来ない。
いつもいつも自分は手遅れで、事が起こってから対処することになる。
これを止めるには、鬼を根絶やしにするしか無い。
それには、今居る鬼を全て倒し、今在る負気を全て消し去り、新たな負気が溜まらないようにするしか方法は無い。
もちろん、それは自分一人でできる事では無い。
他に遣り様が無く、どうしようも無い。
無い無い尽くし、か。
芹菜は自嘲して天を仰ぐ。
今更、貰い泣きなど、と思うのだが、それでも涙は零れた。
どれだけ時間が経っただろうか。
花梨はゆっくり体を起こした。
その顔からは、またも表情が消えている。
「……すみませんでした」
「謝る必要は無い。在る訳が無い。大丈夫だ」
その肩に優しく手を置いた弁柄が、白布を手渡す。
「これで包んであげなさい」
「ありがとうございます」
その遣り取りを見つめながら、小鞠が呟く。
「時間的に、撤退した方が良いでしょうか」
「そうですね。このまま鬼の村へ向かったら、日没までには戻れませんね」
さて、今日の出来事の情報を、敵はどの程度収集し、どのように判断するだろうか。
清次が殺された事も、ちゃんと調べて判断してくれるか?
口元に手をやり、考える芹菜の視線の先で、花梨は河原に白い布をひろげ、その真ん中に、そっと柘榴の頭部を置いた。
「それが、柘榴さん?」
不意に聞こえた声に、ぞぞぞっと、悪寒が走った。
今まで感じた事が無いような、全身にゴキブリが這い回っているかのような、そんな感覚が芹菜を突き抜ける。
「な……っ」
言葉にならない。
圧倒的な負気を放つ鬼が、花梨の前に立っていた。
長い銀の髪を靡かせた、小柄な少女の姿をした、鬼。
それが、血の色の瞳で、花梨に向かって微笑んでいた。
居なかったはずだ。
先ほどまで、負気の匂いは、鬼の村の物しか無かった。
一瞬。
花梨の後ろに居た弁柄が刀を抜き放ち、斬りつける。
パンッ。
それを鬼が右手の甲で払うと、鋼の刀はまるで薄氷のように砕けて散った。
「……はっ」
芹菜は息を吸い損ねる。
思考が追い付かない。
ただ、教えられた通りの、自分がやるべき事を行う。
「特級ーっ!」
芹菜の発した言葉に、駆け出そうとしていた小鞠が止まる。
小鞠と弁柄の視線が芹菜に集まり、再び鬼へと向けられた。
しかし、二人とも動かない。
「いきなり何すんのよ」
鬼は、弁柄の刀を叩き折った右手を、ぷらぷらと振って見せる。
その姿は、確かに少女のようであるが、顔と同じほどの長さを誇る大きな角が、決して見た目通りの存在では無い事を物語っている。
「特級……、特級鬼? これが?」
唾を飲み込み、確認するように小鞠が呟く。
甲種隠密に成るための条件は、降神した状態で上級鬼に勝てる強さである事だ。
だから、どれほど強力な鬼でも、不意打ちを受けない限り一対一で負ける事は無く、鬼の存在を匂いとして察知出来る芹菜に、勝てない相手など居るはずも無い。
……そう、思っていた。
「間違いありません。現状戦力では勝てません」
呻くように芹菜は答える。
特級鬼など、もはや生き残って居ないのでは無かったのか。
それは、昔話であり、教本の中で語られる存在であったはずだ。
しかし、現実にそれは居る。
芹菜は冷静に、もっとも重要な事を考える。
この中で、生き残る可能性が一番高いのは……自分か。
この鬼の存在を、本所に伝えなくてはいけない。
例え、仲間を盾にしてでも、花梨を、捨て駒にしてでも。
「私は逃げます」
「了解しました」
小声で言った芹菜に、前を向いたまま小鞠が応える。
弁柄も判ってくれているだろう。
二人が隙を作ってくれる、そこに乗じて降神し、後は全力で湯川まで戻る。
最悪、湯川の町すらも足止めに使わなくてはいけない。
ジリジリと、様子を窺いながら仕掛ける瞬間を推し量る二人を他所に、鬼は軽い口調で話し始めた。
「ちょっと人に頼まれてね、柘榴さんって人の頭を探してるんだけど、これであってる?」
笑いかける鬼に対し、花梨は不審の目を向ける。
「あなたは、誰ですか」
「ん? 通りすがりの者だけどね」
……これは、戦意は無い?
それに、通りすがり?
人に頼まれた?
何より、柘榴を知っている。
小鞠が振り返り、芹菜と目を合わす。
小さく頷き合うと、小鞠は戦闘態勢を解いて花梨たちの方へ歩き出した。
芹菜は逆に、もう少し距離を取る。
逃げる余地は残しておかなくてはいけない。
「ちょっと良いですかぁ」
特級鬼相手にその喋り方が出来るとは、小鞠は凄いなと、芹菜は変な所で感心した。
「なに?」
鬼は、予想以上に軽く応えた。
「えぇっと、柘榴ちゃんをご存じなんですね。どなたに頼まれてここへ?」
そう、そもそも、柘榴を探してこの場所にたどり着く事がおかしい。
依頼したのは、何者なのか。
「うーんっと、飴釜の清彦って人」
無言の衝撃が走った。
小鞠と花梨、弁柄が顔を見合わせる。
「恋人って言うか、結婚の約束をした人だって言ってたよ」
「清彦さんが、どうして」
疑問を口にしたのは花梨。
鬼は笑いながら答える。
「いや、ちょっと縁があってね。その、柘榴さんの首を鬼に取られたみたいだから、取り返しに来たんだ。そしたら、あんたたちがいたもんで、ちょっと様子を見てたの」
どういう事だ。
言っている意味は解るが、何故そうなったかが解らない。
なぜ、今まで人に知られていなかったような特級鬼が、町の薬師と縁がある?
「で、これを持って帰りたいんだけど、良い?」
「ダメです」
花梨はキッパリと断った。
「え、なんで?」
「私の姉です。私が町へ連れて帰ります」
柘榴を抱きかかえ、睨むように言い返す。
「えー」
方や、鬼の方は困ったように応えただけで、奪い取ろうとはしない。
何なんだ、これは、本当に。
降神してない花梨など、おそらく一瞬で殺せるはずなのに、鬼はそうしない。
そもそも、人の願いを聞いてこんな所に来るとか、鬼のすることでは無い。
予想外な展開に、芹菜は自分の行動を決めかねていた。
どうしよう。
とりあえず、自分だけでも逃げるべきか。
あの鬼が敵対的で無いのならば、後で無事に落ち合えるはずだ。
「どうしようかなぁ」
鬼が天を仰いでいる。
そこへ小鞠が再び問い掛けた。
「お聞きしてもよろしいですかぁ」
「うん?」
「どうしてあなたが持って帰ることに拘るんですか。花梨ちゃんが持って帰っても、清彦さんの元には届きますよぉ?」
「あー」
鬼は長い爪で頬を掻き、またも困っているような素振りを見せる。
「えー、あんたらが持って帰ったら、焼いちゃうんだろ?」
火葬すると言うことか?
様子を伺いつつ、小鞠は応える。
「……はい。でも、その前に清彦さんの元には届きますよぉ」
「あ、いや、その清彦さん、は、町に居ないんだ」
「それは、どうしてですか?」
「いや、さすがに遺体を焼かれると生き返らせることも難しいんで、見つからないように隠してもらってる」
暫く、沈黙が続いた。
今度は鬼の言っている言葉の意味が、頭で理解出来ない。
「生き返らせる……。姉さんを、生き返らせるんですか?」
半ば呆然としたように、花梨が質問する。
「うん、そう。ところが遺体に頭が無くてね。鬼に取られたみたいだって言うから、探しに来たんだよ」
もはや訳が判らない、何かが確実におかしい。
死んだ人間が、生き返るはずが無い。
特に柘榴は首をもがれ、遺体の大部分は火災で焼かれたはずだ。
生き返るはずが無い。
芹菜は常識的な考えで鬼の言葉を否定するが、声を上げる事はなかった。
会話の外側で、黙って様子を見ている。
「どうやって……」
呟くように言った花梨に、鬼が笑って応える。
「ちょっと方法があってね。ただ、さすがに頭が無いと無理だから」
花梨は柘榴の頭をそっと両手に持ち、少し掲げるようにして、その顔を覗き込んだ。
その僅かな隙に、鬼は音も無く、柘榴の頭部にそっと手を添える。
瞬間、鬼の姿は消えていた。
「あっ! ね……姉さんっ!」
花梨が声を上げるが、柘榴の頭部は既にその手に無い。
芹菜がかつて感じたことが無いほどの強烈な負気も、まるで最初から存在していなかったかのように、フッと消え去った。
「もらってくよー、ありがとねー」
どこからか、鬼の声だけが聞こえる。
見鬼の花梨ですら、その姿を見ることは出来ないらしく、慌てて周りを探している。
「待って、待ってくださいっ。姉さんを返してっ」
「だいじょーぶ、鬼に成って生き返ったら、また会えるよー」
「なっ!!」
残された者たちが一斉に声を上げる。
「待ちなさいっ!」
芹菜も叫んだが、もはや返事は無く、耳を澄ましても、川の流れる音が続くだけだった。
呆然と、ただ呆然と、暫く時間だけが過ぎて行った。
「どういう、事だ」
弁柄は吐き出すように言うと、しゃがみ込んで砕けた刀の破片に手を伸ばす。
それを見て、まるで術が解けたかのように、芹菜も三人の方へ歩き出した。
「姉さんが、連れて行かれました」
花梨は柘榴の頭を持っていた時のままの、両手を上に向けたままの姿勢で呟いた。
「ええ。どういう事でしょうか」
答とも言えない答を返し、小鞠は元来た道を見つめる。
ちょうどそちらの方から歩いてきた芹菜が、皆に言った。
「肝心なことは解りませんが、急いで戻りましょう」
戻らなくてはいけない。
そして、本所に報告を。
もしあれと争うことになれば、こちらは全滅しかねない。
鬼の村どころの騒ぎでは無くなってきた。
「……いや、違う」
口元に手を当て小さく呟いた芹菜の言葉を、しかし小鞠は聞き逃さなかった。
「なんですか?」
「鬼に成って生き返ると言っていました。生きた人を鬼に変えるのとは根本的に違いますが、あれが、鬼の村と無縁とは限りません」
聞いていた鬼の親方の外見とは違うが、仲間である可能性は高い。
「芹菜君の見立てに依る所の、鬼の村の総力に、あれは含まれるのか?」
「いえ。あれ単体で村の総力を上回ります。ですが、あれは私の探知の外に隠れる事が出来ます」
「なるほど。そうか」
「もしかすると、鬼の親方も同様の能力を持っているかも知れません」
「そうだな、親方の方が上位の鬼であるなら、あり得る話だな」
もしそうであるならば、鬼の村まで行かなかった事は、結果として良かったかも知れない。
「今はまず、急いで湯川まで戻りましょう。清彦さんに話を聞く事が出来れば、何か判る事があるはずです」
情報も、戦力も足りない。
だが、それが確認出来ただけでも良いのだ。今回得られた情報は重要で、今後の対応に大きな意味をもたらすのは間違いない。
芹菜たちは、急いで帰還すべく、まず木こりの村を目指して歩き出した。




